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未だ覚めず池塘春草(ちとうしゅんそう)の夢 、一寸の光陰軽んずべからず

考古学

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霧多布湿原   

湿原中心部の泥炭
霧多布湿原(きりたっぷしつげん)は北海道厚岸郡浜中町にある湿原厚岸道立自然公園に含まれる。面積は3,168haで、釧路湿原サロベツ原野に次いで国内3番目の広さである。春(6月)から秋(9月)まで、さまざまな花が咲き湿原を彩り、花の湿原とも呼ばれる。


概要[ソースを編集]

湿原中心部の泥炭で形成された高層湿原部分803haが、1922年大正11年)10月12日に国の天然記念物「霧多布泥炭形成植物群落」に指定された(保全を目的として指定当時より周辺国有地86haが追加されている)。1993年6月1日に、厚岸湖と別寒辺牛湿原とともに、国指定厚岸・別寒辺牛・霧多布鳥獣保護区(集団飛来地)に指定された(総面積11,271ha、うち特別保護地区7,781ha)。また1993年6月10日ラムサール条約登録湿地にも登録された(範囲は2,504ha)。2001年には北海道遺産に選定された。
1986年には湿原の環境保護のため地元の有志により民有の湿原を借り上げ自然を保全する活動が開始され、その後NPO法人霧多布湿原トラストが保全活動を活動を行っている(後述)。

位置[ソースを編集]

7月初旬、白いワタスゲの実
北海道の東部、釧路根室のほぼ中間の太平洋岸にある。南西から北東に延びる海岸線に沿って長さ約9km、奥行き約3kmに広がる。
「霧多布」の地名はアイヌ語で「茅を刈るところ」を意味する「キータプ」に由来するが、実際に北海道東部太平洋沿岸に特徴的な海霧の影響を受け、の多い土地である。湿原南部の琵琶瀬湾には漁港があり近海の魚介の水揚げや昆布漁を行っている。本来の霧多布の集落は湿原から霧多布大橋を渡った湯沸島(霧多布島)にあり、浜中町役場や温泉施設もここにある。霧多布岬(島の東端)の沖にある小島(無人島)は、絶滅危惧種エトピリカの生息地である。
湿原の中心を横断する道(一般道道琵琶瀬茶内停車場線)は湿原保存のため道の下を水が通る構造になっている。この道はMGロード(Marshy Grassland Road)の愛称が付けられ、歩道が整備され、各所に見晴らし場所や記念碑が設けられている。
西側の高台には琵琶瀬展望台、北側の丘の上には霧多布湿原センターがある。この霧多布湿原センターでは湿原についてわかりやすく解説されており、ここからは双眼鏡などでタンチョウを観察できる。

花の湿原[ソースを編集]

花の湿原と呼ばれるのは釧路湿原などに比べて花の種類が多く花の密度が高いためである。原生花園が広がり、春から秋にかけ多様な花が咲く。特に初夏を告げる白いワタスゲ、夏の訪れと共に咲く黄色いエゾカンゾウなどは湿原一面を彩る。夏には数組のタンチョウが繁殖を行っており、ツル以外にもさまざまな鳥類が観察できる。また天然記念物に指定されている湿原のコア部分(約800ha)に立ち入る際には文化庁長官の許可が必要であるが、コア部外の湿原内には観察のための木道や展望台が整備されている。
湿原を彩る花は以下のとおりである(季節順)。
エゾカンゾウ。奥に木道が見える

湿原の成り立ち

約6000年前の縄文時代は世界的に今よりも気候が温暖で、極地の氷床が大量に溶けて海水面が上昇したことが知られている(縄文海進を参照)。当時は霧多布湿原も釧路湿原も陸に大きく入り込んだ湾であった。その後 気候の冷涼化に従って海水面が低下したが、霧多布では海岸部に砂丘があったため内陸側に沼が残った。この沼が水はけの悪い低地となりアシスゲ類、ミズゴケなどが繁茂して湿原が形成されていった。

ナショナル・トラスト運動

湿原の中心部は天然記念物であるが周辺部は民有地である。1986年、地元の有志を発起人として、美しい花の湿原を後世に残すことを目的に「霧多布湿原ファンクラブ」が発足した。この活動は2000年特定非営利活動法人である「霧多布湿原トラスト」に受け継がれた。このトラストは民有地の買い上げや、湿原観察のための木道などの整備、自然を大切にする教育・啓蒙などの活動を行っている。これらの活動が評価され、同法人は2007年11月に第3回エコツーリズム大賞を受賞した。

転載元転載元: 北海道にまた行きたいな

文化財・博物館課 >  北海道東部の窪みで残る大規模竪穴住居跡群
 北海道東部の窪みで残る大規模竪穴住居跡群
 北海道東部のオホーツク海沿岸に所在する北見市常呂遺跡、標津町標津遺跡群は我が国最大規模の竪穴住居跡群で、合わせると5,000軒以上もの竪穴住居跡が地表面から確認でき、その学術的重要性から広大な区域が国の史跡として指定されています。
 両遺跡は、窪みの形状や分布調査の結果から、縄文時代からアイヌ文化期の約8,000年に及ぶ長い期間、営まれていたことが明らかになっています。同一地域において居住が繰り返されていたことは、当該地域の人々が自然と調和して継続的に生活してきたことを物語り、人類と自然の調和を示す顕著な見本であることから、周辺の環境と共に、世界遺産に登録して後世に引き継ぐべき貴重な文化資産と考えられます。

 北海道・北見市・標津町では世界遺産暫定一覧表記載資産候補に係る以下の提案書を文化庁に共同で提出しました。
提案書 全文一括PDFファイル:2.32MB)

     表紙・目次 (PDFファイル:99KB)

    1 提案のコンセプト (PDFファイル:1366KB)
     (1)資産名称・概要
     (2)写真
     (3)図面

    2 資産に含まれる文化財
     (1)整理表 (PDFファイル:79KB)
     (2)構成要素ごとの位置図と写真
       ・常呂遺跡 (PDFファイル:2077KB)
       ・標津町標津遺跡群 (PDFファイル:2821KB)

    3 保存管理計画 (PDFファイル:73KB)
     (1)個別構成要素に係る保存管理計画の概要、又は策定に向けての検討状況
     (2)資産全体の包括的な保存管理計画の概要、又は策定に向けての検討状況
     (3)資産と一体をなす周辺環境の範囲、それに係る保全措置の概要又は措置に関する検討状況

    4 世界遺産の登録基準への該当性 (PDFファイル:90KB)
     (1)資産の適用種別及び世界文化遺産の登録基準の番号
     (2)真実性/完全性の証明
     (3)類似遺産との比較

                                                                                                         


                http://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/image.jsp?id=262406
              北見市常呂遺跡                              標津町標津遺跡群
http://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/image.jsp?id=262497  


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ポー川史跡公園案内図


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標津町年表
1700元禄御国絵図を幕府に献上。この図に「ちべ内」と記載。標津が文献に表われた初め。
1701厚岸場所の奥地を分離して、霧多布場所を設ける。
1758ノッシヤムの酋長シクフが部下2、3千人を率いて宗谷えぞを襲撃、60余人を殺し、200余人を傷つけた。
1759藩士湊覚之進は7月シクフを厚岸に招き、昨年の騒乱を罰し、手印として宝物を提出せしめて許す。
1774霧多布外3場所を飛弾屋久兵衛に請負わす。クナシリ酋長ツキノエ飛弾屋の交易船に暴行。
1783夏宗谷、目梨のえぞ8、9百人が餓死。
1783秋飢饉、年かわれど止まず。
1785幕府派遣のえぞ地分検隊標津を通過。この時ツキノエ隊長に会いたがり松前藩士に阻止さる。
17869月7日夜幕府派遣の神通丸は標津沖で五社丸は西別沖で暴風のため沈没。
1789国後、目梨のアイヌ反乱。和人70人を殺害。飛弾屋を免じ、村上伝兵衛に場所請負を命ず。
1794運上屋をノッカマップより根室へ移し、根室領と称す。
1796小林宗九郎、熊野屋忠右衛門、根室場所請負人となる。


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古道遺跡(標津



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三本木遺跡


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窪み



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◆「北海道東部の窪みで残る大規模竪穴住居跡群」について
◆経緯
 平成18及び19年の2年度にわたり、文化庁からの公募に応じて、各地方団体団体から新たに日本の世界遺産暫定一覧表に記載するべき文化資産が提案されました。平成19年9月、北海道は北見市及び標津町とともに「北海道東部の窪みで残る大規模竪穴住居跡群」を国内暫定一覧表に記載するよう文化庁に提案しました提案書。平成18年度には全国で24件、19年度には「北海道・北東北の縄文遺跡群」(12月提案、提案書)を含む32件(18年度案件の再提案19件を含む)が提案されています。
 「北海道東部の窪みで残る大規模竪穴住居跡群」は、北見市に所在する「史跡 常呂遺跡(ところいせき)」と標津町所在の「史跡 標津遺跡群(しべついせきぐん)」から構成されています。2つの史跡ではそれぞれ約128ha・373haという広大な面積が指定・保護されており、常呂遺跡では約2,700軒あまり、標津遺跡群では約2,500軒(隣接の未指定地にさらに約1,900軒存在)という膨大な数の竪穴住居跡が残されています。
◆「世界文化遺産特別委員会」による調査・審議


 平成18年9月、文部科学大臣の諮問機関である「文化審議会」の文化財分科会に「世界文化遺産特別委員会」が設置され、地方公共団体からの提案について専門的な見地から詳細な検討を加えました。 平成20年9月26日、文化審議会の世界文化遺産特別委員会は平成19年度提案の案件に関する調査・審議の結果を発表し、「北海道・北東北の縄文遺跡群」を含む5件を「世界遺産暫定一覧表記載文化資産」とし、それ以外の27件を「世界遺産暫定一覧表候補の文化資産」として整理しました。
 「候補の文化資産」に対してはさらに「カテゴリーIa」「同Ib」「同II」の分類がなされ、「北海道東部の窪みで残る大規模竪穴住居跡群」は「カテゴリーII」に区分されました。特別委員会は「カテゴリーII」に該当する文化資産について次のように総括しています。
 「我が国の歴史や文化を表す一群の文化資産としては、いずれも高い価値を有するものであるが、今回の提案内容を基に世界遺産を目指す限りにおいては、現在のイコモスや世界遺産委員会の審査傾向の下では、顕著な普遍的価値を証明することが難しいと考えられるものである。そこで、これらの文化資産については、当面は、文化財の適切な保存・活用の視点を踏まえつつ、まちづくりや地域づくりに総合的に活かしていくための取組を進めることが望ましいと考える。」
 また、「北海道東部の窪みで残る大規模竪穴住居跡群」に関する特別委員会の総合的評価は次のようなものです。
 「気候環境の影響から、竪穴住居が完全に埋まりきらず、窪みの状態で残されている常呂遺跡、標津遺跡群は、それぞれ2,000基以上から成る我が国最大規模の竪穴住居跡群として知られ、両遺跡は縄文時代早期から続縄文時代を経て、擦文・オホーツク文化期のおよそ7,000年もの長期間にわたって営まれてきたことを物語る資産である。北海道の寒冷気候のために独特の可視的な遺存状況を示す考古学的遺跡であり、7,000年にわたる人類と自然との調和の過程を示す考古学的遺跡として、価値は高い。
 そして、引き続き世界遺産を目指す場合の具体的な課題等が、次のように示されました。
 「世界史的・国際的な観点から、人類と自然との調和の過程を示し、独特の可視的な遺存状況を示す考古学的遺跡群の代表例・典型例として、本資産が顕著な普遍的価値を持つことの証明が不十分である。」 
 「地形の凹凸から成る竪穴住居跡の考古学的遺跡の世界的評価の可能性や、北海道における縄文時代から擦文・オホーツク文化、さらには本遺跡群に後続するアイヌ文化の連続性を視野に入れた主題設定及び資産構成の可能性について検討する観点から、北海道オホーツク海沿岸に広域にわたって展開する同種の考古学的遺跡との比較等を含め、十分な調査研究を行うことが重要である。」
◆今後の取り組み
 特別委員会の結論は、北海道と北見市・標津町の提案内容を妥当なものとして評価しながらも、世界遺産登録の条件となる「顕著な普遍的価値」の証明が十分でないことを指摘したものとなっています。たとえ2つの史跡それ自体が重要・貴重なものであるとしても、世界の各地で見られる竪穴住居跡群を代表する存在として並ぶものがない(あるいは少なくともきわめて代表的なものである)ことが証明されなければ、世界遺産にふさわしいとの評価を受けることはできません。
 今後、国内外の他の竪穴住居跡群やアイヌ文化の遺跡群などとの比較研究、遺跡群と自然環境の関連の究明などに取り組み、「連続性のある複数の資産」(serial nomination)としての構成にも検討を加えて「顕著な普遍的価値」の証明をすることによって、国内暫定一覧表への追加記載や、さらに進んで政府による推薦への道も開かれていくものと考えられます。
 北海道と北見市・標津町は、2つの史跡の適切な管理を通じて世界遺産条約の本来の目的である文化財の保存・継承を確保しながら、北海道の東北部を代表する先史文化遺産としての「窪みで残る大規模竪穴住居群」の真価を明らかにするため、長期的に取り組みを継続して行く考えです。 

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転載元転載元: 北海道にまた行きたいな





トビ二タイ文化

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世界遺産知床の歴史・文化 知床で花開いたトビニタイ文化を知る

知床で花開いたトビニタイ文化を知る

http://shimaumaclub.sakura.ne.jp/wpbae359/wp-content/uploads/2015/08/201508220701-728x546.jpg
羅臼町に飛仁帯(とびにたい=現在の羅臼町海岸町)という場所があります。《トペ・ニ・タイ(tope・ni・tay)=イタヤカエデの集まる森》というアイヌ語由来の地名ですが実は、この地名歴史学にとっては実に有名な地名になっています。
http://shimaumaclub.sakura.ne.jp/wpbae359/wp-content/uploads/2015/08/DSCN8683_3404DSCN8683.jpg

まずは北海道&知床の歴史を知ろう

北海道には、旧石器時代からアイヌ文化期(中世から近世)に至るまで、約3万年間にわたる遺跡が発見発掘されているものだけで1万2000ヶ所ほどあります。そのうち、「地の果て」といわれる知床半島はいちばんの「遺跡密集地帯」となっています。
とくに半島東側の羅臼町側は、「住宅を建てようと土を掘り返せば必ず石器や土器が出る」というほどの密集ぶり。海岸に沿って随所に遺跡があります。
北海道の歴史は、旧石器時代→縄文時代→続縄文時代(紀元前3世紀頃から紀元7世紀頃=本州の弥生時代から古墳時代)→オホーツク文化(3世紀から13世紀頃)・擦文文化(さつもんぶんか=3世紀から13世紀頃)→アイヌ文化(13世紀から近代)と移行しています。

そのなかで同時に2つの文化が花開いたのがオホーツク文化と擦文文化です。
オホーツク文化は、北方系の海洋狩猟民族で、おもにオホーツク海岸沿いで集落を築きました。知床もこの文化圏です。舟を巧みに操り、捕鯨をしたりしていたことも判明しています。近年のDNA調査で、オホーツク人は樺太北部やシベリアのアムール川河口一帯に住むニブフ族に近く、アイヌ民族と共通性があるとの研究結果も出ています(縄文人の遺伝子にはなく、アイヌが持つ特有の遺伝子タイプmtDNAハプログループY遺伝子がオホーツク人の人骨から確認されています)。

擦文文化はおもに道南などで栄えた文化で、本州の土師器(はじき=古墳時代に編み出された素焼きの土器)の影響を受けた擦文式土器を特徴とする文化。続縄文時代には、その名の通り土器に「縄目の模様」が付けられていましたが、6世紀末から7世紀の擦文時代には表面に木のヘラで擦って刷毛目が付けられました。これが擦文(さつもん)と名付けられたゆえんです。



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オホーツク文化と擦文文化の融合

さてさて、飛仁帯(とびにたい)ですが、実はこの羅臼町飛仁帯で両文化の特徴を併せ持つ土器が出土しているのです。
知床半島には先住民族の遺跡が各所に残されています、とくに羅臼は、衰退したオホーツク文化(サハリンから渡来した海洋狩猟民族の文化)が、古墳文化の影響を受けた擦文文化との「融合」という形で痕跡をとどめる貴重な場所となっているのです。 民族の抗争が繰り返され、文化が衝突した知床。その背景には豊かな海洋資源があったことはいうまでもありません。
オホーツク文化は、サハリン南部から北海道・南千島のオホーツク沿岸部に展開した文化で住居は五角形・六角形をした大きな竪穴式で、室内にはクマの頭蓋骨を祭る骨塚が設けられていました。アイヌ文化の狩猟技術や建築方法も、オホーツク文化から取り入れたものではないかといわれています。そんなオホーツク文化はやがて擦文文化に吸収されてゆきのですが、そのプロセスが「トビニタイ文化」として知床にはしっかりと刻まれています。「トビニタイ文化」は、昭和35年に東京大学の調査隊が羅臼町飛仁帯(とびにたい)で発見した出土物が名称の由来となっている文化なのです。
擦文文化の竪穴住居隅が丸い四角。南東側の壁にカマドを設置し、中央部の床に炉を切っています。
オホーツク文化の竪穴住居五角形ないし六角形。石組み炉を所有。
トビニタイ文化の竪穴住居隅が丸い四角石組み炉を所有。
擦文文化の土器=菱形ないし深鉢形。刻線文
オホーツク文化の土器=壺形。粘土紐の貼付文(ソーメン文)
トビニタイ式土器=形は底部を除いて擦文土器と同じ。紐状貼付文(ソーメン文)
トビニタイ文化人は、擦文文化人の技術集団から土器の製造方法を学んだと推測され、「接触・交流というレベルを超え、擦文文化集団との間に社会的なネットワークの一部を共有していた」と考えられています。オホーツク人の生業=海を舞台とする海獣狩猟、擦文人=鮭鱒をメインとする漁労というふたつの文化は海洋資源の豊かな知床でダイナミックに交わったのです。



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境界の村の居住者 - J-Stage

(Adobe PDF)
www.jstage.jst.go.jp/article/.../10/16/10_16.../_pdf
トビニタイ文化集落における居住者の出自と世帯構成. 大 西 秀 之. I.問題の所在. II. 土器群の様相. III.住居址の構造 と系統. IV. 居住者の出自と世帯構成. 論 文 要 旨. “ トビニタイ文化”とは. ,形質的 ・遺伝的に系統を異にするオホーツク文化集団と擦文文化 集団 ...
境界の村の居住者
“トビニタイ文化”集落における居住者の出自と世帯構成

I.問題の所在
II.土器群の様相
III.住居址の構造と系統
IV. 居住者の出自と世帯構成
論文要旨
“トビニタイ文化”とは
,形質的・遺伝的に系統を異にするオホーツク文化集団と擦文文化集団が,
北海道東部地域において接触・融合し形成された文化コンプレックスである。そこでの異系統集団
の接触・融合は,単に考古資料のレベルのみならず,まさに個人の遺伝レベルにおいても生起して
いたことが明らかにされている。しかし,これまで,どれくらいの規模の擦文文化集団が“トビニ
タイ文化”の集落に入り込み,そこでどのような社会的関係を取り結んでいたのか,という問いに
対する十全な回答は提起されてこなかった。

そのような課題を踏まえ,本稿では,“ トビニタイ文化”における異系統集団の多層的な社会関係
へのアプローチを試みる。こうした目的の下,本稿では,土器群の組成について検討をおこなった
上で,“ トビニタイ文化”の住居址の属性分析を加える。まず,土器群の組成からは,時期的・地域
的に差異を示しつつも,搬入品や模倣品を含めた“擦文式土器”の割合が増加する反面,土器群に占
めるトビニタイ土器の割合が低下し,一次接触地帯では土器群の主体がトビニタイ土器から“擦文
式土器”に移行してしまう,という傾向が捉えられる。しかし反面,住居址の属性分析からは,そ
の多くがオホーツク文化の系譜に位置づけられるものであり,また擦文文化的な属性はトビニタイ
土器製作集団の側が主体的に受容したものである,という結論が導びかれる。

以上の結果を是認する限り,“ トビニタイ文化”の主要な担い手は,あくまでもオホーツク文化の
末裔たるトビニタイ土器製作集団であると想定せざるをえない。さらに,住居址から想定される居
住形態に依拠するならば,“ トビニタイ文化”の集落における擦文文化集団は,常態として,彼等が
単独で世帯を形成することなく,トビニタイ土器製作集団を主体とする世帯のなかに同居していた
との推論が成り立つ。最後に,そうした擦文文化出自の人物の同居は,ひとつの可能性として「婚
入」によって生起したという仮説を提起する。



2.住居址の居住者
以上ここまで,“ トビニタイ文化”の住居址に認められる諸属性を対象とし,それらが生起する背景について考
察を加えてきた。その成果は,一部,トビニタイ土器製作集団と擦文文化集団の接触・融合に関わる視座を含む
ものであった。そこで,こうした成果をもとに,ここでは,“ トビニタイ文化”の集落における,トビニタイ土器
製作集団と擦文文化集団の接触・交流のあり方について読み解きを試みる。

なによりもまず提起しうることは,住居址の属性分析の結果に依拠する限り,“ トビニタイ文化”の集落におけ
る構成員の主体者は,あくまでもトビニタイ土器製作集団であったという想定が成り立つことである。それは,
“擦文式土器”が土器群の主体となる後期のエリアIも例外ではないない。なぜなら,“ トビニタイ文化”の住居址
は,基本的にオホーツク文化の系譜に位置づけられるものであり,典型的な擦文文化の住居址に比定されるプラ
ソC― 構造C― 施設Cといった属性を兼ね備えるものは,後期のエリアIにおいてわずかな軒数が認められる
に過ぎないからである。

さらに,時期的・地域的なズレを示しつつも,擦文文化的な要素が段階的に増加してゆく過程を加味するなら
ば,すべての属性を擦文文化の住居址と共有するものであっても,必ずしも擦文文化集団によって構築されたと
は断言しえなくなる。たとえば,嘉多山3遺跡[和田・米村1993]では,プラソc― 構造c― 施設dという属性
を備えた住居址が検出されているが,これなどは,石囲炉さえなければ擦文文化の住居址となんら変わらないも
のとなる(図13)。このような住居址の存在を考慮すると,図13石囲炉と竈が併設された住居址
少なくともエリアIの後期では,トビニタイ土器製作集団が自らの系譜にはない竃さえも構築していた可能性が
高くなる。

これに対し,上述のような想定は,擦文文化集団の側が,オホーツク文化的な要素を取り入れた可能性を無視
している,という批判ないし反論が提起されるかもしれない。だが,そうした想定は,擦文文化に関する限り成
り立ち難いといえる。というのは,道央部から拡散した擦文文化集団は,すべての移住地において非常に斉一性
が高い住居址を残しているからである21)。事実,“ トビニタイ文化”の分布圏と隣接する常呂川下流域において
さえ,擦文文化集団は,かたくなに移住元である道央部における住居址の規格― すなわちプランc― 構造c
―施設cの属性群― を踏襲している。

それゆえ,平面プランや柱穴の配置構造はもとより,石囲炉であっても,擦文文化集団の側が,それらを“ト
ビニタイ文化”から受容し,あえて自らの住居に構築したとは考え難い。逆に,もし,ある程度の規模の擦文文
化集団が,“ トビニタイ文化”の集落に入り込んでいたのであるならば,一般的な擦文文化の住居を構築すると仮
定すべきだろう。それが可能でなかったのは,トビニタイ土器製作集団との関係において,来訪者である擦文文
化集団自身が住居を構築しえない状況におかれていたからにほかならない。

さらに付言するならば,そうした状況は,“ トビニタイ文化”の集落において,擦文文化集団の来訪者が,独
自に一世帯を形成していなかったことを反映しているといえる。なぜなら,“ トビニタイ文化”の集落の構成員に
占める割合が小さくとも,擦文文化集団の来訪者のみで一世帯を形成していたのならば
,その世帯は一般的な擦文文化の住居を構築し,そこに居住する可能性が高いからである。

唯一,後期のエリアIにおいては,典型的な擦文文化の住居址とみなしうるものが数件検出されてはいる(図   
日本考古学第16号14)。だが,嘉多山3遺跡の事例をもとに指摘したよう
に,この時期になると,擦文文化に一般的な属性を備える住居址であっても,トビニタイ土器製作集団によって
構築された可能性が高く,短絡的に,その居住者の出自を判別することはできない。それゆえ,後期のエリアIの場合であっても,典型的な擦文文化の住居址に比定されるものの数が,その集落における擦文文化集団の規模
として捉えることはできないのである。これを裏づけるように,擦文文化に一般的な属性を備える住居址からも
トビニタイ土器が出土している[金盛・村田・松田1981:47-48,55]。

これまでの議論を総合的に判断するならば,その他の時期,地域はいうまでもなく,後期のエリアIにおいて
も,ほとんどがトビニタイ土器製作集団を主体とする世帯であり,仮に,擦文文化集団のみで構成される世帯が
存在していたとしても,非常に例外的なものであったと想定せざるをえない。

であるならば,エリアIを中心とした集落における擦文文化集団出自の来訪者は,常態として,トビニタイ土
器製作集団を主体とする世帯のなかに同居していたこととなる。では,そうした世帯構成は,いかなる要因によ
って生起したのであろうか。

ひとつの可能性として,擦文文化からの来訪者は,「婚入者」として,それぞれの世帯に受け入れられていた
という仮説を提起することができるだろう。また,この仮説には,擦文文化集団との遺伝情報の交換を示唆する
形質人類学的研究から提起された強力な裏づけデータがある[高山1991]。もっとも,せいぜい4〜6人程度の
居住者数と想定される“トビニタイ文化”の世帯規模を想起するならば,出自を異にする人物を世帯に受け入れる
要因を,「婚入」以外に考えることはかなり困難なことではある。ともあれ,これまでの議論を総合する限り,擦
文文化集団の来訪・居住は,擦文文化集団出自の人物のトビニタイ土器製作集団への「婚入」によって生起したという仮説の蓋然性は高いといえよう。

なお,上記の仮説の正否は別としても,オホーツク文化の末喬であるトビニタイ土器製作集団と擦文文化集団
の遺伝情報の交換は,決して限定的なものではなく,相当な規模・頻度で進んでいたと推察される。なぜなら,
擦文文化出自の来訪者の存在を積極的に窺いえなかったエリアIIに位置するオタフク岩洞窟で検出された古人骨にも,両集団の遺伝情報の交換に起因する形質的特徴が認められるためである。

こうした形質的特徴が出現するためには,一次接触地帯であるエリアIを超え,同地域にも擦文文化出自の人物が直接来訪していたか,エリアIにおける両集団の遺伝情報の交換が相当に進み,そこからの「婚入者」を受け入れた結果,間接的にもたらされたか,どちらかの状況を考えるよりほかにない。いずれ図14エリアIにおける集落遺跡の状況  のケースにせよ,擦文文化集団との遺伝情報の交換が活発であったことを示唆するものといえよう。




転載元転載元: 北海道にまた行きたいな



道東の中では古くから栄えた厚岸町。その歴史を多くの人々に知ってもらおうと国指定史跡「国泰寺跡」前に、昭和42年に開館しました。館内には国指定重要文化財「蝦夷三官寺国泰寺関係資料」の「日鑑記」をはじめ、多くの古文書、埋蔵文化財資料、民俗資料を展示して郷土の歴史がわかるようにしています。

 記録


転載元転載元: 北海道にまた行きたいな

 日本神話で天孫降臨の時に、ニニキがアマテラスから授けられたという鏡・玉・剣の三種の神器のひとつにヒスイの勾玉があります。このヒスイの勾玉は、縄文時代前期中程から中期末(約5,500年前〜約4,000年前)の青森県の三内丸山遺跡からも発見されています。縄文人が5,000年も前からヒスイを扱っていた。それもヒスイの産出地は新潟の糸魚川辺り。そのヒスイが青森で。新潟県の長者ヶ原遺跡からはヒスイ製勾玉とともにヒスイ加工工房も見つかっています。ヒスイはヒスイ輝石が原石で、純粋なものは白色ですがそこに鉄やクロムが混じって薄い緑色になります。元々は火成岩の変成岩で、プレートの下部にあるマントルのかんらん岩に水が加わって蛇紋岩化され、糸魚川市の姫川から流れ、日本海の荒れ波に揉まれている間にヒスイ輝石となります。海岸で縄文人が拾って首飾りとして勾玉を作った。
 一度は平家と源氏の壇ノ浦の戦いで海に沈められた三種の神器ではあるが、勾玉だけは天皇家に無事に戻ってきて、八尺瓊勾玉が今も皇居にあります。誰も見ることはできませんが、出雲大社に保管されている立派な勾玉と変わりがないと思われます。出雲もある勾玉ですが、日本神話でオオクニヌシが高志の国(越の国)からヌナカワヒメを娶っていてこのヌナカワヒメは、糸魚川市にある天津神社の社内に奴奈川神社があり、そこに祀られている。ヌナカワヒメは、ヒスイに関係ある姫でオオクニヌシとの間にタケミナカタを産んでいる。このタケミナカタは、アマテラスが葦原中国の平定させるために高天原から降臨させたタケミカヅチと相撲をして敗れ、母の国、高志の国に帰り、タケミカヅチに追い詰められて諏訪まで逃げた神です。そして、諏訪大社に祀られるようになりました。神話から判断して、この諏訪を含めた新潟、富山付近には縄文人の血を受け継いだ勢力がいたと言ってもいいかも知れない。

 縄文時代から弥生時代に以降していく中で、出雲や北九州に鉄器の文化が入ってきて、その鉄器を手に入れるためにヒスイが利用された。この事実は、日本でもヒスイの生産が新潟県糸魚川市姫川流域、北陸の海岸や富山県の宮崎・境海岸(ヒスイ海岸)、兵庫県養父市(旧大屋町)、鳥取県、静岡県引佐地区、群馬県下仁田町、岡山県新見市の大佐山、熊本県八代市泉町など限られ、朝鮮半島や中国には存在しない宝石です。だから、秦の始皇帝などは、中国の新疆ウイグル自治区のホータン(和田)地区から採取される軟玉のヒスイを勾玉として使っていた。ヒスイの値うちは、中国の人も朝鮮の人も知っていた。日本のヒスイは、その人達にとって重宝がられていたことになります。古墳時代に入り、朝鮮半島南部に古墳が出現し、特に新羅側の慶州の古墳に多くの糸魚川姫川から採れたヒスイの勾玉が発見されています。これは何を意味しているのでしょうか。日本国内でも古墳がたくさんあり、弥生時代に朝鮮半島から渡ってきた人達が造築したものと考えられます。しかし、古墳自体が朝鮮からもたらされたのではないということは、古墳の中に埋蔵されていた日本製のヒスイの勾玉が発見されたことにより、さらに明白になりました。縄文時代の末期から弥生時代の前期にかけて、縄文人が朝鮮半島に渡っていたことが土器などからも明らかにされつつあります。神功皇后の時代に新羅と戦ったのか。朝鮮半島南部には、縄文人の血を受け継いでいた同胞がいたからです。また、大伴金持が任那4県の割譲で百済に譲渡したとき蘇我氏が反対し、大伴氏に変わってヤマト朝廷の実権を握っていく。これは、ひょっとして、蘇我氏がヒスイと鉄器の売買の中心氏族であったからという話もあります。実権を握るには財力が必要でしたから。また、今の天皇の最初の血筋とされている第26代継体天皇は、大伴金村が任那4県の割譲で百済に譲渡した裏目から、越前国高向から応神天皇の5代後の末裔とされていますが、ひょっとしてヒスイを財力にしていた縄文人の血を引く豪族ではなかったか。これらは、私の推理ですので学術的な根拠はありません。

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