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世界遺産知床の歴史・文化 知床で花開いたトビニタイ文化を知る
知床で花開いたトビニタイ文化を知るhttp://shimaumaclub.sakura.ne.jp/wpbae359/wp-content/uploads/2015/08/201508220701-728x546.jpg羅臼町に飛仁帯(とびにたい=現在の羅臼町海岸町)という場所があります。《トペ・ニ・タイ(tope・ni・tay)=イタヤカエデの集まる森》というアイヌ語由来の地名ですが実は、この地名歴史学にとっては実に有名な地名になっています。
http://shimaumaclub.sakura.ne.jp/wpbae359/wp-content/uploads/2015/08/DSCN8683_3404DSCN8683.jpg
まずは北海道&知床の歴史を知ろう北海道には、旧石器時代からアイヌ文化期(中世から近世)に至るまで、約3万年間にわたる遺跡が発見発掘されているものだけで1万2000ヶ所ほどあります。そのうち、「地の果て」といわれる知床半島はいちばんの「遺跡密集地帯」となっています。
とくに半島東側の羅臼町側は、「住宅を建てようと土を掘り返せば必ず石器や土器が出る」というほどの密集ぶり。海岸に沿って随所に遺跡があります。
北海道の歴史は、旧石器時代→縄文時代→続縄文時代(紀元前3世紀頃から紀元7世紀頃=本州の弥生時代から古墳時代)→オホーツク文化(3世紀から13世紀頃)・擦文文化(さつもんぶんか=3世紀から13世紀頃)→アイヌ文化(13世紀から近代)と移行しています。
そのなかで同時に2つの文化が花開いたのがオホーツク文化と擦文文化です。
オホーツク文化は、北方系の海洋狩猟民族で、おもにオホーツク海岸沿いで集落を築きました。知床もこの文化圏です。舟を巧みに操り、捕鯨をしたりしていたことも判明しています。近年のDNA調査で、オホーツク人は樺太北部やシベリアのアムール川河口一帯に住むニブフ族に近く、アイヌ民族と共通性があるとの研究結果も出ています(縄文人の遺伝子にはなく、アイヌが持つ特有の遺伝子タイプmtDNAハプログループY遺伝子がオホーツク人の人骨から確認されています)。 擦文文化はおもに道南などで栄えた文化で、本州の土師器(はじき=古墳時代に編み出された素焼きの土器)の影響を受けた擦文式土器を特徴とする文化。続縄文時代には、その名の通り土器に「縄目の模様」が付けられていましたが、6世紀末から7世紀の擦文時代には表面に木のヘラで擦って刷毛目が付けられました。これが擦文(さつもん)と名付けられたゆえんです。
オホーツク文化と擦文文化の融合さてさて、飛仁帯(とびにたい)ですが、実はこの羅臼町飛仁帯で両文化の特徴を併せ持つ土器が出土しているのです。
知床半島には先住民族の遺跡が各所に残されています、とくに羅臼は、衰退したオホーツク文化(サハリンから渡来した海洋狩猟民族の文化)が、古墳文化の影響を受けた擦文文化との「融合」という形で痕跡をとどめる貴重な場所となっているのです。 民族の抗争が繰り返され、文化が衝突した知床。その背景には豊かな海洋資源があったことはいうまでもありません。 オホーツク文化は、サハリン南部から北海道・南千島のオホーツク沿岸部に展開した文化で住居は五角形・六角形をした大きな竪穴式で、室内にはクマの頭蓋骨を祭る骨塚が設けられていました。アイヌ文化の狩猟技術や建築方法も、オホーツク文化から取り入れたものではないかといわれています。そんなオホーツク文化はやがて擦文文化に吸収されてゆきのですが、そのプロセスが「トビニタイ文化」として知床にはしっかりと刻まれています。「トビニタイ文化」は、昭和35年に東京大学の調査隊が羅臼町飛仁帯(とびにたい)で発見した出土物が名称の由来となっている文化なのです。
擦文文化の竪穴住居=隅が丸い四角。南東側の壁にカマドを設置し、中央部の床に炉を切っています。
オホーツク文化の竪穴住居=五角形ないし六角形。石組み炉を所有。 トビニタイ文化の竪穴住居=隅が丸い四角。石組み炉を所有。 擦文文化の土器=菱形ないし深鉢形。刻線文。
オホーツク文化の土器=壺形。粘土紐の貼付文(ソーメン文)。 トビニタイ式土器=形は底部を除いて擦文土器と同じ。紐状貼付文(ソーメン文)。 トビニタイ文化人は、擦文文化人の技術集団から土器の製造方法を学んだと推測され、「接触・交流というレベルを超え、擦文文化集団との間に社会的なネットワークの一部を共有していた」と考えられています。オホーツク人の生業=海を舞台とする海獣狩猟、擦文人=鮭鱒をメインとする漁労というふたつの文化は海洋資源の豊かな知床でダイナミックに交わったのです。
境界の村の居住者 - J-Stage(Adobe PDF)
www.jstage.jst.go.jp/article/.../10/16/10_16.../_pdf
トビニタイ文化 ”集落における居住者の出自と世帯構成. 大 西 秀 之. I.問題の所在. II. 土器群の様相. III.住居址の構造 と系統. IV. 居住者の出自と世帯構成. 論 文 要 旨. “ トビニタイ文化”とは. ,形質的 ・遺伝的に系統を異にするオホーツク文化集団と擦文文化 集団 ... 境界の村の居住者
“トビニタイ文化”集落における居住者の出自と世帯構成 I.問題の所在 II.土器群の様相 III.住居址の構造と系統 IV. 居住者の出自と世帯構成 論文要旨 “トビニタイ文化”とは ,形質的・遺伝的に系統を異にするオホーツク文化集団と擦文文化集団が, 北海道東部地域において接触・融合し形成された文化コンプレックスである。そこでの異系統集団 の接触・融合は,単に考古資料のレベルのみならず,まさに個人の遺伝レベルにおいても生起して いたことが明らかにされている。しかし,これまで,どれくらいの規模の擦文文化集団が“トビニ タイ文化”の集落に入り込み,そこでどのような社会的関係を取り結んでいたのか,という問いに 対する十全な回答は提起されてこなかった。 そのような課題を踏まえ,本稿では,“ トビニタイ文化”における異系統集団の多層的な社会関係 へのアプローチを試みる。こうした目的の下,本稿では,土器群の組成について検討をおこなった 上で,“ トビニタイ文化”の住居址の属性分析を加える。まず,土器群の組成からは,時期的・地域 的に差異を示しつつも,搬入品や模倣品を含めた“擦文式土器”の割合が増加する反面,土器群に占 めるトビニタイ土器の割合が低下し,一次接触地帯では土器群の主体がトビニタイ土器から“擦文 式土器”に移行してしまう,という傾向が捉えられる。しかし反面,住居址の属性分析からは,そ の多くがオホーツク文化の系譜に位置づけられるものであり,また擦文文化的な属性はトビニタイ 土器製作集団の側が主体的に受容したものである,という結論が導びかれる。 以上の結果を是認する限り,“ トビニタイ文化”の主要な担い手は,あくまでもオホーツク文化の 末裔たるトビニタイ土器製作集団であると想定せざるをえない。さらに,住居址から想定される居 住形態に依拠するならば,“ トビニタイ文化”の集落における擦文文化集団は,常態として,彼等が 単独で世帯を形成することなく,トビニタイ土器製作集団を主体とする世帯のなかに同居していた との推論が成り立つ。最後に,そうした擦文文化出自の人物の同居は,ひとつの可能性として「婚 入」によって生起したという仮説を提起する。 2.住居址の居住者
以上ここまで,“ トビニタイ文化”の住居址に認められる諸属性を対象とし,それらが生起する背景について考 察を加えてきた。その成果は,一部,トビニタイ土器製作集団と擦文文化集団の接触・融合に関わる視座を含む ものであった。そこで,こうした成果をもとに,ここでは,“ トビニタイ文化”の集落における,トビニタイ土器 製作集団と擦文文化集団の接触・交流のあり方について読み解きを試みる。 なによりもまず提起しうることは,住居址の属性分析の結果に依拠する限り,“ トビニタイ文化”の集落におけ
る構成員の主体者は,あくまでもトビニタイ土器製作集団であったという想定が成り立つことである。それは, “擦文式土器”が土器群の主体となる後期のエリアIも例外ではないない。なぜなら,“ トビニタイ文化”の住居址 は,基本的にオホーツク文化の系譜に位置づけられるものであり,典型的な擦文文化の住居址に比定されるプラ ソC― 構造C― 施設Cといった属性を兼ね備えるものは,後期のエリアIにおいてわずかな軒数が認められる に過ぎないからである。 さらに,時期的・地域的なズレを示しつつも,擦文文化的な要素が段階的に増加してゆく過程を加味するなら ば,すべての属性を擦文文化の住居址と共有するものであっても,必ずしも擦文文化集団によって構築されたと は断言しえなくなる。たとえば,嘉多山3遺跡[和田・米村1993]では,プラソc― 構造c― 施設dという属性 を備えた住居址が検出されているが,これなどは,石囲炉さえなければ擦文文化の住居址となんら変わらないも のとなる(図13)。このような住居址の存在を考慮すると,図13石囲炉と竈が併設された住居址 少なくともエリアIの後期では,トビニタイ土器製作集団が自らの系譜にはない竃さえも構築していた可能性が 高くなる。 これに対し,上述のような想定は,擦文文化集団の側が,オホーツク文化的な要素を取り入れた可能性を無視 している,という批判ないし反論が提起されるかもしれない。だが,そうした想定は,擦文文化に関する限り成 り立ち難いといえる。というのは,道央部から拡散した擦文文化集団は,すべての移住地において非常に斉一性 が高い住居址を残しているからである21)。事実,“ トビニタイ文化”の分布圏と隣接する常呂川下流域において さえ,擦文文化集団は,かたくなに移住元である道央部における住居址の規格― すなわちプランc― 構造c ―施設cの属性群― を踏襲している。 それゆえ,平面プランや柱穴の配置構造はもとより,石囲炉であっても,擦文文化集団の側が,それらを“ト ビニタイ文化”から受容し,あえて自らの住居に構築したとは考え難い。逆に,もし,ある程度の規模の擦文文 化集団が,“ トビニタイ文化”の集落に入り込んでいたのであるならば,一般的な擦文文化の住居を構築すると仮 定すべきだろう。それが可能でなかったのは,トビニタイ土器製作集団との関係において,来訪者である擦文文 化集団自身が住居を構築しえない状況におかれていたからにほかならない。 さらに付言するならば,そうした状況は,“ トビニタイ文化”の集落において,擦文文化集団の来訪者が,独 自に一世帯を形成していなかったことを反映しているといえる。なぜなら,“ トビニタイ文化”の集落の構成員に 占める割合が小さくとも,擦文文化集団の来訪者のみで一世帯を形成していたのならば ,その世帯は一般的な擦文文化の住居を構築し,そこに居住する可能性が高いからである。 唯一,後期のエリアIにおいては,典型的な擦文文化の住居址とみなしうるものが数件検出されてはいる(図
日本考古学第16号14)。だが,嘉多山3遺跡の事例をもとに指摘したよう に,この時期になると,擦文文化に一般的な属性を備える住居址であっても,トビニタイ土器製作集団によって 構築された可能性が高く,短絡的に,その居住者の出自を判別することはできない。それゆえ,後期のエリアIの場合であっても,典型的な擦文文化の住居址に比定されるものの数が,その集落における擦文文化集団の規模 として捉えることはできないのである。これを裏づけるように,擦文文化に一般的な属性を備える住居址からも トビニタイ土器が出土している[金盛・村田・松田1981:47-48,55]。 これまでの議論を総合的に判断するならば,その他の時期,地域はいうまでもなく,後期のエリアIにおいて も,ほとんどがトビニタイ土器製作集団を主体とする世帯であり,仮に,擦文文化集団のみで構成される世帯が 存在していたとしても,非常に例外的なものであったと想定せざるをえない。 であるならば,エリアIを中心とした集落における擦文文化集団出自の来訪者は,常態として,トビニタイ土 器製作集団を主体とする世帯のなかに同居していたこととなる。では,そうした世帯構成は,いかなる要因によ って生起したのであろうか。 ひとつの可能性として,擦文文化からの来訪者は,「婚入者」として,それぞれの世帯に受け入れられていた という仮説を提起することができるだろう。また,この仮説には,擦文文化集団との遺伝情報の交換を示唆する 形質人類学的研究から提起された強力な裏づけデータがある[高山1991]。もっとも,せいぜい4〜6人程度の 居住者数と想定される“トビニタイ文化”の世帯規模を想起するならば,出自を異にする人物を世帯に受け入れる 要因を,「婚入」以外に考えることはかなり困難なことではある。ともあれ,これまでの議論を総合する限り,擦 文文化集団の来訪・居住は,擦文文化集団出自の人物のトビニタイ土器製作集団への「婚入」によって生起したという仮説の蓋然性は高いといえよう。 なお,上記の仮説の正否は別としても,オホーツク文化の末喬であるトビニタイ土器製作集団と擦文文化集団
の遺伝情報の交換は,決して限定的なものではなく,相当な規模・頻度で進んでいたと推察される。なぜなら, 擦文文化出自の来訪者の存在を積極的に窺いえなかったエリアIIに位置するオタフク岩洞窟で検出された古人骨にも,両集団の遺伝情報の交換に起因する形質的特徴が認められるためである。 こうした形質的特徴が出現するためには,一次接触地帯であるエリアIを超え,同地域にも擦文文化出自の人物が直接来訪していたか,エリアIにおける両集団の遺伝情報の交換が相当に進み,そこからの「婚入者」を受け入れた結果,間接的にもたらされたか,どちらかの状況を考えるよりほかにない。いずれ図14エリアIにおける集落遺跡の状況 のケースにせよ,擦文文化集団との遺伝情報の交換が活発であったことを示唆するものといえよう。
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擦文式土器の使用の始まりは6世紀後葉から7世紀はじめ(飛鳥時代に相当)にあり、ここから擦文時代が始まる。
前代の続縄文時代には、土器に縄目の模様が付けられたが、擦文時代には表面に刷毛目が付けられた。これは土器の表面を整えるため木のへらで擦ってつけたものと考えられており、これが擦文の名の由来である。
この土器の表面調整技法は同時期の本州の土師器にも使用されており、この点にも土師器からの強い影響が窺える。
土器型式では北大II式までは続縄文土器であり北大III式から擦文土器に含まれる。擦文土器は前代の続縄文土器の影響が残る時期のもの(6 - 7世紀、飛鳥時代)、土師器の影響を最も強く受け東北地方の土師器に酷似する時期のもの(7世紀後半 - 8世紀、奈良時代ころ)、擦文文化独特の土器に刻目状の文様が付けられる時期(9世紀、平安時代前期以降)のものに大別される。独特の刻目状の文様の土器を狭義の擦文土器とする研究者も存在する。
擦文文化からアイヌ文化への移行についてははっきりしたことがわかっていない
2018/8/25(土) 午後 4:59 [ 白フクロウの眼差し ]