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松の会

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第八代孝元天皇

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天鈴五百四年一月十四日、若宮は即位してヤマトクニクル天つ君となりました。十二の局もそなわりました。
四年の三月、新しい都をつくり、カルサカイバラ宮としました。
五年六月、内侍ウツシコ姫が皇子ヤマトアエクニヲヲヒコを生みました。
六年九月六日、先帝の遺骸(おもむろ)を馬坂陵に納めました。
七年二月二日にはウツシコ姫が中宮となりました。十二月一日の日の出に后が皇子を生み、フトヒヒ・ワカヤマトネコヒコと名付けました。
九年の夏には、四十日も雨が降り続き、山背の田や淡海もあふれ、田にはみもち病が発生しましたが、大臣のヲミケヌシは勅使を送って祈らせ、風生(かぜう)の祭りや排草(おしくさ)の守りをおこなうことによって、稲もよみがえり、あつく実って糧も増えました。このあと毎年、風生の祭りを行いなした。
十一年、大和川の生け簀に御幸されたとき、接待にでたヘソキネの娘イカシコ姫を内侍(うちめ)に召しました。この十四歳です。十三年初の三日にイカシコ姫が皇子を生みました。名はヲシマコト・ヒコフトです。
二十二年一月十二日、フトヒヒ・ワカヤトネコヒコ世嗣皇子としました。この後、キウツの妹ヤマトカゲ姫を娶って産んだ子がタケウチ(後の武内宿弥)です。
五十七年九月二日、天皇が亡くなられました。百十七歳でした。六年の後、九月二十四日に遺骸をツルギシマに納めました。仕えていた女たちもおいまかりました。

第七代孝霊天皇

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天鈴四百二十八年初月十二日、即位してヤマトフトニの天つ君ネコヒコ、前年の十二月四日に黒田のイホド宮に都を遷して今年が初暦。二年の二月十一日に、磯城のヲヲメの娘、ホソ姫を后と立てました。その他の局もそなえました。内侍(うちめ)のヤマトクニカ姫と三つ子を生みました名はヤマトモモソ姫、ヤマトイサセリヒコ、ヤマトワカヤ姫です。母の名もヤマトオオミヤ姫と改めさせました。十三年十二月一日、その妹ハエ姫も内侍として三つ子を生みました。エワカタケヒコ、ナカヒコサシマ、トワカタケヒコの三皇子です。この母にもワカオオミヤ姫の名をたまわりました。
十八年春一月の望(もち)に后ホソ姫が皇子を生み、その名をヤマトネコヒコ・モトギネとしました。
二十五年春、初月十一日例年のおうり、県主を召して、皆に賜物をくいだし、勅をしました。
「もし三つ子を生んだものがあったら朝廷にとどけさない。下民でも賜物をさずけるぞ。天の皇孫の木花開耶姫が三つ子を生んでからそのあと、三つ子を生んだという話はきいていない。今ここに三つ子を生んだが、ほのかに聞くと、三つ子を生むと間引くといって殺すという。そのようなことをしたならば、これからは罪人である。自分のこであろうと、子は天の種である。鹿犬千匹より人一人の方が大切である。これはタケミナカタの教えである」といって、勅を出しました。

註、タケミナカタ・建御名方命。

第六代考安天皇

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天鈴三百二十六年正月七日、タリヒコクニの天つ君、諱ヲシヒトが位につきました。このとき12人の妃がおりました。二年の冬、ムロアキツシマに新しい都を造りました。
二十六年春二月十四日、兄の春日親王のヲシ姫を中宮としましたが、姫はこの年13歳でした。三十三年後、八月十四日、前天皇の遺骸(おもむろ)をハカタの祠(御所市)に納めました。臣や侍女らの亡骸も一緒に納めました。まだ生きていた三人も追いまりました。註殉死の風習です。
五十一年九月初日、妃がヲヲヤマトフトニ皇子、諱ネコヒコを生みました。七十六年春一月五日、ネコヒコを日嗣皇子としました。歳二十六でした。
御代百二年一月九日、天皇が亡くなりました。百三十七歳でした。
皇太子は四十八夜の喪をすまして、若宮に出て政事をとりました。九月三日、遺骸をタマデに送りました。五人が追いまかったので一緒に納めました。アキツ神と称えました。

第五代考昭天皇

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天鈴(あすず)二百四十三年ツミエの春、一月九日キシエの日天の日嗣を受け継いで、ミルヒト・カエシネ天皇(すべらぎ)は即位しました。
葛城腋上のイケココロ宮に、都を遷した時、君は三十一歳でした。若宮の時は、境岡にいて妃たちもおりましたが、二十九年キシエの正月三日、新たにヨソタリ姫を立てて妃としました。歳は十五でした。ヨソタリ姫は昔、弥彦神に神武天皇がたまわったユリ姫が生んだアメイダキの子アメオシヲの孫娘でした。
四十五年五月十五日に妃が、ヲジギネ・アメタラシコクニ皇子を生みました。四十九年キミエの初日に二番目の皇子、ヲシヒト・ヤマトタリヒコクニを生みました。この時、朝日が輝きわたりました。二十歳でした。翌日、兄のヲシキネを親王とし、春日の名を賜りました。
八十三年秋八月五日、天皇は身罷りました。百十三歳でした。皇子は三十五歳でしたが、臣、后もみな遺体に仕えて祀りながら民を治めました。兄親王も皇太子(すめみこ)の行為をみとめ、ともに忠実につとめ、君は年毎八月五日には八夜の喪まつりを行いました。

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天鈴(あすず)二百八年サミトの二月四日ネアエ、若宮三十六歳で天津日嗣を受け継いで、ヲヲヤマトヒコスキトモの天皇(あめすべらぎ)と称えられました。暦をあらためてマガリヲ元年としました。
翌年一月五日カルマガリヲ(軽曲峡・奈良橿原市大軽町)に都を遷し、二月十一日アメトヨツ姫を中つ宮に立てました。
五年三月七日、住江に御幸して海松(みる)を見に行ったとき、中宮が皇子を生みましたので、諱、ミルヒト・カエシネの名を付けました。中宮の父、イキシ皇子は先帝の弟で、天皇にとっては叔父ですが、この時、親王(おきみ)としました。
二十二年二月十二日、カエシネ皇子が日嗣皇子となりました。十八歳でした。
三十四年九月八日、帝は亡くなりました。若宮は一年の間、喪に服して、帝が生きているように食事をそなえ仕えました。翌年冬、畝傍のマチゴ谷に送りました。在世七十年でした。


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