歴史を学べ、学ばなければ亡びる!

過去を知らなければ、未来は創造出来ない!

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2008年4月8日付け読売新聞。
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最近ようやく憲法改正の動きが具体的になってきたようである。戦後六十七年も経てようやく重い腰をあげようとしている。戦前の憲法は欽定憲法といい、変えてはいけないとする考えがつよかった。不磨の大典ともいった。ところが終戦後制定された新憲法までなぜか不磨の大典のように変えてはいけないという風潮が強かった。同じ敗戦国であるドイツなどではすでに何度も変えているというのにである。
敗戦後、日本では戦前の憲法の改定が行われたが日本側で作られた憲法は占領軍総司令部によって拒否され、マッカーサー総司令部がわずか一週間で日本の憲法を作成し、これを日本人に押しつけた。日本人は被占領国としてやむを得ずこれを受け入れたのである。これが現憲法の原点である。議論はここから出発しなければならない。
占領軍側には天皇制さえも廃止させろという意見もあったのであるが、日本人の総意にさすがに無理強いはできず、むしろ日本統治のために利用しようということで現在の、天皇象徴ということで落ち着いた。
終戦の詔勅の中に「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、万世の太平と国家の再建の為に努めるように」との御言葉があり、当時の日本人はこの言葉を胸に身を粉にして働いた。
ところが昭和二十七年、講和条約が発効し、日本が独立国になったにもかかわらず、その政治はほとんど被占領時代と変わらなかった。昭和三十年代に入ると、一時マッカーサー総司令部によって追放された共産党も復活し、日本が武力を持てないことをよいことに、左翼勢力が暴力革命さえも企てた。一部の学生やそれを指導する学者達は世界は社会主義にとって替わらるのが必然であるような幻想をいだいた。
この頃の日本はいわゆる進歩主義者か、自己中心の無責任な考えが蔓延し、植木等のスーダラ節に代表されるような世相となった。この時代に教育を受けた連中が今のこの国の指導者なのである。
大和朝時代 Ⅰ 崇神天皇から景行天皇まで
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紀元前97−30御在位。御歳52歳でした。
崇神三年九月磯城(しき)ミズカキに都をうつしました。(奈良桜井市金谷)
崇神四年勅りして
「御祖から授けられた三種神宝を、国常立尊と神璽(かんおしで)、天照神と八咫の鏡、大国御魂と八重垣の剣、とこのように身の近くに神と神器を祀っていては畏れおおく身が休まりません」
ということで、それぞれを分けて祀ることになりました。
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神璽は御印の事ですが、神宝は勾玉のことです。
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神宝の勾玉はいつも陛下の御傍にあるものですが、これは祈り、占い、カレンダーなどの様に用いたものと考えます。
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御鏡はイシコリドメ( アメノミカド の子、金属加工・鍛冶の神、天の岩戸の前にいた神)の子孫に祀らせた、レプリカ在りとのことです。
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剣はアメヒト神(アマテルの言葉に従い百日の物忌の後右目ひとつで八振りの八重垣の剣を造り奉った金錬人)の子孫にあらたに作らせ、祀った。
常に正と副があるようで、本物とレプリカ(といっても本物ですが)ニ本づつあることになります。

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