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自虐史観の葬送のために!守るべきは社稷であって国家ではない!

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《本稿ではまず,これまで交通の何がどのように問われ,その学問的,経済学的意義がどこにあったのかを確認する.そのうえで今日,後回しにされてきた課題を含め,交通の何をどのように論じ,交通研究の将来はどうあるべきなのかを考えてみたい.》
交通経済学のまさに来し方行く末を概観するという方針です。

《人類の原初期,狩猟・採取の時代には,獲物を求めての移動は必要であったが,それはわれわれが言うところの交通ではない.…中略…交通の本質は,「人間の諸活動遂行に際して障害となっている空間的な距離の目的意識的克服」にある(西村(2007)5 頁).交通は,到達した場所で行われる本来の目的遂行とは,原理的に切り離して考えられる.つまり,何らかの本源的需要を達成するために派生的に需要されるものが交通であり,それ自体独立した行動として議論されてきた.》
"何らかの本源的需要を達成するために派生的に需要される空間的な距離の目的意識的克服"が交通の本質。
《経済活動の発展に寄与する交通を,われわれはどう理解し,どのように関与すべきか,それが探求の目的であった.》
交通経済学の目的。
《交通の媒介が,今日同様,全面的かつ必須のものとなるのは,自給的生産物が商品となり,ついには労働能力自体まで商品となった全面的商品生産社会となって以来のことである.》
この指摘はなかなか重要。
《交通サービスは,使用価値たる物的対象を生みだすわけではないという点で通常の生産物商品とは異なる.つまり交通は,サービス同様,形態変化を生じさせない.…中略…しかし他方では,位置の変化という明確に物理的な変化を生じさせる.その意味では一般のサービスとも違うのである.経済学がこれまで考察対象としてきた商品とはいささか変わっているというこの特殊性をどう理解するかが,まず問題になった.》
これも、よく知られていることであるが、確認は必要。
《労働過程そのものを生産・流通・消費させることから生じる交通資本の運動形態についても,通常の資本一般とは異なる考察が必要であった.》
生産と消費については、サービス一般について言えることでしょう。労働過程そのものが流通するというとらえ方については、その妥当性の検証が必要かもしれません。ともあれ、そのようにとらえることができる可能性があるという点に交通の独自性があるとは言えそうです。
《もとより,特殊を特殊として説明するだけでは理論化したとは言えず,特殊の概念化を図りつつ,それと不整合を示す一般理論の体系と関連づけ,普遍の中の一特殊と位置づけられてはじめて理論となる.そのためには一般理論そのものを改善し,豊富化を図ることが必要であった.交通についての考察は交通現象の特殊性を問題提起し,経済学一般への貢献を果たしてきたと言える》
特殊の概念化と一般理論への組み入れを通じて一般理論が豊富化、改善されるというとらえ方には、激しく同意。

《スミスは,交通の改良・発達は,国家の責務で行うしかないと論じたのである.今で言う公共財の概念を指摘していたのである(スミス(2001)395 頁).…中略…スミスは,一方で,交通の発達が市場を広げて社会の発展に役立つと指摘すると同時に,他方で,交通インフラストラクチャーの負担が社会の重荷になる可能性があることも論じていた》
交通インフラの公共財としての性質をスミスは理解していたし、交通の二重性もと捉えていたという指摘。
《J. S. ミルも,交通の発達が社会に及ぼす影響を一般的な生産力の向上や地代の低下と関連づけつつ,鉄道の同一区間への敷設許可は一線にのみ与えられるべきである,と論じていた.また鉄道の「監督権というものは,政府がこれを保留し,一時的特許として以外はこれを手放してはならない」としていた(ミル(1959)272 頁).単純に競争を促進するだけではすまない分野,すなわち現在の用語で言えば自然独占が存在し,そこには政府が関与すべきことがあると承知していたのである.》
《公共財も自然独占の理論も,その後の現代経済学の展開において大きな役割を果たした理論であるが,その萌芽的指摘をスミスやミルが交通現象に関わって論じていたことは興味深い》
交通研究が経済学を豊富化したという話。
《伊藤元重は,交通政策について「経済理論を研究する者として自分の持っているフレームワークと整合的になかなか説明できない」と「素朴な疑問」を提示し,「規制のうちのあるものは,経済学の観点から正当化しにくい」と述べていた(奥野他( 1989 )1 頁,14 頁).規制緩和が世界的に論じられる中,交通経済学は交通分野の規制を擁護する役割を果たしているのではないか,という指摘であったろう》
交通経済学の必要性に関する疑問が、規制緩和論との絡みでてきているのは、興味深いですね。
《交通サービスの提供は,商品生産の領域以上に自己生産の領域でなされているが,場合によりその両者ともに上手く機能しないことがある.鉄道が廃線となり,バス路線も廃止され,タクシーの営業までなくなる一方で,高齢化によりマイカーを利用できない人々も増えていく.交通需要はあっても交通サービスは供給されず,自己生産しようにもその能力がないために移動できないという人々が増えている.そうした現象がなぜ生じ,どのような打開策がありうるかは,いまだ研究が必要な特殊性であろう.また,アマルティア・センのケイパビリティ論の登場以来,交通の存在が人間の幸福追求にとってますます欠かせぬものになっていると説く論者は多くなっており,交通への社会的関心もけっして低くない.「特殊+関心」の点で,交通論・交通経済学にはなお存続の必要があるのではないか.ましてや,交通分野における不効率の発生や諸問題は,経済学者が通例説くところの「規制緩和,競争促進」では除去できない部分が多いとなれば,なおさらであろう.》
下線は僕が引きましたが、この部分は、もう少し詳しく知りたいところです。

――続きます。


《「セックス(生物学的精神)とジェンダー(社会的役割としての性)が別物だということも、ゲイやレズビアンの正当化な権利を要求することも、80年代の言説状況の中で可能になったことは確かである。フーコー晩年のセクシュアリティに関する思考が権力権、自己/他社論、同性愛論を横断していたのも大きかった。ついでに言えば雑誌「マリクレール」あたりも妙にフェミしていた。(ああいうのをコーポレート・フェミニズムと言うんだよ)」と、雑誌にかいてあったのですがコーポレートフェミニズムとはどういう意味ですか? 90年代後半に発売された80年代特集の雑誌です。 》

企業版フェミニズムとでも訳しましょうか。当時の企業の一部に「働く女性を応援します」「女性には見えない天井があるが、それを取り除くことを要求するのは女性の当然権利!」等々のメッセージを打ち出すものがあって、そういう企業の姿勢や考え方を指すのではないでしょうか。

そもそもは、facebookの最高執行責任者であるシェリル・サンドバークが、彼女の著書で主張した内容に対して、彼女に批判的な――差別的な社会システム全体を批判するのではなく、結果的にそのシステムに女性を取り込むことに手を貸すという理由――人たちが揶揄的に使い始めた言葉のようです。






《資本主義の矛盾点について

資本主義=格差社会→低賃金の人は結婚&子供を作りづらい→少子化→年金=損する制度→年金に頼らずに貯金する人(増→経済が回らない=資本主義の矛盾

間違ってはいないと思うのですが、意見など下されば幸いです》。


《年金制度は、社会主義のモノです。

資本主義なら年金制度は不要です。

あなたの論法に沿って言えば、資本主義なのに、社会主義的制度を取り入れるから矛盾が発生します。

矛盾が嫌いなら、年金制度は廃止です。》


年金が社会主義とは、大爆笑物の珍説だなぁwww

資本主義の場合、労働力を商品として販売する際に、価値通りの支払いがなされない場合ばありうる(市況や各資本の対応によって一様ではない)から、総資本の利害(労働力の再生産条件の確保)のために、資本家の共同事務機関たる政府が介入して剰余価値の一部を回収して不足分を補填するのが年金などのいわゆる「社会的賃金」である。

それに対して、社会主義とは、一言でいえば、労働力を商品として他人に販売するのをやめることに他ならない。資本主義の揚棄とは、賃労働の廃止である。この社会では、種々の生産集団において、各自が自分の労働力を持ち寄って自分たちで消費する。すなわち特定の生産物の生産のために、特定の労働を遂行する。その成果物は社会の他の成員に提供される。

なんらかの生産集団を形成し、自分たちの労働力を共同で支出して特定の生産物を生産した者たちは、各自の労働貢献に応じて社会の他の成員が生産したものを取得する権利を獲得する。名目だけの「社会主義」で実態は国営資本主義に過ぎなかった「現存社会主義」とは違って、賃労働が廃止された社会においては、特別な事情がない限り、自分の食い扶持は自分で稼がなければならない。労働力の使い道を本人が自由に決めることができるのだから同然だ。

だから、社会主義においては、労働力の再生産に必要な費用は、労働する諸個人自身が自分の労働力支出の成果物と引き換えに自ら獲得しているのである。だから、社会主義においてこそ、年金制度は不要となり、「廃止される」のである。

資本主義社会において、貧困に陥った賃金労働者に対して「年金のことは、あきらめろ」というのは簡単だが、それで本当に資本主義が維持できると信じているのなら、相当に御目出度いと言わざるを得ない。びっくりするのは、そんなお幸せなご仁が二人も雁首並べて登場したという事実である。世も末だねぇwww

Social Securityというのは、社会の安全保障、資本主義社会の安全保障なのであって貧者への施しではないということを知らないのだから呆れるばかりだ。資本主義者が全員このレベルなら、かえって資本主義からの脱出も早まるだろうが、さすがにそう世の中甘くはないだろうなぁ。残念だけどwww

ーーーーー

さて、無知ゆえに自らの垂れ流すろくでもない妄想に溺れる連中と付き合うのはこれくらいにして、質問者さんのまっとうな疑問にお応えいたしましょう。

日本では、労働運動の弱さにつけんで、労働力の再生産条件を、資本が自分の手で壊してきた結果、いよいよ外国人労働者の導入を本気で考えなければならないレベルにまで、資本自身が追い込まれています。

質問者さんの、描いたサイクルは基本的に正しいです。次世代労働力の再生産コストは、技術革新進展の結果として労働者一般に求められる知的水準が上昇したり、やはり医療分野での技術向上によりいわゆる「老後期」(現役引退後の生存期間)が伸びたりしたことによってじわじわと上昇してきています。しかし、多くの資本が「自分たちの利益をこれ以上削りたくない(ただでさえ利潤率は低下しているのだから)」という理由でその支払いを少しでも「節約」しようとしてきたために、次世代労働力の再生産が停滞しています。これが少子化の、唯一の原因ではないにせよ、少なくとも促進要因の一つです。

そして、少子化によって従属人口比率が上がってくれば、世代間の「支え合い」という美名で正当化された、日本のような労働者階級内部の賃金の再分配に過ぎない「社会的賃金」にすらなっていないインチキ「年金制度」は、早晩破綻せざるを得ないことを、大半の人が見通せるところとなります。

これでは、年金を信用しない人、可能な限り離脱しようとする人、三号被保険者としての地位を維持するために非正規にとどまり労働時間を調整する兼業主婦などが出てきたのも当然です。

しかし、今はもっと深刻な状況です。年金を払いたくても払えない、社会保険に加入したくてもできない、そして自分で貯蓄することもままならない人が増えています。おっしゃるように、少し前までは、家計の貯蓄率が高く個人消費の水準が低いことが問題でしたが、今は、貯蓄率自体は下がってきているはずです。しかし、ご存知のように個人消費も伸び悩んでいます。それほど高くはない消費水準を維持するだけで貯蓄に回す余裕がなくなる人が増えているのです。

これでは、労働する諸個人は、次世代労働力どころか、自分の労働力の維持すら困難になっていくでしょう。「それは自己責任だ」という人々は、いったいどうやって労働力を確保するつもりなのでしょうかね。

資本が自分のよって立つ基盤を、その貪欲さのあまり掘り崩しているという現実を、資本を主柱とする社会の自己崩壊、矛盾ではないかという指摘に対して、「年金は、社会主義」とか、まるでかみ合っていない回答を平然と返せるのは、どういう思考回路によるものなのか…さっぱりわかりません。

それはともかく、質問者さんは、困った回答者さんたちとのやり取り中で、適切にも年金制度改革の不可避性を指摘しておられるので、それについても一言しておきましょう。

僕も完ぺきな制度設計ができるほど、社会保障制度に詳しいわけではありませんので、抽象的ですが、いくつか指摘させていただきます。

(1)資本主義がつづ限り、「年金」は、「社会的賃金」としての機能を果たさなければなりません。それは労働者が困るからというだけでなく、資本も困り、結局は資本主義という形をとっている日本社会そのものの維持が困難になるからです。両階級の共倒れの危険すらあるからです。

(2)「年金」が「社会的賃金」として機能するためには、階級内再分配ではなく、階級間再分配として制度構築する必要があります。したがって、主要財源を大衆課税であり逆進性も強い消費税に求めることは避けなければなりません。

(3)しかし、同時に「再分配の罠」にも十分に配慮する必要があります。それゆえ、「年金制度」や「高齢者医療補助」に所得制限は導入せず、基本的に全国民に同等の便益が及ぶ制度にすべきです(普遍主義の採用)。


とりあえず以上です。



1)資本の運動が個人的限界によって制約されることがなくなった  [=人格的な関係の物象的な関係への転化の一層の進展]

 *個人的限界:オーナー資本家が事業投資より個人的消費を優先する可能性、一私人の財産として資本を維持しようとしても、オーナの死や相続人の途絶などで維持できなくなる可能性など。また、一私人、一族、その知人の人的結合の範囲内では、核とすることのでき資本金の額に限界があることetc.,




2)「資本主義的生産の主要な事実」として指摘される次の2点

   a) 私的所有の外皮の中で生産手段が協同利用の対象となる。

 * 株主集団の私物である機械や原材料を、株主が選んだ、株主の意思を代行する経営者の指図に従いつつも、労働者たちは互いに協力し合って作業するために使用するということ。

   b)社会的労働の形成:協業や分業という人間相互の関係と科学的知識の生産への応用という自然に対する人間の知的・実践的関係という二つの面において単独労働に対する社会的労働の優位が確立する。


3)「所有と機能の分離」の帰結としての以下の2点

   a)企業管理の核心的な権限が経営者を頂点とする従業員組織によって掌握されることになった[株主の経営権の形骸化]。ただし、現状では、労働する諸個人は企業の管理権を掌握したにもかかわらず,その権限を用いて自己搾取を行い続けている。

   b)利潤(特に配当)が監督労働の成果であるという虚構が否定されている。

    *オーナー資本家の場合、本人が監督労働もこなしていたので、利潤の取得を監督労働の成果だといって正当化することができましたが、株式会社の株主たちは、経営者としての役割を兼ねている人を除けば、監督労働(日常業務の取り締まり)を行っていないので、彼らが取得する配当を監督労働の成果だとして正当化することができなくなります。

以上の諸点を総合して:共同的生産手段を用いた社会的労働(協業)に対する集団的な私的所有である株式会社は、それ自身の内部で既に単独労働が揚棄されているばかりでなく、集団的私的所有の成立によって私的所有が監督労働の成果であるという虚構が否定されているがゆえに、私的所有の否定とそれによる社会的諸機能の労働する諸個人自身による自律的遂行への「必然的な通過点」なのです。

    以上です。

    【参照】
    https://blogs.yahoo.co.jp/assocy/31644024.html






Gorillaz - Feel Good Inc. (Official Video)



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