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吉留邦治( kuniharu yoshitome)絵画ブログ
管理人作 「プロヴァンスの鷲の巣村 F120 (部分) 油彩

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 当書庫「佐伯祐三特集」の公開記事について昨今何名かの訪問者があった。
 その中の一部記事において、佐伯祐三真贋事件に係る「真作派」の当事者である落合莞爾氏の『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実』(平成九年・時事通信社刊)の内容について、一部これの是認を前提としたかのごとき誤解を与える記述があった。
 その後の調査で、当該著作の内容は全く証拠を伴わない創作されたものであり、当該作品38点も総て贋作であるとの認識を得た。今般改めて件の訪問者も有り、当該事件に係る筆者の最終的な見解を述べる要を認め、事実経過を総て語る以下の文を援用した次第である。  (2015.8.6)

出典・筆者共著「佐伯祐三哀愁の巴里」(早稲田出版2013年刊 )六、贋作事件より
1.経緯
 まず、事件の概要は以下である。
 一九九四年、岩手県遠野市在住の吉薗明子が福井県武生市に「佐伯作品三八点」と関連資料の寄贈を表明、これらの作品について、武生市は美術館建設を前提に、専門家を集めた選定委員会を作って調査した。
 委員会のメンバーは、美術評論家の河北倫明(座長)、京都国立近代美術館長・富山秀男、横浜美術館長・陰里鉄郎、東京国立文化財研究所美術部第二研究室長・三輪英夫、慶応大学名誉教授・西川新次の五人であり、委員会は三八点のうち五点を調べ、「佐伯の真作」と判定した。
 ところが、時を経ずして、東京美術倶楽部社長の三谷敬三と同倶楽部鑑定委員で日動画廊社長の長谷川徳七らが、別途行った鑑定の結果をもとに、当該作品群はすべて贋作と表明、事件は、学術評論畑、修復機関、美術市場、ジャーナリズムなど我が国の美術界全体を巻き込み、裁判も絡む大騒動へ発展した。
 とりわけ座長の河北は、美術界全体に大きな実績と影響力をもった人物であり、これが「真作」の立場をとったので一層の混乱をきたしたと言える。その河北も一九九五年に死去、事件は結果的に武生市の作品返還、美術館撤回となり、件の吉薗が「なんでも鑑定団」の中島誠之助に起こした名誉棄損裁判でも当該作品群は「贋作」と判定されるなど、吉薗・真作派の敗北の形で終わった。
 
 この過程で登場してきたのが落合莞爾氏である。氏は『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実』(平成九年・時事通信社)という本を著し、吉薗明子の代理人的立場で当該作品と関連する「吉薗資料」について、「真正」の論陣を張った。
 そもそも件の吉薗明子が何故「佐伯作品」を所持していたかというと、その父・吉薗周蔵なる人物が何某かのルートで入手したということであり、落合氏は佐伯以前にその周蔵に人間的関心をもったらしい。それほど人間的魅力にあふれ、それなりに活躍した人物ということなのだろうが、筆者は落合氏の著作以外で「吉薗周蔵」の名を目にしたことがない。
 もう一つ仔細は後述するが、落合氏の件の著作等には一貫した特徴が見られる。それは、大きな話題を呼んだ「佐伯作品は米子の加筆によるもの」、あるいは「佐伯は草(スパイ)」「佐伯はリンチされた、ヒ素で殺された」「彌智子は佐伯の兄の子」等々、一見荒唐無稽な、センセーショナルな言辞で人をひきつけ、それを実在の人物、第三者的に証明困難な事項、具体的史実や名称で繋げ、その説にリアリティーをもたせるというレトリックである。
 例えばその著作には、政財界、宗教界、軍人、文化芸術方面等、当代一流のエスタブリッシュメントが、周蔵や佐伯に何某かの関係あるものとして登場する。冷静に考えれば、特別偉くも影響力もない一人の人間に、あるいは当時、海のものとも山のものとも知れない一介の絵描き風情に、そういう人物が関係するわけがないと思うが、落合氏の言辞に引き込まれれば、もっともらしく聞こえるのである。
 ともかく、本邦の常識的価値に立てば、「社会的信頼に足る」落合氏の経歴と、「微に入り細にわたった」その具体的論述は、贋作派に抗するものとして、今日なおその真贋論争の主役となっている。
 そうした論争の経緯の中で、真作派に有利な材料もなかったわけではない。例えば、キャンバスにテトロンが含まれていたという贋作派の主張は、その事実なしとの結果が出たとされた。しかしそれは、その事実が否定されたということであり、件の佐伯作品が真作であるということが証明されたわけではない。
 また、落合氏が仔細に意味づけした諸々について、これは落合氏自身も予測しなかったのではないかと思われるが、武生市委託を受けての小林頼子特別研究員(注)の膨大な調査結果によって個別に否定されている。
(注)小林頼子氏。現在は目白大学教授。専門は美術史。本邦のフェルメール研究の第一人者である。
 
 念のため、落合氏自身の言葉を添える。
《洋画の天才佐伯祐三の事績については、『周蔵の手記』『救命院日誌』のほか多くの資料が吉薗家に残されていた。いずれも極めて信憑性の高い一級資料である。私(落合)は平成八年三月以来、月刊雑誌「ニューリーダー」に連載中の「陸軍特務吉薗周蔵の手記」のなかでそれらを解読してきたが、佐伯の画業そのものには触れなかった。それは美術専門家の出現を待っていたからであるが、すでに四年に垂んとするのに、誰も名乗りをあげなかった。佐伯の画業に関する真相の究明をこれ以上放置することは、読者の期待を裏切るほか、社会の損失を招くものであるから、自らの浅学を知る身とはいえ、敢えて吉薗資料を整理して佐伯の画業を追求し、いわゆる公開作品と吉薗佐伯との関係を明確にしようと思う。》
(落合莞爾「天才佐伯祐三の真相」サイト内「序論 佐伯祐三の画業」)
 
 前述したように、事件は自治体や美術界全体を巻き込んで、それぞれの体質がいみじくも白日の下に晒されたという意味で、内容の真偽より、そうした事件そのものへの意義を改めて感じさせられるものであった。
 結論から言えば、当該佐伯作品は「限りなく黒に近い灰色」として件の美術館構想は撤回され、関係者の過誤や不明が浮き彫りになった形で終わった。
 しかし、この事件は諸々の美術展を主催する公立美術館の長、公募展の審査員となるなど権威と実績ある評論家、美術品の信頼性に係る修復関係者、現下の美術市場を構成する画商などを巻き込んだものであり、マスコミの報道のあり方を含め、その社会的責任や影響力を考えると将来に向かっての本邦美術界に看過できない重大な問題を残したものである。
 件の落合氏の本は、本邦において有力な報道機関である時事通信社から出版された。真実報道という使命と、求められる社会的信頼性に鑑み、同社にとってもけじめをつけるべき問題であろう。
 とりわけ、件の落合氏のものを含めもろもろの出版物により、佐伯本人の芸術家的人格や名誉に係ること、妻・米子の人格、名誉に係ることに言及があり、佐伯の縁者に関する事後の配慮等を含め、一切が曖昧なままで終わるという「言い放し得」は許されないことであり、それへのけじめはつけておかなければなるまい。
 本書においては、そういう立場になって一言を記すものである。
 
 事件のポイントは幾つかあるが、それらの信憑性は一にかかって「吉薗明子」という存在に集約される。すべては彼女から出ていることであり、その存在如何により他の仔細は真実かまったくの作り事か、即ちその後の仔細を論ずることの意味・無意味が決するといってよい。
 武生市には作品三十八点の他、「吉薗資料」と言われる数多の関連文書が提出された。その内容は日記、メモ、手紙類、水彩画やデッサン、佐伯米子(祐三夫人)、千代子(祐三の兄・祐正の妻)の手紙類等数多あるが、他にこれらの補足資料としての吉薗周蔵の手による「周蔵日誌」や吉薗明子編著による『自由と画布』は、真贋を判定する上での足がかりとなる客観的事項が含まれているため、重要なものとして調査された。
 まず、これら資料を見て感ずることは、もしこれがまったく何もないところから創作されたものだとしたら、その「シナリオ」を書いた者は「天才的創作家」と言ってよいほど、微に入り細にわたり、如何にももっともらしく、読んだ者の十人が十人皆信じるであろう説得力を持たせるものであり、事実多くの地位も名誉もあるような学研畑・評論畑の何人かはこれを信じ、当該作品の真性を語ったのである。
 即ち、これらがまったく創作されたものだとしたら、一体誰が何の目的でこのような手の込んだものを作るのか、相当な見返りでもない限り、わざわざこんな大掛かりなものを創るはずがない、もしかしたらホンモノではとも思わせるような内容である。
 一方、その辺を逆の見方で解釈すれば、佐伯贋作を公共施設・地方自治体へ、権威ある学研畑のお歴々のお墨付きで寄贈できれば、それ自体も何某かの利益になるが(武生市はその予算を当初用意していた)、他の所有する「贋作」を真作として億単位でさばける、現に出来が悪いと評価されているような作品だけでは弱いので裏づけとなる膨大な資料を併せて出す、だから労を惜しまず、相当用意周到で手の込んだものとなる、独りではできない作業かもしれない、ということになる。
 いずれにしろ、いかに複雑、膨大な資料であっても、この種のものは「一を知って十を知る」ということが可能なのである。つまり、仮にその核心において明確な破綻や虚偽があったとしたら、その後のことはウソの上にもっともらしく糊塗されたものに過ぎず、改めてその糊塗の真偽を追いかける必要はないからである。
 
 まず佐伯祐三の親族の発言から述べる。
《私は、佐伯祐三のたった一人の兄祐正(光徳寺をつぎました)の長女として、昭和三年十月十五日に生まれ、光徳寺の光を取り佐伯光子と名付けられ、今は結婚して多田光子となっております。…なぜ死後六十六年もたってから、百八十点もの絵や日記や手紙等、名前も聞いたこともない人のところから出て来たか不思議でなりません。山発(後記・山本發次郎のこと)さんの事は父は好く云っていたいたのに、それより多くの絵を買ったと云われる吉薗さんとかの話は全然聞いた事がないのは何としても不思議です。
 また、叔父(佐伯祐三のこと)はずぼらでのんきな人でしたから、こまめに日記を書くとか、手紙を沢山書いた等、全くうそとしか思えません。恐らく、上手く仕組まれた贋作としか思えません。…》
(馬田昌保『二人の佐伯祐三』平成八年)
 
 前記手紙文は、多田光子氏が事件の一方の当事者である武生市長に宛てたもので、同氏の許可を得て馬田氏がその著書において公表した重要な証言である。この手紙の経緯については仔細後述する、次に佐伯祐三夫人米子の甥(米子の生家池田家長女で米子の姉よしの長男)に当たる池田泰治郎氏の同じく武生市長に宛てた手紙の一説である。
《…現存する米子の妹愛子にも問い合わせたところ吉薗様という名前すら聞いた事も無いと申しております…》
(馬田昌保『二人の佐伯祐三』平成八年)
 
 つまりここでは、佐伯関係親族の誰もが「吉薗」という名前を聞いたことがない、一切知らないと言っているということを確認しておきたい。
 中学の友人の阪本勝の『佐伯祐三』を筆頭として、佐伯関係の評伝はたくさん出ている。それら評伝すべてに吉薗の「ヨの字」も出てこない。佐伯と吉薗周蔵の関係が、吉薗明子、落合莞爾両氏の言うような密接なレベルにあるとするなら、これは誠に不自然なことである。
 問題の発端となった吉薗明子から武生市へ寄贈されそうになった「佐伯作品」はその吉薗周蔵所有のものである。したがって、問題となるのはこの吉薗周蔵の佐伯作品所有に至る事実関係についてである。
 佐伯作品の最大のコレクターは山本發次郎である。彼は正真正銘の一五〇余点とも言われる佐伯作品を所蔵、うち戦災を免がれた四〇余点は、その後の佐伯芸術の展示の礎となった。
 自身「佐伯の滞欧作総ての蒐集を遂げることができた」と述べていた。この多くの元となったのは米子夫人が持ち帰った作品とそれを分配した兄・佐伯祐正の所有作品である。
 一方、佐伯一家が第二次渡仏の際、下落合のアトリエは画家・鈴木誠が留守を預かる形で使用していたので、佐伯死後の他の滞欧作は、以下のごとく知人の美術評論家外山卯三郎のところへ送られた。
《…1928年の暮れになって、彼の再度の滞仏作が、日本に送り返されてきた。その荷物は全部私の家で預かり、整理した関係上、この時の作品の全部を見ている…》
(外山卯三郎「佐伯祐三氏の藝術」『美之國』昭和十年十一月号・美之國社)
 即ち、佐伯滞欧作について、互いの往来はあるものの、そのルートが明確となって語られ展示されているのは、米子、祐正、山本發次郎、外山卯三郎の四者であり、「吉薗ルート」の百数点などというのは忽然と降って湧いて来たような印象がある。
 ところが、件の武生市寄贈問題に係る「研修会」で吉薗明子側から一点の資料が明示された。それは、吉薗周蔵宛の佐伯米子からの「作品借用書」で、遺作展を行うので一〇一点の周蔵所有の佐伯作品を借用したいとの申し出である。もしこれが正当な借用書だとすると、それは佐伯の妻・米子による「吉薗ルート」の正当性を語るものとなり、贋作への疑義すべてが排除されることとなる。
 やがて、この「借用書」の鑑定を含み、吉薗コレクションの「佐伯作品」、資料等に関する要望書が出される。それは、東大名誉教授で佐伯作品のコレクター脇村義太郎、二科会理事・山尾薫明(注)、美術評論家・朝日晃の三氏による、一切についての科学的検証の要請である。
(注)山尾薫明は、佐伯祐三作品最大のコレクターである山本發次郎の蒐集顧問で、戦時には同コレクションの疎開に努め、佐伯作品のリストを作成した。
 
 前述の佐伯の親族である多田光子氏が武生市長に宛てた書簡とは、三氏による前記要請が出た時期とほぼ同じ時期、即ち平成七年二月下旬に以下の要望書と供に出されたものである。
*佐伯祐三が東京で吉薗と言う人に経済的援助を受け、また精神カウンセラーとして診察を受けていたとは、父からも米子さんからも全く聞いておりません。祐三は健康であり、経済的にも父から送金しておりましたので困っておりません。誰からも援助等受けていません。
*パリから吉薗氏に絵を送ったなどの事は父、母、米子さんにも一切聞いておりません。
*佐伯米子が吉薗氏に絵画一〇一点を借りたとする借用書の筆跡鑑定を是非お願いします。
*佐伯祐三の絵画につきましては絵画鑑定、又、日記、手紙等につきましては筆跡鑑定を公共の機関で科学的に検査して下さい。何卒、速く検査結果を御報告下さいますよう御願いします。
 
 ここまでのことで、以下の三点を確認しておく。
◎吉薗明子サイドの文献を除き「吉薗周蔵」の名前は一切出てきていないということ
◎佐伯作品の搬送先ルートに「吉薗ルート」の記録はないということ
◎それに加え、佐伯作品の多くの修復を手懸けた「創形美術学校修復研究所」の歌田真介氏が、持ち込まれた佐伯作品のすべてに関し贋作と判断し、修復を断ったという事実があるということ
 とりわけ最後の点については決定的なことと思われるが、以下論を進める。
 
 武生市は平成八年一月付けで《吉薗氏由来の「佐伯作品・資料」に関する調査報告》というものを公にし、作品を真作とは認めがたい、資料は疑わしいとの旨により「佐伯美術館」創設に至る当初の企画すべての白紙撤回を表明した。この根拠は小林頼子特別研究員の仔細な調査報告におけるものである。
 その小林頼子氏の報告に一貫している趣旨は「事実が確認できない」「事実の不存在」「事実の矛盾、や齟齬」など、要するにわからないことだらけということである。これは勿論、小林氏の調査が不充分であったということではなく、「吉薗資料」にはそういうものが多く、それ故その信憑性が疑われるという明確な結論に繋がるものであり、その意味ではそれに尽き、それ以上のものは望めない充分に信頼に足るものであると言える。
 例は場違いだが、過日アメリカは「大量破壊兵器が《存在していないこと》を証明せよ」をイラク介入の大義名分としたが、これは誠に無理な話で、存在していない故に「存在していないもの」を「この通り存在していない」と証明することはできない。そうではなく、何かを主張するならば、まずその存在を自ら主張しなければ、架空のものは無制限に主張できることになる。これが「立証責任」のイロハであろう。
 吉薗資料とは正にその意味で「架空の事実」の宝庫と言ってよい。まず「主人公」吉薗周蔵のすべてが確認できない。彼は「医師」として精神カウンセリング施設である「救命院」を作ったというが、まずその医師であることが確認できない。次にその救命院とは落合氏によれば現住所で「中野区中央一丁目十一番地」にあったという。
 ところが、その場所はその後の神田川の改修工事によりなくなった、つまりその場所は現在、川が流れている所ということらしい。地図を見ると、確かにその通りである。しかし普通、公共工事に伴い建造物が撤去される場合は、代替地の提供等か何某かの保証がされるはずである。その代替地は確認されるだろう。それとも公共工事と供に都合よく消えてなくなったのだろうか? つまり、「救命院日誌」(後出、佐伯と周蔵の「交流」記録)以前に、その医師資格、救命院自体の物理的存在も怪しい。
 この他に、単純にその固有名詞についてだけでもおかしなものがある。例えば、吉薗周蔵が出たとされる「帝国医学専門学校」というのは実在しない。「日本医学専門学校」は存在した。長男の緑が出たとされる「海軍航空兵学校」というのも実在しない。「海軍兵学校」・「海軍飛行予科練習生」(予科連)は実在する。「全国裁判長選任鑑定人」などは噴飯ものである。つまりどこか似ているのであるが、それ自体ではないという名称が多く出てくるのである。
 件の小林報告は仔細な追跡調査上、そうした、確認不可、架空の名称についての不自然を指摘しているのであるが、ここでなお、その後のことを含み補足しておきたい。
 吉薗明子編著たるところの『自由と画布』という小冊子がある。これは「医者」吉薗周蔵と「患者」佐伯祐三の交流の記録を中心に、諸々の「いわく因縁」を挿入させたものだが、医者が特定の患者のみに日記風の記録を残しておくというのも妙な話で、カルテで充分なようなことまで書いてある。しかし、落合氏によれば、佐伯は周蔵の「草」(スパイ)らしいので、そうならそれでよいが。
≫(つづく)

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