気持ちは若いが72歳!の「思いつくまま」ブログ。

9月6日です。今日より72歳になりました。着実に後期高齢者に近づいています。残り僅かな時間。何をなすべきか?かんがえなくては。

「歴史-1(近辺の歴史)」

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近場の歴史遺産:「水屋」・・・2
           〔大永寺地区に残る水屋〕
 
瀬古の東、国道19号とJR中央線を東に越えた所に”大永寺”という古刹がありますが、その名がそのまま地名になっている”大永寺”地区にもわずかに「水屋」が残っているのが見られます。
 
瀬古の場合と同様、きれいに修復・再現されたように見えますので、今一の感じがしないでもありませんが・・・
 
近場で残っている「水屋」は、私の知る限りこの”瀬古”地区と”大永寺”地区の2ヶ所だけです。
 
写真は8月30日に撮ったものです。
 
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近場の歴史遺産:「水屋」・・・1
             〔瀬古・に残る水屋〕
 
「水屋」とは、たびたび水害に見舞われた低地に、その対応策として作られた、”土盛りをして、周囲より1〜3mほど高くしたところに作られた避難用の建物”で普段は、倉庫などとして使われていました。
 
中には緊急用の食糧などのほかに、避難用の”舟”などもあったそうです。
 
守山区の瀬古地区は、庄内川と矢田川にはさまれた低地で、昔はたびたび洪水に見舞われた地域です。
 
明治時代までは両川共川床が現在よりもうんと高く、よく堤防が切れたそうです。それが現在の様に低くなったのは、明治以降になってから盛んに行われた砂利の採取だったそうで、川床が4~5mも低くなりうんと洪水被害が減ったんだそうです。
 
濃尾三川流域には”輪中”がたくさんあることはよく知られていますが、この瀬古地区にも、”北瀬古”と”南瀬古”の二つの輪中があり、大正時代まではその痕跡の堤が一部残っていたそうです。今はどうか、と探し回って見ましたが、痕跡は見当たりませんでした・・
 
”輪中”は消えてしまいましたが、”水屋”は残っていました。
 
写真は、現在は「東龍」という造り酒屋の一角に立派に再建された?綺麗な”水屋”です。綺麗になってはいますが、外観上は昔の”水屋”の面影を残していると思われます。
 
 
8月25日に撮影した、堂々たる構えの”水屋”
 
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「B29撃墜の痕跡」

「B29撃墜の痕跡」
 
今日8月15日は”8月や 6日 9日 15日”の最後の15日、終戦の日です。
今朝の中日新聞の1面に下記のような記事が載っていましたね。
 
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要約すると、戦争末期に高射砲によって撃墜されたB29の残骸を、後の米軍の追及を恐れて、旧日本軍が見晴台遺跡のある笠寺の台地の一部に埋めて隠したとの伝承があり、それを発掘して、平和遺産として展示すべく掘り出した:との記事です。
 
実は、私の住む近所にも似たような話があります。
 
私が小学校へ入学する前後(昭和24年)だったと記憶していますが、父親から聞いた話の記憶です。
 
国道19号の近くの神社に、B29が墜落して、焼けた機体から数体の焼死体が見つかったこと。又落下傘で脱出した兵隊が神社の樹の枝にひっ掛かっていたのを、みんなで引きずりおろしたら、まだ生きていたので、憎っき鬼畜米英メ・とばかり棒などで殺害して、戸板に乗せて、近所をひきずり回した事・・父を含め我が家は全員、名古屋市内から空襲で焼け出されて、守山へ移った直後に父が近所の方から聞いた話との事でしたが、”この話が、進駐軍に聞こえると、犠牲者が出るから、決してしゃべってはいかんぞ!”と父に念を押されていたので、最近まで、他人に話したことはありませんでした。
 
定年後に、近所の民話や、歴史的な遺産等に興味を持ち、いろいろ調べているうちに、偶然、この話の関連の遺物?を見つけました。
上記の話の墜落したB29が神社の中にある石の橋の欄干上に墜落した時に、ひび割れたと言い伝えられている欄干がその痕跡を残したまま残っていたのです。
 
2年程前から、何とかこの欄干を遺産として、残せないか、又、その事情等を記載した立札を立てられないか・・などあちこちに相談していますがなかなか進みません。
 
 B29の墜落の痕跡が残る欄干
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 神社の本殿の裏に置かれている欄干。(写真の下部。)
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この墜落事件?は4月7日の空襲時の出来事であることを、”空襲記録”や”当時の新聞記事(マイクロフィルム)”などから突き止めましたので、その顛末を後日掲載します。
「薄れゆく戦時中の記憶」
 
昭和17年9月6日生まれの私は、終戦時には2歳と11ケ月強でしたが、戦争中の出来事と思われるものが数シ−ン、思い出せます。
将来、自分誌を書く時の資料にもなるかも、と思い、数年前から、ブログに記載して書庫に保管してきましたが、昨年、パソコンの更新の際に誤って、ブログを消してしまいましたので、再度、記憶をたどって、その記憶が夢うつつなのか本当の記憶だったのかの検証も含めて、記載し直しの作業を始めることにしました。
記憶の中身は”赤文字”で記載し、後になってからいろんな資料を基に調べた結果を”濃紺文字”で記載する事とします。
 
まず最初は「”空襲”の記憶」です。
 
真っ暗な夜でした疎開先の母の実家である、岐阜県武儀郡美濃町前野の農家の一角。幅3尺ほどの戸口で私と、1歳年上の兄と、母方ののおばぁちゃんの3人が夕焼けのように真っ赤にやけた空を見上げています。「岐阜が焼けとる、岐阜が焼けとる!」というおばぁちゃんの叫ぶような声が聞こえます。
私は、その声におびえて、すぐ後ろの部屋へ泣きながら逃げ戻って釣ってあった”蚊帳”の中で泣いていました。
それでも、こわごわ兄とおばあちゃんのほうを見ると、二人のシルエットが赤く焼けた空を背景にくっきりと見えました。
 
この時と同じ時だったかどうかがはっきりとはしませんが”探照灯”がクルクルと動き回っていて、時々その光の輪の中に大型の飛行機がスーッと通過していくのが見えました。地上から花火のような小さな光がそれに向かって上昇していきますが、途中でフッと消えてしまいます。
大人たちの”B29”だ!という声が聞こえていました。
 
このシーンですが昨年までは、おばあちゃんが叫んでいた”岐阜がやけとる!”の声から、7月9日の岐阜空襲の事だと思い込んでいましたが、その後の調査で、岐阜の空襲は深夜から明け方にかけて行われたことがわかり、幼児が起きている時間帯ではなく、少しおかしい?と思うようになり又、位置関係も少し疑問がわいてきたので、再度調査をし直ししました。
 
まず疎開先の家の位置関係ですが、今の美濃市、当時の岐阜県武儀郡美濃町の”前野”にあり、市街地より離れ、長良川の対岸(西岸)の山地と川に挟まれた狭い平地にありました。家の向きはほぼ長良川に沿った向きで、正面の方角は”南東”を向いています。一方、空襲のあった”岐阜の市街地”は”南西”方向でほぼ家の向きと直角になり、正面にあった戸口からは方角的には直接的には見られません。(空が赤い程度はわかるかも・・)
 
今回、探照灯の中のB29の件も含めて、考えてみると、”各務ヶ原空襲”と考えた方がつじつまが合うのでは・・と思いつき調べてみました。
各務ヶ原にも数回の空襲があったようですが特に大きかった3回は下記です。
 
1・2回目:6月22日及び6月26日:両方とも時間が午前9時頃で、夜ではないので対象外。
3回目:7月12日:夜半・となっていて正確な時間はわかりませんでした。 
 
 
、”蚊帳”がつってあった事から、夏と考えられるので「7月12日の夜半」の空襲の方が理解しやすいのでは・・と思いました。
 
この件、それまで誰にも話したことはありませんでしたが、物心ついた6年生になったころ、記憶の中の”蚊帳の中で泣いていた私と、3尺ほどの戸口”が、当時聞いていた疎開時に暮らしていた部屋には見当たりませんので、不思議に思って、お盆にその田舎の家へ遊びに行ったときに母親に思い切って聞いてみましたら、”お前、よくそんなことまで覚えていたね!”と驚かれてこちらがびっくりしました。母が言うには、おじいちゃんが中央にある広い土間から入るのは入りにくいだろうから、と言って、臨時に部屋の近くの風呂場の隣に小さな戸口を作ってくれていたんだそうです。言われて、よく見ると、その位置と思われる壁には、後からふさいだ痕跡が残っていて、自分の記憶が正しかったことが確認できた・・という事もありました。
 
 
疎開先の家と各務ヶ原・岐阜・の位置関係図。
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