- The Chatterbox -

貧しくて、飢えに苦しむ人に、道徳や義理を押しつけても教化されない、かえって反発するだけ。

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英領マラヤはマレー半島(日本の0.9倍の大きさ)とシンガポール本島(淡路島と同じ位の大きさ)のことで、
当時の人口は約550万、マレー半島は478万、シンガポール本島は72万だった。
マラヤの二大産業がゴムとスズで、この二大産業でお金持ちになった華僑たちはいた。
数十年の努力をかけて金持ちになった経営者のしたに勿論勤勉なクーリー(労働者)がたくさんいた。

華僑は中国を祖国と思い、1937年に祖国が大日本帝国に侵略されて、
抗日戦争全面勃発時に、南洋華僑籌賑祖国難民総会(簡称「南僑総会」)がシンガポールにできて、
陳嘉庚は推薦さられて会長になった。

1939年には、この一年で南洋華僑は祖国に3.6億ドルを送金し、
7.7.1937盧溝橋事変から8.12.1941太平洋戦争勃発の4年半の間で、
南洋華僑は祖国に合計15億ドルを援助したと。

8.12.1941未明、日本軍はマレー半島東北部のコタバルに上陸、
さらにタイ領のシンゴラ、パタニにも上陸した。無断に。
31.1.1942マレー半島が日本軍に占領された。
シンガポール本島は15.2.1942に陥落した。

中国を熱心に支持し、抗日救国運動の先頭に立っていたシンガポール華僑・華人を、
日本軍が寛容に扱う筈はなかった。
だから蒋介石の重慶政府に金銭的な援助とする理由で、日本軍より粛清された。
それも占領する前に粛清計画を立てた。
アジア太平洋戦争における最初の大規模な残虐事件は、シンガポールの華僑虐殺だった。
1942年(昭和17)2月15日にシンガポールの英軍が降伏し、マレー半島全土を日本軍が占領下においた。その直後、第25軍司令官山下奉文は「最も速かに市内の掃蕩作戦を実施し、
これ等の敵性華僑を剔出処断」せよという命令を下した(河村参郎『十三階段を上る』亜東書房)。

憲兵隊を中心としたシンガポール警備隊が市内の、近衛師団が市内を除くシンガポール島を担当、18歳以上50歳までの華僑男子は21日までの指定された場所に集まるように布告が出された。
各検問所では簡単な尋問がおこなわれただけで、「抗日」とみなされた者はトラックに乗せられて郊外の海岸などの運ばれ、機関銃で射殺された。
この粛清の事実上の首謀者だった軍参謀辻政信は検問所をまわって、「何をぐずぐずしているのか。俺はシンガポールの人口を半分にしようと思っているのだ」と憲兵隊を激励してまわった(大西覚『秘録昭南華僑粛清事件』金剛出版)。
この粛清を指揮したシンガポール警備隊長河村参郎の日記には、粛清の途中の23日に憲兵隊長を集め、そこで「処分人数総計五千名」と報告を受けたことが記されている。

戦後、日本軍関係者が作成した文書では約5000人を「厳重処分」(裁判にかけずに直ちに処刑すること)したとしている。
その日記には、粛清の途中の23日11時だった。
途中!

検証した時は記録されなかったため、粛清された数は未だに定かにはなっていないのだが。
日本政府では5千人で、極東国際軍事裁判では6千人だった。
でも戦後の裁判証言によると、2万5千人から5万人が強く見られる。
シンガポール粛清が始まった2月21日、第25軍はマレー半島全域での粛清を命じた(以下、林博史『華僑虐殺』すずさわ書店)。
第25軍傘下の第18師団と第5師団はマレー半島各地に移動し、その後約1カ月にわたって粛清をおこなった。 
マレー半島南部のネグリセンビラン州とマラッカ州では3月3日から25日まで歩兵第11連隊によって粛清がおこなわれた。
「抗日分子」や「抗日ゲリラ」が潜んでいると疑われた村が皆殺しにあった。特に主な道路から離れた、奥まった所の村やゴム園の宿舎がやられた。そのため町にいると危ないと考えて避難してきていた女性や子どもが多数殺された。
都市では皆殺しにはできないので、一軒ごとに日本兵がまわって「抗日的」と見なした者を検挙した。日本軍の命令書によると「態度終始不遜ナル者」や「本人ノ存在」が「社会ノ秩序ヲ乱」すと判断した者は処刑せよとされており、検挙されてから郊外に連れて行かれ処刑された。
当時、人口が約30万人だったネグリセンビラン州だけで、30数カ所3千数百人の華僑が虐殺された。同州には数十人のゲリラがいたと見られるがかれらはジャングルのなかのキャンプにいて助かった。

マレー半島での主な虐殺事件というのは1942年3月に集中しているが、ネグリセンビラン州では8月30日に368人が犠牲になった住民虐殺事件がおきている。これは虐殺のあとに生き残った人びとが日本軍の許可を得て死体を全部埋葬したときに数えた数だと言われているからかなり正確な数字と思われる。その事件について日本軍の文書が残っているが、ここでは殺したのは80人だと書いている。
ペナンもあったとどかで読んだことがある。
証言集会、
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/5383/kakonosyougen.htm

シンガポール占領した渡辺大佐は昭南華僑協会に一千万ドル、マレー半島の他の華僑協会に4千万ドルの献金を命じ、憲兵隊による過酷な取り立てを行なった。
粛清と強制献金と、「今日もシンガポールの華僑たちが恨みとして忘れないのは日本軍のこの二つの失敗です。」とシンガポールの日本総領事館に勤めていた篠崎護は書いている。
その強制献金については、
25.6.1942に華僑長老の林文慶博士と57名有力華僑と一緒に、5,000万ドルの小切手を山下司令官に渡したと。戦乱だから正常に運営できなかったため、2,200万ドルは日本の銀行に6%の金利で借りた。
この金は華僑たちの命を買うためだ(買命銭)と言われたって。

>今日もシンガポールの華僑たちが恨みとして忘れない。
日本人は恨みとして忘れないのかぁ。じゃあ、なぜ日本はアメリカと仲良くしてるの?不思議。

確かに起きたことを忘れない、だが、恨みとしてではない。
お金は失ったらまた稼れば良い、しかし、命は失ったら何やっても戻れない。
In 1947, the British Colonial authorities in Singapore held a war crimes trial to bring
the perpetrators of the Sook Ching Massacre to justice.
Only seven men were charged for their alleged role in Sook Ching in 1947:
1.Lieutenant Colonel Oishi Masayuki, commander of 2nd Field Kempeitai.
2.Lieutenant Colonel Nishimura Takuma, commander of the Imperial Guards Division.
3.Lieutenant General Kawamura Saburo, commander of Syonan Defence Garrison.
4.Lieutenant Colonel Yokota Yoshitaka.
5.Major Jyo Tomotatsu.
6.Major Onishi Satoru.
7.Captain Hisamatsu Haruji.
While Kawamura and Oishi received the death sentence while the rest were given life sentences but served just 5 years till 1952 when Japan became sovereign again.
(Nishimura was later convicted for his part in the Parit Sulong massacre by an Australian Military Court and hanged). The court accepted the Nuremberg Trials defence of “just following orders." The death sentences were carried out on 26 June 1947.
実質的責任者辻中将は僧侶に変装して自分だけ脱出した。
英軍はあいつを必死に探したが、結局米軍に人権としたの理由で保護され日本に帰った。

However,with Singapore gaining independence from British colonial rule, the Chinese community began a new wave of anti-Japanese resentment and demanded reparations and an apology from Japan. The Foreign Ministry of Japan denied Singapore's request in 1963, stating the San Francisco Treaty of 1951 settled the issue of reparation with Britain, and therefore, the colony of Singapore. However, then Prime Minister Lee Kuan Yew responded by saying that the British colonial government did not represent the voice of the people of Singapore.

The Chinese staged a boycott of Japanese goods in September 1963, though it only lasted seven days. With Singapore's independence from Malaysia on 9 August 1965, the Government of Singapore made another request to Japan for reparation and an apology.

In 25 October 1966, Japan agreed to pay $50 million in compensation, half as a grant and the other half as a loan. However, the compensation package did not come with an official apology.
日本とマレーシアとの「血債」協定書、
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPSEA/19670921.T1J.html
日本とシンガポールとの「血債」協定書、
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPSEA/19670921.T3J.html
結局何、奪われた金を返されただけ。

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