白虎隊
会津白虎隊は、幕末の戊辰戦争に際して 会津藩武家の男子15歳から17歳で編成された部隊である。
当初、予備兵力としていたが 主力部隊の損耗により 最前線に投入された。
白虎隊の士中2番隊は戸ノ口原の戦いに敗れ 総勢20名が飯盛山まで撤退してきた。
飯盛山中腹から 城下町が炎上しているのを目撃し 鶴ヶ城が落城したと思いこんでしまった。
“城を枕に討ち死”の望みが断たれたことから この場で自刃、一命を取りとめた飯沼貞吉を除く19名が絶命した。
新政府軍は埋葬を禁じたので 遺体は野ざらしのまま放置されていた。
これを 村人達が憂い、夜間 密かに白虎隊士の遺体を仮埋葬した。
後年に埋葬を許され ここに白虎隊19士の墓が鶴ヶ城に向かって建てられた。
松平容保公の歌碑
左隣に第九代藩主 松平容保公の「幾人の涙は石にそそぐともその名は世に朽ちじとぞ思ふ」の歌碑がある。
鶴ヶ城を望む
肉眼では小さく見えたが 生憎の雨で 旧式デジカメでは記録できず。
伊国寄贈石碑
昭和3年(1928)に、白虎隊士をたたえてローマの一市民として、ムッソリーニから贈られた石碑。
この碑の円柱は、ベスビアス火山の噴火で埋没したポンペイの廃墟から発掘した古代宮殿の柱だそうだ。
碑文裏面には「武士道の精華に捧ぐ、ローマ元老院と市民より」と刻書されている。
第二次世界大戦後、占領軍の命により削り取られた。
他にドイツ記念碑がドイツ大使館付武官のハッソウ・フォン・エッドルフ大佐から、昭和10年(1935)に寄贈された。
ドイツ語で「会津の少年武士に贈る」と刻まれている。
日独伊三国同盟は昭和15年(1940)なので それ以前から利害関係があったのでしょうか。
|