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未だ覚めず池塘春草(ちとうしゅんそう)の夢 、一寸の光陰軽んずべからず

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東北歴史博物館

   
Japanese Map symbol (Museum) w.svg東北歴史博物館
Tohoku History Museum 施設情報 正式名称 前身 専門分野 管理運営 開館 所在地 位置 アクセス 公式サイト
Tohoku Rekishi Hakubutsukan 2008-11.jpg
2008年11月22日撮影
東北歴史博物館の位置(宮城県内)
東北歴史博物館
東北歴史博物館の所在地
東北歴史博物館
東北歴史資料館
歴史
宮城県
1999年平成11年)10月9日
985-0862
日本の旗 日本
宮城県多賀城市高崎1-22-1
北緯38度18分0秒 東経140度59分40.3秒 / 北緯38.30000度 東経140.994528度 / 38.30000; 140.994528
JR logo (east).svg東北本線国府多賀城駅より徒歩1分
http://www.thm.pref.miyagi.jp/
プロジェクト:GLAM
円筒部が吹き抜けのエントランスホール
今野家住宅
東北歴史博物館(とうほくれきしはくぶつかん)は、宮城県多賀城市にある宮城県立の歴史系博物館である。1974年開設の東北歴史資料館(とうほくれきししりょうかん)が発展的改組され移転整備した形で1999年に開設された。


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概要

東北歴史資料館の老朽化に伴い、東北・宮城の歴史に学び、優れた地域文化を伝承しながら、21世紀における文化創造を支援する拠点として移転整備された。建物は株式会社空間設計による設計。
総合展示室では旧石器時代から近現代までの東北地方全体の歴史を、時代別の9つのコーナーに分けて展示している。また詳細展示のコーナーを設け、東北地方の特徴をよく示す3つのテーマについて深く掘り下げた展示を行っている。




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伊治呰麻呂

   
伊治 呰麻呂[注 1](これはり/これはる の あざまろ、生没年不詳)は、8世紀後半の日本奈良時代東北地方で活動した蝦夷の指導者。は公。官位従五位下上治郡大領
宝亀11年(780年)に伊治城[注 2]宝亀の乱(伊治呰麻呂の乱)を起こした。





姓(伊治・上治)の読み方

史料に読み方が記されていなかったため、後世「伊治」は長らく音読みで「いじ」と読まれてきた。また、「呰麻呂」は『続日本紀』に上治郡の大領に就任していたと記されているが、ここに見る「上治郡」が後世のどこに当たるのか(「伊治郡」のことではないか、後世の栗原郡と同定できないか、等々)は明らかでなかった。ところが1978年に解読された多賀城出土漆紙文書に、「此治郡」という表記があったため、「此」と「伊」は訓読みで「これ」の同音異字で通じ、「上治」を「此治」の誤記とする説が優勢となり[1]、現在では「これはり」または「これはる」との読みが有力説となっている。

生涯

伊治呰麻呂は陸奥国伊治郡(後世の栗原郡〔現在の宮城県栗原市全域と大崎市の一部にあたる〕に相当する地域と推定される)の有力者とされる。
当時、大和朝廷(ヤマト政権、中央政権)と北方の蝦夷の間には連年交戦が続いており、伊治郡はその最前線に位置していた。伊治呰麻呂は夷俘の出身であったが、国府に仕えて上治郡(伊治郡か)の大領となり、出羽国の管轄にあった志波村蝦夷征討に功を挙げ、宝亀9年(778年)にヤマト王権より外従五位下に叙せられた[2]。陸奥国按察使紀広純は初め呰麻呂を嫌ったが、のちには大いに信頼を寄せるようになった。しかし、同じ俘囚出身である牡鹿郡大領の道嶋大盾は、(卑しい)夷俘の出であるとして呰麻呂を見下し侮ったため、呰麻呂は内心深く恨んでいたという[3]
宝亀11年(780年)新たな城柵として覚鱉城(かくべつじょう)が築かれる際、既成の城柵である伊治城[注 2]を紀広純が訪れたが、この機会を捉えて呰麻呂は俘囚の軍を動かして反乱を起こし、まずは大盾を殺し、次に広純を多勢で囲んで殺害した。陸奥介大伴真綱(おおとものまつな)だけが囲みを破って多賀城に逃れた。城下の住民は多賀城の中に入って城を守ろうとしたものの、真綱が陸奥掾の石川浄足(いしかわのきよたり)とともに後門から隠れて逃げたため、住民もやむなく散り散りになった。数日後、蝦夷軍は城に入って略奪行為を働き、焼き払って去った。[3]
呰麻呂の行動記録は、この伊治城における反乱の後、途絶する。多賀城の略奪は反乱の直接の結果であったが、その指揮官が誰かについて史料には記されていない。呰麻呂が多賀城を落とした可能性も高いが、別の将による可能性も否定できない。ただちに中央政府は中納言藤原継縄[4]、次いで参議藤原小黒麻呂[5]征東大使に任命して征討軍を出動させたが、なんら成果は得られず、戦闘は拡大した。この後の呰麻呂の動静については、史料に記載無く不明である。もし、呰麻呂が中央政府軍に敗れて殺されるようなことがあれば『続日本紀』が記したであろうことから、記録の欠落は呰麻呂がそうした最期を迎えなかったことを示唆する。なお、反乱の結果、伊治城とその周辺地域は中央政府による蝦夷経営の支配を何年かの間は逃れたものの、やがては再び制圧された。

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栗原郡   

宮城県栗原郡の範囲(水色:一時的に他郡に編入された区域 薄黄:後に他郡に編入された区域)
栗原郡(くりはらぐん)は、宮城県にあった令制国下では陸奥国(のち陸前国)に属す。

郡域

明治11年(1878年)に行政区画として発足した当時の郡域は、栗原市および大崎市の一部(古川小野、古川沢田、古川北宮沢、古川宮沢、古川清滝、古川清水沢、古川雨生沢、古川荒谷、古川川熊、古川長岡、古川小林、古川桜ノ目)にあたる。なお、登米市石越町各町が1877年、登米市南方町各町および迫町新田、迫町北方が1879年まで当郡に所属した。

歴史

神護景雲元年(767年)に当時の陸奥国最北の城として伊治城が築かれた後に置かれた。郡名として史料に伊治郡上治郡、出土木簡此治郡があり、上治は此治の誤字で、此治が伊治と同音異字(「これはる」または「これはり」)とする説が有力である。この郡名が後に栗原に変化したと考えられる。
江戸時代には仙台藩領となる。栗原郡は92村を擁する大郡であったため、これを栗原(本栗原)・一迫・二迫・三迫・佐沼の五区に分割した。


宝亀の乱

宝亀の乱(ほうきのらん)は、奈良時代日本東北地方で起きた反乱宝亀11年(780年)、陸奥国の一部地域(のちに陸前国宮城県などと呼ばれる地域)にて、大和朝廷(ヤマト政権、中央政権)に対し、俘囚(服属蝦夷)の指導者が軍を率いて起こしたもので、首謀者の名を採って伊治呰麻呂の乱(これはりのあざまろのらん、これはるのあざまろのらん)とも呼ばれる。

原因

夷俘隷属蝦夷)の出身で陸奥国府に仕える俘囚(服属蝦夷)の指導者であった伊治呰麻呂は、陸奥国は上治郡(此治郡の誤記として「これはりぐん」あるいは「これはるぐん」と読む見解が有力)の大領となり、蝦夷征討の功を認められて、宝亀9年6月25日 (旧暦)778年7月24日)には従五位下に叙されていた。

続日本紀』には、陸奥国按察使紀広純は、初め呰麻呂を嫌ったが、のちには大いに信頼を寄せるようになったこと、しかし、同じ俘囚出身である牡鹿郡大領の道嶋大盾は(卑しい)夷俘の出であるとして呰麻呂を見下し、侮ったため、呰麻呂は大盾に対して深い恨みを抱いていたことが記載されている。このことから、乱の原因については一般に怨恨説が採られている。

経過

宝亀11年(780年)、新たな城柵覚鱉城(かくべつじょう)の建設を紀広純が建議し、その際に伊治城[注 1] を訪れた機会を捉えた呰麻呂は、3月22日780年5月1日)、俘囚の軍(俘軍)を動かして反乱を起こし、まず大盾を殺し、次に広純を多勢で囲んで殺害した。

陸奥大伴真綱(おおとものまつな)だけは囲みを開いて多賀城に護送されたが、城下の住民が多賀城の中に入って城を守ろうとしたのに対し、真綱は陸奥石川浄足(いしかわのきよたり)とともに後門から隠れて逃げたため、住民もやむなく散り散りになって逃れた。数日後、俘囚軍は城に入って略奪行為を働き、焼き払って去ったという。当時、多賀城の倉庫には「兵器粮蓄 勝げて計うるべからず」(『続日本紀』)とある。

しかし、正史の記録は以後の経過を記さない。多賀城の略奪についてもその指揮官は不明であり、征東大使藤原継縄が任命されるも準備不足を理由に出立せずにのち罷免されるなど、朝廷側の対策も整わず、戦闘は拡大したと見られている。

戦後

戦闘の終了時期についてはその記録が無いため不明であるが、同年9月(同年10月)には藤原小黒麻呂持節征東大使となり、2,000の兵を率いて出兵し、敵の要害を遮断したと伝わる。翌・天応元年(781年)6月には現地軍を解散、8月に帰京し正三位に叙せられ、「征伐事畢入朝(意訳:征伐事業を終えて朝廷に戻った)」と『続日本紀』に見えることから、乱は終結に向かったと推察されている。しかし、「遺衆猶多」とあり、残党がなおも多くいたことも見えている。
また、天応元年(781年)に内蔵全成が征東副使として陸奥国へ派遣され、6月に平城京に帰京、9月には陸奥守に任ぜられるとともに、蝦夷征討の功労によって正五位上の昇叙と勲五等の叙勲を受けている。このことにより同時期には乱は終息に向かっており、同時に陸奥の治安維持のために内蔵全成を陸奥守として行政権を与えた上で派遣する必要があったと推測できる。内蔵全成は同年12月には鎮守副将軍も兼ねており、すなわち軍事権も与えられている。
のち789年(延暦8年)、蝦夷のリーダーである阿弖流為に朝廷軍は敗北し[1]、これを追討するために派遣された征夷大将軍坂上田村麻呂が一帯を征討したと伝わる。坂上田村麻呂と内蔵全成は同族である。




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