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英雄クン・チュアン物語−絶頂期の大王−
コームを追放し、シンハナワットナコーンを取り戻し、逃げるコームを執拗に追って南下する勢いに恐れたインドラ神が建設の神ヴィシュヴァカルマンに金剛の壁を作らせたという伝説を持つプロームマクマーンは、ムアン・チャイプラーカーンを建設したとはいえ、その活動の範囲は自国防衛の域を出ませんでした。しかし、ここに登場するクン・チュアンは、遥かな後年にさえも辺境の地といわれたムアン・プレー、ナーンへ旅してそこの王女を娶り、しかも遥かに東、メコン河を渡ってラーンチャーンを攻略し、更にはケーウすらをも攻め滅ぼしてしまいました。
同一人物ではないかと噂されながらも両名の活動の範囲は時代の推移をそのままに反映してかなりの相違を見せています。
従兄弟の女性に横恋慕したムアン・ケーウの王を殺し、国境を超え山を超え川を渡ってムアン・ケーウを攻略したクン・チュアンは、自らが殺したターウ・カーウの娘、ナーン・ウーケーウを我が物として、そのままムアン・ケーウの王となりました。
この点を「王朝物語伝」は単にナーン・ウーケーウをものにしてムアン・ケーウの王となった、としか述べていません。
しかし、「プーンムアン・チエンマイ伝」「十五代王朝伝」は、同じ口調でやや詳しくその当時の模様を記しています。すなわち、クン・チュアンがムアン・ケーウの王となると、その武勇が周辺諸国に響き渡り、ムアン・ロー(MUANG ROO)のプラヤー・ルムファーパウピマーン(PHRAYAA LUMFAAPAUPHIMAAN)が中心となって諸王を集め、聖水を頭に注いでの即位の灌頂の儀式を執り行ったといわれています。
一方、「ヨーノック王朝年代記」の中の「パヤウ建国の章」においては、事はそう簡単ではないようですが、これも今ひとつ納得がいきません。すなわち、ヒランナコーンに攻め寄せてきたケーウ軍を駆逐したクン・チュアンは、伯父のクン・チンから、美貌の主でこの度の政争の因ともなったナーン・ウアカムコーンムアン(NAANG UAKHAMKHOONMUANG)という名前の王女を得て妃とし、ラーワンガーンルアン(LAAWNGAANRUANG)という名前の自らの子供に王位を譲ってムアン・パヤウを統治させました。
こうして、ラーンナーの領域から敵を追い出したクン・チュアンは、どうしたことか、現在のラオス国である当時のラーンチャーン王国を攻撃して手に入れた、というのです。何故にはるか東メコンの大河を渡ってまでラーンチャーンを攻撃しなければならなかったのでしょうか。少なくともこのクン・チュアン時代以前において、チエンマイ系の伝承では、ラーンチャーン攻撃どころか、その王国の存在そのものすら記述していません。
いかなる理由をつけてラーンチャーン王国を攻撃しなければならなかったのか、平定しなければならなかったのか、そして、平定して何を得たというのでしょうか。「チュアン伝」にはラーンチャーン攻撃に言及しているといいますが、この点については一切言及していません。両伝共に、まるでケーウへの途中にあったのでついでに攻撃して手に入れた、という感じの書き方です。
今手元にある伝承だけでは、歯痒い位に疑問だらけですが、いつの日にか他のムアンの伝承本を読み進んで疑問を解いていきたいと考えています。
とにかく話を続けましょう。
ラーンチャーン王国を手に入れたクン・チュアンは、さらに進んでムアン・ケーウを攻撃して平らげ、ケーウ国の全国土を手に入れました。のみならずターウ・カーウの王女までをも手に入れたクン・チュアンの名声は、あらゆる方向に広まり、チャウ・ロムファーカウピマーン(CAU ROMFAAKAUPHIMAAN)という名前のプラヤー・ホー(PHRAYAA HOO)が周辺諸国に呼びかけてクン・チュアンに聖水頭頂礼の灌頂を施して、帝王としたというのです。ここで言うプラヤー・ホーとは回族の王ということでしょうか。そうであるならば、名声は中国南部一体に広く知れ渡っていたことになります。
ところが面白いことに、これまで比較的淡白な表現に過ぎなかったチエンマイ系の伝承本でこの時の儀式が非常に詳しく記され、逆に「パヤウ」の伝承、「チュアン伝」では触れられていないようなのです。
これはどういうことなのでしょうか。
学者の中には「パヤウ」の伝承は、往々にして極端な手前味噌であり、あまり信用が置けないということを言う人がいますので、自国の英雄とはいえ、他国で盛大な即位の儀式をしたことを伝える気がしなかったのでしょうか。
そうした憶測は一応置いといて、飽く迄「伝説」ですから、チエンマイ系の伝承からその時の様子を見てみましょう。
「プーンムアン・チエンマイ伝」では、この時の様子をどのように伝えているでしょうか。
ムアン・ケーウの権力圏内のムアン・ロープラカン(MUANG ROOPRAKAN)に集まった諸国の王は、そこに仮設の城を建設し、770本の傘蓋を立てたといいます。傘蓋とは仏のほかにも高貴な人に指しかける傘を意味しますが、770本立てたところにクン・チュアンの力が偲ばれます。
そして、黄金の浴槽も用意され、その中には香水が入れられていたといいます。その高さは150センチもあったといいます。
その浴槽の中にクン・チュアンが入り、参列の王たちが法螺貝に水を満たして頭に注いだそうです。ここに法螺貝が出てきますが、これはバラモンが吹く聖なる貝であり、新郎新婦に水を注ぐ時に用いられる聖なる物です。また法螺貝王子物語というお話があって、王妃が法螺貝を産み落とし、後にその中から王子が生まれるというどこか桃太郎とか竹取姫にも似た話にも登場するものです。
この時の法螺貝は右巻きに百回巻いていたと伝承は伝えていますが、それはいかにも多すぎますね。
穢れを取り払ったクン・チュアンは、黄金の髷飾りを頭に頂きました。昔の貴人は、頭頂に髷を結い、そこに黄金の輪を被せ、日本の昔の簪にも似て様々な飾りを施したもののようです。
この式典の中でのこととされていますが、チャウ・ロムファーパウピマーンがクン・チュアンのために印綬を作って献上したと言います。また、「チュアン伝」では、中国宋王朝より王の称号を受けたと言うのです。
また、中等教育用副読本の「北の町の物語−重要人物編」のクン・チュアンの項によれば、クン・チュアン自身が中国の天子に対して息子のラーワンガーンルアンをチエンラーイの王とすることを認める印綬を作成するよう願い出た、とされています。
これらが正しいとするならば、その印綬がどこかから出てくる可能性があります。それさえ出土すれば、彼の存在が大きく現実味を帯びてきます。ただ出てくるとすれば、今のベトナムの地でしょうが。
こうして諸国の王にその力を認められたクン・チュアンは、ムアン・ケーウの王として君臨しました。そして、ラーウより伴ったナーン・アマラテーウィー(NAANG AMARATHEEWII)とムアン・ケーウの王女ナーン・ウーケーウが後宮を取り仕切ったと伝えられています。そして、そこには驚くことに44万の美女がいたといいます。
(続)
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絶頂期の王様には様々な伝説がつきますね。武力、領土、財、それから女性。中には尾びれせびれがついているのもあるでしょうし、歴史書も悪くは書かないから尚更なのでしょうね。それを読み解くのも面白いと思います。傑作
2009/3/12(木) 午前 8:02
千葉日台さん
いつもご訪問&コメントありがとうございます。
伝説の中の王様はえてして異様なほど巨大化されるものなのでしょうね。でも、その中に幾ばくかの事実が潜んでいると思います。それを感じるのはそれぞれ各自の感性次第でしょうね。
歴史に正解はない・・・これがあたしの持論です。
2009/3/12(木) 午前 10:23 [ mana ]
印綬が出土すれば・・・日本で出土した金印を想像すれば良いの
でしょうか?・・・うーん、あんな小さいのが発見するのは、かなり
奇跡的な事が起こらないと・・・ですね。(汗
>歴史に正解はない。
確かに。だからこそ色々想像もできて、様々な物語や小説ができる
訳で。manaさんの研究成果も最終的には小説化するのでしょうか?
っというか小説化するのを希望します!
2009/3/12(木) 午後 1:29 [ しば ]
歴史はその時に権力を取った者達がつくる
ということがありますから、
真実とは違うのでしょうか。
そして、いつも迷惑しているのは庶民 でしょうか。
傑作
2009/3/12(木) 午後 2:05
hemulen_civa さん
コメントを頂きありがとうございます。
印綬も伝承にはそう出ているんですが、そもそも存在そのものが疑われている人物ですから、何か物が出てこない事には伝承のまま何ですね。ちょうど卑弥呼に似ています。
小説なんて考えたことがありません。
ただ、この町の華やかな歴史が忘れられ、埋もれていくのが可哀そうに思って、一人でも多くの日本人にこの町を知って欲しいと願うだけです。
2009/3/12(木) 午後 3:11 [ mana ]
さくらの花びらさん
いつもコメントありがとうございます。
どこの国も歴史は勝ち残ったものが書き残すもので、敗者の歴史は廃れるのが常ですね。とはいえ、勝者の書き残した歴史の中のどこかにまぎれている可能性はあります。様々な事実を繋ぎ合わせて真実らしいものを学者が作っていくのが、現在言われている歴史ですね。ですから、それが正しいかどうかは分かりませんね。
庶民はその日の糧さえ得られればそれで良しとしていますから、変動を受ける立場ではあっても起こす立場ではないですね。ただ、一部の庶民が野望に目覚めて社会変革を望むと騒乱、反乱、革命になりますね。権力者がより大きなものを求めれば戦争ですね。
いつの時代も変わらないですね。
2009/3/12(木) 午後 3:19 [ mana ]