東北歴史博物館Tohoku History Museum 施設情報 正式名称 前身 専門分野 管理運営 開館 所在地 位置 アクセス 公式サイト
概要総合展示室では旧石器時代から近現代までの東北地方全体の歴史を、時代別の9つのコーナーに分けて展示している。また詳細展示のコーナーを設け、東北地方の特徴をよく示す3つのテーマについて深く掘り下げた展示を行っている。
伊治呰麻呂
姓(伊治・上治)の読み方史料に読み方が記されていなかったため、後世「伊治」は長らく音読みで「いじ」と読まれてきた。また、「呰麻呂」は『続日本紀』に上治郡の大領に就任していたと記されているが、ここに見る「上治郡」が後世のどこに当たるのか(「伊治郡」のことではないか、後世の栗原郡と同定できないか、等々)は明らかでなかった。ところが1978年に解読された多賀城出土漆紙文書に、「此治郡」という表記があったため、「此」と「伊」は訓読みで「これ」の同音異字で通じ、「上治」を「此治」の誤記とする説が優勢となり[1]、現在では「これはり」または「これはる」との読みが有力説となっている。
生涯当時、大和朝廷(ヤマト政権、中央政権)と北方の蝦夷の間には連年交戦が続いており、伊治郡はその最前線に位置していた。伊治呰麻呂は夷俘の出身であったが、国府に仕えて上治郡(伊治郡か)の大領となり、出羽国の管轄にあった志波村の蝦夷征討に功を挙げ、宝亀9年(778年)にヤマト王権より外従五位下に叙せられた[2]。陸奥国按察使の紀広純は初め呰麻呂を嫌ったが、のちには大いに信頼を寄せるようになった。しかし、同じ俘囚出身である牡鹿郡大領の道嶋大盾は、(卑しい)夷俘の出であるとして呰麻呂を見下し侮ったため、呰麻呂は内心深く恨んでいたという[3]。
宝亀11年(780年)新たな城柵として覚鱉城(かくべつじょう)が築かれる際、既成の城柵である伊治城[注 2]を紀広純が訪れたが、この機会を捉えて呰麻呂は俘囚の軍を動かして反乱を起こし、まずは大盾を殺し、次に広純を多勢で囲んで殺害した。陸奥介の大伴真綱(おおとものまつな)だけが囲みを破って多賀城に逃れた。城下の住民は多賀城の中に入って城を守ろうとしたものの、真綱が陸奥掾の石川浄足(いしかわのきよたり)とともに後門から隠れて逃げたため、住民もやむなく散り散りになった。数日後、蝦夷軍は城に入って略奪行為を働き、焼き払って去った。[3]
呰麻呂の行動記録は、この伊治城における反乱の後、途絶する。多賀城の略奪は反乱の直接の結果であったが、その指揮官が誰かについて史料には記されていない。呰麻呂が多賀城を落とした可能性も高いが、別の将による可能性も否定できない。ただちに中央政府は中納言・藤原継縄[4]、次いで参議・藤原小黒麻呂[5]を征東大使に任命して征討軍を出動させたが、なんら成果は得られず、戦闘は拡大した。この後の呰麻呂の動静については、史料に記載無く不明である。もし、呰麻呂が中央政府軍に敗れて殺されるようなことがあれば『続日本紀』が記したであろうことから、記録の欠落は呰麻呂がそうした最期を迎えなかったことを示唆する。なお、反乱の結果、伊治城とその周辺地域は中央政府による蝦夷経営の支配を何年かの間は逃れたものの、やがては再び制圧された。
栗原郡郡域明治11年(1878年)に行政区画として発足した当時の郡域は、栗原市および大崎市の一部(古川小野、古川沢田、古川北宮沢、古川宮沢、古川清滝、古川清水沢、古川雨生沢、古川荒谷、古川川熊、古川長岡、古川小林、古川桜ノ目)にあたる。なお、登米市石越町各町が1877年、登米市南方町各町および迫町新田、迫町北方が1879年まで当郡に所属した。
歴史神護景雲元年(767年)に当時の陸奥国最北の城として伊治城が築かれた後に置かれた。郡名として史料に伊治郡と上治郡、出土木簡に此治郡があり、上治は此治の誤字で、此治が伊治と同音異字(「これはる」または「これはり」)とする説が有力である。この郡名が後に栗原に変化したと考えられる。
宝亀の乱宝亀の乱(ほうきのらん)は、奈良時代の日本の東北地方で起きた反乱。宝亀11年(780年)、陸奥国の一部地域(のちに陸前国、宮城県などと呼ばれる地域)にて、大和朝廷(ヤマト政権、中央政権)に対し、俘囚(服属蝦夷)の指導者が軍を率いて起こしたもので、首謀者の名を採って伊治呰麻呂の乱(これはりのあざまろのらん、これはるのあざまろのらん)とも呼ばれる。
原因夷俘(隷属蝦夷)の出身で陸奥国府に仕える俘囚(服属蝦夷)の指導者であった伊治呰麻呂は、陸奥国は上治郡(此治郡の誤記として「これはりぐん」あるいは「これはるぐん」と読む見解が有力)の大領となり、蝦夷征討の功を認められて、宝亀9年6月25日 (旧暦)(778年7月24日)には外従五位下に叙されていた。
『続日本紀』には、陸奥国按察使・紀広純は、初め呰麻呂を嫌ったが、のちには大いに信頼を寄せるようになったこと、しかし、同じ俘囚出身である牡鹿郡大領の道嶋大盾は(卑しい)夷俘の出であるとして呰麻呂を見下し、侮ったため、呰麻呂は大盾に対して深い恨みを抱いていたことが記載されている。このことから、乱の原因については一般に怨恨説が採られている。
経過宝亀11年(780年)、新たな城柵・覚鱉城(かくべつじょう)の建設を紀広純が建議し、その際に伊治城[注 1] を訪れた機会を捉えた呰麻呂は、3月22日(780年5月1日)、俘囚の軍(俘軍)を動かして反乱を起こし、まず大盾を殺し、次に広純を多勢で囲んで殺害した。
陸奥介の大伴真綱(おおとものまつな)だけは囲みを開いて多賀城に護送されたが、城下の住民が多賀城の中に入って城を守ろうとしたのに対し、真綱は陸奥掾の石川浄足(いしかわのきよたり)とともに後門から隠れて逃げたため、住民もやむなく散り散りになって逃れた。数日後、俘囚軍は城に入って略奪行為を働き、焼き払って去ったという。当時、多賀城の倉庫には「兵器粮蓄 勝げて計うるべからず」(『続日本紀』)とある。
しかし、正史の記録は以後の経過を記さない。多賀城の略奪についてもその指揮官は不明であり、征東大使に藤原継縄が任命されるも準備不足を理由に出立せずにのち罷免されるなど、朝廷側の対策も整わず、戦闘は拡大したと見られている。
戦後戦闘の終了時期についてはその記録が無いため不明であるが、同年9月(同年10月)には藤原小黒麻呂が持節征東大使となり、2,000の兵を率いて出兵し、敵の要害を遮断したと伝わる。翌・天応元年(781年)6月には現地軍を解散、8月に帰京し正三位に叙せられ、「征伐事畢入朝(意訳:征伐事業を終えて朝廷に戻った)」と『続日本紀』に見えることから、乱は終結に向かったと推察されている。しかし、「遺衆猶多」とあり、残党がなおも多くいたことも見えている。
また、天応元年(781年)に内蔵全成が征東副使として陸奥国へ派遣され、6月に平城京に帰京、9月には陸奥守に任ぜられるとともに、蝦夷征討の功労によって正五位上の昇叙と勲五等の叙勲を受けている。このことにより同時期には乱は終息に向かっており、同時に陸奥の治安維持のために内蔵全成を陸奥守として行政権を与えた上で派遣する必要があったと推測できる。内蔵全成は同年12月には鎮守副将軍も兼ねており、すなわち軍事権も与えられている。
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