北海道北海道では、特別史跡1件を含む計51件が指定されている。
国指定道南
道央
道北
道東
道指定北海道指定史跡については北海道指定文化財一覧#史跡を参照のこと。
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民俗学
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北海道神社庁 TVCM
北海道の神社の歴史 明治の神仏分離以前は神道と仏教は混淆しており、古い寺社について仏寺と神社を明確に弁別することはできない。例えば現在は厳島神社と称する神社の多くは、仏教的な弁天堂や弁天社と呼ばれていた。後述する脇澤山神社の鰐口には弥陀信仰の銘が刻まれている。
ここでは神仏分離後に神社として存立したものを神社とみなし、神仏分離以前のものについても「神社」と表現する。
北海道と松前地・蝦夷地 一般に蝦夷地は北海道の旧称として用いられるが、「蝦夷地」という語を文字通り解釈すると蝦夷の住む地ということになる。この観点では、和人が住むようになった北海道の南部は、「蝦夷地」ではない。「北海道」という呼称は明治以降のものであるが、本項では便宜上、それ以前の時代についても「北海道」とする。
戦国時代から江戸時代には、北海道の南部で和人による支配地(松前藩)が確立した。歴史的観点から、北海道を「松前地(和人地、口蝦夷、旧開地)」と「蝦夷地(奥蝦夷、新開地)」に分ける考え方もある[1]。この考え方は一般に普及した分け方とは言えないとしても、北海道の歴史を概観する上では便利である[2]。
松前藩の支配地域は時代によって大きく変わっているため、どこまでを「松前地」とするかは厳密には注意を要するが、ここでは概ね道南の和人地の意味で「松前地」といい、それ以外の地域を狭義の「蝦夷地」とする。
北海道は冷涼な気候ゆえに稲作に適さず、松前藩では米による石高制のかわりに、主に海産物の収入に基づく知行を行なった。これはアイヌとの交易によって行われ、北海道の沿岸部には「場所」と呼ばれる交易拠点が設けられた。江戸時代の中期には、商人が場所を独占して交易を行う場所請が制度化された。これらを通じて、(狭義の)蝦夷地にも和人の集落ができるようになり、各地にも神社が設けられた。
江戸時代の後期には、ロシアの南下政策への対抗上、幕府による北海道の直轄が試みられた。このため、松前藩の支配地・幕府の支配地・(狭義の)蝦夷地の範囲は19世紀にしばしば変更されている。この時期に蝦夷地警護のために武士団が北海道の各地に派遣され、彼らによって神社が創建された。
明治になると、開拓者が北海道各地に入植するようになり、彼らによって神社が建立された。やがて、これらの諸社は国家神道の観点から体系化される。
草創期の神社概要 これらの神社の多くは道南の漁業拠点に集中し、神道や密教が混淆して山岳信仰や岬信仰が主体的[5]だった。これらの神社は松前神楽などに象徴される独自の文化を擁し、後の北海道開拓時代に新たに創建された神社とは一線を画すことになる[6]。
草創期 和人がいつ頃から蝦夷地へ入ったのは定かではないが、道南の沿岸地方には創立年代が不詳の古社が多い。古いものでは、平安時代に奥州藤原氏の残党が渡島へ渡り神社を建立したという説[7]もあるが、鎌倉時代か、遅くとも室町時代には神社が建立されていた事が確実視されている[8]。
以下に、北海道最古の神社とみられるものを挙げる。
諸社の起源(明治以前)館神と八幡神社 いちおう、蝦夷地は安東氏の管領ということになっていたが、実際には色々な豪族が土着して館(砦)を構えていた。彼らはその館に神社を建て、これを館神と称していた。館神では武神である八幡大菩薩・八幡神を祀った。このような神社は道南に多い[23][24]。
江戸時代の中頃からは蝦夷地へのロシア人の関与が幕府の懸案となった。幕府は箱館奉行所を設けた上で蝦夷地の一部を公儀御料(幕府直轄領)とし、東北地方の諸藩に警固を命じた。こうして北海道の僻地のあちこちに到着した警固の武士によって建立された神社は、その多くが武神として八幡神を祀り、のちに八幡神社となった。
海神を祀る神社 早くから海産物を目当てに蝦夷地へ往来していた和人の中には、沿岸部に番屋を設けたり土着した者もいた。江戸時代の中期には松前藩が場所請負人や運上屋を制度化した。道南を中心に、沿岸部には彼らによって祀られた海神・水神や漁獲・商売の神仏を奉斎する神社が分布している[25][26][27]。
こうした神社は、どこかの神社から分霊や勧請によって創建されたというよりは、自然発生的な小祠が発展したものだと考えられている[28]。
農業神・稲荷社 ロシアを警戒した幕府は、寛政11年(1799年)に北海道の一部を上知して直轄統治に乗り出す。このとき北海道でも稲作が試みられるようになった。これは冷涼な気候や凶作に阻まれて廃れるが、安政期(1854-1859)には再び行われて一定の成果を得た。明治中期以降になれば、稲作は石狩や胆振地方でも成功した。
こうした農業移民によって祭祀されたのが稲荷社で、道南から道央にかけて多く建立された。
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2013/09/25 に公開
アイヌ民族の英雄シャクシャインをしのぶ「第67回シャクシャイン法要祭」が23日、新ひだか町内の真歌公園で開かれ、北海道各地のアイヌ民族関係者ら約千人が、祈りをささげた。 同公園内のシャクシャイン像前で行われた伝統儀式「カムイノミ」(神への祈り)には、鳩山由紀夫元首相や新党大地の鈴木宗男代表、同協会の加藤忠理事長らが出席し、祭壇に酒をささげた。大川支部長は「これまでもアイヌはこの地で結束し、シャクシャインエカシ(長老)の力を借りてきた」と述べた。(9月24日朝刊 苫小牧日高版に掲載)
シャクシャインの戦い(シャクシャインのたたかい)は、1669年6月にシブチャリ(現北海道日高振興局新ひだか町の静内地区)の首長シャクシャインを中心として起きた、松前藩に対するアイヌ民族の大規模な蜂起である。日本の元号で「寛文」年間に発生したことから、寛文蝦夷蜂起(かんぶんえぞほうき)とも呼ばれる。
当時の状況アイヌ民族集団間の対立シブチャリ以東の太平洋沿岸に居住するアイヌ民族集団メナシクルと、シブチャリからシラオイ(現在の胆振総合振興局白老町)にかけてのアイヌ民族集団であるシュムクルは、シブチャリ地方の漁猟権をめぐる争いを続けていた。両集団の対立は、文献においては多くの死者が出たとされる1648年の戦いまで遡ることが出来る。
15世紀頃から交易や和人(大和民族)あるいはアイヌ同士の抗争などによって地域が文化的・政治的に統合され、17世紀には、河川を中心とした複数の狩猟・漁労場所などの領域を含む広い地域を政治的に統合し、和人から惣大将と呼ばれる有力首長が現れていた。シャクシャインや、『津軽一統志』に現れるイシカリの首長ハウカセ、ヨイチの八郎右衛門やシリフカのカンニシコルなどがこれに相当する。
メナシクルの首長であるカモクタインやシュムクルの首長でありハエ(後の日高国沙流郡、現在の日高町門別地区)に拠点を持つオニビシもまた惣大将である。シャクシャインはメナシクルの副首長であったが、カモクタインは1653年にシュムクルによって殺害されたために首長となった。
惣大将間の抗争を危惧した松前藩は仲裁に乗り出し1655年に両集団は一旦講和する。この際シュムクルと松前藩は接近しシュムクルは親松前藩的な立場となる。しかし1665年頃から対立が再燃、1668年5月31日(寛文9年4月21日) にはメナシクルによってオニビシは殺害される。
松前藩による交易独占アイヌ民族は松前城下や津軽や南部方面まで交易舟を出し和人製品である鉄製品・漆器・米・木綿などを北方産物である獣皮・鮭・鷹羽・昆布などと交易していた。
しかし17世紀以降、幕藩体制が成立すると幕府により対アイヌ交易権は松前藩が独占して他の大名には禁じられることとなった。アイヌ民族にとっては対和人交易の相手が松前藩のみとなったことを意味し和人との自由な交易が阻害されることとなった。 これは松前家の事跡を記した『新羅之記録』より、まだ蠣崎姓の時代に、秀吉から、蠣崎に交易の独占を保証する朱印が与えられていることが分かる。徳川時代では、徳川家の歴史を記した『徳川実紀』より、家康から黒印状を与えられ、独占権をより強固なものとする。
幕府権力を背景にした松前藩では17世紀後半には対アイヌ交易は松前城下などでの交易から商場知行制に基づく交易体制へと移行した。これは松前藩が蝦夷地各地に知行主(松前藩主や藩主一族及び上級藩士など)と彼らの知行地である商場を設定して知行主には直接商場に出向きそこに居住するアイヌ民族との交易権を与える交易体制であった。
その商場に居住するアイヌ民族にとっては和人との交易が特定の知行主に限定される不自由な交易体制であった。この体制により交易レートは次第にアイヌ民族に不利なものとなっていった。このレートはシャクシャインの戦い前夜の1665年には松前藩の財政難から一方的に従来の米2斗(1俵=30kg)=干鮭100本から米7升(1俵=10.5kg)=干鮭100本と変更されアイヌ民族にとって極めて不利なものとなった。 このレートの上昇だが、全国的な飢饉が発生しており、まさに寛文年間がピークだった。蜂起が起こる二年前(寛文七年)、松前藩は米三千俵の拝借を言上している。
また和人からアイヌ民族に交易を一方的に強要する「押買」の横行や、大名の鷹狩用の鷹を捕獲する鷹待や砂金掘りの山師が蝦夷地内陸部を切り開く行為、松前藩船の大網による鮭の大量捕獲がアイヌ民族の生業基盤を脅かし和人への不満が大きくなった。 もしアイヌが交易に応じなかった場合、「子供を質に取る」と脅していたことが、『津軽一統志』など、津軽藩士が聴き取り調査をしたところ、証言を得ている。
発端シャクシャインにオニビシを殺されたハエのアイヌは松前藩庁に武器の提供を希望したが藩側に拒否されたうえ、サル(現日高振興局沙流郡)の首長ウタフが帰路に疱瘡にかかり死亡してしまった。このウタフ死亡の知らせを、アイヌ人は「松前藩による毒殺」と流布した。
この誤報によりアイヌ民族は松前藩、ひいては和人に対する敵対感情を一層強めた。シャクシャインは蝦夷地各地のアイヌ民族へ松前藩への蜂起を呼びかけ、多くのアイヌ民族がそれに呼応した。この背景には、本州に成立した徳川政権から松前氏にアイヌ交易の独占権が与えられ、津軽や南部などの東北諸藩がアイヌ交易に参入できなくなったことがあげられる。
対アイヌ交易を独占したことにより松前藩によって和人側に有利な交易レートが一方的に設定され、アイヌ側は和人製品を得るためにより多くの干鮭、熊皮、鷹羽などの確保が必要となった。これが惣大将同士による天然資源の独占競争をもたらし、シャクシャインとオニビシの抗争の原因の一つともなった。また、不利なレートを嫌い、交易を拒否するアイヌに対し、和人が無理やり交易を強要する押買が横行しするなど、アイヌには和人への不満が広がっていた。 こうして事態は惣大将や地域集団同士の争いから多数のアイヌ民族集団による対松前藩蜂起へと移行した。
1669年6月21日(寛文9年6月4日) 、シャクシャインらの呼びかけによりイシカリ(石狩地方)を除く東は釧路のシラヌカ(現白糠町)から西は天塩のマシケ(現増毛町)周辺において一斉蜂起が行われた。決起した2千の軍勢は鷹待や砂金掘り、交易商船を襲撃した。突然の蜂起に和人は対応できず東蝦夷地では213人、西蝦夷地では143人の和人が殺された。
松前藩の反撃一斉蜂起の報を受けた松前藩は家老の蠣崎広林が部隊を率いてクンヌイ(現長万部町国縫)に出陣してシャクシャイン軍に備えるとともに幕府へ蜂起を急報し援軍や武器・兵糧の支援を求めた。幕府は松前藩の求めに応じ弘前津軽氏・盛岡南部氏・秋田(久保田)佐竹氏の3藩へ蝦夷地への出兵準備を命じ、松前藩主松前矩広の大叔父にあたる旗本の松前泰広を指揮官として派遣した。弘前藩兵700は藩主一門の杉山吉成(石田三成の嫡孫)を大将に松前城下での警備にあたった。
シャクシャイン軍は松前を目指し進軍し、7月末にはクンヌイに到達して松前軍と戦闘を行った。戦闘は8月上旬頃まで続いたがシャクシャイン軍の武器が弓矢主体であったのに対し松前軍は鉄砲を主体としていたことや、内浦湾一帯のアイヌ民族集団と分断され協力が得られなかったことからシャクシャイン軍に不利となった。
このためシャクシャインは後退し松前藩との長期抗戦に備えた。9月5日(8月10日)には松前泰広が松前に到着、同月16日(8月21日)にクンヌイの部隊と合流し28日(9月4日)には松前藩軍を指揮して東蝦夷地へと進軍した。さらに松前泰広は松前藩と関係の深い親松前的なアイヌの集落に対して、幕府権力を背景に恫喝して恭順させアイヌ民族間の分断とシャクシャインの孤立化を進めた。
シャクシャイン軍の敗北シブチャリに退いたシャクシャインは徹底抗戦の構えであったため、戦いの長期化による交易の途絶や幕府による改易を恐れた松前軍は謀略をめぐらしシャクシャインに和睦を申し出た。シャクシャインは結局この和睦に応じ11月16日(10月23日)、ピポク(現新冠郡新冠町)の松前藩陣営に出向くが和睦の酒宴で謀殺された。この他アツマ(現勇払郡厚真町)やサル(現沙流郡)に和睦のために訪れた首長も同様に謀殺あるいは捕縛された。翌17日(24日)にはシャクシャインの本拠地であるシブチャリのチャシも陥落した。
指導者層を失ったアイヌ軍の勢力は急速に衰え、戦いは終息に向かった。翌1670年には松前軍はヨイチ(現余市郡余市町)に出陣してアイヌ民族から賠償品を取るなど、各地のアイヌ民族から賠償品の受け取りや松前藩への恭順の確認を行った。戦後処理のための出兵は1672年まで続いた。
影響このシャクシャインの戦いを経て、松前藩は蝦夷地における対アイヌ交易の絶対的主導権を握るに至った。その後、松前藩は中立の立場をとり蜂起に参加しなかった地域集団をも含めたアイヌ民族に対し七ヵ条の起請文によって服従を誓わせた(『渋舎利蝦夷蜂起ニ付出陣書』)。これにより松前藩のアイヌに対する経済的・政治的支配は強化された。その一方でアイヌにとって不利になる一方だった米と鮭の交換レートをいくぶん緩和するなど、融和策も行われた。
また『津軽一統志』にみられる惣大将というアイヌ有力首長によって統一されていた広大な地域は商場知行制や場所請負制が発展・強化されることによって場所ごとに分割されることとなり、「下人狄千人程」をもつ石狩の惣大将ハウカセの「松前殿は松前殿、我等は石狩の大将」と言う発言に象徴される強い自立性をもつアイヌ民族の地域統一的な政治結合も解体されていった。
ヨイチなど地域によっては自分稼ぎと呼ばれるアイヌ民族主体の自主的な漁業も何とか維持されたが、松前藩による場所請負制の貫徹はアイヌ民族を次第に交易相手から場所での強制労働者へと転落させる。蝦夷地東部では和人商人による大規模な漁場開発に伴う強制労働者化による窮状がのちのクナシリ・メナシの戦いの原因となった。松浦武四郎の『知床日誌』には「女は最早十六七にもなり、夫を持べき時に至ればクナシリ島へ遣られ、諸国より入来る漁者、船方の為に身を自由に取扱はれ、男子は娶る比に成らば遣られて昼夜の別なく責遣はれ、其年盛を百里外の離島にて過す事故、終に生涯無妻にて暮す者多く」と記されている。
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