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自虐史観の葬送のために!守るべきは社稷であって国家ではない!

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エレン・メイクシンズ・ウッド『資本の帝国』(紀伊国屋書店、2004年)
《グローバルな企業がグローバリゼーションという悪の究極の源泉であるという考え方や、世界貿易機関(WTO)などの超国家的な組織がグローバルな資本の力を政治的に代表するものだという考え方は、ある思い込みに基づいたものだ。グローバルな資本主義の力の源泉は、資本主義であることよりも、グローバルであることにあると考えているのだ。もしもそうだとすると、グローバルな資本主義を攻撃するためには、資本主義のシステムそのものを批判するのではなく、資本がグローバルな働きをする手段をターゲットにすればよいということになる。》221-2頁
 
「グローバルでない資本主義なら、まだまし」という考え方を批判している限りで正しい。
 
《グローバリゼーションが進むと、国民国家の重要性は低下すると想定するならば、反資本主義的な闘争は、国民国家を越えてグローバルな政治的な組織との戦いであり、こうしたグローバルな政治的な組織こそ、グローバルな資本の真の権力の中枢だということになる。/中略/しかしこうした思い込みが正しいかどうか、批判的に検討してみる必要があるだろう。/中略/グローバリゼーションとは、本当の意味で統合された世界経済ではないこと、そして衰退しつつある国民国家の集まりではないことは、もう明らかだろう。この新しいグローバルなシステムの核心にあるのは、国民国家なのである。》222-3頁
 
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ここまでも一応納得できるところ「国民国家」は今や「新しいグローバルなシステムの核心」だというのであればそれは正しい。そしてここから、反資本主義闘争のターゲットは国民国家であるという結論が導かれるはずである。
 
ところが…

《だからグローバリゼーションに対抗しながら、適切な社会福祉の水準が維持されるように戦い続ける必要がある。/中略/グローバリゼーションのために、伝統的な共同体や社会的なネットワークは、力を失いつつある。それだからこそ資本主義のシステムを維持するためにも、国家の果たす機能はますます重要になっているのである。》
 
ウッドは結局、社会保障の脱資本主義的な公共性を正確にはつかめていない。労働力再生産の条件として社会保障は資本主義存続の手段である。しかし、それは同時に労働する諸個人による自己産出の社会的調整の、自己産出の公共化の形態でもある。問題は、資本主義においてこの社会的・公共的自己産出はただちに形骸化して自己産出=再生産の当事者以外のものによる管理へと転回することである。社会保障という公共的形態自体を維持することだけでは不十分であり、この公共的形態に当事者主権の内実を盛り込むことが肝要なのである。

大工業とマニュファクチュアの関係のように資本の文明化作用は部分的には、格差を再生産し利用しながら傾向的に貫徹する。ローカルな条件に固執するのは、格差を利用しようとするグローバル資本を結果的に利することになる。搾取対象としては、ありとあらゆるものをその差異に無関心に消費し、反面その調達段階では、ありとあらゆる差異を利用して対象を買いたたく条件として利用する。

 資本自体は、差異を積極的に解消しようという立場にはない。むしろ、差異こそ、剰余価値の源泉である。差異は、搾取される側にとっても、「各人の自由な発展」の基礎である。しかし、差異の悪用を防ぐために差異を差異のまま対等に扱うことを搾取される側が追求せざるを得ない。
 
 社会保障については、当事者主権と世界標準の確立が重要である。全世界人民が生存所得を獲得しなければならない。

 


転載元転載元: 草莽崛起〜阿蘇地☆曳人のブログ(桜の下で「日本」を屠る決意)

資本主義の方がマシなのに、なんでまたグローバリズムとかいう共産主義染みたことをしようとしてるのですかね? 何でもかんでも統一統一で文化・文明を破壊。ほんま新自由主義とか糞やわ。資本主義のおかげでそれぞれの国の文化・文明・価値観が存続できているのに。


資本主義ってそもそもグローバルです。

グローバルでない資本主義は、本来維持が難しいと思います。

資本主義の柱は、商品生産と賃労働です。必要な資源を好きな場所から買ってきて転売してもいいし、好きなように加工してもいい、その作業を一番安上がりにやってくれる人たちを雇う、これが資本主義です。信長の楽市楽座、明治の関所廃止の延長線上に国境を越えたグローバルな取引が来るのは、資本主義の本性上やむを得ないことです。

これ自体は、「新自由主義」ではなく、資本主義の本性そのものです。

「新自由主義」の問題点は、こうした資本主義の本性の発現がもたらす様々な災禍を放置することを是とする点です。従来資本主義の本性のむき出しの作用を避けるべく様々なカウンターパワーが作用していたのに、それらを蹴散らして、資本の運動に対する一切の規制、社会的対抗活動を軒並み抑圧したことに「新自由主義」の犯罪性があるのです。

神社合祀について調べてください。資本主義が地域文化の破壊⇒画一的国民文化の創成を必要としていたことがわかります。その延長線上に、いわゆる「グローバルスタンダード」の問題が必然的に生じてくるのです。


以下が、ご参考となればよいのですが。

神道復古の大号令
https://blogs.yahoo.co.jp/assocy/6217715.html

民族の再生を考える
https://blogs.yahoo.co.jp/assocy/32219646.html

《暴走したらそれは資本主義ではなく犯罪です。犯罪と資本主義を一緒にしないでください。》


そのご意見は、僕が上で述べた考えと対立しているようには思えません。

ほとんど一致しているのではないでしょうか。暴走させない仕組みを取り払ってしまったことに「新自由主義」の問題があるのです。

暴走をくい止める仕組みの一部は、資本主義それ自体の中に組み込まれています。その仕組みだけでは、十分な制御はできませんが、しかし、ここまでひどい暴走はくい止めることができるはずです。しかし、新自由主義は、それを破壊しました。

資本主義の外部の制御装置も資本主義の内部の制御装置も「新自由主義」が破壊したから、資本主義は暴走し、犯罪そのものに転化したのです。

「新自由主義」の登場によって資本主義の正当性が破たんしたのです。


【蛇足】

共産主義を《生産手段を共有する(国家主導の)計画経済》であると考えている人がいるようですが、時代遅れもいいところです。

少なくともマルクスは、国家無き社会において労働する諸個人が生産手段を個人的に所有する社会が資本主義のなかから生み出されると考えたのです。



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