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その頃、愛国党の赤尾敏は浅草一区の教会の焼け跡にバラックを建てて住んでいた。村上浪六の小説を思い出し、赤尾さんの名刺を貰ったりして、新橋ステージで演説会のある日は参加して応援弁士として登壇させて貰ったものである。東奔西走、席の温まる暇もなかった。当時、尊皇同志会を組織して『尊皇新聞』を発行していたが、和歌山の同志に担がれて愛国青年同志会の会長になったのは昭和三十年末であった。いわば大同団結のモデルケースである。そんなわけで余り飛び歩くことは出来なくなったが、当時の鳩山内閣による日ソ交渉では、又、昔の自分に帰って和歌山を後にした。上野のアジトににて九州から上京していた治安擁立同志会の人々と訪ソ反対の活動を展開した。本気で祖国のためにもう一度命を賭けたが、徒手空拳如何ともしがたく、遂に河野一郎邸前で警官に同行されて、それからは行くところ行くところ警官の尾行つきであった。
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小説
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既に、講和会議を前にして追放されていた右翼の先輩どもは、ようやく追放も解除され、戦線復帰する者やら、左翼転向する者、又、脱落してその名の消えていく者、いろいろ人間模様はあった。 |
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そんな或る日、追放中の先輩を訪れた。身の振り方を相談しようと思って玄関に立ったら、その先輩は狼狽して、「俺はもう右翼ではない。道で会っても口を聞いてくれるな」と言う。この人は若い頃から家の軒に弓矢と鉄砲の絵を書いた看板を掲げていた。それは「矢でも鉄砲でも持って掛かって来い」という判じ物であり、和歌山では名の売れた人であった。その先輩は財布から揉みくちゃになった五百円札をだして、私にカンパだからと言ってポケットに捩じ込んだ。 |

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当時、右翼の国家主義者の殆どは追放されていて、その市民権は剥脱されていた。極東軍事裁判たる東京裁判が市ヶ谷の元陸軍省の建物の中で開廷されていた。かっての陸海軍将星や政治家・右翼大物たちは巣鴨に拘留され、戦争犯罪人として連合軍によって裁かれていた。 |
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その話を聞いたとき私の血は逆上した。その夜木刀を隠し持ったわれわれ復員兵の仲間は映画館に忍び込みアメリカ兵と見るや、卑怯だが後ろから木刀で頭を狙って打ち下した。「ギャッ」という動物的な悲鳴を聞くや、一目散に夜の闇に逃げた。 |




