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自虐史観の葬送のために!守るべきは社稷であって国家ではない!

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《アダムスミスの資本主義観とケインズの資本主義観の
明確な違いはどのようなものでしょうか?》
 
1.市場の自動調節機能
2.政府介入の是非と必要性
3.資本主義社会の階級的構成

以上の3点についての両者の理解の違いについて説明します。


1.市場の自動調節機能

両者が一致して、市場が自動調節機能を備えていることを認めていたという、最初の回答者の方のご指摘は正しいと思います。その共通点を踏まえたうえで、次のような相違を指摘することができます。

スミスら古典派と今日の新古典派は、自動調節の過程は比較的短期であり、その間に不都合な出来事があっても、社会問題化する前に解消されると考えています。それに対してケインズは、調節には従来考えられていた以上の時間がかかり、その間に無視できない問題――特に失業――が発生すると考えました。


2.政府介入の是非と必要性

スミスは、政府介入は、市場の自動調節機能を阻害するので極力回避すべきであると考えました。とは言え、彼は、今日のネオ・リベ=新古典派のように、裸の市場がそれ自体として自動調節機能を果たすと考えていたわけではなく、市場参加者の間に文化や価値観が共有されていて、共感原理が働くことが調節機能が有効に作動する前提だと考えていました。

他方、ケインズは、調節過程が長期にわたる以上、その間に起こる問題事象に対しては、政府の対処が不可欠であると考えていました。

3.資本主義社会の階級的構成

スミスは、労働者、資本家、地主という三大階級が、それぞれ、労働、資本、土地という生産要素を市場に提供し、その見返りに、労賃、利潤、地代を受け取ることにより、正常な経済循環と、曲折はあっても長期的には均整のとれた経済成長が可能であると考えていました。つまり、経済というゲームのフィールドプレイヤーたちだけで、ゲームの正常な進行は、十分可能だと考えていたのです。

しかし、ケインズは、スミスが資本家とした階級を企業者と投資者(金利生活者)に分け、企業者と労働者を活動階級、投資者を非活動階級と規定し、地主は後者に転化したり、吸収されたりしたものとみていました。そして、非活動階級の存在が、市場の調節機能を阻害すると考えたのです。ただでさえ、調節過程は長期を要しその間に無視できない問題が生じるというのに、そこに非活動階級が持ち込む混乱が加わりますます資本主義は不安定化するということです。そこでケインズは、投資を政府が規制することで、非活動階級を「安楽死」させることを提起しました。

階級構成の変化自体は、ケインズの勝手な見方というわけではなく、スミスの時代の資本主義とケインズの時代の資本主義の実際の違いをある程度反映したものです。

マルクスがいち早く――バーリ&ミーンズに先立って、また彼らよりも正確に――「所有と機能の分離」論で指摘したように、株式会社においては、出資者(株式会社では株主)は、経営者に企業運営に必要な作業を委任します。出資者は事実上の金利生活者に転化するのです。

さらにケインズの時代になると、株主の中で次第に企業経営自体に関心を持たず、ただ株式の売買差益にだけに関心を持つ投機的株主が増えていきます。株式以外の投機市場も隆盛します。土地も、実業のために取得されるのではなくただ転売目的で購入されるケースも増えていきます。こうした投機マネーの活動が、生産的な企業活動への投資を減退させ、資本主義に危機をもたらすとケインズは憂いていたのです。
 
金利生活者の安楽死のために行われる投資規制の内容を書きそびれました。

それは、勤労所得や事業所得を優遇し、逆に資産所得を狙い撃ちして金利生活者から高額の税を徴収し、それを活動的事業(雇用を生む事業)に投資するということです。

そうすることで失業者が減り、新たに職を得た人たちが消費をするので、消費財市場が拡張します。それにより、消費財生産に必要な生産財の市場も拡張します。これは、金利生活をしてきた人たちにとっても活動的事業に進出するチャンスが広がることを意味します。

こうした政策をとり続けることで、次第に、「投機で儲けても税金で持っていかれるだけだから、すこしまじめに事業でもしてみるか」、という人が増え、金利生活者は、次第にいなくなるということが期待されていたのです。
 
 

転載元転載元: 草莽崛起〜阿蘇地☆曳人のブログ(桜の下で「日本」を屠る決意)

資本主義経済の特徴(アダムスミス ケインズ )を社会主義経済の特徴(マルクス)と比較して説明お願いします m(_ _)m
 
とても、簡単に済ませらるような内容ではありませんww

重要だからということよりも、非常に高度な課題設定だからです。

システム間の特徴比較と学説を絡めるとはww。

しかも、スミスとケインズを並べてあるところも、かなり高度な理解を前提した設問ですよww

正直自身がありませんが…


まず、学説をとりあえず横においてシステムの特徴を見ると、

1)資本主義; 資本・賃労働関係と私的労働のネットワークとしての社会的分業

2)社会主義; 協同の生産手段で労働し自分たちのたくさんの個人的労働力を各自が自発的・自主的・自覚的に一つの社会的労働力として支出する自由な人々のアソシエーション

で、これを3者の学説に絡めて説明すると…

1) 資本主義では、金のある人間がさらに金を集め、それを使って他人の労働力を買い、それぞれ勝手にこれは売れるだろうというモノやサービスを生産するために労働をさせます。この労働の内容は、それぞれの雇い主が勝手に決める〈私的〉労働です。しかし、社会が成り立つためには、それぞれの雇い主が自分の勝手で選んだ労働の内容が互いにうまく連携しなくてはなりません。

トウモロコシは足りているのに、それを輸出すればもうかるからと、ほとんどの農地でトウモロコシが栽培されたら、国内の消費者は、他の作物については、他国から高く輸入するしかなくなるかもしれません。実際には、他の作物の需要超過がある程度まで進めば価格が上がり、儲けも大きくなるので、トウモロコシから他の生産物に転換する農業生産者が現れるという調整メカニズムがある程度働きます。

これが、いわゆる市場の自動調節機能で、しばしば、アダムスミスの名前と結びつけて説明されます(しかし、スミスの功績は、こんな単純な事実を指摘したことにはありません。彼の本当の功績はこのメカニズムが働くための前提条件を明らかにしたことにあります)。

しかし、この調整過程は、実は意外と長期を要する過程で、現実の不均衡は、そう簡単には解消されないよといったのがケインズです。彼は、特に労働力需給においてこのことは強く表れると指摘し、何らかの政策的介入がなければ、失業の長期化が生じ、社会が不安定化するとして、国家による経済への介入の必要性を説きました。

2) マルクスの場合、そもそも社会的分業を構成する諸々の労働は、初めから社会的労働として行われます。つまり、ユーザーのニーズに基づく生産(ある種の注文生産)として行われるのです。生産者があてずっぽうにこれなら売れるだろうと決め打ちして生産する私的労働とは違うということです。

それは、国家による計画経済とも全く異質なものです。国家計画経済は、国家が一大生産者としてまったく恣意的に生産内容を決めて、出来上がったものを消費者に押し付ける体制で、マルクスの考えていたものとはむしろ正反対のものです。それは、国家が資本家として賃金労働者を雇って私的労働をさせる国家資本主義でした。

マルクスの社会主義は、自由で対等な労働する諸個人によって自主的に結成された協同組合事業体のそれぞれがユーザーの参加を得て行う自主管理協同生産です。そこでは、資本主義とは異なり、直接に社会的必要(ユーザーのニーズ)に応じた生産が行われるため、市場による調整も、国家による政策的介入も不要となります。
 
 

転載元転載元: 草莽崛起〜阿蘇地☆曳人のブログ(桜の下で「日本」を屠る決意)

《いわゆるマルクス経済学では、資本主義は社会主義へと革命してゆくと表現されていました。

それに対して、近代経済学では、資本主義についてのしくみの変化はどう捉えられているのでしょうか?

つまり、近代経済学では、世界の経済はどうなると予測されているのでしょうか?》
 
 
歴史的な移行理論というのは、主流派経済学には、極一部の例外を除いてほとんどないと考えてよいと思います。

勿論、動態論、変動論はありますが、循環的、振動的な運動が想定されている場合がほとんどです。

例えば、ビジネス・サイクル論のように、〈好景気(好況)→後退期→不景気(不況)→回復期(→好景気に戻る)〉といった循環的な変動ですね。資本主義という社会構造自体は、動揺をしながらも、再生産され、維持されるという理解です。

例外的ですが、しかし、それだけに近代経済学派の中では、大きな影響力を維持しているのが、ロストウとシュンペーターでしょう。

ロストウの段階説は、下のような感じです。

第1段階:伝統的社会 ;在来産業のモノカルチュア,低生産性、農業生産中心。

第2段階:離陸先行期;次の離陸期に移るための必要条件(ロストウが重視するのは資本形成)が整えられる時期

第3段階:離陸(テイクオフ) ;貯蓄率と投資率、1人当りGNPの持続的な上昇。一国の産業諸部門の成長の程度がその時々の主導産業により誘発・規定され産業構造の変動が生じる。.政治的・社会的・制度的な枠組みが経済成長を持続するという目的に規定されるようになる。

第4段階:成熟化 ;重化学工業が主導産業になる。産業構造は第2次産業に特化する(いわゆる「工業化社会」の段階。

第5段階:高度大量消費;第4段階で、国民一般の所得水準が更に上昇した結果、耐久消費財やサ−ビスに対する需要が爆発的に増大。

※ここで終わり、これ以降の変化について彼がどう考えていたのかは不明。少なくとも、資本主義とい仕組みがほかのものに代わるとは、考えていなかったものと思われます。

シュンペーターの方ですが、ロストウとの大きな違いは、資本主義の終焉と社会主義への移行の可能性を認めていた点でしょう。

移行の理由は、所有と経営の分離によって、企業を取り巻く3種の経済主体、有給重役・支配人、大株主、小株主の3グループがそろいも揃って、企業に対するロイヤリティを希薄化させてしまうことと(重役等は雇われ人、大株主は事業内容よりも資産価値に関心、小株主はわずかな配当を売るだけの自分の立場に不満)、少子化によって、若い世代が高齢期の窮乏を見越して将来のために現在の勤勉・倹約に努めることを拒否し、資本主義的倫理を喪失すること、この二つです。


このほか、経済史の分野で近経理論に基づく「実証的経済史」研究というものが結構発達しています。この系統の研究で最近目に付くテーマは、いわゆる「社会主義」から資本主義への体制移行です。特に最近は、中国の行く末について関心が高まっているようですね。

少なくとも近代経済学では、マルクス派のように傾向的な法則から将来の変化をかなりの蓋然性を持つものとして「予測」するという態度はとらないと考えてよいと思います。その意味で、シュンペーターは例外中の例外です。


 

性別分離には、水平分離と垂直分離がある。水平分離は、女性と男性が異なる産業や異なる職業に集中することであり、垂直分離は、女性よりも男性の方がより高位の職務や高ステイタスの職業に集中することである。
 
性別職域分離の形成理由の三つの仮説

1) 女性に関する深夜勤務禁止規定
2) 男女間の体力・筋力差
3) 男女間の勤続年数の差異にもとづく統計的差別
(首藤若菜『統合される男女の職場』)
 
首藤氏のこの「仮説」は、実証的点検が完了していないということで「仮説」とされているが、直接的な形成要因の分析的把握として説得的であって、「仮説」の域は越えているといってもよいほどである。しかし、性別職域分離のある一国の労働市場総体の構造的作用についての分析は、首藤氏の研究の射程には入っていないようである。
 
そこで、試みに、一国の労働市場総体において、性別職域分離によって齎されるであろう構造的作用――総資本にとっての性別職域分離のメリット――について考察してみた。
 
A)  必要な労働能力の一部を「自然に」形成されたものとして扱い無償で利用する
本当は職業の遂行に必要な素養として教育訓練を通じて養成しなければならない諸要素を、「本来女性が持っていることが自然な、女性的特性」と見做す。
 
この「女性的特性」を社会全体で維持していくことは、社会の伝統と公序良俗に適した良いことだと主張し、女性が「女性的特性」を家庭内のしつけを通じて「自然に」身に着けることを称揚する。教育機関は、家庭のこの努力をサポートするものと位置付ける。
 
これによって性別役割分担意識を植え付けて「女性職」に必要な「女性役割」を「自然に」身に着けさせるように社会を誘導する。そうすることで、資本が負担すべき労働力養成コストの一部を、個別諸資本の負担にはならない社会的費用に転嫁することができる。
(※ このような「性的特性」の無償利用は男性においても生じている可能性がある)
 
B)  女性職」での労働力の作られた供給過剰
 労働分野の大部分を占める「非女性職」への女性参入を制限することで、女性を「女性職」に集中させて「女性職」での労働力供給を過剰化させ、低賃金へ誘導する。男女共同参画政策による、「女性職」への男性参入促進は、この観点から見れば、かえって労働力の供給過剰を促し、低賃金化を促進する結果となる。
 
 
 最後に性別職域分離を伴う一国の労働市場総体は、社会的意識に対しても次のような構造的作用を及ぼすだろう。
 
少子高齢化による従属人口比率の上昇は、女性労働力の活用を資本に迫るから、資本も共同参画論などを通じて女性の労働力化を積極的に促す一方で、女性をより低廉な労働力として、差別的に処遇するために、「性差」イデオロギーを活用する。「共同参画論」的言説と「家父長制的性意識」に基づく言説という、相容れない二つの傾向が性を巡る社会的意識の矛盾を形作る。


資本の活動環境を整備・保全するために必要であっても資本自身が自分で行うことの難しい諸事業をまとめて引き受ける機関としての国家。
 
資本の「無政府的」活動が資本自身の生存基盤を掘り崩さないよう、また資本の破壊的活動に対する社会の自己防衛が資本の活動の余地を奪い、資本を圧殺することがないように両者を調停する「中立的な」主体が必要となる。社会の自己防衛が資本の生存条件として再措定される。しかし、それによって社会の自己防衛のためもろもろの営為は、制度・政策として目に見える形で確固として存在するものとなる。再領有の対象として姿を現すにいたる。
 
 「内在性」(当事者主権、自己決定権)と「超越性」(外からの強制力)
 
 近代国民国家システムの成立…ウェストファリア講和
  ・諸国家が国際社会の唯一の行動主体
  ・諸国家を越える超越的権力は国際社会には存在しない
 
しかし、現在。
 
資本のグローバリゼーションがグローバルな主権的権力を要請
⇒グローバルな政体構成のピラミッド(国家主権の位置づけ・機能の変容)
 
近代の一国的主権は人民主権を基礎に置いている。それが国民国家を単位とする代表的諸制度と諸構造を骨格とする近代民主主義の根本になってきた。人民とは、人口=住民を単位とする代表であり、自然的経験的実体ではない。人民には3つの要素がある。(1)<1つのもの>、単一体としてアイデンティファイされる、(2)代表制によって構成される、(3)尺度化されている、という要素である。人民とは単なるアイデンティティではなく、社会構成体や特定の歴史的時期に固有の複合的プロセスから生まれる。こうした人民のありかたを集約する例が選挙であるが、近年の投票率の低下はこうした人民的代表制の危機を示している。
 
帝国的主権は人民主権と衝突し、それを否定する。WTOや世銀、IMFがそうであるように、超国家的な経済制度は人民を代表しているとは言い難いにもかかわらず、強弱を問わず国民国家に指令を与えている。これらの制度は人民的代表制のメカニズムを排除していればいるほど機能するのである。
 
これは、社会の自己防衛のためもろもろの営為のグローバルなレベルでの再現である。したがって、グローバルな公共性が、具体的な制度・政策として目に見える形で確固として存在するものとなる。一国的、国民的公共性を超えるグローバルな公共性が再領有の対象として姿を現すに至っている。
 
暴力的・抑圧的権力として実在するグローバルな公共性を解体するのではなく、この<>をマルチチュードが再領有すること、これが目指すべき道となる。
 
 


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