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松の会

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第三代安寧天皇

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前のカネナカワ天皇の臣たちは亡き天皇の祀りにしたがい、つぎの天皇となるシギヒト・タマテ皇子には新しい臣が仕えました。
天鈴百七十年ネアト七月三日、皇子シギヒトの歳は三十三で、天の日嗣を受けつぎ、タマテミ天の皇君となりました。
昔、后のミスズヨリ姫とカワマタ姫を連れて、菊の花見をしょうと磯城(しぎ)クロハヤの館に御幸されたとき、ミスジヨリ姫が急に産気づいて三日病み、タマデヒコを産みました。この時、夫婦の男女がおとずれお産の手助けをいたしました。そして磯城の館が朝日に照り輝いたので、タマデの御名を奉りました。名をきくと男は子守り神、女は勝手神の曾孫ということわかって若宮の守りの臣としました。子守り神と勝手神を吉野に祀りました。
十月十日、カヌナカワ天皇の亡骸をツキタ丘に葬りました。
キムエの年十二月、カタシホのウキアナ宮に都を遷し、ヌナソ姫を立てて中宮(うちみや)とし、そのほかの局も備えました。
四年ツヤエの四月十五日、中宮ヌナソ姫が皇子を生みました。諱ヨシヒト・ヲヲヤマトヒコキトモと名づけました。ついで六年オシエの一月十五日、中宮が二番目の子を生みました。諱トギヒコ・クシトモセといいました。他の妃にイロキネ・ハチギネの二人の皇子がおりました。
十一年正月三日、ヨシヒトは八歳でしたが、世嗣皇子としました。
三十八年サミエの十二月六日、天皇が身罷りました。若宮は四十八日の喪にはいって後、イサ川で禊をして清めてから宮にでました。政事をおこなう臣とウキアナの神に仕える臣をわけて、秋に骸をミホドに葬りました。帝の歳は七十でした。

写真は方塩・浮穴宮と御陰井上陵。

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二年春にはアタツクシネの妹ミスズヨリ姫を正后としました。またその他の局もととのいました。
八月一日に勅りして。
「私は昔、このように聞いている。ヲヲナムチがことをなすのは三諸神による。まず事を成就させる幸御魂、業をなすはワニヒコの業魂。ワニヒコは三度巡って事を成したのでヲヲムナチを嗣ぐものとした。だからクシヒコ・フキネ(大己貴命)・ワニヒコ、(注、このヲヲムナチはソサノオの子ではなく、五代大物主フキネを言う、葺根命)までを三輪の神として世々天皇の守りとする。」といって、九月十一日アタツクシネに大三輪の姓を賜りました。
四年サヤエ四月、イホ皇子が亡くなりました。
翌年九月十五日、后が皇子を生みました。諱はシギヒト・タマデ皇子。六年ネシエの冬エトヲリ姫がイキシ皇子を生みました。
二十五年サアトの正月三日、シキヒトを世嗣皇子に立てました。年二十一歳でした。十一月十四日、アメタネコが亡くなりました。百八十七歳で、亡骸は三笠山に納めて春日の殿に一緒に祀り、その子ウサマロには三笠臣の名を賜りました。
三十六年五月十日、天皇が身罷りました。八十四歳でした。若宮はその夜から四十八夜の喪に服しました。

第二代スイゼイ天皇

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世嗣皇子のカヌナカワミミは神武天皇が亡くなられたので、アメタネコと左右の臣のウサマロとクシネとともに天皇の葬儀のことで相談をしていました。タギシ皇子だけが政事を執ろうとしていました。
タギシ皇子は二人の弟を殺害しようとひそかに考えて、サユ川で百合の花見の宴をしょうと弟達を招待しました。カネカワとカンヤイの母イスズ姫は歌の札につぎのように書いて若宮に直してほしいといって見せました。

サユ川ゆ 雲立ちわたり 畝傍山 木の葉さたぎぬ 風吹かんとす

畝傍山 昼は雲と居 夕されば 風吹かんとす 木の葉さやぎる

この歌は兄のタギシ皇子が、若宮とカンヤイを殺そうとしていることを暗示したものです。この歌を見てカヌナカワミミは考えました。
「昔、タギシミミは父の妃に横恋慕したが、親子の情けで父帝はこれをゆるして一緒に住んでいました。これをいいことに今政事をやろうとしている。わたしたちを招くのも我等を殺そうとする謀だろう」と兄のカンヤイに靫を背負わせ、ヌチカワはタギシミミが昼寝をしていた片岡室の前までやってきました。
皇太子(すめみこ)はカンヤイに
「兄弟が互いにきりしあうことには、中にはいってくれる人もいない。私が先に入るからあなたが矢を射てください」といって戸をつき開けて入ると、兄は怒って刀を持ち斬ろうとしました。カンヤイの皇子は手足がふるえて弓を射ることができないでいるのを見て、皇太子は弓矢を引き取って一矢を胸に、二の矢を背中に当てて兄を殺してしまいました。
亡骸はこの地に埋葬しましたが。カンヤイミミはこのことを恥じて、十市(といち)に住み、名もイホの臣ミシリヒコと変えて、神の道にしたがって日をおくり、兄の祀りもねんごろに行いました。
新しい都を葛城(かだき)に建てて宮を遷し、天鈴百三十四年ソアエの春初日サナエのお祝いをし、二十一日サヤエに、ヤスキネは五十二歳で天皇の位に即きカヌワカワミミの天君となりました。この高丘宮で即位の礼をおこない、神代の例にしたがって御飾りを民に拝ませました。

神武天皇の崩御

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四十二年の一月三日、末子のカヌナカワミミの尊を世嗣皇子としました。
七十六年正月十五日、天皇は勅し、
「私はもう年も老いた。政事は中臣と大物主にまかせるから、みなで若宮をたててやってもらいたい」とのべて内に入り、神となりました。
九月十二日ツミエの日、亡骸をカシヲ(奈良県吉野郡吉野町の旧地名)に送って葬りました。妃(きさき)吾平津姫(あひらつひめ)とクシミカタマ・ワニヒコは亡骸に仕えて、一緒に洞に入り神になりました。翌日そのことを聞いた供人三十三人があとを追って罷りました。人々はこのことを褒め称えました。

これが日本における殉死の始まりです。後に埴輪に変わります。
写真は大蔵神社、神武天皇遥拝所、巨石のほこらなど。

弥彦神社

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八年オヤエの秋、勅使として国々を巡り見てきたタカクラシタがようやく戻ってきて報告しました。
「私こと、勅命をうけて、外国(四国)、筑紫、山陰(やまかげ)をめぐり、越後(こしうしろ)の弥彦山の辺りには賊がたむろしていたので、矛を用いて征伐いたしました」
と国の絵地図を天皇に捧げました。天皇はよろこび、タカクラシタを紀の国造(くにつこ)の大連(おおむらじ)としました。
しかし、二十年サミトの年に、ふたたび越後が背いたので、タカクラシタを遣わすと、戦わずしてこれを従えましたので、その国守(くにもり)として弥彦神の名を与えました。


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