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明治のことだけどね。
明治五年までは、銀座は一丁目から四丁目までしかなかった。
明治五年の大火のあと、八丁目迄出来た。
そして、防火建築として、レンガ造りの建物が並んだ。
そこに、「東京日日新聞」「読売新聞」など、大新聞、小新聞、民権派、官憲派などが入り乱れてのジャーナリズムの牙城であったそうな。
ここ四丁目には「朝野新聞」があったそうです。
大正十二年(一九二三)、関東大震災で銀座煉瓦街は瓦礫となり、復興後には代わって鉄筋コンクリートの耐震構造の商業ビルが立ち並ぶことになった。 |
ショート・ストーリー
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新橋という行政上の地名ができたのは昭和七年(一九三二年)。
それまでは新橋というのは汐留川に架かっていた橋の名であった。
「新橋」があったのは、首都高の下で、アールデコ風の旧新橋の親柱がたっている。
銀座八丁目と新橋一丁目の境にある。 |
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日本橋にあった魚河岸が焼けて、築地に移ったのは関東大震災後なんだよ。
築地本願寺は京都の浄土真宗西本願寺の別院で、最初は浅草にあったが、明暦の大火(一六五七年)後、現在地へ移った。海だったところを佃島の真宗門徒がうめたててこの地を造成したことから「築地」という。
佃島の漁民はもと摂州(大阪)西成の佃村にいた。大阪夏の陣で徳川家康に協力したので、恩義に感じた家康が江戸へ連れて来て、江戸前の海で魚捕りの特許を与えた。佃には川や海の死者を悼む盆踊りなど、独特の風習や言葉がのこり、築地の市場で仕事をする人が多い。
築地と佃は密接に関係があるね。 |
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”すべて野中なれば草のみ生いしげりし所ゆえ、浅草浅茅などひいて、みな草にもとずきたる地名也。と『求涼雑記』に出ている。
もともと武蔵野、坂東といえば、草深いところ、と云う事になっていたようだ。
墨田の河口に近い、浅草だけど、東京スカイツリーが出来て、東武ビルが新しくなって、屋上から東京スカイツリーがよく見える、新名所だね。
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東京の旅、スタートは浅草だよね。
江戸が東京になって、一世紀半。
変わっても当然だよな。
しかし、浅草から江戸情緒が無くなったら、浅草ではなくなる。
浅草の地名について『江戸砂子』には、”往古武蔵野よりつづきて草深き原なりしが・・・・・民家所々にあり、おのづから草も浅き故”とあるんだ。
「そのまんま、浅草なんだね」。
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