チエンマイの原風景

古書を片手に霧の彼方の古都チエンマイを訪ねる旅です・・・

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厄介な事大の国

厄介な事大の国-
 
ジョルジュ・ビゴーによる当時の風刺画(1887年)

冒頭の漫画は、明治15年(西暦1882年)に来日したフランス人画家ジョルジュ・ピゴーが明治20年2月15日に創刊した、居留地在住のフランス人向け風刺漫画雑誌「ドバエ」に掲載された「魚釣り遊び」という題の風刺漫画です。朝鮮という魚を釣り上げようとする日本と清国ということを風刺しているのでしょう。これだけであれば、朝鮮をめぐっての我が国と清朝との関係、思惑を風刺しているのだろうと思われますが、注意すべきは、日本と清国の他に、正面の橋の上から両国の釣りを眺めながらしっかりと釣竿を持っているロシアが描かれていることです。そして、ロシアがいる橋の下に流れる川は満朝の国境となる鴨緑江でしょうか。ピゴーの目には日清戦争より7年も前に、既に満蒙を南下して今正に朝鮮に至ろうと、虎視眈々と朝鮮半島に野望を抱くロシアが目に映っていたのです。当然、ロシアの視線は、半島を通った海の向こうにある日本を捕らえていたことは、文久元年(西暦1861年)に発生した対馬事件を持ち出すまでもなく、明らかです。こうした見方は、一人、ピゴーのみならず、ロシアの南下政策を熟知する当時の西洋諸国に共通した認識だったでしょうし、諸外国の動きに敏感な維新政府要人たちにとっても共有されていたことは容易に想像できます。植民地政策を推し進める西洋諸国の膨脹を前にした維新政府の目には、強国ロシアの満州併呑、朝鮮半島支配と続くであろう南進・膨脹政策が、成立したばかりの大日本帝国の存立さえ脅かす可能性ある要素と映っていたとしても不思議ではありません。
 
思えば、このロシアの野望にも増して、確たる理念、国家観、外交政策もないままに日・清・露にその時々に媚を売る半島の王朝の蒙昧さが地域に混乱を齎し、自己中心の無責任な小賢しさは、今も折に触れて我が国の神経を逆撫でします。そんな王朝に対して、自国の安全を図る為とはいえ、援助の手を差し伸べてきた我が国は、結果的に多大な犠牲を強いられただけで、我が国の善意が報われることは終になく、今も彼の国の歪な精神風土が攻撃本能を剥き出し、我が国社会に悪影響を齎しているのではないでしょうか。理由のない被害者意識しか持てない彼らは、劣等感を振り払うかのように、日本の独立・再武装を怖れてか講和条約前に武力で竹島を不法に占拠し、我が罪なき漁民を殺害し、拘束しました。寄る辺をなくした戦後の朝鮮は、自ら作り出した虚構に縛られて身動きもできないまま自己満足だけの反日世論に酔い痴れ、反論のない安全地帯の中での対日罵詈雑言を弄ぶことによる満足感という慰めを得てきたのでしょうか。そんな虚構の中での自己満足は、更なる欲求不満を生み出し、未来永劫満たされることのない欲求不満の海の中で、歪んだ精神を育てるだけではないでしょうか。良識が求められる司法においてすら反日無罪という非常識が通用する社会では、全体が共通の虚構=妄想の世界の中で外部の誰にも理解されない独りよがりの正当性を主張しながら慰め合う、夢想共同体を形成しているに過ぎないのかもしれません。アメリカ人文化人類学者クリフォード・ギアツは、インドネシアのバリ島を調査し、そこに見られる宗教的社会、伝統社会を研究してヒンズー教世界を現実世界に模した「劇場国家」論を展開しましたが、朝鮮に関して言えば、その社会は、自らの心を律する宗教観・価値観を持たず、強いて言えば、日本のみならず自国以外のすべての国々に対する限りない劣等感に基づく嫉妬、妬みから発するやりきれない無意識下の自己嫌悪の怒りが支配した妄想激情国家なのかもしれません。それ故、時にはOINKと称される外部世界には理解できない不思議な言動が当然のことのように通用し、被害者意識を強調する教育は、対極にある選民意識の強調を持って現実と夢想との乖離を埋めようとしますが、さらなる乖離を齎し、精神的不安定を増幅させるだけなのではないでしょうか。現実的であるべき政治の世界までもが虚構の中に溺れていくと、国を挙げて我が国の不幸に歓喜し、我が国の繁栄・安全を呪うかのように誹謗・中傷し、陰に陽に我が国を貶めています。こうした彼らの心の底には、我が国に対する理由のない羨望、克服し難い劣等感妬み、恨みとなって渦巻き、我が国の経済、技術、文化のみならず、風物までもが嫉妬の対象になると、本来は自分のものであったに違いない、という妄想、強迫観念が芽生え、精神的不安定が極度に高まる中で韓国起源説が生まれてきたのかもしれません。我々にとっては何とも理解し難い厄介な彼らが我が国の喉元に突き刺さった棘であろうとするならば、我が国はその棘を無害にする為にも彼らの事を知らなければならないのではないでしょうか。
 
この半島の国との関わりは、我が国にとって有益であるのか、有害であるのか。
 
明治18年3月16日に掲載された「時事新報」の無署名の社説「脱亜論」は、支那、朝鮮の前近代性、特に朝鮮の近代化が極めて悲惨な形で阻止されたことに対する失望感・怒りの上に記されたのかもしれませんが、日本の地理的条件として「不幸ナルハ近隣ニ国アリ」として支那・朝鮮を上げ「此二ノ者共ハ一身に就キ又一に関シテ改進ノ道ヲ知ラズ」と断じ、近代化を拒絶する隣国に対する我が国の今後の施策として「左レバ今日ノ謀ヲスニ我ハ隣ノ開明ヲ待テ共ニ亞細亞ヲ興スノ猶豫アル可ラズ」西洋植民地諸国の野望を前に、両国の自覚を待つ時間的余裕がないことを宣言し、続いて「寧ロ其伍ヲシテ西洋ノ文明ト進退ヲ共ニシ其支那朝鮮ニ接スルノ法モ隣ナルガ故ニトテ特別ノ會釋ニ及バズ」と、同じアジアの国としての親和感を持つよりも西洋諸国に和して近代化の道を進み、その上で隣国への対処法として「正ニ西洋人ガ之ニ接スルノ風ニ従テ所分ス可キノミ」と支那、朝鮮に対する心情的親和感を排除し、続いて友ヲ親シム者ハ共ニ名ヲ免カル可ラズ」が故に「我レハ心ニ於テ亞細亞東方ノ友ヲ謝絶スルモノナリ」と結論付けて社説を結んでいます。情緒的親和感を廃し、悪友である隣国とは冷徹な国際政治の論理を持って接しよ、というのであれば、100年余が経過した現代においても大いに肯けるものではないでしょうか。
 
思えば、我が国は、古来朝鮮半島からの侵入者に悩まされ続けて来ました。8世紀以降続発する新羅の入寇は、当時半島で猛威を振るっていた飢饉や疫病を逃れる為であるかもしれませんが、時に流民となり、時に盗賊となって我が国に押し寄せて来ました。彼らのそうした性癖は千年以上経過しても変わらず、今も日常的に見られる我が国への密航者、不法滞在者、不法就労者の動きと符合します。また、時に新羅の捕虜たちは「帰国を願う者も、帰化を願う者も叶えられた」とされていますが、これも日本政府の全額負担による終戦直後の朝鮮人帰還事業を思い起こさせます。毎年のように「商人や、漂流者、帰化、難民に成りすまし」てやってくる新羅人は、対馬領内に居を構え、徒党を組んで反乱を起こし、領民を殺害し、しばしば領内に侵攻して暴虐の限りを尽し、対馬簒奪すらをも企てる始末だったようです。それはまるで現下の情勢を見るようではないですか。「高麗史」によれば、かつての文永11年(西暦1274年)の文永の役もまた、高麗の忠烈王の強い進言によるものであるとされており、彼らにとって我が国は簒奪の場としか映っていないのでしょうか。彼らが我が国を簒奪の場として見ているとすれば、昨今の参政権要求生活保護費受給請求、様々な権利要求など、彼らの我が国に対する図々しい物乞いがよく理解できます。弘安4年(西暦1281年)の弘安の役では、襲撃の蒙古兵が減少して高麗人が増え、高麗人の残虐性は「見かくる者を打ちころしろうせきす。国民ささえかねて妻子を引具し深山に逃げかくれにけり。さるに赤子の泣きこえを聞きつけて捜りもとめて捕けり」と古文書に記し残されているようです。まるで終戦直後の「竹林はるか遠く」の朝鮮半島での悲劇、我が国社会で暴虐の限りを尽くした自称「朝鮮進駐軍」の世界を見るようです。こうした彼らの蛮行が倭寇を生んだのかもしれません。
 
それでも、室町時代になると平和的な朝鮮通信使なる使節団が日本にやってきますが、それすら、朝鮮の学校教育では無視され、徳川時代の「朝鮮通信使」が教えられているようです。それも、文禄・慶長の役で疲弊した日本経済を立て直すため、後継政権である徳川幕府が交易を求めてきた、とされ、朝鮮では、かつての倭の蛮行を許し、優れた朝鮮の文化・文明が野蛮な倭に文明の光を齎した、とここでも虚構の歴史を作り出しています。文禄・慶長の役に際しての李氏朝鮮支援で疲弊した明が衰退すると、後ろ盾を失った朝鮮では日本を怖れ、友好関係を求めていたのではないでしょうか。そして、彼らが無視する室町中期、応永27年(西暦1420年)の使節は、我が国に平仮名、片仮名という固有文字が存在することに驚嘆しています。余談ながら、朝鮮の独自文字ハングルは李氏朝鮮第四代世宗の晩年西暦1443年にその原型が作られたとされていますが、日本統治が始まった明治43年(西暦1910年)当時の朝鮮での識字率はわずか10%とも15%前後ともいわれています。中世に於いてすら武士、公家のみならず、商人ですら「読み書き算盤」と一通りの学習をしていた日本とは雲泥の差です。せっかく自国文字ハングルを有しながら、日本統治時代に総督府方針によって教育の場で用いられるまで両班たちに卑しめられ、社会から消され、彼らの儒教が商業を卑しめると商人の教育意欲も薄れ、庶民から文字を奪ってきたのかもしれません。その他、通信使は、日本では乞食ですら貨幣を要求する貨幣経済の発展に驚いていますが、これは、彼の国では都市部でわずかに貨幣の流通らしいものがみられる程度で、多くは、布、米などを介した物々交換の時代であったことを示しているのでしょう。また、正長2年(西暦1429年)にやってきた通信使の中の一人は、水車に関心を示し、朱色の紅白粉の原料共々その製法の他、紙漉きすら学ばせていることから、遥かな昔より彼我の文化・技術の差の大きさが容易に理解できます。しかも、水車に関しては持ち帰ったようですが、彼らは実物を目の前にしてもそれを模倣することすらできなかったようです。明治時代にも彼らは名前を変えた「通信使」を送ってきます。明治14年(西暦1881年)、李氏朝鮮では最後の王であり、続く大韓帝国初代皇帝である高宗の18年、紳士遊覧団が日本に送られますが、この一団の視察コースに「水車製造所」が含まれていますが、400年余が経過した明治になっても彼らはまだ水車を作る技術すら会得できなかったのです。「朝鮮通信使」という名前では実質的に最後となる、宝暦13年(西暦1763年)9月にソウルを出発した第11次朝鮮通信使は、明和元年(1764年)8月にソウルに帰着しますが、その中の一人金仁謙は、当時としては珍しくハングル文字で見聞録を記し、それが日東壮遊歌として今に伝わっています。道中至る所で見聞した我が国の豊かさ、美しさ、豪華さ、そして進んだ技術、社会に驚嘆している様を記しています。「天下広しといえ、この様な眺め、また何処の地で見られようか。北京を見たという訳官が一向に加わっているが、彼の中原(中国)の壮麗さもこの地には及ばないという。」と大阪の景観に驚嘆しながら、続く文章では「この世界も海の向こうより渡ってきた穢れた愚かな血を持つ獣のような人間が、周の兵王のときにこの地に入り、今日まで二千年の間、世の興亡と関わりなく一つの姓を伝えて来て、人民も次第に増え、この様に富栄えているが、知らぬは天ばかり、嘆くべし恨むべし」と恨み節を綴っています。しかし「一つの姓を伝えて来」た、とは誰を指しているのでしょうか。大阪にその様な家系があるのでしょうか。ともかく、彼の妬み心は京の風景に対しても如何なく発揮されています。「沃野千里をなしているが、惜しんで余りあることは、この豊かな金城湯池が倭人の所有する所となり、帝だ皇だと称し、子々孫々に伝えられていることである。この犬にも等しい輩を、皆悉く掃討し、四百里六十州を朝鮮の国土とし、朝鮮王の徳を持って礼節の国にしたい」と嘯いています。彼我の社会発展の差を認めながらもなおかつこうしたこうした歪んだ精神構造妬み心恨み心に支配された民族が「礼節の国」を形作っている、というのですが、笑止千万です。「犬にも等しい輩」とは誰を指すのでしょうか。彼らの歪んだ精神構造は、250年の時間を超えた今も日常的に見られ、前大統領李明博の我が皇室に対する非礼は如何なる謝罪をもってしても償えることではありません。この第11次朝鮮通信使は、その帰途、明和元年(西暦1764年)には対馬で食したサツマイモの美味に感服して、種イモを持ち帰っていますが、これが後年の飢饉時に人々を救済しています。また、異国の風俗に身を包んだ「通信使」一行の行列は、日本の庶民からすれば、労役を課されることがあったでしょうが、ひと時の物見遊山のいい口実であったかもしれません。しかし、決してそれほど平穏無事でもなかったようです。鶏を盗んで庶民と争いを起こしたり、中には「屋内の壁に鼻水やつばを吐いたり、小便を階段でする、酒を飲み過ぎて門や柱を掘り出し、席や屏風を割る」「夜具や食器を盗む、日本人下女を孕ませる」などの非常識な行動があったようですが、これが「礼節の国」の使者の行動です。今の彼の国の人たちの非常識な言動を見ていると、品性の欠片も見えないのは今に始まったことではないようです。彼らが信奉する儒教すら虚構夢物語なのでしょうか。日本の歴史、文化、社会、風物に対する彼らの僻みは、抑え難い劣等感の裏返しとしての恨み節・罵詈雑言の果ての朝鮮起源説小中華という夢想の中で自国を礼節の国と称する自己満足によってしか癒されないのでしょうか。
 
我が国と半島の国とのあらゆる面での発達の差は、遥かな後年に至っても全く埋められていなかったようです。最後の朝鮮通信使ともいえる第11次より100年余りが経過した、明治27年(西暦1894年)から4度に亘って朝鮮を旅した英国人女性旅行家・旅行作家のイザベラ・バードは、その紀行文朝鮮紀行において道は「住民は主に迷路のような道の『地べた』で暮ら」しているとされていますが、これは、当時、半階式という極めて低い建物が建てられていたことを言うのでしょうか。路地の多くは「荷物を積んだ牛同士がすれ違えず、荷牛と人間なら辛うじてすれ違える」ほどに狭く、しかも「家々から出た糞、尿の汚物を受ける穴で狭められ」ており「家から出た汚物によって悪臭が酷く」という首都ソウルの状況は、平成24年10月、ソウル大医科大学のシン教授が発表したソウル四大門付近の朝鮮時代の地層調査結果に符合しています。即ち「ソウル中心地は、朝鮮時代、匂いに悩まされ、通りでは汚物を踏んでしまう汚れた町であり、衛生状態も深刻だった」しかし、自己弁護も忘れず、「ほぼ同じ時期のヨーロッパの大都市の状況に似ている」と納得し、しかも「朝鮮が咸陽に都を移した14世紀以後、当該地区の人口は爆発的に増加した。多くの人が輩出した糞尿を処理する衛生施設が不備であったため、都市がこの様に汚染されたものとみられる」と分析していますが、李氏朝鮮末期においてすら咸陽の人口は25万程度と推定され、衛生観念の欠如をこそ言うべきではないでしょうか、しかも、既に18世紀初頭には100万を超え、ロンドン、パリを遥かに凌ぎ、北京と同じ規模もしくはそれ以上ともいわれる世界的大都市江戸について何の言及もされていないのは、社会発展の差を証明することを恐れたのでしょうか。またイザベラは、ソウルの町には「劇場」「芸術品」「公園」もなく「清国や日本のどんなみすぼらしい町にでもある堂々とした宗教建築物の与える迫力がここにはない」と朝鮮の首都ソウルの様子が記されています。その反面、イザベラのみた釜山は、「砦はとても古いものの、中の市街は三世紀前の構想に沿って日本人の手によって近代化されている」「外国人居住区を囲む竹林」共々秀吉の朝鮮出兵により作られたものであると記しています。知識人とされる両班に関しては「両班は究極に無能であり、その従者たちは金を払わず住民を脅して鶏や卵を奪っている」「公認の吸血鬼」と断じ、ソウルには「『盗む側』と『盗まれる側』しか存在しない」異常な社会と記され、しかも、官僚に至っては「私利私欲」の為に近代化に背を向け「堕落した官僚制度の浄化に日本は着手したが、それは困難極まりなかった」と朝鮮統治に苦悩する日本に同情的に述べているようです。
1890年代の荒廃した南大門を中心とするソウルの目抜き通
 
そんな彼の国が行動の指針とする「事大主義」とは、寄らば大樹の陰とばかりに自らの運命を他者に委ねる保身の策であり、生き残るための知恵現実主義者の策と弁護するかもしれませんが、そこに人間として大切な「仁」「義」の概念はなく、「正」「邪」を判断基準とする余地はありません。民族の尊厳、自尊心に代わって虚栄心に満ち溢れ、保身の為にはいつでも背きうるという面従腹背の性癖が潜んでいるようにも感じられ、強者に諂い、弱者を叩く卑劣な思考の様にも感じられます。韓国警察庁の統計で西暦2013年7月時点で25分に1件の割合で発生している、と報道される南朝鮮国内の性犯罪は、無抵抗な弱者に残虐行為を行うことで満足心を満たす歪んだ自己顕示欲の表出なのでしょうか。南ベトナム防衛戦支援出兵であるにも拘らず、守るべき南ベトナム国民に対して行われた韓国軍兵士の残虐・凌辱・非人道的行為は、我々日本人の常識を遥かに超えたもので、彼の民族の血に流れる残虐性・病的異常性、弱者に対する異常なまでの加虐性を余すところなく示しています。こうした狂気は、虚構の世界を守ることによってしか自己の存在を維持できない劣等感、屈辱感が民族病ともいえる火病 (Hwa-Byung)の発生となって表面化した結果なのでしょうか。彼らの病的なまでに異常な狂気の行動は、終戦後の朝鮮進駐軍の暴挙、ベトナム戦争時のみならず、朝鮮戦争時には、同じ民族を30万人以上も殺したとされる保導連盟事件として現れますが、常軌を逸しているとしか言いようがありません。彼らの異様とも言える民族的性癖は、今も昔も変わることなく、事大主義の思考形態の中で、寄る辺=宗主国を失った戦後朝鮮社会において被害者意識に染められ、莫大な日本の財政投入の下で経済・社会開発の恩恵を享受し、且つ日本人を装うことでその果実を享受した彼らは、終戦直後には凶器を持って日本人を襲い、それまでの日本の好意すら悪と断罪し、自主的日本化強制された屈辱自主的従軍売春婦強制された性奴隷に置き換えて吹聴して恥ません。
 
明治維新後の最初の国家の存亡を賭けての戦争となった日清戦争もまた、この半島の王朝に巣食う事大主義、閉鎖社会内での国を思わない権力者の保身・権勢欲・蒙昧・無能の故だった、と言えるかもしれません。
 
日清戦争の結果、朝鮮は、支那の属国という立場を清算して独立国として生まれ変わり、日本統治の時代になると、身分上の差別はなくなり、誰もが姓を持ち、社会基盤は整備され、公衆衛生、教育、司法、行政社会開発のあらゆる面で急速に近代化しました。そうした社会基盤、産業基盤整備の上で迎えた戦後、朝鮮戦争による疲弊も昭和39年より始まったベトナム戦争支援による戦闘手当と様々な米国より受けた便宜供与に加えて、昭和40年の日韓基本条約締結に伴い、3億ドルの無償援助、2億ドルの有償援助の外、3億ドルの民間借款まで得て、結果的に漢江の奇跡を成し遂げました。反共の最前線を口癖のように唱えながら、その時々に十二分に援助を乞い受けて危機を脱しながら、21世紀の現在、彼らは再び共産支那の懐の中に飛び込み、小中華・被害者の意識を振り回して我が国を誹謗・中傷するのでしょうか。
支那共産党政権に媚びながら、その蜜月を外交カードにして用いる危険な国際政治の局面を羨望、嫉妬、劣等感の裏返しとしての反日という虚栄心を満たす為だけに作り出す現朴政権は、米国を反日の構図の中に引き込み、支那共々政治的に日本を攻撃しようとするのでしょうか。我が国に対する非礼・不法に何らの罪悪感も抱かない不誠実な彼らと共通の価値観を持てる筈もなく、司法の場に於いてすら国際法を無視する国が法治国家である筈もなく、情実を持っての親和感は我が国に危険を呼び込むだけかもしれません。祖国へ帰らず、自らの意思で我が国に住する、もしくは密入国してきた在日同胞を朝鮮日報は「日本に住みたくて住んでいるわけではない」と報道しているそうですが、ではなぜ、戦後の帰還事業で帰国しなかったのでしょうか。今からでも遅くはありません。朝鮮日報は、在日同胞の全てを祖国に連れ帰って下さい。我が国は諸手を挙げて送り出すでしょう。
延々と日本に恨み言を繰り返す変質狂的執拗さが、鬱屈した劣等感の裏返しとしての反日無罪という狂気に変わり、異常な攻撃本能を我が国に向けている朝鮮に対して、同じ法治国家、同じ価値観、民主主義の国と言う幻想、情緒的親和感を捨て、垣根を超えた親しい関係を「謝絶」する賢明さが必要なのかもしれません。
 
亞細亞東方ノ悪友ヲ謝絶スル
 
脱亜論;ウィキソース

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