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英雄クン・チュアン物語−大王への道−
ところで、ここに出てくる『ケーウ』ですが、通常『ベトナム人』と言うことになっています。ベトナムが『越南』であり、『越』の『南』を意味するならば、かつて何かの本で読んだ記憶があるのですが、『越』『呉』の地域はかつてはタイ族の居住区であったと言うのです。今も壮(チワン)族自治区というのがあるそうで、その壮はタイ族であるというのですが、本当なら面白いですね。
また、その壮族自治区の東方海上に海南島がありますが、そこに住む黎(?)族もまたタイ族ではないかというのを何かの本で読んだ記憶がありますが、タイ族というのは思いの他多くの部族に別れていて広範囲に広がっているようですね。
それはともかく、『呉』『越』の民族は、中国の膨張に押されるようにして南に下り、先住民のチャムパー(CAMPAA)を押しやって『越南国』を作ったとすれば、今のベトナム人だとされる伝承本の中の『ケーウ』もまたそんな流れの中のひとつで、タイ族の血を引くのかもしれません。
実際問題として、現在ベトナム北部のシップソーンチュタイ(SIP SOONG CU THAI)にいる人たちがタイ族であることは間違いないですから、ベトナム北部とは古くから何らかの接触があったのかもしれませんね。シップソーンチュタイとは、シップソーンチャウタイ(SIP SOONG CAU THAY)−12人の王を有するタイ族とでも訳すのかしら−でしょうね。
シーサック・ワンリポードム、スチット・ウォンテート著の「タイ・ノーイ、タイ・ヤイ、タイ・サヤーム」は第一次資料ではありませんが、現地を検分しての考察で、読んでいて面白いですね。
余談はさておいて本題に入りましょう。
さあ、大変です。ムアン・ケーウの王ターウ・カーウ(THAAW KAAW)が大軍を挙げて近づいてきます。
この国の一大事に時代の英雄の登場です。
叔父のラーワチューンは、自力では対応できなかったのか、すでにクン・チュアンの力が伯父をはるかに凌いでいたのでしょうか、書状を持って甥のクン・チュアンに救援を求めました。
この時のクン・チュアンの行動は、チエンマイ系の伝承本の中にあっては、一代の英雄にしては、余りにも素っ気無い扱いしか受けていません。
ケーウの求めに憤りを覚えて軍を起し、迎撃してムアン・ケーウのターウ・カーウを殺し、ターウ・カーウを戦場で倒したクン・チュアンは、ラーワ・ンガーンブンルアン(LAAWANGAANBUNRUANG)と言う名前の自らの子供と叔父のラーワチューンにムアンを預け、自らは逃走するケーウを追って討伐の遠征に出ました。
逃げるケーウ兵を追撃するクン・チュアンは、見事にムアン・ケーウを攻略すると、主亡き後の王宮に入り、ターウ・ケーウの娘と結婚した、と簡単に述べているだけです。
遥かな後世、ムアン・ハリプンチャイ奪回を目指して北上してくるモーン族を迎えるパヤー・マンラーイの子供ターウ・ソンクラームの活躍の場面では、戦略、陣形、軍の配置、人員に至るまで細かく述べていることに比較すれば英雄伝にしては余りにも素っ気無いという他ないですね。
ところがパヤウに伝わる伝承では、驚くほど詳細に述べています。
叔父のラーワチンからターウ・カーウの無謀な要求を受けたという知らせを受けたクン・チュアンは、ムアン・パヤウの外に20箇所全てのムアンから兵を集めたと述べています。しかもその20箇所のムアンの名前を一つ残さず列挙しているのですね。兵員133,000人、象の数700頭、馬の数3,000頭を数え、ノーンハーン(NOONGHAANG)の西方ドーンチャイ地区(TAMBOL DOONCHAY)に兵を集めて、ムアン・クア(MUANG KHUA)、ムアン・チエンタン(MUANG CHIANGTANG)、チエンチャーン(CHIANGCHAANG)方面に向かい、ヒラン・ナコーン・ンガーンヤーンに到着してケーウ軍と戦った、とチエンマイ系の伝承本に比べるとその力の入れようは比較になりませんね。
そして、ターウ・ケーウを殺して戦闘に勝利を収めると、伯父のラーワチン(LAAWACHIN)に戦務を報告し、続いてムアン・ヒランナコーンの統治を委ねると、自らの子供ラーワンガーンルアン(LAAWANGAANRUANG)に王位を譲ってムアン・パヤウの王としました。この時、この度の政争の因となったナーン・ウアカムコーンムアンを伯父から与えられているんですね。
ここで言う所のラーワチューンとラーワチン、ラーワンガーンブンルアンとラーワンガーンルアンが同一人物であることはいうまでもありません。伝承がどちらのものであるかで、名前さえも違っているのですね。
敗走するケーウ軍を追撃して行ったクン・チュアンは、主のないムアン・ケーウを攻略すると王宮に入りました。その王宮には、亡くなったターウ・カーウの娘ナーン・ウーケーウ(NAANG UUKEEW)がいました。クン・チュアンは、当然のように美貌のナーン・ウーケーウを我が物とし、王位に就いたのでした。
プラヤー・ケーウは、クン・チュアンの従兄弟に当たる、ナーン・ウアカムコーンムアンに懸想したばかりに、自らは命を落とし、国を失い、娘すら敵将に奪われることになってしまったのです。
こうして、生国の王統を継承するのみならず、ムアン・ナーン、ムアン・プレーの婿となり、終には、こうしてケーウの地にもクン・チュアンの血が流れることになったのです。
クン・チュアンは何人の女性を娶ったのでしょうか。
これをいつのことと考えればいいのでしょうか。
チエンマイ系の伝承では、この年代を述べていませんが、パヤウの伝承では、クン・チュアンの王位就任は31歳、その後6年にしてケーウがムアン・ヒランナコーンにやって来て戦ったとなっていますから、37歳ということになります。
一方、ヨーノック王朝年代記の中で言及されている『チュアン伝』では、仏暦1653年に36歳で王位に付き、60歳にしてラーンチャーン(LAANCHAANG)を平定し、更に3年の後にムアン・ケーウを攻略したというのです。ならば、このムアン・ケーウ平定の年は仏暦1680年(西暦1137年)ということになりますが、こうした年代は非常に疑問で、この時代は、伝説・作り話の要素が大ですから、同じ本でも前後に時代的齟齬が出てきます。
従って、ここに出した年代もまた一応の目安として置いてください。
しかし、クン・チュアンが現在のラオス国を意味するラーンチャーン国を平定した話は、チエンマイ系の伝承本、ヨーノック王朝年代記の中のムアン・パヤウ建国について言及する章においても触れられていません。
ここにも、彼の存在に多くの疑問符がつけられる所以があるのでしょうか。
(続)
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伝承、歴史と言うのはそのときに都合のよいように
つくられるものなのでしょうか。
正確を記して潰されることはありますから。
ベトナムが『越南』というのは知っていましたが、
そういうこともあるのですか。
傑作
2009/3/5(木) 午前 9:44
さくらの花びらさん
コメント&傑作ありがとうございます。
もともと今のベトナムの地にはチャム族がいて、北から来た民族に押しやられるようにして南に向かい、そして西に曲がって今のカンボジア、当時のクメールを圧迫したようですね。そして、別のタイ族は四川から南に下りヒマラヤの壁にぶつかって東にメコン河、紅河を伝って流れてきた、と想像しています。四川に行った一部は諸葛孔明と戦争したという伝承もありますね。
あたしの承知している限り、「歴史」は「伝承本」として寺院に保管されていたようですが、これはこの地の有識者は圧倒的に僧侶であったことによるのかもしれません。従って、正式なものではないと思います。ある意味では経典複写、筆写の為に文字が必要になり、作り出したのではないかと思います。いつかチエンマイでの文字の起源について考えてみたいと思っていますが・・・
政争については勝者側視点からになるのはやむを得ないですね。従って複数の原資料と逞しい想像力を持って自分なりの歴史を作るのが楽しいですね。
ですから、ここでも「mana」の考える「由来」「来歴」を書くようにしています。
2009/3/5(木) 午前 10:27 [ mana ]
うちの父親はMON族を研究しています。今回のこの記事は大変面白く読ませて頂きました。私は「呉」「越」にはHMONG人が多かったと考えますがいかがでしょう? いずれにしても今の中国とは異なる南方民族であったことだけは間違いないでしょう。
パヤウとはパヤオですか?
2009/3/5(木) 午後 5:07 [ 獨評立論 ]
獨立綜合調査室さん
大陸には様々な種族が混在していました。古代におけるいわゆる中原、黄河流域にはチベット人がいて、殷の王は仕切りとチベット人を生贄にしていいかどうかを占ったと言います。従って、今は南方にいる民族も昔には中原にいたことがはっきりしていますし、一説では北京原人は現在のインドシナ半島系の民族に近いとの意見もあります。従って、呉、越の地域にモン族がいたとしても不思議は無いと思います。そして、他の民族もいたと思います。そんな多くに民族の中にタイ族もいて、それがタイ族の中のチワンではないかと思います。中国国内の諸民族については、あたしも多くのことを持っていませんのでなんともいえませんので、答えにはなっていないかもしれませんが、お許しください。
通常日本語では、パヤオとUの発音をOと発音しているようですね。あたしは通常話す時もそうですが、原文字通りにWとしますが、厳密には、UとOの間のような音ですね。
ラーウと書いているのは普通日本語で言うところのラオ、もしくわラオスですね。
誤解を与えているとすれば御免なさい。
2009/3/5(木) 午後 9:36 [ mana ]
呉越同舟と言う言葉は知っていましたが、それがタイやベトナムなどとの関連があるとは知りませんでした。
中国も色々な民俗があってそれこそひとつでくくれないと聞いています。タイにしてもベトナムにしても陸続きの大陸なのでそういう人の入れ替わりや戦いも日本とはかなり違って複雑ですね。
傑作
2009/3/5(木) 午後 10:21
千葉日台さん
コメントありがとうございます。
民族そのものがいくつもの部族に分かれて広がっていると、自らの言葉を忘れたものもいたりします。しかも、その間にいくつもの異民族が交じり合ってモザイク状態になっているのが国際社会だと思います。従って、中国、中国人という場合、どの民族なのか、国籍だけではないものがある筈ですね。国際社会の面白さ、難しさはここにあるのかもしれませんね。
2009/3/6(金) 午前 5:49 [ mana ]
『呉越同舟』のころの『越国』は秦漢時代の呉の南部、今でいうところの福建省あたりにあったと聞いたことがあります。また、気候も亜熱帯海洋性モンスーン気候で9割が山地丘陵であり平地に乏しい地形だったことから、タイ人のような民族や台湾の高砂族のような民族がいた可能性がありますね。
2009/3/6(金) 午後 10:47
秦やん3号さん
お久しぶりです。
コメントありがとうございます。
あたしはどの民族も始めは平地にいたと思っています。そして力で中原から追い出されたか、迫害を逃れて徐々に地方に散って行き、一部は山の上に追い上げられていったのが中国の現在の民族模様だと思います。
これは歴史学、文化人類学者の仕事でしょうね。
2009/3/7(土) 午前 5:36 [ mana ]