江別古墳群概要古墳時代に古墳が盛んに造られたのは畿内を中心として北部九州から南部東北にかけての一帯であるが、北海道内にもわずかながら古墳は現存している。ただし、それは古墳時代(3世紀-6世紀)のものではなく、蝦夷征討の盛んに行われた飛鳥時代、奈良時代、平安時代前半すなわち律令時代に築造され、当時この地域で栄えていたといわれる擦文文化前半の時期に相当する。北海道の古墳で、現在発見されているのは恵庭市および江別市においてであり、なかでも江別古墳群は最北端に位置している。
江別古墳群は、江別市元江別の旧豊平川の段丘上にある。1931年に小学校の教師だった後藤寿一によって発見された。当時の資料によれば円墳20数基が確認され、うち16基について調査が行われた。以降、遺跡は後藤遺跡と呼ばれてきた[1]。1980年に高速道路関連の工事に伴って再調査が実施され21基の古墳が確認されたが、その後の工事によって3基が破壊された。
江別古墳群は7世紀から9世紀頃に築かれたと考えられている。個々の古墳は、直径3メートルから10メートル、高さ0.3メートルから1メートルの円形あるいは長円形の墳丘と、環状あるいは馬蹄形の周溝から構成されている。周溝の大きさは、直径8メートルから10メートルの大型のもの、5メートルから7メートルの中型のもの、5メートル以下の小型のものに区分される。元々はもう少し高さがあったようであるが、現在は風雨によって浸食されている。
江別古墳群は東北地方北部に分布する末期古墳と似た構造を持ち、また古墳から出土した遺物には本州からもたらされたと思われる須恵器、鉄鏃、刀子(短刀)、鋤先などがあった。この墓の被葬者については、東北北部と交流をもった北海道の有力者であるという説と東北地方からの移住者という説の2つがある[3]。いずれにしても、これらは当時の北海道と本州との交流を知る上で貴重な遺物でもある。
脚注関連項目参考文献
外部リンク
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修学旅行〜午後の部〜 に貼られた 日本最古の銀製品.JPG の画像. 戻る · 知床羅臼町 観光協会 とことこ… トップページ. 2014年, 1月 · 2月 · 3月 · 4月 · 5月 · 6月 · 7月 · 8月 · 9月 · 10月 · 11月 · 12月 · ← · 前の画像 · 次の画像 · →. 日本最古 ... www.ene100.jp/日本最古の銀宝飾品の工房跡を蛍光エックス... - キャッシュ
西洋や日本の昔の名画について、それに使われている顔料を調べるのにも、この方法 が広く使われています。 ... は、この飛鳥池工房遺跡は古代において仏像を飾るための 宝飾品を作る工房であり、銀製品の工房としては日本最古のものであると発表しました。
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知床羅臼町観光協会 とことこ知床羅臼の画像. ... に貼られた 鉄の小刀 さやの飾り最古 の銀… の画像. 戻る · 知床羅臼町観光協会 とことこ… トップページ ... 飾り最古の銀… 2014年12月13日. 修学旅行〜午後の部〜に貼られた他の画像. 日本最古の銀製… 260(H25年09月号) - 羅臼町(Adobe PDF) - htmlで見るwww.rausu-town.jp/machi/H250925 広報誌.pdf
江戸時代より日本の中心は東京. であり、 文化や多くの最先端技術. は南から北 ... 現在この銀製品は国内最古の. 出土例となっています。 この頃、 国内で銀を .... 羅臼 町民で平成20年~24年の5年間で亡く なった人 2 9 0名. 平成20年~24年の5年間で75 歳未. 標津町年表
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ネルチンスク条約
ネルチンスク条約(ネルチンスクじょうやく、簡体字:尼布楚条约、繁体字:尼布楚條約、ロシア語: Нерчинский договор)は、1689年に康熙帝時代の清朝とピョートル1世時代(摂政ソフィア・アレクセーエヴナ)のロシア・ツァーリ国との間で結ばれた、両国の境界線などについて定めた条約。清とヨーロッパ国家との間に結ばれた初めての対等な条約で、その内容は満洲(現・中国東北部)での国境を黒竜江・外興安嶺(スタノヴォイ山脈)の線に定めるというものであった。
概要「日露関係史」も参照
17世紀中頃からヴァシーリー・ポヤルコフやエロフェイ・ハバロフなどロシア人の探検隊が黒竜江・アルグン川より南下(後の南下政策)するようになり、黒竜江沿いにはアルバジンの要塞が築かれた。このため清と朝鮮王朝の連合軍がたびたび「清露国境紛争」と呼ばれている討伐を行った。清は逃亡者の引き渡しをロシアに求め、さらにロシア人の撤退を求めた。しかし、ロシアはこれを拒否した。
清が討伐軍を本格的に動かし始めたため、ロシアの摂政ソフィア・アレクセーエヴナと顧問のヴァシーリー・ゴリツィンはフョードル・ゴロヴィンを特使として派遣し、1689年にネルチンスクで清のソンゴトゥと交渉を開始した。ロシアは清との交易を望み、清は清・ジュンガル戦争(第一次、1687年 - 1697年)中であったことからモンゴルのジュンガルを孤立させることを望んだため、利害関係が一致し、交渉が成立した。両国間では言語が異なるため条約の原文はラテン語からなっており、清側のアドバイザーとして2人のイエズス会員トマス・ペレイラ(Thomas Pereira、徐日昇)およびジャン・フランソワ・ジェルビヨン(Jean-Francois Gerbillon、張誠)が交渉にあたった。
内容は、次の通りである。
影響対等の条約ではあったが、清にとって有利なものとなった。なぜなら、ロシア側にとっての念願であった不凍港を獲得できなかったからである。2度のクリミア遠征(1687年、1689年)失敗とネルチンスク条約での譲歩は、ソフィア・アレクセーエヴナの摂政政府の威信を失墜させ、9月にゴリツィンはシベリアへ流罪となり、ソフィアは修道院に幽閉された。ピョートルの母ナタリヤ・ナルイシキナが実権を回復し、1694年に死去するまで国政を運営した。その後、ピョートルが親政を開始した。
清は、ロシア関係の事務をモンゴルや内陸アジアの朝貢を扱う理藩院で行うなど、ロシアを朝貢国としてみなしていた。その後、1858年のアイグン条約で黒竜江が両国の境界線となり、1860年の北京条約でネルチンスク条約は廃棄された。
関連項目
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律令制下の若越
第五節 奈良・平安初期の対外交流 一 渤海使の来航と縁海諸国の対応 使節のメンバー
二 渤海使の来航と若狭・越前国の対応
八世紀の事例 この項では、若狭・越前両国が渤海使および遣渤海使に関連して文献史料に現われる具体的な事柄を中心に、時代を追ってその対応を述べることにする。なお、数字は表35(渤海使の来航・帰国表)・36の渤海使・遣渤海使の回数である。
① 天平二年(七三〇) まず、遣渤海使が帰国したケースであるが、天平二年「越前国大税帳」(公二)の加賀郡条によれば、「渤海郡の使人を送る使らの食料五拾斛」とある。高斉徳らを送った引田虫麻呂らは天平二年八月二十九日に帰国するが、稲五〇斛(石)の支出はその一行を供給した経費である。 来航地は不明であるが、加賀郡に帰着した可能性も十分ある。他の郡の記載がみえないのは残念だが、帰国した遣渤海使を逓送した加賀郡以南の路次の各郡も同様な負担があったと思われる。遣渤海使が単独で帰国したり、派遣されたケースは少ないが、このような場合も越前国の負担が予想されていた。
3 天平勝宝四年(七五二) 九月二十四日、渤海使慕施蒙ら七五人が越後国佐渡嶋に来航した。そののち、十月七日に左大史の坂上老人らが越後国に派遣され、消息を問わせている。慕施蒙らは翌年五月二十五日、京で拝朝し、信物を献上している。
入京の経緯はみえないが、おそらく渤海使は越後国より北陸道を経て入京したと想定されるので、その際、渤海使は越前国を通過し、供給と逓送とを受けたと思われる。
4 天平宝字二年(七五八) 『万葉集』二〇―四五一四の題詞などによれば、藤原仲麻呂の私邸で餞別の宴が行われた二月十日以降、ほどなく、渤海に向けて日本を出発したと思われる遣渤海大使小野田守らの一行六八人は、九月十八日に渤海大使揚承慶ら二三人を伴って日本に帰国し、渤海使は越前国に安置された。
この時、安置の場所のみで来航の地点は正確には不明であるが、越前国か能登国と思われる。渤海使らは十二月二十四日に入京するが、それまで約三か月ほど越前国内に滞在し、その間、渤海使への供給が越前国で行われたと思われる。
5 天平宝字三年 正月三十日に任命された遣唐大使藤原清河を迎える使(迎使)の高元度らは、渤海使揚承慶らとともに渤海に向かい、そののち、唐に赴いたが、渤海使は先に述べたように越前国に来航したので、おそらくはその出港も越前国と想定される。渤海使の対応とともに遣唐使の出港の準備も越前国が行った可能性がある。
6 天平宝字六年 天平宝字六年「造石山寺所食物用帳」によれば、三月二十八日以降に高麗大山を大使として日本を出発した遣渤海使は、十月一日に渤海使王新福ら二三人を伴い帰国し、渤海使らは越前国加賀郡において安置・供給される。しかし高麗大山は船中で病をえて、「佐利翼津」に到着後、死去した。「佐利翼津」は越前国加賀郡内に求める説と出羽国避翼(山形県最上郡舟形町付近)に比定する説がある。越前国内とすると、「さりはね」の地名がのこっておらず、具体的な比定地は不明であり、出羽国とすると、最初の来航地は越前国内ではないことになるが、次に述べるように出羽国に来航した場合、常陸国へ安置されている例もあり、入京の際に北陸道を通るとは限らず、また避翼は内陸部になり両説とも難点を抱えている。ここではその当否はともかく、渤海使は越前国加賀郡に安置されたあと、閏十二月十九日に入京しているので、三か月余り越前国内に渤海使は滞在したらしい。
7 宝亀三年(七七二) 前年宝亀二年六月二十七日に出羽国の賊地野代湊に来航した壱万福ら三二五人は常陸国に安置・供給され(東海道経由か)、十二月二十一日に入京する。そののち、帰国に際して、壱万福らを送る「送渤海客使」武生鳥守は宝亀三年九月ごろに出港するが、暴風にあい、能登国に漂着し福良津に安置される。この時、最初の出港地は不明であるが、越前国か能登国かと考えられ、いずれにしろ壱万福および武生鳥守らは越前国を通過したと思われる。
なお送渤海使の武生鳥守は宝亀四年十月十三日に無事帰国し(時に正六位上、姓は連)、その後の天応元年(七八一)四月十五日、桓武天皇の即位叙位で外従五位下に叙されている。これ以外に武生鳥守に関する記事はないが、『続日本紀』天平神護元年(七六五)十二月五日条に右京の人外従五位下馬http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/m16752.GIF登国人、河内国古市郡の人正六位上馬http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/m16752.GIF登益人ら四四人に武生連の姓を賜わったとあり、『続日本紀』延暦十年(七九一)四月八日条と『新撰姓氏録』左京諸蕃上などによれば、武生氏は延暦十年に宿http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/m24851.GIFと改賜姓された百済系渡来人(王仁の後裔氏族)で、河内国古市郡が本拠地と考えられている。
さて、武生氏というと、現在の武生市との関係が注目される。武生という地名は、『源氏物語』浮舟に「たとえ武生の国府にうつろい給うとも」、催馬楽に「みちのくち 武生の国府」とあるように、平安中期から院政期には認められる古い地名である(現在の武生の地名は明治以降の命名であり、国府があったことから、中世では長く府中とよばれた)。武生鳥守が正六位上から外従五位下に昇進していることなどから、畿内の豪族および官人とするよりは、越前国の国府があった現在の武生市周辺の郡司クラスの豪族出身、すなわち武生鳥守の本貫地(出身地)を越前国の国府があった武生市近辺に求められるかもしれない。
しかし武生という地名が奈良時代までさかのぼるという確実な史料はほかにはなく、憶測の域を免れないことも事実である。その当否はともかく、渤海使を送る船に乗り大陸に渡った越前国出身の梶取や水手などが存在した可能性は十分ありうる。
9 宝亀七年 この年の冬、渤海国使史都蒙ら一八七人(一説には一六六人)は、光仁天皇の即位の賀と渤海国王(文王・欽茂)の王妃の喪を告げるため、渤海の南海府吐号浦を出発した。
南海府は渤海の五京の一つ南京で、朝鮮の咸鏡南道北清または咸興にあてる説があり、最近、北清から南京南海府跡とされる土城跡が発掘されている(河上洋「渤海の交通路と五京」『史林』七二―六)。
一行は宝亀四年に大宰府への来航を義務づけられたため、対馬の「竹室之津」(長崎県下県郡美津島町竹敷)をめざすが、その途中悪風のため目標とする航路を失い、越前国の沿岸に至り、着岸を目前にしてhttp://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/m14600.GIFが折れ帆が落ちて漂流し、十二月二十二日に加賀郡と江沼郡に漂着した。
この遭難により生存者四六名は加賀郡に安置され供給をうけた。翌宝亀八年二月二十日に大使史都蒙ら三〇人の入京が許されるが、史都蒙の願いにより四六人全員の入京が許された。
この間、一行は約三か月、越前国内に滞在し供給をうけている。なお、この時、一四一人もの人命が失われる惨事となったが(『続日本紀』宝亀八年二月二十日条によると犠牲者は一二〇人)、溺死して江沼郡・加賀郡に漂着した渤海使人三〇人の遺体は宝亀九年四月三十日、越前国に埋葬が命じられている。
その所在がどこであるかは不明だが、越前国(のちの加賀国か)には異国の地に派遣され、そこで亡くなった渤海人が埋葬されているのである。
10 宝亀九年 前年宝亀八年の五月二十三日以降のことと思われるが、史都蒙らを送るため渤海に向かった高麗殿嗣らは、航海の途中航路を失い、渤海の辺境地帯「遠夷の境」に漂着し、船は破損したものの、なんとか使命を達したようで、この年(宝亀九年)の九月二十一日に渤海の送使張仙寿に送られ越前国坂井郡三国湊に船二艘で来航した。遣渤海使と渤海使は「便処」に安置され供給を受けたとされる。
「便処」とは具体的には不明だが、坂井郡の郡衙(郡家)などであろうか。確実に現在の福井県内に来航したとわかる初めてのケースである。殿嗣は一人だけ一行より先に入京しているが(十月六日に叙位されており、この時までに入京していた)、渤海使は翌宝亀十年正月一日の元日朝賀の儀に参列している。おそらく十二月下旬ごろには入京したと思われ、約三か月ほど越前国内に滞在したらしい。
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歴史先史福島県を含む北関東・東北地方における人の足跡は、後期旧石器時代に始まる。県域における遺跡としては平林遺跡(桑折町)や会津若松湊の笹山原遺跡群がある。この遺跡から旧石器時代人が製作し使用したとみられる石器群が発見されている。年代は約2万2000年前の AT よりも下から出土していることから、後期旧石器時代前半に属する。少しくだって約1万5000年前の塩坪遺跡(喜多方市高郷町)から熱を受けた139個のこぶし大の石がまとまって発見された。
この時代はまだ土器がなく、焼石は食材を直接加熱するのに使用されたのであろう[4]。
縄文時代・弥生時代を経て古墳時代に入るが、福島県は大型の古墳が少ない東北地方にあって大安場古墳(郡山市、前方後方墳、全長約 83m)、会津大塚山古墳(会津若松市、前方後円墳、114m 、4世紀後半、東北最古級、割竹形木棺検出、三角縁神獣鏡出土)、亀ヶ森・鎮守森古墳(会津坂下町、前方後円墳、127m)などの大型の古墳が集積する。
古墳時代、畿内に前方後円墳が登場するのとほぼ同時期に会津地方でも前方後円墳が作られ始めており、すでに大和朝廷の影響下にあったことが窺える。古墳時代中期以降は、会津地方の古墳造営が減少し、代わって県南地方で盛んに古墳が作られた。県南地方の前方後方墳は隣接する那須地方(那須国造)から連続しており、南那須地方から県南地方一帯は古墳街道ともいうべき古墳集積地帯ともなっている。
古代5世紀にはすでに北関東・東北の一部までがヤマト王権の影響下にあったと思われ、福島県域においても各国に国造が成立した。当初、大和朝廷の勢力圏は福島県域が北限であり、蝦夷勢力圏との境界に当たる信夫国(福島盆地)などの国には防備の任もあった。
また、関東や近畿地方などから、盛んに開拓のための移民も行われている。その後、国は評(こおり)と呼び名が代わり、陸奥国に再編された。また、大和朝廷の勢力圏も宮城県域、あるいはさらに北に拡大し、信夫評(しのぶごおり)も「北端」ではなくなった。
現福島県域は石城国または石背国に属することとなり、陸奥国の領域ではなくなった。
分置後も蝦夷との戦いが続き、東北全体(陸奥・出羽)で戦う必要性起こってきたので、724年(神亀元年)までには石城国と石背国は再び陸奥国に合併された。これらの郡は、その後、人口の増加などにより、さらに再分割されている。
平安時代には会津で恵日寺が強大な勢力を得たが、平安時代末期にはほぼ福島県全域が奥州藤原氏の勢力下に入り、藤原氏一族の信夫佐藤氏が福島盆地を本拠地として、中通りの中部まで、恵日寺後退後の会津、山形県置賜地方まで支配するまでになった。
平安末期、福島県内で他には中通りの石川氏、浜通りの岩城氏があった。石川氏は清和源氏の流れで前九年の役に従軍して石川郡に定住した。岩城氏は桓武平家の氏族で、藤原清衡の養女を妻に迎えて石城郡に定住したとも石城郡司の子孫とも言われる。
鎌倉開府から戦国時代まで県域においては信夫佐藤氏が信夫荘(信夫郡の西北、松川以北)に押し込められると、鎌倉による論功行賞で福島県内は伊達氏、相馬氏、二階堂氏、蘆名氏、畠山氏、結城氏など、多数の関東武士団に細分化された。南北朝の動乱においては結城氏の一族である白河結城氏が台頭し、白河結城氏を主力とする南朝方が大いに優勢となったが、しばらくすると相馬氏など北朝方が盛り返し、白河結城氏など多くの諸氏は奥州管領や鎌倉公方の支配を受けるようになる。
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