尖閣諸島公式情報 日中関係(尖閣諸島をめぐる情勢)(各国語あり) 外務省HP
論文 「尖閣諸島をめぐる問題と日中関係―日本の領土編入から今日までの経緯と今後の課題―」 中内康夫 『立法と調査』(参議院事務局企画調整室) 2012.11 No.334
「尖閣諸島の領有をめぐる論点―日中両国の見解を中心に」
濱川今日子『調査と情報 -Issue Brief-』(国立国会図書館調査及び立法考査局)2007.02.28 No.565 「海洋境界画定と領土紛争」 坂元茂樹『国際問題』(日本国際問題研究所)2007.10 No.565
「外務省記録文書に見る『感謝状』のいきさつ」 島袋綾野 『石垣市立八重山博物館紀要』第22号、2013年、63-76頁
中国及び台湾の領有権の主張に対しては、「従来、中国政府及び台湾当局が
いわゆる歴史的、地理的乃至地質的根拠等として挙げている諸点は、いずれも尖閣諸島に 対する中国の領有権の主張を裏付けるに足る国際法上有効な論拠とは言えない」としてい る。 具体的には、
①日本は1885 年以降沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現
地調査を行い、尖閣諸島が単に無人島であるだけでなく、清国を含むどの国の支配も及ん でいないことを慎重に確認した上で、1895 年に沖縄県編入を行ったものである。1970 年以 降になって、中国又は台湾は、尖閣諸島は元々中国の領土であったとして種々議論してい るが、これらは、いずれも当時中国が尖閣諸島を国際法上有効に領有していたことを立証 し得るものではない21、 ②日本が尖閣諸島を領土に編入したのは1895 年1月の閣議におい
てであり、日本が台湾及びその付属島嶼を譲り受けたのは1895 年4月に調印された日清講 和条約(下関条約)によるものである。よって、尖閣諸島の日本領有は日清戦争の講和の 結果とは関係ない、 ③1895 年の沖縄県編入以来、尖閣諸島は南西諸島の一部を構成するも
のであり、台湾及びその付属島嶼には含まれない。したがって尖閣諸島は、サンフランシ スコ平和条約第2条(b)22に基づき日本が放棄した領土には含まれず、同条約第3条23に基 づいて、南西諸島の一部として米国の施政下に置かれ、沖縄返還協定によって日本に施政 権が返還された地域に含まれている24、 ④中国又は台湾が従来尖閣諸島を中国の領土と考
えていなかったことは、戦後、サンフランシスコ平和条約に基づき米国の施政下に置かれ た地域に尖閣諸島が含まれていた事実に対し、何ら異議を唱えなかったことからも明らか であり、中国も台湾も1970 年後半に東シナ海の石油開発の動きが表面化するに及び初めて 尖閣諸島の領有権を問題とするに至った、との趣旨の反論・主張がなされている。 さらに日本政府は、中国及び台湾が以前は尖閣諸島を日本領と認めていたことの証拠と
して、 ①1920 年5月に当時の中華民国駐長崎領事から福建省の漁民が尖閣諸島に遭難した
件について発出された感謝状においては、「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島」との記載が 見られること、
②1953 年1月8日の人民日報記事「琉球諸島における人々の米国占領反対
の戦い」においては、琉球諸島は尖閣諸島を含む7組の島嶼からなる旨の記載があること、 ③1960 年に中国で発行された中国世界地図集では、尖閣諸島が沖縄に属するものとして扱
われていることなどを指摘している。 20 日本政府の基本的見解は、外務省ホームページに掲載されている「尖閣諸島の領有権についての基本見解」
〈http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/index.html〉及び「尖閣諸島に関するQ&A」 〈http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/qa_1010.html〉で確認できる。 21 歴史的に尖閣諸島が中国の領土であり、台湾の付属島嶼であったとの中国・台湾側の主張に対しては、日本 の研究者などからも様々な反論が示されている。日本への領土編入以前の問題も含め、尖閣諸島の領有権に 関する日中両国の見解を比較し、検討を加えた論文として、濱川今日子「尖閣諸島の領有をめぐる論点−日 中両国の見解を中心に−」『調査と情報−ISSUE BRIEF−』565 号(2007.2.28)がある。 22 「日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」と規定している。 23 「日本国は、北緯29 度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)、孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する」と規定している。 24 米国の施政下に置かれていた当時の尖閣諸島の法的地位について、日本政府は、「尖閣諸島を含む沖縄の施政権が日本に返還されるまでは、日本が尖閣諸島に対して直接支配を及ぼすことはできなかったが、尖閣諸島が日本の領土であって、サンフランシスコ平和条約によって米国が施政権の行使を認められていたことを除いては、いかなる第三国もこれに対して権利を有しないという同諸島の法的地位は、琉球列島米国民政府及 び琉球政府による有効な支配を通じて確保されていた」としている。 主張 「The Senkakus:The true nature of the issue」 野上義二『The Boston Globe(Web版)』2013.2.19
「尖閣諸島をめぐる問題に関する緊急提言」 日本国際問題研究所 『提言』2012.9.24
「中国が尖閣諸島にこだわる理由」 小谷哲男『WEDGE Infinity』(ウェッジ社 ウェブマガジン) 2012.3.21
Japan Should Stand Firm on the Senkaku Islands Dispute Masashi Nishihara『AJISS Commentary No.164』6 Nov 2012
China's Domestic Politics behind the Senkaku Incident Yoshikazu Shimizu『AJISS Commentary No.107』16 Dec 2010
「領土と国際法」(ビデオ配信) 小寺 彰『JIIA国際フォーラム・特別企画「領土シリーズ」』2013.1.23開催
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南京大虐殺はありませんでした
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南京事件論争
南京事件論争(ナンキン[1]じけんろんそう)とは、日中戦争(支那事変)中の1937年(昭和12年)12月に遂行された南京攻略戦において発生したとされる南京事件における虐殺の存否や規模などを論点とした論争である。論争は日中関係を背景に政治的な影響を受け続けた[2]。
背景と経緯上海戦から南京戦へ1937年7月に始まった日中戦争で当初は華北から戦闘が始まり、その後、双方とも兵員を動員する中、ドイツ軍事顧問を得ていた蒋介石は、国際都市上海にて日本軍をおびき寄せて殲滅する作戦を立てた。その結果、8月に主戦場は上海に移った[7]。日本側も、中国に対して一撃を加えれば大人しく引き下がるものと考えており、暴支膺懲(乱暴な中国をこらしめる)というスローガンを世論に利用し、対決姿勢をとる。日本陸軍は上海派遣軍を送り、上海において、日中両軍の激しい戦闘が起こった(第二次上海事変)。日本海軍は8月より日本海軍機による首都南京への空襲(渡洋爆撃)を開始し、国際社会より非難された[8]。
8月5日陸軍次官は、ハーグ陸戦条約の精神に準拠しとし交戦規定の一部(害敵手段の選用)は努めて尊重と言いつつ、別の箇所で、これを厳密遵守とまでしなくてよいこととし、捕虜という名称もなるべく使わないと現地軍に通知した[9]。その結果、現場の将校までが「軍の規律を求めた松井石根軍司令官の通達」を無視した行動を行ったり[10]、また上海戦において、日本軍人が戦友の多くを失い、中国側への復讐感情を芽生えさせたと秦郁彦は指摘する[11]。
他方日本外務省は、10月に中国に駐在するドイツ人外交官のトラウトマンを仲介とする、トラウトマン和平調停工作を開始した。
中国軍の抵抗もあって、日本側は予想に反して苦戦を強いられたが、11月5日には杭州湾に上陸した日本陸軍第10軍に背後を襲われた中国軍は、上海方面より首都南京方面へと潰走した[12]。上海戦は、日本軍に多くの戦死者を出し、日本軍人に中国軍への復讐感情を植え付けた[13]。
11月7日に上海派遣軍は第10軍とともに中支那方面軍(司令官:松井石根)として改編された。11月19日には第10軍が和平工作をすすめる軍中央の方針を無視して、その後上海派遣軍が、撤退する中国軍の追撃を独断で始め、首都南京への侵攻を目指した[14]。12月1日には軍中央が現地軍の方針を追認する形で中支那方面軍に南京攻略命令を下達する[15]。
総退却した中国軍は11月の南京高級幕僚会議で、南京固守作戦の方針が決まった。11月20日蒋介石は南京防衛司令官に唐生智を任命し、同時に首都を南京から重慶に遷都することを宣言し、暫定首都となる漢口に中央諸機関の移動を始めた。中国側は南京に防衛線(複郭陣地)を構築して抗戦する構えを見せた。敗走する中国軍は堅壁清野作戦で村や民家を焼き払った[16]。
しかし、南京の中国軍の大半は組織的撤退を知らないか、知らされても安全に逃げられない状況であった。中国兵の中には塹壕に足を縛られて防戦させる者もいたし、唯一の逃避路である北部の長江へつながる挹江門に仲間を撃つことを躊躇しない督戦隊が置かれて撤退する側と同士撃ちとなった (挹江門事件)。
南京市の概況南京市は東西(中山門〜漢中門)約5.3km、南北(大平門〜中華門)約8kmで面積は35平方キロで茅ヶ崎市(35.70km2)程の大きさであり、城外の下関や水西門市街などを含めると39〜40平方キロで、鎌倉市(39.67km2)程の面積となる[20]。
またスマイス調査では、当時安全区には難民収容所には27,500人、収容所には入らない安全区内の人口は68,000人とされた[20]。12月17日の国際安全区委員発表では、難民区収容所人数は49,340〜51,340人であった[20]。16師団参謀長中沢三夫は13、14日の掃討戦で住民はほとんど見なかったが、12月末の居住証から推算すると当時の難民は10万内外とする[20]。
南京事件の被害者南京事件の被害者(南京の一般市民)議論については「南京事件論争#一般市民に関して」を参照
日本軍による南京市民に対する被害は、第二次上海事変の開始直後に起こった8月15日開始の渡洋爆撃と呼ばれる日本海軍機による南京空襲での死傷・戦災が最初であり、中国側の記録では10月までの二か月(その後も続く)の空襲で400人近くの市民が死亡した[21]。日本軍の空襲によって、多くの南京市民が市街から遠方に避難し始め、100万人を越えるとされた南京城市の人口は大きく減少し、一方で11月に日本陸軍の中支那方面軍が南京周辺の広大な農村地域の近郊六県を含む南京行政区に進入したため、農村地域等から多くの被災者が南京城市に流れ込む現象も起きた[22]。
日本軍による南京城市陥落(12月13日)の前後に、日本軍の攻撃や掃討や暴力行為に巻き込まれた市民が少なからず存在したとされる(城外を出て長江を渡って逃げる途中の市民が兵士とともに銃撃を受けて殺された証言、日本兵による攻撃や暴力で殺害された証言(新路口事件)がある)[23]。
南京安全区国際委員会のメンバーによるスマイス調査によると、南京市部(南京城区)での日本軍による民間人の殺害・拉致後殺害は計6千6百人と推測されたが、別途1万2千人という推測値も示している。
南京安全区南京安全区とは、南京攻略戦前の11月、ジョン・ラーベ、アメリカ人宣教師(ジョン・マギー、マイナー・シール・ベイツや女性宣教師ミニー・ヴォートリンなどを中心とする15名ほどによって、戦災に巻き込まれてた市民を救済するために組織された南京安全区国際委員会(別称:南京難民区国際委員会)が、南京城市内に設定した地域である。この安全区は南京陥落直後は約20万人(諸説あり)との推測値があり、南京城市内の南京安全区外には住民が少ない状況となった[25]。
南京事件の被害者(中国兵)日本軍、中国軍の損害については「南京戦」を参照
中国側の南京防衛軍の当時の全体総数は、6-7万(「南京戦史」偕行社)、10万(秦郁彦説(台湾公式戦史から)、15万(笠原十九司説・孫宅巍説)と諸説あり、その中での捕虜等になる前に戦死した人数や逃亡し終えた人数も諸説がある[26]。中国軍の敗残兵には軍服を脱いで民間人に紛れて安全区へ逃走をはかったものが多数あった[27]。
議論については「南京事件論争#投降兵・捕虜の扱いに関して」を参照
議論については「南京事件論争#便衣兵に関して」を参照
交戦当時の戦時国際法として有効なものは、日本と中国の双方が批准したハーグ陸戦条約であるが、その第4条には「俘虜は人道をもって取り扱うこと」となっていたし、第23条には、殺害などの害敵手段として禁止されていることとして、第3項「兵器を捨て、または自衛手段が尽きて降伏を乞う敵兵を殺傷すること」や敵兵に対して第4項「助命しないことを宣言すること」とされている。しかし、一方で、日本陸軍は同年8月に陸軍次官名でハーグ陸戦条約の「厳密遵守の必要なし」、「捕虜という名称もなるべく使わないように」、と現地軍に通知していた。
以下は偕行社の『南京戦史』によるが、『南京戦史』は大雑把な目安にすぎなず正確ではないとしている[28]。
歴史上の「南京大虐殺」松本健一は、中国では「南京大虐殺」(南京大屠殺)は一つの固有名詞であり、「歴史的に定着している言葉」であるという[141]。また黄文雄によれば、中国の戦争には「屠城」という伝統があった[142]。歴史上の「南京大虐殺」には以下のようなものがあると指摘されている[143]。
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江崎道朗氏講演会「中国共産党による対日工作」【後半】チャンネル AJER主催 2015.10.25 江崎道朗氏 講演会 10月25日(日)14時〜
『中国共産党による対日工作』 〜「百年冷戦史観」試論 【後半:53分】 講演の動画(抜粋) ⬇ 【前半】https://youtu.be/RLG8vUu9lVg (42分) 会場風景 https://www.facebook.com/formosataiwa... 日本解放第二期工作要綱(にほんかいほうだいにきこうさくようこう)とは、中国共産党による対日工作活動が記されているとされる文書。日本を赤化し中国の傀儡とすることを目的とした工作作戦要項である。「第一期」、「第三期」の文書は確認されていない。
文書について基本戦略日本への工作の基本戦略として、「日本が現在保有している国力の全てを、我が党の支配下に置き、我が党の世界解放戦に奉仕せしめることにある[3][4]」と書かれている。このほか日本のマスコミ、政党・政治家、極右極左団体、在日華僑に至るまでの工作手段が記されている[1][5]。
心理戦工作の初期においては、まずは「群衆掌握の心理戦」が実行されるとしている[6]。文化事業を通じて中国への警戒心を無意識のうちに捨て去らせることが重要であり、そのことが「日本解放工作」の温床となり、「一部の日本人反動極右分子」を孤立させることに有効とされる[7]。
スポーツや文化交流を通じて中国は「日本文化の来源」で、「文を重んじ、平和を愛する民族の国」とした印象・イメージを日本人に与えながら[9]、中国語教師として工作員を送り込み、マスコミ工作を行うとともに、議員訪中団を招聘することなどによって日本に民主連合政府を樹立させるとしている[10]。
解放工作の3段階
任務達成の手段中国共産党の対日工作員が個別に工作対象者に接触することによって、中国共産党によって定められた言動を取らすことによって達成されるとしており、工作員は表に出ることなく、あくまでも後方に隠れて、対象者を指揮することとしており、秘密保持や身分偽装が要とされている[3]。
評価・反応
中国共産党 コミンテルン指導下中華民国の統治期には、コミンテルンの代表者であるマーリン(ヘンドリクス・スネーフリート)の指導により中国国民党と協力し(1924年の第一次国共合作)[6]、その後敵対した(1927年の蒋介石による4・12クーデター(上海クーデター)により国共分裂)。一方で、ソ連でのスターリン派とトロツキー派の抗争が中国共産党にも飛び火し、トロツキー派のレッテルを貼られた陳独秀は、第一次国共合作を主導したとして責任を問われ失脚する (en:Left Opposition)。代わって選出されたのが瞿秋白であり、ロミナーゼ・ウィッサリオンやノイマン・ハインツの指導により広州起義を起こすが失敗し[7]、妄動主義による失敗として批判され失脚する[8]。代わって選出されたのが向忠発であるが、実権はプロフィンテルンと連絡を取る李立三が握っていた[9]。ソ連側は、「国民政府の軍隊内に、共産党の細胞を植付け、其戦闘力を弱める事が最も必要」だとしていた[10]。
結党当初は、コミンテルンの指導が強く、また、ソビエト連邦への留学生が「中国共産党」の中心勢力であった。 コミンテルンは広大な農村社会を抱える中国の特殊性を理解せず、大都市の労働者による武装蜂起を中国革命の基本路線と考えた。当時の中国共産党指導部はコミンテルンの指導に忠実に従っただけなのだが、建国後以降の中国共産党は、当時の共産党指導部に対して第一次国共合作期はその関係に固執しすぎたとし、また国共分裂後の初期の暴動路線に対して極左冒険主義に走りすぎ失敗を犯したとの評価をしている。 中国共産党は数多くの都市暴動を画策したが、中華民国南京政府の軍隊により度重なり鎮圧され、十分な抵抗勢力とはなりえなかった。
このような中で毛沢東は一農村に拠点を置いて活動していた。そうした農民を対象とした社会主義化の動きは、それまでのマルクス主義やレーニン主義のように労働者階級を中心とするものとは異なっていた。当時の中国の人口の圧倒的多数を占めるのは農民であり、農民の支持なくして革命の実現はありえないと毛沢東は考えた。中華民国南京政府の軍隊、警察の捜索の及ばない省境界の山地を根拠地とした毛沢東らは「有土必豪無紳不劣 (土地を有するは必ず横暴で、紳の劣らぬこと無し)」として、小作人を扇動したため、小作人は解雇され共匪となった[11]。
日中戦争期日中戦争前に、上海に設立されたプロフィンテルンのアジア太平洋支部である太平洋労働組合書記局書記のイレール・ヌーランが逮捕されるヌーラン事件が起き、中国国民党により向忠発が銃殺され、共産党幹部の逮捕が続くと、李立三コースを批判していたコミンテルン極東局を中心とするパーベル・ミフ派の勢力が強くなった[12]。共産党軍は中国国民党軍の包囲攻撃に抵抗することができず、1934年には瑞金の中央根拠地を放棄して逃避行を始めた(後に長征と称される)。その過程の1935年に開催された遵義会議において毛沢東の指導権が確立したと言われる。逃避行は奥地でソ連に近い陝西省延安に拠点を構えることで終わった。
1933年5月、ソ連のトロツキストと繋がりを持つとされる元ドイツ参謀のハンス・フォン・ゼークト[14]が、中華民国の軍事顧問となった。1934年12月、日本人を中心に運営されていた満州国は、元白軍司令官のグリゴリー・セミョーノフの参加する反ソ組織の白系露人事務局を設立し、1935年3月には、ソ連より中東鉄道及びその付属地を買収した (北満鉄道讓渡協定)。1935年5月2日、ゼークトの提案に基づき中華民国秘密警察の藍衣社が親日要人へのテロ事件を起こしたため、日本は抗議し、1935年6月27日、日本と中華民国は梅津・何応欽協定を結び、その協定の中でソ連の偵察所であった張家口の徳華洋行の妨害工作を企てた[15]。それらに対し、ソ連は、1935年7月から8月にかけてモスクワで第7回コミンテルン世界大会を行い、コミンテルンは日本やドイツ等を共産化の主な攻撃目標に定めた[16]。中国共産党代表団(ミフ派)は国共合作を呼びかける八・一宣言を行い、1936年の西安事件(西安事変)、1937年盧溝橋事件、中ソ不可侵条約を経て、国民党とのいわゆる第二次国共合作を成立させた。日中戦争の際には八路軍などを編成して、華北を中心とした解放区を拠点に日本軍との正面衝突は避けて力を温存させた。また、蒋介石を通して、ソ連との不可侵条約締結などで、反共から容共化に変えさせた。
ソ連において1934年から続く内務人民委員部により、英独日と関係を結んだ右翼=トロツキスト・ブロック(資本主義の復活を企む右翼の社会革命党(エス・エル党)及び革命的祖国敗北主義により再共産主義革命を企むトロツキストが組んだもの)[14]とされた人民が大粛清されるなか、太平洋労働組合書記局はウラジオストクでプロフィンテルンの巻き返しを図るが、1937年にプロフィンテルンが解散となる。1936年、パーベル・ミフは、『中國共産黨 英勇奮鬪的十五年』[17]を出版するが[18]、1938年7月、КРТОへ参加したとしてソ連の内務人民委員部に処刑される[19]。1940年8月には、トロツキーも暗殺される。
1940年10月から始まるドイツのモスクワ侵攻に対し、アメリカはソ連の支援を始めた[20]。更に、アメリカはソ連への支援の際に、ソ連に対して「極東の安全は英米が守るのでソ連極東軍を西部のドイツ戦線に移動すべし」と主張していた[20]ほか、1941年7月20日にはアメリカによる支援が内戦に使われることは許容できないとして、中国国民党に中国共産党との和平を促す声明を発表した[20]。1942年より、毛沢東は整風運動を行い、ミフ派を中心とするコミンテルンの影響を排除した。1943年、コミンテルンが解散となる。
国共内戦1945年に日本が第二次世界大戦で敗北し、セミョーノフが捕らえられ、中国国内の日本軍隊が全面降伏すると、それまでの中国国民党との妥協的態度から、ソ連の後押しで国民政府打倒共産党政権設立に動いた。内戦を回避したいアメリカ等の意向もあり、毛沢東と蒋介石の会談による双十協定などでの妥協が図られたが、結局は国共内戦に突入した。
満州を占領したソ連の後押しにより東北から南下して国民党軍を圧倒し、最終的には国民政府を倒して中華人民共和国を建国した。国民政府は根拠地を台湾へ移した。
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2/3【討論!】『南京大虐殺』記憶遺産11文書を検証する[桜H27/11/7] ◆『南京大虐殺』記憶遺産11文書を検証する
パネリスト: 阿羅健一(近現代史研究家) 江崎道朗(評論家) 藤岡信勝(拓殖大学客員教授) 水間政憲(ジャーナリスト) 司会:水島総 ユネスコ記憶遺産登録に関して中国が南京事件に関する文書と慰安婦関連資料のユネスコ記憶遺産への登録申請をユネスコへ行ったことに対し、日本政府は登録までに繰返し中国政府に申請を取り下げるよう抗議を行っていた[333]。2015年10月9日にユネスコは「Nanjing Massacre (南京虐殺)」に関する文書をユネスコ記憶遺産に登録することを決めた[334]。
中国が申請し、登録された資料は、犠牲者数を30万人以上とした南京軍事法廷の判決書の他、日本軍が撮影した写真、アメリカ人牧師が撮影したフィルム、生存者とされる者の証言や外国人の日記など11点であった[335]。
日本政府は中国の申請はユネスコ記憶遺産の政治利用であると抗議した[335]。登録発表後、日本政府は「資料は中国側の一方的な主張に基づいており、真正性や完全性に問題があることは明らかだ。」として抗議した。日本外務省は「中立公平であるべき国際機関として問題であり、極めて遺憾」「政治利用されることがないよう制度改革を求めていく」との外務報道官談話を発表した。
また、日本政府は登録された際には世界第二位の拠出率(アメリカは支払いを停止しているため日本が実質一位)のユネスコの分担金を見直すことを示唆していたが、登録を受けて分担金拠出の凍結の検討に入った。日本の自由民主党や民主党や維新の党など与野党も登録を批判した[336][337][338]。
毎日新聞はユネスコ世界遺産と無形文化遺産は、登録審議が公開されるが、記憶遺産は審議も勧告内容も非公開であるため透明化が求められていると報じた[335]。このほか藤岡信勝は登録を決定した現事務局長イリナ・ボコヴァは抗日戦争勝利70周年記念式典にも参加した親中派であり、公正性にも疑問があるとした[313]。
写真史料南京事件の写真資料(マギー牧師の写真、国国民党が編纂した『日寇暴行実録』(1938年)、日本人のカメラマン撮影など)は、数多く存在しているが、その信憑性を検証しないままに扱われていた。だが、後述するように1984年の朝日新聞1984年8月4日大阪版夕刊(翌朝全国掲載)「南京大虐殺の証拠写真」の生首写真が間違いであったなど、信憑性のない写真が一部混在していた。
南京事件関連の写真を検証してきた松尾一郎 やその研究に参加した東中野修道等は、アイリス・チャンの著作などの南京事件関係の書籍に掲載数多くの「証拠写真」を捏造写真として指摘している[317][318][319]。故意(捏造)であるかは、別として今まで指摘された間違い写真の例は、(故意かは別として)他の関係ない写真が混じっている、南京事件の後の1938年の日本軍の軍装(つまり南京以外の場所のもの)、編集者の誤記など、様々である。
その上で、東中野修道”南京大虐殺の証拠写真はすべて捏造である”と主張している[320]。ただし、東中野修道の写真分析と全て捏造という主張には、行き過ぎがあり、考証・指摘の間違いもある。例えば女性の陰部に異物を入れる残虐行為は中国人しか行わないので偽写真とみなしたが、実は日本兵も同じことを行っていた記録はあり[321]、そもそも外国人でも殺人事件そのものは撮影がほぼ不可能なことを考慮していない、などの疑問点が存在する。
アサヒグラフと『日寇暴行実録』の写真写真週刊誌『アサヒグラフ』1937(昭和12)年11月10日号に、江蘇省宝山県盛家橋部落の中国人農民の写真に「我が兵(日本軍)に援けられて野良仕事より部落へかへる日の丸部落の女子供の群れ」とキャプションがつけられ掲載された[324]。
この写真は翌1938年に中国国民政府軍事委員会政治部『日寇暴行実録』に「日本兵に拉致される中国人女性と説明され無断転載された[324]。
この『日寇暴行実録』の写真は、本多勝一が1972年の著書『中国の日本軍』(創樹社)や、1997年11月発行の笠原十九司『南京事件』III章の扉に「日本兵に拉致される江南地方の中国人女性たち」のキャプションで掲載された。
1998年、秦郁彦がこの写真の原版は『アサヒグラフ』昭和12年11月10日号に掲載された「我が兵士(日本軍)に援けられて野良仕事より部落へかへる日の丸部落の女子供の群れ」という写真であることが指摘された[324]。
笠原は、中国国民政府軍事委員会政治部が事実と異なるキャプションを付したことに気付かず使用したことにつき、秦郁彦に謝意を表し、撮影者の故熊崎玉樹カメラマン、朝日新聞、読者に詫びた[325]。これを受け岩波書店も謝罪文を掲載して出品を一時停止し、笠原と相談の上で『村瀬守保写真集 私の従軍中国戦線』[326]の日本兵に強姦されたという老婆の写真に差し替えた。
2014年に週刊新潮が、本多勝一が著書『中国の日本軍』に「婦女子を狩り集めて連れて行く日本兵。強姦や輪姦は7歳の幼女から70歳の老婆まで及んだ」とのキャプションとともに掲載していた(上記笠原と同様の)写真の誤用を指摘すると、
本多は
「『中国の日本軍』の写真説明は、同書の凡例にも明記してあるとおり、<すべて中国側の調査・証言にもとづく>ものです。ただ中国側に問題点があることは、俺が司会を務めた座談会 [327]で、吉田裕さんが次のように指摘しているとおりだと思います。<中国側の対応で問題があるのは写真の使い方ですね。いつ、だれが、どこで撮ったかという根拠を確認しないままに、政治的なキャンペーンの中で勝手に写真を使っている。日本の市民運動側もそれを無批判に受け入れてしまうような一面があって、それを反動派につけこまれている>。『アサヒグラフ』に別のキャプションで掲載されているとの指摘は、俺の記憶では初めてです。確かに誤用のようです」
と、文書で回答を寄せた[328]。
朝日新聞の「南京大虐殺の証拠写真」しかし、この生首写真は、中国軍が馬賊の首を切り落とした写真であることが判明し、記事中で虐殺に関わったとされた歩兵23連隊の戦友会「都城二十三連隊会」が朝日新聞に抗議して訴訟になった(1986年1月に和解)[329]。
村瀬守保写真集映像史料
関連作品に関する論争
偽物の写真が掲載されている「レイプ オブ 南京」の著者であるアイリス チャンは、カリフォルニア州サンノゼのサニーベールで夫と2歳の息子と暮らしていたが、2004年11月9日の午前9時頃に、カリフォルニア州サンタクララ郡の国道17号線、ロスガトスの南で自動車の中で死んでいるのを発見された。
サンタクララ郡警察は、状況証拠からチャンが銃で自分の頭を撃ったものと断定した。
写真ねつ造の手口は、笑顔の南京市民の顔を暗くして分からないようにしたり、売春宿の写真の一部を切り取ってたりして強姦していると主張しています。
写真は正直です。 |






