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近代史

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鰊の軌跡〜留萌に鰊来たれし、人々の魂が響いた日々


2013/03/20 に公開
北海道におけるニシン漁は江戸時代から盛んに行われるようになり、留萌地域は最北の千石場所として大きな発展を遂げ、その歴史と文化は管内の礎であり、ニシン文化は、留萌地域が後世に伝えていかなければならない大切な宝物です。
ニシン漁のほか、地域繁栄の歴史、文化芸能など、ニシンとともに歩んだ留萌地域を再現ドラマを織り交ぜて紹介しています。



北海道におけるニシン漁史

漁法改良史

ニシン漁で財を成した網元の大邸宅「鰊御殿」(北海道札幌市厚別区北海道開拓の村」にて撮影)
鰊御殿内部・ヤン衆の居住区

 かつて北海道日本海沿岸では、春になればニシンが産卵のために大群となって押し寄せてきた。メスが卵を産み、オスが一斉に放精するため、沿岸から数キロの海面は白く染まるほどだったという。

 この豊かな水産資源を求め、蝦夷地でも日本海沿岸は早くから和人が進出した。記録の上では、文安4年(1447年)に陸奥国の馬之助なる者が松前郡白符村(現在の松前町白符)で行った漁を、和人によるニシン漁の嚆矢とするが[1]建保4年(1216年)開基と伝えられる江差町姥神大神宮の創建伝承にもあるとおり、古くから和人が来道してニシン漁に従事していたことは疑いない。
 しかしその当時のニシン漁は、凪の時分を見計らって沖に漕ぎ出し、シナノキの皮から取った繊維で編んだタモ網で掬いとるようなごく簡素なものだった。

 時代が下って延宝元年(1673年)には、越後国の者がで編んだ刺し網松前藩内に持ち込んでの商売を始め[2]宝永年間(1710年)には大型の網の使用も広まり始めた。和人そのものの活動範囲も広がり、寛政年間(1790年ごろ)には北海道北端の宗谷地方にまで和人の魚場が開かれた。

 天明3年(1783年)に江差を訪れた紀行家・平秩東作が著した旅行記『東遊記』によれば、江差の町は諸国からの出稼ぎ漁師やニシン製品の売買で喧騒を極め、一般の出稼ぎ者でも数ヶ月の働きで12、13貫、目端の利く者は30、40両を稼ぎ上げていたという[3]

 18世紀以降は内地においてミカンワタなど商品作物の栽培が広まり、肥料としての効果が高い金肥が求められていた。干鰯の値段が高騰するとともに、ニシンから魚油を搾り出した際に残る搾りかす「鰊粕」が肥料として注目されることになる。鰊粕の需要増大を受けてニシン漁も改良が加えられ、安永年間(1775年)ごろには  国後島厚岸、さらに網走などオホーツク海沿岸で地曳網を使用した大規模な漁が始まり[4]文政元年(1818年)ころから日本海沿岸の小樽余市付近で笊網が導入される[2]

 刺し網による漁では1漁期に30石程度だった漁獲高は、笊網の使用で180石に跳ね上がる。しかし、笊網は操業時に騒音を発する欠点があったため、文化年間(1810年)から弘化年間(1845年ごろ)にかけて行平網が使用されるようになる[5]

 行平網は騒音を発する欠点もなく、性能に優れていたため幕末まで全道的に広まり、さらに明治中期に角網が導入された。角網はもともとの漁に使用する網だが、入り口が狭く、1度内部に進入した魚を逃しにくい利点がある。そのため瞬く間に普及し、明治32年(1899年)には全道の建網利権数約6千統のうち、4千統以上が角網で占められていた[6]

 一方、大網を用いて大量に捕獲したニシンを、陸上に運搬する方法にも工夫が加えられた。まず嘉永4年(1851年)、積丹半島美国(びくに)で使用されはじめたのが袋網である。これは長さ8間、口の周囲5間で40石のニシンを入れることができ、獲物を一時的に海中に沈めて保存し、折を見て陸まで運ぶ際に用いられた[7]

 しかし海中に沈めたままにされた袋網は、海流で流され海底で摩れて破れる恐れがある。そこで安政3年(1857年)、古平郡群来村の秋元金四郎が浮きを兼ねた丸太の枠に網を吊り下げた「枠網」を開発し、翌年には同村の白岩八左衛門が、網袋を船に直接吊り下げ、船付き場まで漕いで運ぶ方法を考案した[7]

 こうして、ニシンが250-300石 (200t) が入る枠網を取り付けた運搬用の船「枠舟」が開発された。行平網や角網に追い込んだニシンをそのまま海上で枠網に落とし込み、これを幾度も繰り返して枠網を魚で満たす。 枠網を吊り下げた枠舟が波静かな場所まで移動したところで、ニシン運搬専用の船「汲み船」が次々と漕ぎ寄せては網内部のニシンを汲み出し、船着場まで運んで陸揚げする。

漁具や漁法の改良が繰り重ねられた結果、明治・大正期には一箇所の漁場における数ヶ月の操業で400石から3000石 (700t-2250t) の漁獲を誇るようになった。


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出稼ぎ漁師の生活

 一連のニシンの漁期を「始納中」(しのうちゅう)と呼ぶ。始納中は毎年3月から5月の短期間ながら、膨大な労働力を必要とし、当時の北海道の人口ではとても賄いきれないため、漁期には北海道内はもとより東北地方各地より出稼ぎ労働者が北海道西海岸に集結した。

 すでに江戸期から数万人の労働者が蝦夷地へニシン稼ぎに渡っていたが、東北地方に大打撃を与えた天保の飢饉以降は一層顕著となり、明治初期で5、6万人、さらに北海道開拓が本格化した明治20年(1887年)で10万人近くに上った。 大正14年(1925年)の調査では、ニシン労働者約6万5千人の内訳は地元3割、道内2割、道外5割となる。そのうち道外者は青森県出身者が最も多く、ついで秋田県岩手県などの東北各地である[8]

 彼ら出稼ぎ労働者のうち男性は「ヤドイ」(雇い)、あるいは「ヤン衆」と呼ばれていた。「ヤン」の語は、アイヌ語で「向こうの陸地」つまり本州を意味する「ヤウン・モシリ」に由来するとも、網曳き漁を意味する「ヤーシ」に由来するとも言う[8]

 しかし、「ヤン衆」には俗語めいたニュアンスが伴うため、漁場の親方は彼らを「若い衆」と呼んでいた。 一方、女性の出稼ぎ者はオロロンと呼ばれた。彼女達は陸上でのニシン運搬やニシン潰し(ニシンの加工)に従事したが、実直な手仕事に耐えられずヤン衆相手の売春に糧を求める者も少なからずいた。彼女たち漁場の娼婦は七連(ななつら)と呼ばれた。一回の相場が身欠きニシン7連(約140匹)だったことが名の由来である。

 前年の秋に周旋屋(人材派遣業)と契約を結んだ出稼ぎ漁師たちは、年明けて3月中旬になれば簡単な夜具と自前の食料、あるいは南部煎餅干し柿など親方への土産物を手にしてニシン漁場へと向い、宿舎を兼ねた親方の大邸宅・鰊御殿に集結する。網子合わせ(アゴアワセ)と呼ばれる大漁願いを兼ねた顔合わせの祝宴を催した後は、漁への臨戦態勢として除雪作業や漁具の整備、或いは鰊粕製造用のの確保に奔走する[9]

 3月下旬には大安吉日を選んで「網下ろし」が執り行われる。親方や船頭が神棚に拍手を打って豊漁祈願をしたのち、漁夫一同に規則と各自の役割を申し渡す。以降は無礼講で飲み交わし、鰊場作業唄に合わせて親方や船頭、さらに地域の顔役などを胴上げして大漁を祈る。 やがて4月になれば、浦々にニシンの群れが集団で押し寄せ、産卵・放精のために海面が白く染まる現象「群来」(くき)の知らせが届き始める。

 江戸期のニシン漁では資源保護のため群来を実際に見極めた上で漁を始めたが、明治以降は周辺海域の群来情報から予測を立ててあらかじめ網を仕掛け、ニシンを待ち構えた[8]
 以降、出稼ぎ者は一日につき7、8合の割合であてがわれる豊富な白米飯と焼き魚の代償として、船漕ぎに網起こし、ニシン運搬、ニシン加工とあらゆる肉体労働に邁進した。

 一連のニシン漁が終了するのは5月下旬である。今期の漁で破損した漁具を陸揚げして修理するほか、魚網は腐敗を防ぐため染料とともに煮沸する。後片付けを済ませた上で、「あご別れ」と呼ばれる解散の宴を催す。
 雇い漁師には規定の報酬とともに、九一(くいち[note 1])と呼ばれるボーナス、さらに土産物の干しカズノコや身欠き鰊が支給された。 平均的な出稼ぎ者の報酬は、米1俵が3円だった明治30年代で30-40円。九一は30円あまりである[8]

 一連の漁期が一段落した5月の北海道西海岸は、ニシン製品の売買や積み出し、帰郷前に歓楽街へ繰り出す漁師達の喧騒で「江戸にも無い」と称されるほどの賑わいに包まれた。

転載元転載元: 北海道にまた行きたいな


歴史秘話 ヒストリア・アイヌ民族の 現実と 松浦武四郎 江戸時代編


松浦武四郎   

松浦武四郎。首から下げているのは、武四郎がコレクションしていた古物で自作したもの。


松浦 武四郎(まつうら たけしろう、文化15年2月6日1818年3月12日) - 明治21年(1888年2月10日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての探検家浮世絵師、好古家。名前の表記は竹四郎とも[1]。諱は弘[1]。雅号は北海道人(ほっかいどうじん)、多気志楼など多数[1]蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案した。

生涯

文化15年(1818年)、伊勢国一志郡須川村(現在の三重県松阪市小野江町)にて郷士・松浦桂介ととく子の四男として生まれる[2][1]。松浦家は、肥前国平戸の松浦氏の一族で中世に伊勢国へ来たといわれている。別書では、代々百姓で、父・桂祐の次男として生まれたとしている[3]。父親は庄屋を営んでおり、比較的恵まれた中、文化的な素養を身に付けたとされる[4]。13歳から3年間、平松楽斎(漢学者・伊勢津藩士)のもとで学び、猪飼敬所梁川星巌らと知己を得る[5]

山本亡羊本草学を学び、16歳から諸国をめぐった。天保9年(1838年)に平戸となり文桂と名乗るが、故郷を離れている間に親兄弟が亡くなり天涯孤独になったのを契機に[5]弘化元年(1844年)に還俗して蝦夷地探検に出発する。1846年には樺太詰となった松前藩医・西川春庵の下僕として同行し[5]、その探査は択捉島樺太にまで及んだ。

蝦夷では詩人の頼三樹三郎と旅することもあった[5]安政2年(1855年)に蝦夷御用御雇に抜擢され再び蝦夷地を踏査、「東西蝦夷山川地理取調図」を出版した。明治2年(1869年)には開拓判官となり、蝦夷地に「北海道」の名(当初は「北加伊道」)を与えたほかアイヌ語の地名をもとに国名・郡名を選定した。翌明治3年(1870年)に開拓使を批判して職を辞し、従五位の官位も返上した[6]。この間、北海道へは6度赴き、150冊の調査記録書を遺した。

余生を著述に過ごしたが、死の前年まで全国歴遊はやめなかったという。天神(菅原道真)を篤く信仰し(天神信仰)、全国25の天満宮を巡り、鏡を奉納した[5]。好古家としても知られ、縄文時代から近代までの国内外の古物を蒐集し、64歳のときには、自分を釈迦に見立て古物コレクションに囲まれた「武四郎涅槃図」を河鍋暁斎に描かせている[7][8]。また、明治3年(1870年)には北海道人と号して、「千島一覧」という錦絵を描き、晩年の68歳より富岡鉄斎からの影響で奈良県大台ケ原に登り始め、自費で登山道の整備、小屋の建設などを行った。

明治21年(1888年)、東京神田五軒町の自宅で脳溢血により死去[2][1]。遺骨は染井霊園の1種ロ10号2側に埋葬されているほか、武四郎が最も好きだったという西大台・ナゴヤ谷に明治22年(1889年)に建てられた「松浦武四郎碑」に分骨されてもいる。

なお、生地の三重県松阪市小野江町には、生家のほか、武四郎の遺した資料を保管する「松浦武四郎記念館」がある(平成6年(1994年)開館)。また、公益財団法人静嘉堂文庫には、武四郎が収集した古物資料約900点が保存されている[9]

転載元転載元: 北海道にまた行きたいな


平成29年1月17日(火)、佐賀県立「名護屋城博物館」の展示・掲示物並びに刊行物に、朝鮮・韓国側見解による著しく偏った記述があるという事で、日本第一党として抗議並びに修正を求めるための交渉を行ってきました。尚、名護屋城博物館は現在、耐震補強工事と空調の大規模改修工事(平成28年11月21日〜平成29年3月23日まで)を行っており、使えないために唐津市内の総合庁舎内の会議室となりました。  

【日   時】平成29年1月17日(火) 13時から14時
【場   所】佐賀県唐津市 唐津市総合庁舎 会議室
【参 加 者】
〔名護屋博物館〕副館長、他5名
〔日本第一党〕桜井誠党首、先崎玲副党首、他6名
【連 絡 先】佐賀県立名護屋城博物館

転載元転載元: 環境・正義・歴史の友達のブログ

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サウジアラビアの東南アジア・テロ歴訪
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-8cb1.html

最近、サルマン・ビン・アブドゥルアズィーズ・アール=サウード・サウジアラビア王は、この地域のイスラム教徒が大多数の国々との経済的、政治的つながりを固めるための努力だとマスコミや専門家が主張する東南アジア大歴訪に取りかかっている。

ところが、マスコミも専門家も、

この悪名高いテロ支援国家が、

東南アジア内部を含む全世界で、

テロをあおり、管轄地外に地政学的介入し、

対立をもたらすテロ活動に関わって、

サウジアラビアが演じている役割については、

避けるか、全く無視している。

“サウジアラビア サルマン王の東南アジア歴訪、イスラムの友好を確認”と題する記事で、ドイツ放送局ドイチェ・ヴェレ(DW)はこう報じている。

サウジアラビア王は稀な一カ月に及ぶ歴訪で、経済的に急速に成長しつつある地域の、リヤドが通商上の関与と社会・政治的つながりを深めたいと願っている戦略的に重要な国々を訪問する。

DWはこうも報じている。

サルマン王の東南アジア諸国歴訪は、イスラム教徒が多数派の諸国との協力的なつながりの強化も際立たせ、イスラム教の権威や、マレーシアとインドネシア政府のイメージを確認するものだ

ところが、サウジアラビアが、地球上のイスラム教徒にとって、おそらく最大の脅威であることに疑問の余地はない。

サウジアラビアによって、国内、国外遥か彼方まで流布される、政治的性格を帯びたワッハーブ主義という宗教ブランドは、そもそも曖昧な宗教というベールの陰で、サウジアラビアの政治的影響力を確立し、維持し、拡張するために作り出され、今も利用されているのだ。


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サウジアラビアが輸出しているのは、オイルマネーのための石油だけではない

アメリカ合州国やイギリスやヨーロッパ中の他の特権利益集団の保護国としてのサウジアラビアは、ワッハーブ主義が根付き繁栄するのを許されているあらゆる国々で、ワッハーブ主義を利用し、保護してくれる国々に権力と影響力のベクトルを提供しているのだ。

具体的に、東南アジアでは、サウジアラビアが資金提供するワッハーブ派の学校は、マレーシア、インドネシア中にかなり存在しており、他の国々でも多少存在し、欧米が威圧したり、置き換えたりしたいと願っている政党や政治指導者に対し、政治的反対を表明することが多い過激主義をあおっている。

ミャンマーでは、サウジアラビアが資金提供するテロリストが、ミャンマーの少数民族ロヒンギャに潜入し、この集団への迫害を、地域の治安危機と、アメリカの政治的、軍事的拡張を含む、アメリカの更なる関与の口実に変えようとしている。

実際には、アメリカ合州国と、代理のサウジアラビアも、ロヒンギャには、危機につけこむ以上の興味はなく、潜入する過激派が本当の安全保障上の脅威だなどとアメリカは思ってもいないが、アメリカは、ミャンマーと中国の間に更にくさびをうち込み、この狙いに大いに役立つようサウジアラビアが工作している、でっちあげの安全保障上の脅威に対処すべく、ミャンマーにアメリカ軍顧問を配備することを狙っているのだ。

フィリピンでは、サウジアラビアが資金を提供し洗脳しているテロ組織は、フィリピン政府に対し、圧力をかけ続け、アメリカがフィリピンに軍事駐留を継続する恒久的口実として役立っている。

アメリカ合州国は、バンコクに対する更なる圧力とし、アメリカ軍の影響力を及ぼすための潜在的ベクトルとして役立てるため、タイ最南端の州における分離主義者の暴力を、宗教を背景にした紛争に変えようと再三試みてきた。

アメリカ-サウジアラビア介入が、ミャンマー-中国関係を崩壊する役に立っているのと同様、アメリカ-サウジアラビアは、フィリピンとタイ国内で煽り、二国が、アメリカ長年の地域覇権を犠牲にして、中国とのつながりを強化するの阻止することを狙っている。

アメリカ-サウジアラビア・テロは、中国を狙った政策に役立つ

中国自体の国内では、中国西部の新疆ウイグル自治区におけるアメリカが支援するテロが、地域と、中国国境内部の両方で、北京の影響力を分裂させ、打倒する企みで、アメリカが維持している、いくつかの「ツボ」の一つとして機能している。

新疆住民の大多数は、宗教や民族とは無関係に、安定と社会経済的発展を望んでいるが、アメリカは、政治的激変を作りだし、新疆ウイグル自治区の住民と政府両方に対して実行される組織的テロの隠れ蓑に利用すべく、反政府集団を作り、資金を与え、指揮をしている。

新疆の少数派過激派は、ウイグル・テロリストを、中国から東南アジア経由で連れ出し、トルコに送り込み、そこで武器を与え、国内に配備しているシリアを含む、アメリカ-サウジアラビア共同海外テロ人材の供給地としても役立っている。

このテロ・パイプラインの一環と思われる数人の容疑者をタイが拘留し、送還したことが、バンコクとワシントン間の深刻な政治論争の原因となり、バンコク中心部で実行され、20人を殺害し、更に多くを負傷させた破壊的爆破テロに至ったのだ。

あらゆる証拠が、バンコクの抵抗に対する報復として、このテロが実行されたことを示唆している。

ワシントンの要求に対する、タイの実にあからさまな抵抗に加え、この東南アジアの国は、アメリカとの冷戦のつながりを徐々に捨て去り、中国やロシアやユーラシア中の他の重要な権力中枢とのより多角的なつながりを構築してきた。

バンコクに対する、更なる圧力行使拠点を見出すことがワシントンにとって不可欠であり、宗派的紛争の嵐を産み出すサウジアラビアの才能利用は、ありそうな選択肢だ。

サウジアラビアの存在感強化は、アメリカの影響力強化を意味する

アメリカ合州国は何十年間もの外交政策で、イスラム教徒が大多数の国々内部の集団を取り込み、活用しようとする際には、政治的支援、兵器、現金を洗浄する手段として、サウジアラビアを利用してきた。

東南アジアにおけるサウジアラビアの存在感の増大は、アメリカにとって イスラム社会を活用し、過激派を醸成し、世界中でも東南アジア中でも、破壊的代理戦争で利用するために、人的資源を採用する機会の増大を意味する。

東南アジアの文化的に多様で、寛容な諸国民の間に、宗教的分裂を作り出す取り組みが長年続けられているが、ほとんど成功していない。

この地域におけるサウジアラビアの存在感の増大が、ワシントンに有利なように、条件を大きく変えるかどうかはっきりしないが、緊張、混乱や分裂が起きるのは確実だ。

サウジアラビアは、サルマン訪問で、外国とのつながりを単に多様化しようとしているだけだと主張するむきもあるが、彼の旅程表の明らかに宗派的な性格が、そうでないことを示唆している

地域的に、また東南アジアの個々の国で、アメリカとサウジアラビアが利用しようとしているこの危険な地政学的兵器を暴露し無力化しようという協力がないので、未曾有のサルマン歴訪は“アラブの春”風の混沌の波が、地域を押し流す前の静けさとして思い起こされることになるかも知れない。


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破綻国家の南スーダンから自衛隊は引き揚げるようだが、米国は東アジアの軍事的緊張を高めている
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201703130000/

自衛隊のヘリ空母が5月から南シナ海に派遣されるようだが、事実なら平和に貢献しない危険な行為
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201703140000/

米国でトランプを排除し、ペンスを大統領に据える工作が進行中だとWikiLeaksのアッサンジ
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201703150000/




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米国は日本の自衛隊を北朝鮮上陸作戦に向け準備する可能性がある
https://jp.sputniknews.com/opinion/201703153435582/



3年間の原油価格低迷で、すでに破綻状態の国営石油会社のジャンク株は、世間知らずで、サウジの実情を知らない日本国民に押し付けるそうです。

これで、1%オリガーキは、お荷物サウジの下の世話を日本に押し付けたわけです。


【サウジアラビア国王:「日本人に『国営石油会社サウジアラムコ』の株を購入してもらいたい」と述べる】

◆サウジ国王「国営石油会社の株購入を」 安倍首相と会談(朝日新聞)


金正男の指紋を提供して北朝鮮暗殺騒動に加担した安倍政権
http://kenpo9.com/archives/1110


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極秘 - 北京は地球上、最も偉大な都市の一つとなった!
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/--9dbd.html




 
 
 

 
 


 


 
 
 
 




転載元転載元: きなこのブログ

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第860話 大正11年当時の日本周辺の出来事。   2014年7月1日火曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
 
 
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  大隈重信公が、他界され、東京の日比谷公園で国葬が執り行われていた頃、 日本周辺では
 
 めまぐるしく政治の世界が動いていたのです。
 
 
 
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              【  シベリア出兵の当時の外国干渉軍隊 司令官達集合写真 】
 
 
 
        陸軍では、シリベリアに駐留していた外国軍は、撤退してしまい、日本軍だけが
 
        前年に発生した、 尼港事件などを世界に宣伝し、共産党略奪軍の掃討作戦と
 
        称して、シベリアを一方的に占拠し、 バイカル湖付近まで、進出し、 鉄道沿いの
 
        点と線を確保していたのですが、一向に、らちがあかず、 泥沼の様相を
 
        ていしていたのです。
 
 
 
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             【中央が、 大谷 喜久蔵 陸軍大将  右が、 由比 光衛 陸軍中将 】
 
 
 
        そこで、上原 勇作 陸軍元帥は、 浦塩派遣軍の総司令官 大谷喜久蔵大将と、
 
        参謀長の 由比 光衛 陸軍中将を、派遣軍からはずして、交替させます。
 
 
 
 
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          そして、代わりに浦塩派遣軍総司令官になったのは、 久留米の第12師団長
 
          であった、大井 成元 陸軍中将が、 陸軍大将に昇進し、 徹底したゲリラ弾圧を
 
          行ったのです。
 
 
 
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          詳細な、記録がのこっておらず、 当時、尼港事件の犠牲者の復讐と称して、
 
          多くの村々を焼き払ったようです。
 
 
 
 
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           しかしながら、 あまりにも広大なシベリアは、日本の兵力の数個師団だけでは
 
           統治が出来なかったのです。
 
           そしてどんどん、泥沼にはまっていったのでした。
 
 
          そして、いつまでたっても、尼港事件の主犯格の共産ゲリラは、捕縛討伐できず、
 
 
 
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                 【  サザレン州派遣軍 総司令官 児島 惣次郎 陸軍中将 】
 
 
          仕方なしに、 サザレン州派遣軍を組織して、 総司令官に、児島惣次郎 陸軍中将
 
          を任命して、軍隊をサハリンと呼ばれていた、樺太に進撃させ、樺太を保証占領して
 
          日本の領土にしていったのです。
 
 
 
 
 
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           一方、モスクワでは、レーニンが演説中、狙撃され、重傷を負い、
 
           脳梗塞を併発して、 歩けなくなり、 御側用人のような役目のスターリンが、
 
           はじめは猫をかぶって、 まじめに勤めていたのですが、 実力者2名と密かに
 
           同盟を結び、 3名でトロイカ体制というのをしいて、 権力掌握に乗り出し、
 
          当時、共産党の幹部を、 夜明けに急襲し、 つぎつぎ逮捕して、ライバルを
 
          蹴り落として、 追放したり、処刑したりを繰り返し独裁者になっていきます。
 
          そして、トロイカ体制と呼ばれる同盟を結んでいた、カーメネフなどを
 
          抹殺して、 独裁者になっていくのです。
 
 
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           レーニンの名前を使って、 どんどん チェッカーと呼ばれる秘密警察を使って
 
           ありもしない汚職事件をねつ造したり、 あの手この手で、ライバルを追い落と
 
           していったのです。
 
 
 
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         スターリンが行った政策とは、 ウクライナなどの肥沃な耕作地の農民から武力で
 
         農地を取り上げ、 彼等をシベリア送りにして、 シベリアを開墾させ、 彼等の
 
         肥えた肥沃な穀倉地帯に、 集団農場を組織して、 ロシア人をどんどん入植させて
 
         いったのです。
 
 
 
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         ロシア人からしてみると、氷と雪だけの貧しい台地のロシアから、肥沃な穀倉地帯
 
         のウクライナ、クリミアなどの農地に移住できるのですから、「 スターリン同志。」
 
         と、歓迎したのですが、 元々の耕作者としますと、ある日突然、共産党の兵士がきて、
 
 
 
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         「 お前の土地、家を共産党が没収する。」と、一方的に、略奪し、 以前は、地主や
 
         教会の神父が、重税を搾取していたのですが、 こんどは、それ以上に、スターリンの
 
         共産党が、耕作地や土地や家、家畜までも持って行ってしまったわけです。
 
 
 
 
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         とうぜん、農民の反乱が起きるのですが、 共産党の武力で弾圧され、「 資本
 
         主義者、反共主義者。」と、レッテルを貼られ皆殺しになっていったのです。
 
 
 
 
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         そして、捕虜になった人々や、 その家族は、シベリアの強制収容所に入れられ、
 
         死ぬまで、極寒の中、 強制労働をさせられたのでした。
 
 
         戦後の現在でも、ポーランド人や、ウクライナ人、タータール人、ユダヤ人など、 
 
         東ヨーロッパ、地中海沿岸、 黒海沿岸の地域の人の末裔が、極寒のシベリアで生活
 
         しているのは、そのような 事情からでした。
 
 
 
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        スターリンは、 多くのロシア人を、入植させて、言語を ロシア語にして、
 
        他言語の人々に、強制していったのです。
 
        そして、反対する人々は、どんどん逮捕され、 シベリア送りになっていったのです。
 
        みんなが平和に等しく労働して、富を分配する。 マルクス先生の共産主義の考えとは、
 
        名ばかりで、 実際は、マルクス主義とかけ離れた、独裁強権恐怖政治のプロレタリア
 
        主義であったのです。
 
 
 
 
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        土地、建物は、共産党の物、 人々はノルマを与えられ、仕事をさせられ、達成でき
 
        ないと、 逮捕され、 見せしめで、広場で公開処刑されたり、シベリア送りになって
 
        いったのです。
 
        カンボジアのポルポト政権ほどではないですが、 反対する人、知識人、政治家
 
        貴族、宗教関係者は、 資本主義者と決めつけられ、家や教会は破壊され
 
        広場で、見せしめのため、処刑されていったのです。
 
 
 
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        この結果、 市民は恐怖におびえて暮らすようになり、密告が奨励され、多くの悲劇
 
        が生まれ、 家族が離散し、数百万人が殺されたと言われています。
 
 
 
 
【次回に続く。】

転載元転載元: ブラモデルを楽しみ、愛好者を増やす模型公園。

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