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東海地区にダムは多いが農水省東海農政局直轄の農業用ダムといえば矢作川水系の羽布ダムと安濃川水系の安濃ダムの2箇所のみである。 |
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土筆は未だだった。 |
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孝女登世 どの地にもある忠臣、孝子、烈婦の類の話で 時代遅れと笑われそうである。 駅前の偕楽公園は津藩第11代の藩主、藤堂高猷(たかゆき)が安政年間(1854〜60)に山荘を設けた場所である。 桜にはまだ早いこの季節なので 閑散としていて 時折、乳母車とすれ違うのみである。 小高い回遊路沿いに いくつかの石碑が建っていて その中に「孝女登世」の大きな顕彰碑がある。 刻まれた文字が風化により薄れ その存在を知らなければ 見過ごしてしまうほどである。 昨年、ポタリングの途中、ここから西北6kmの地で 彼女の献身的な親孝行ぶりを知った。 地元の小学校の校歌にも歌われているほど知られているそうだ。 諸説では
養父母、前田伝蔵夫婦には子供がなかったので 貧しいながらも3人は幸せに過ごしていた。 養父母の病気により、生計は苦しく、家財も人手に渡り、とうとう粗末な竹小屋で暮らすようになった。 その後、登世は奉公先で早朝から働き 夜は自宅に戻って養父母の世話をする毎日であったという。 裕福だったとされる実家や前養家へ戻ることもできただろうに。 享和2年(1802)、養父母は 登世の身体を気遣って 黙って2度も死を覚悟の旅に出る。 登世はその覚悟を悟り 後を追って 行き倒れ寸前の養父母を助けて祈願・湯治の旅を終え帰郷する。 途中、両親の一人を待たせ 一人を背負って峠を越え 戻ってまた他を背負って峠を越えることもあったそうだ。 登世没後、竹小屋跡地に津藩により この墓が建てられた。 また 通行手形を発行した善福寺はここから 指呼の距離である。 通行の規制、安全、旅費など旅が並大抵でなかった時代によく一人で両親を追って旅をしたものだ。 藩主が田畑を下賜するほどなので こんな親孝行一筋の生き方は当時でも少なかったのだろう。 表彰された当時、彼女は既に20歳であったが その後については知る由もない。 ただ 説明板に書かれた墓の所有者名から 彼女の子孫の方が健在かと思われる。 |
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