「薄れゆく戦時中の記憶」
昭和17年9月6日生まれの私は、終戦時には2歳と11ケ月強でしたが、戦争中の出来事と思われるものが数シ−ン、思い出せます。
将来、自分誌を書く時の資料にもなるかも、と思い、数年前から、ブログに記載して書庫に保管してきましたが、昨年、パソコンの更新の際に誤って、ブログを消してしまいましたので、再度、記憶をたどって、その記憶が夢うつつなのか本当の記憶だったのかの検証も含めて、記載し直しの作業を始めることにしました。
記憶の中身は”赤文字”で記載し、後になってからいろんな資料を基に調べた結果を”濃紺文字”で記載する事とします。
まず最初は「”空襲”の記憶」です。
真っ暗な夜でした疎開先の母の実家である、岐阜県武儀郡美濃町前野の農家の一角。幅3尺ほどの戸口で私と、1歳年上の兄と、母方ののおばぁちゃんの3人が夕焼けのように真っ赤にやけた空を見上げています。「岐阜が焼けとる、岐阜が焼けとる!」というおばぁちゃんの叫ぶような声が聞こえます。
私は、その声におびえて、すぐ後ろの部屋へ泣きながら逃げ戻って釣ってあった”蚊帳”の中で泣いていました。
それでも、こわごわ兄とおばあちゃんのほうを見ると、二人のシルエットが赤く焼けた空を背景にくっきりと見えました。
この時と同じ時だったかどうかがはっきりとはしませんが”探照灯”がクルクルと動き回っていて、時々その光の輪の中に大型の飛行機がスーッと通過していくのが見えました。地上から花火のような小さな光がそれに向かって上昇していきますが、途中でフッと消えてしまいます。
大人たちの”B29”だ!という声が聞こえていました。
このシーンですが昨年までは、おばあちゃんが叫んでいた”岐阜がやけとる!”の声から、7月9日の岐阜空襲の事だと思い込んでいましたが、その後の調査で、岐阜の空襲は深夜から明け方にかけて行われたことがわかり、幼児が起きている時間帯ではなく、少しおかしい?と思うようになり又、位置関係も少し疑問がわいてきたので、再度調査をし直ししました。
まず疎開先の家の位置関係ですが、今の美濃市、当時の岐阜県武儀郡美濃町の”前野”にあり、市街地より離れ、長良川の対岸(西岸)の山地と川に挟まれた狭い平地にありました。家の向きはほぼ長良川に沿った向きで、正面の方角は”南東”を向いています。一方、空襲のあった”岐阜の市街地”は”南西”方向でほぼ家の向きと直角になり、正面にあった戸口からは方角的には直接的には見られません。(空が赤い程度はわかるかも・・)
今回、探照灯の中のB29の件も含めて、考えてみると、”各務ヶ原空襲”と考えた方がつじつまが合うのでは・・と思いつき調べてみました。
各務ヶ原にも数回の空襲があったようですが特に大きかった3回は下記です。
1・2回目:6月22日及び6月26日:両方とも時間が午前9時頃で、夜ではないので対象外。
3回目:7月12日:夜半・となっていて正確な時間はわかりませんでした。
、”蚊帳”がつってあった事から、夏と考えられるので「7月12日の夜半」の空襲の方が理解しやすいのでは・・と思いました。
この件、それまで誰にも話したことはありませんでしたが、物心ついた6年生になったころ、記憶の中の”蚊帳の中で泣いていた私と、3尺ほどの戸口”が、当時聞いていた疎開時に暮らしていた部屋には見当たりませんので、不思議に思って、お盆にその田舎の家へ遊びに行ったときに母親に思い切って聞いてみましたら、”お前、よくそんなことまで覚えていたね!”と驚かれてこちらがびっくりしました。母が言うには、おじいちゃんが中央にある広い土間から入るのは入りにくいだろうから、と言って、臨時に部屋の近くの風呂場の隣に小さな戸口を作ってくれていたんだそうです。言われて、よく見ると、その位置と思われる壁には、後からふさいだ痕跡が残っていて、自分の記憶が正しかったことが確認できた・・という事もありました。
疎開先の家と各務ヶ原・岐阜・の位置関係図。