北海道北海道では、特別史跡1件を含む計51件が指定されている。
国指定道南
道央
道北
道東
道指定北海道指定史跡については北海道指定文化財一覧#史跡を参照のこと。
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江別古墳群概要古墳時代に古墳が盛んに造られたのは畿内を中心として北部九州から南部東北にかけての一帯であるが、北海道内にもわずかながら古墳は現存している。ただし、それは古墳時代(3世紀-6世紀)のものではなく、蝦夷征討の盛んに行われた飛鳥時代、奈良時代、平安時代前半すなわち律令時代に築造され、当時この地域で栄えていたといわれる擦文文化前半の時期に相当する。北海道の古墳で、現在発見されているのは恵庭市および江別市においてであり、なかでも江別古墳群は最北端に位置している。
江別古墳群は、江別市元江別の旧豊平川の段丘上にある。1931年に小学校の教師だった後藤寿一によって発見された。当時の資料によれば円墳20数基が確認され、うち16基について調査が行われた。以降、遺跡は後藤遺跡と呼ばれてきた[1]。1980年に高速道路関連の工事に伴って再調査が実施され21基の古墳が確認されたが、その後の工事によって3基が破壊された。
江別古墳群は7世紀から9世紀頃に築かれたと考えられている。個々の古墳は、直径3メートルから10メートル、高さ0.3メートルから1メートルの円形あるいは長円形の墳丘と、環状あるいは馬蹄形の周溝から構成されている。周溝の大きさは、直径8メートルから10メートルの大型のもの、5メートルから7メートルの中型のもの、5メートル以下の小型のものに区分される。元々はもう少し高さがあったようであるが、現在は風雨によって浸食されている。
江別古墳群は東北地方北部に分布する末期古墳と似た構造を持ち、また古墳から出土した遺物には本州からもたらされたと思われる須恵器、鉄鏃、刀子(短刀)、鋤先などがあった。この墓の被葬者については、東北北部と交流をもった北海道の有力者であるという説と東北地方からの移住者という説の2つがある[3]。いずれにしても、これらは当時の北海道と本州との交流を知る上で貴重な遺物でもある。
脚注関連項目参考文献
外部リンク
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北海道神社庁 TVCM
北海道の神社の歴史 明治の神仏分離以前は神道と仏教は混淆しており、古い寺社について仏寺と神社を明確に弁別することはできない。例えば現在は厳島神社と称する神社の多くは、仏教的な弁天堂や弁天社と呼ばれていた。後述する脇澤山神社の鰐口には弥陀信仰の銘が刻まれている。
ここでは神仏分離後に神社として存立したものを神社とみなし、神仏分離以前のものについても「神社」と表現する。
北海道と松前地・蝦夷地 一般に蝦夷地は北海道の旧称として用いられるが、「蝦夷地」という語を文字通り解釈すると蝦夷の住む地ということになる。この観点では、和人が住むようになった北海道の南部は、「蝦夷地」ではない。「北海道」という呼称は明治以降のものであるが、本項では便宜上、それ以前の時代についても「北海道」とする。
戦国時代から江戸時代には、北海道の南部で和人による支配地(松前藩)が確立した。歴史的観点から、北海道を「松前地(和人地、口蝦夷、旧開地)」と「蝦夷地(奥蝦夷、新開地)」に分ける考え方もある[1]。この考え方は一般に普及した分け方とは言えないとしても、北海道の歴史を概観する上では便利である[2]。
松前藩の支配地域は時代によって大きく変わっているため、どこまでを「松前地」とするかは厳密には注意を要するが、ここでは概ね道南の和人地の意味で「松前地」といい、それ以外の地域を狭義の「蝦夷地」とする。
北海道は冷涼な気候ゆえに稲作に適さず、松前藩では米による石高制のかわりに、主に海産物の収入に基づく知行を行なった。これはアイヌとの交易によって行われ、北海道の沿岸部には「場所」と呼ばれる交易拠点が設けられた。江戸時代の中期には、商人が場所を独占して交易を行う場所請が制度化された。これらを通じて、(狭義の)蝦夷地にも和人の集落ができるようになり、各地にも神社が設けられた。
江戸時代の後期には、ロシアの南下政策への対抗上、幕府による北海道の直轄が試みられた。このため、松前藩の支配地・幕府の支配地・(狭義の)蝦夷地の範囲は19世紀にしばしば変更されている。この時期に蝦夷地警護のために武士団が北海道の各地に派遣され、彼らによって神社が創建された。
明治になると、開拓者が北海道各地に入植するようになり、彼らによって神社が建立された。やがて、これらの諸社は国家神道の観点から体系化される。
草創期の神社概要 これらの神社の多くは道南の漁業拠点に集中し、神道や密教が混淆して山岳信仰や岬信仰が主体的[5]だった。これらの神社は松前神楽などに象徴される独自の文化を擁し、後の北海道開拓時代に新たに創建された神社とは一線を画すことになる[6]。
草創期 和人がいつ頃から蝦夷地へ入ったのは定かではないが、道南の沿岸地方には創立年代が不詳の古社が多い。古いものでは、平安時代に奥州藤原氏の残党が渡島へ渡り神社を建立したという説[7]もあるが、鎌倉時代か、遅くとも室町時代には神社が建立されていた事が確実視されている[8]。
以下に、北海道最古の神社とみられるものを挙げる。
諸社の起源(明治以前)館神と八幡神社 いちおう、蝦夷地は安東氏の管領ということになっていたが、実際には色々な豪族が土着して館(砦)を構えていた。彼らはその館に神社を建て、これを館神と称していた。館神では武神である八幡大菩薩・八幡神を祀った。このような神社は道南に多い[23][24]。
江戸時代の中頃からは蝦夷地へのロシア人の関与が幕府の懸案となった。幕府は箱館奉行所を設けた上で蝦夷地の一部を公儀御料(幕府直轄領)とし、東北地方の諸藩に警固を命じた。こうして北海道の僻地のあちこちに到着した警固の武士によって建立された神社は、その多くが武神として八幡神を祀り、のちに八幡神社となった。
海神を祀る神社 早くから海産物を目当てに蝦夷地へ往来していた和人の中には、沿岸部に番屋を設けたり土着した者もいた。江戸時代の中期には松前藩が場所請負人や運上屋を制度化した。道南を中心に、沿岸部には彼らによって祀られた海神・水神や漁獲・商売の神仏を奉斎する神社が分布している[25][26][27]。
こうした神社は、どこかの神社から分霊や勧請によって創建されたというよりは、自然発生的な小祠が発展したものだと考えられている[28]。
農業神・稲荷社 ロシアを警戒した幕府は、寛政11年(1799年)に北海道の一部を上知して直轄統治に乗り出す。このとき北海道でも稲作が試みられるようになった。これは冷涼な気候や凶作に阻まれて廃れるが、安政期(1854-1859)には再び行われて一定の成果を得た。明治中期以降になれば、稲作は石狩や胆振地方でも成功した。
こうした農業移民によって祭祀されたのが稲荷社で、道南から道央にかけて多く建立された。
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鰊の軌跡〜留萌に鰊来たれし、人々の魂が響いた日々
2013/03/20 に公開
北海道におけるニシン漁は江戸時代から盛んに行われるようになり、留萌地域は最北の千石場所として大きな発展を遂げ、その歴史と文化は管内の礎であり、ニシン文化は、留萌地域が後世に伝えていかなければならない大切な宝物です。
ニシン漁のほか、地域繁栄の歴史、文化芸能など、ニシンとともに歩んだ留萌地域を再現ドラマを織り交ぜて紹介しています。 北海道におけるニシン漁史漁法改良史 この豊かな水産資源を求め、蝦夷地でも日本海沿岸は早くから和人が進出した。記録の上では、文安4年(1447年)に陸奥国の馬之助なる者が松前郡白符村(現在の松前町白符)で行った漁を、和人によるニシン漁の嚆矢とするが[1]、建保4年(1216年)開基と伝えられる江差町姥神大神宮の創建伝承にもあるとおり、古くから和人が来道してニシン漁に従事していたことは疑いない。
しかしその当時のニシン漁は、凪の時分を見計らって沖に漕ぎ出し、シナノキの皮から取った繊維で編んだタモ網で掬いとるようなごく簡素なものだった。
時代が下って延宝元年(1673年)には、越後国の者が麻で編んだ刺し網を松前藩内に持ち込んでの商売を始め[2]、宝永年間(1710年)には大型の網の使用も広まり始めた。和人そのものの活動範囲も広がり、寛政年間(1790年ごろ)には北海道北端の宗谷地方にまで和人の魚場が開かれた。
天明3年(1783年)に江差を訪れた紀行家・平秩東作が著した旅行記『東遊記』によれば、江差の町は諸国からの出稼ぎ漁師やニシン製品の売買で喧騒を極め、一般の出稼ぎ者でも数ヶ月の働きで12、13貫、目端の利く者は30、40両を稼ぎ上げていたという[3]。
18世紀以降は内地においてミカンや藍、ワタなど商品作物の栽培が広まり、肥料としての効果が高い金肥が求められていた。干鰯の値段が高騰するとともに、ニシンから魚油を搾り出した際に残る搾りかす「鰊粕」が肥料として注目されることになる。鰊粕の需要増大を受けてニシン漁も改良が加えられ、安永年間(1775年)ごろには 国後島や厚岸、さらに網走などオホーツク海沿岸で地曳網を使用した大規模な漁が始まり[4]、文政元年(1818年)ころから日本海沿岸の小樽や余市付近で笊網が導入される[2]。
刺し網による漁では1漁期に30石程度だった漁獲高は、笊網の使用で180石に跳ね上がる。しかし、笊網は操業時に騒音を発する欠点があったため、文化年間(1810年)から弘化年間(1845年ごろ)にかけて行平網が使用されるようになる[5]。
行平網は騒音を発する欠点もなく、性能に優れていたため幕末まで全道的に広まり、さらに明治中期に角網が導入された。角網はもともと鮭の漁に使用する網だが、入り口が狭く、1度内部に進入した魚を逃しにくい利点がある。そのため瞬く間に普及し、明治32年(1899年)には全道の建網利権数約6千統のうち、4千統以上が角網で占められていた[6]。
一方、大網を用いて大量に捕獲したニシンを、陸上に運搬する方法にも工夫が加えられた。まず嘉永4年(1851年)、積丹半島美国(びくに)で使用されはじめたのが袋網である。これは長さ8間、口の周囲5間で40石のニシンを入れることができ、獲物を一時的に海中に沈めて保存し、折を見て陸まで運ぶ際に用いられた[7]。
しかし海中に沈めたままにされた袋網は、海流で流され海底で摩れて破れる恐れがある。そこで安政3年(1857年)、古平郡群来村の秋元金四郎が浮きを兼ねた丸太の枠に網を吊り下げた「枠網」を開発し、翌年には同村の白岩八左衛門が、網袋を船に直接吊り下げ、船付き場まで漕いで運ぶ方法を考案した[7]。
こうして、ニシンが250-300石 (200t) が入る枠網を取り付けた運搬用の船「枠舟」が開発された。行平網や角網に追い込んだニシンをそのまま海上で枠網に落とし込み、これを幾度も繰り返して枠網を魚で満たす。 枠網を吊り下げた枠舟が波静かな場所まで移動したところで、ニシン運搬専用の船「汲み船」が次々と漕ぎ寄せては網内部のニシンを汲み出し、船着場まで運んで陸揚げする。
漁具や漁法の改良が繰り重ねられた結果、明治・大正期には一箇所の漁場における数ヶ月の操業で400石から3000石 (700t-2250t) の漁獲を誇るようになった。
出稼ぎ漁師の生活 一連のニシンの漁期を「始納中」(しのうちゅう)と呼ぶ。始納中は毎年3月から5月の短期間ながら、膨大な労働力を必要とし、当時の北海道の人口ではとても賄いきれないため、漁期には北海道内はもとより東北地方各地より出稼ぎ労働者が北海道西海岸に集結した。
すでに江戸期から数万人の労働者が蝦夷地へニシン稼ぎに渡っていたが、東北地方に大打撃を与えた天保の飢饉以降は一層顕著となり、明治初期で5、6万人、さらに北海道開拓が本格化した明治20年(1887年)で10万人近くに上った。 大正14年(1925年)の調査では、ニシン労働者約6万5千人の内訳は地元3割、道内2割、道外5割となる。そのうち道外者は青森県出身者が最も多く、ついで秋田県や岩手県などの東北各地である[8]。
彼ら出稼ぎ労働者のうち男性は「ヤドイ」(雇い)、あるいは「ヤン衆」と呼ばれていた。「ヤン」の語は、アイヌ語で「向こうの陸地」つまり本州を意味する「ヤウン・モシリ」に由来するとも、網曳き漁を意味する「ヤーシ」に由来するとも言う[8]。
しかし、「ヤン衆」には俗語めいたニュアンスが伴うため、漁場の親方は彼らを「若い衆」と呼んでいた。 一方、女性の出稼ぎ者はオロロンと呼ばれた。彼女達は陸上でのニシン運搬やニシン潰し(ニシンの加工)に従事したが、実直な手仕事に耐えられずヤン衆相手の売春に糧を求める者も少なからずいた。彼女たち漁場の娼婦は七連(ななつら)と呼ばれた。一回の相場が身欠きニシン7連(約140匹)だったことが名の由来である。
前年の秋に周旋屋(人材派遣業)と契約を結んだ出稼ぎ漁師たちは、年明けて3月中旬になれば簡単な夜具と自前の食料、あるいは南部煎餅や干し柿など親方への土産物を手にしてニシン漁場へと向い、宿舎を兼ねた親方の大邸宅・鰊御殿に集結する。網子合わせ(アゴアワセ)と呼ばれる大漁願いを兼ねた顔合わせの祝宴を催した後は、漁への臨戦態勢として除雪作業や漁具の整備、或いは鰊粕製造用の薪の確保に奔走する[9]。
3月下旬には大安吉日を選んで「網下ろし」が執り行われる。親方や船頭が神棚に拍手を打って豊漁祈願をしたのち、漁夫一同に規則と各自の役割を申し渡す。以降は無礼講で飲み交わし、鰊場作業唄に合わせて親方や船頭、さらに地域の顔役などを胴上げして大漁を祈る。 やがて4月になれば、浦々にニシンの群れが集団で押し寄せ、産卵・放精のために海面が白く染まる現象「群来」(くき)の知らせが届き始める。
江戸期のニシン漁では資源保護のため群来を実際に見極めた上で漁を始めたが、明治以降は周辺海域の群来情報から予測を立ててあらかじめ網を仕掛け、ニシンを待ち構えた[8]。
以降、出稼ぎ者は一日につき7、8合の割合であてがわれる豊富な白米飯と焼き魚の代償として、船漕ぎに網起こし、ニシン運搬、ニシン加工とあらゆる肉体労働に邁進した。
一連のニシン漁が終了するのは5月下旬である。今期の漁で破損した漁具を陸揚げして修理するほか、魚網は腐敗を防ぐため染料とともに煮沸する。後片付けを済ませた上で、「あご別れ」と呼ばれる解散の宴を催す。
雇い漁師には規定の報酬とともに、九一(くいち[note 1])と呼ばれるボーナス、さらに土産物の干しカズノコや身欠き鰊が支給された。 平均的な出稼ぎ者の報酬は、米1俵が3円だった明治30年代で30-40円。九一は30円あまりである[8]。
一連の漁期が一段落した5月の北海道西海岸は、ニシン製品の売買や積み出し、帰郷前に歓楽街へ繰り出す漁師達の喧騒で「江戸にも無い」と称されるほどの賑わいに包まれた。
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