チエンマイの原風景

古書を片手に霧の彼方の古都チエンマイを訪ねる旅です・・・

チャーマテーウィー伝

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チャーマテーウィー伝−1−

これまで遥か北の町の話をしてきましたが、ここで目を南に転じてみましょう。

西暦1296年、小さな山の裾野、南北に流れる川の辺に城壁に囲まれたひとつの町が出来ました。ノッパブリーシーナコーンピンチエンマイ(NOPHBURII SRII NAKHOOR PHINGKH CHIANGMAI)と名付けられたその町は、ビルマ、中国南部にまでその名声を響かせたラーンナー王国の都となり、260年余に渡って独立を維持し、一時期ビルマに占領支配されていたとはいえ、広大なこの地域にその令名は知れ渡っていました。

水の流れの如く過ぎ行く時の中で、かつては権勢を誇った王国は見事なまでにその面影を失い、チエンマイと呼ばれた都も、今では単にタイ王国76県の中の一つになってしまいました。そして、文化の花開いた都の栄華も、今は昔の夢物語にも似た語り草になってしまったかの感があります。

この四角い城郭都市チエンマイを建設したのは、天孫降臨伝説を持つラワチャカ(LAWACAKA)を始祖とするヒランナコーンガーンヤーン(HIRAN NAKHOOR NGAAN YAANG)に都する王朝の第25代目の王、パヤー・マンラーイ(PHAYAA MANGRAAY)でした。

老後を優雅に過ごそうとするのか、企業戦士として過ごした日本での疲れを癒そうとするのか、今、時の流れの遥か彼方に押し流され、忘れ去られようとする偉大な歴史を秘めた古都に数千人の日本人が長期滞在という名で暮らしているそうです。

その山間の小さな町の成り立ちに踏み込む前に、少し寄り道をしたいと思います。
市内を流れるピン河を下るも良し、風情あるヤーン樹(TON YAANG)の並木を進むも良し、郊外を走る舗装道路を疾走するも良し、チエンマイより南に下ることほぼ30キロに小さな町があります。

そこは現在ラムプーン(LAMPHUUN)と呼ばれ、独立した県です。郊外には20年余り前に工業団地公社が主催する国営工業団地が出来て日系企業が進出していることで一部日本人の間には有名かもしれません。また、竜眼(ロンガン−LONGAN−)と呼ばれる果物の産地としてタイ人の間にその名を知られています。しかし、時の流れを遡って行けば、この町は、チエンマイよりはるかに古い町で、当然のことながらタイ族の町ではありませんでした。

地元方言では、この町は、ラプーン(LAPHUUN)とも呼んでいますが、いつからラムプーンと呼ばれているのでしょうか。少なくとも伝承本の中で見る限りは、この町が作られた頃にはそんな呼び名ではなかったようですね。

遥かな昔のことです。
中国国内中原にいたかもしれないタイ族は、中国の膨張に押しやられるように自らの居住地を徐々に徐々に南に移さざるを得なくなりました。それはタイ族だけではなく、現在少数民族と呼ばれながら各地に定住の地を求めて暮らすいわゆる山岳少数民族と呼ばれる種族は、等しくそんな中国の膨張に押しやられたのでしょうか。

そんな民族移動の最後の脅威ともなったのは、いわゆる蒙古軍の強大化でしょうか。大地を疾走する騎馬の軍団は、草原を焼き尽くす燎原の火の如き勢いで南に、西に、東へと駆けて行きました。
そんな彼らの脅威を逃れて南に逃れるタイ族がメコン川の辺にたどり着きました。

遥か北に領土拡張の野望に燃え、疾走する百戦錬磨の騎馬軍団を抱える蒙古軍の脅威に怯えながら、膨張する中原勢力の脅威を逃れて定住の地を求めて南下してくる農耕民族タイ族は、メコン河流域平原に安住の地を見出したかのようでした。しかし、北の脅威を恐れる彼らは河を渡って南に下り、コック河流域平原に安らぎを得ました。

しかし、彼らの脳裏には中国の脅威は拭いがたかったのか、更に南に山を越えて下ると、現在のチエンマイの最北の町、ビルマとの国境の町ファーン(FAANG)を作って中国軍の難を避けました。

そして、その町は遥かに南に向って広大な緑の大地を彼らに見せたのです。遥か名前も知らない南の国から商人すらやってきます。富を誇るその南の町、緑の広大な大地、そのピン河流域平野は中国の脅威から遠く離れ、十分すぎるほどの緑の沃土を持って彼らを待っているかのようでした。

一方、目を南に向けると、クメール文明の影響を受け、時にはクメール文明の拡散者としてでしょうか、同じように領土拡張、影響力拡張、勢力圏拡張を目指して北上してくるモーン族(MOON)がいました。
既にこのスワンナプームの大地には、中国沿岸部から南下して来る越の民、それに押される先住民族チャム族、煌びやかな文明を誇るクメール族、そんなクメールと同じ言語系統といわれるモーン族、様々な民族がモザイク模様に各地に散らばっていたでしょう。

しかし、クメール族は自らの国土に引き返し、チャムは北の越の民、西方のクメールに抗することが出来ないまま衰微して行ったようです。いつの間にかクメールの後を襲って勢力を増したモーン族は、仏教をこの地にもたらし、現在の中部タイの地で足場を固めていました。

そして、彼らの最北の出城とも言える町が今のラムプーンに他なりません。

歴史を紐解けば、彼らとて無主の土地にきたわけではないようです。北上するモーン族を待っていたのはルアッ(LUA)と呼ばれる原住民族でした。北上して来たモーン族は、そんな先住民との争いに勝利し、西方の同族国、パコー(PHAKHOO)ともホンサーワデッィー(HONGSAAWADII)とも呼ばれた今のペグーとの中継地として栄えていました。東西の中継貿易都市としてこのモーン族の国が栄華を極めていた時、北からタイ族が南下してきたのです。

肥沃なピン河流域に勢力を有するモーン族に勝利してピン河流域平野を抑えることは、民族の独立にとって欠かせない条件だたっと思われます。

そのモーン族の町は、ナコーン・ハリプンチャイ(NAKHOR HARIPHUNCHAY)と呼ばれ、まことに不思議な伝承に彩られた創世記を持ちます。そして、その創業の王がなんと女性だったのです。そして彼女にまつわるお伽噺にも似た出生秘話、伝承の中に様々な形で影を落とす建国に関わるルーシー(RUUSII)と呼ばれる隠者の存在。どれもが神秘につつまれ、どこまでが真実であるのか、まさに霞の彼方のお話になってしまいます。

そんな『御伽噺』のような『伝承』を覗きながら、ハリプンチャイの創業の王、蓮の葉の上に生まれたとも言われる伝説を持つ伝説の美女の不思議な『お話』をここに綴ってみましょう。

ただ手元にある彼女に関わる伝承は余りも少なく、内容的には大いに不満が残るものとなることを覚悟の上で、とにかく始めましょう。

(続)

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aen*u*on99さん

コメントありがとうございます。
北が鬼門か、正直分りません。只チエンマイという町は、正しく東西南北に四面を合わせた略正方形の城壁に囲まれた町なのですが、その正門は北門です。従ってこのこうにあるラムプーンは裏庭の世界の話なんですね。とするとタイの人々の意識は常に正門の向こう、即ち北に向っていたのかも知れません。北からの敵に備えていたと考えることが出来るかもしれませんね。

2009/5/20(水) 午前 11:31 [ mana ]

ジョウジさん

コメントありがとうございます。
ラムプーンをご存知ですか。今チエンマイは、ライチの最盛期ですが、農家は値崩れ(B.10.−/K)で泣いていますが、チエンマイ最大の生鮮市場ではB.25.−/K、市内小売ではB.30.−/Kでさして値崩れの恩恵はありません。またライチとロンガンは形も似ていますが、色が少し違いますね、味もライチは少し酸っぱいです。もともとは同じなのか・・・分りません。ただ唐の楊貴妃がライチを好んでいたという話がありますから、昔から知られていたのでしょうね。一方ロンガンは今中国本土のみならず、香港、シンガポールはじめ各地の中国系の人々に人気ですね。その名前の故でしょうか。

2009/5/20(水) 午前 11:40 [ mana ]

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>数千人の日本人が長期滞在
それは知りませんでした。
知り合いのタイ人はタイは暑いから日本のほうが良い
と言っていましたが、いろいろなんですね。

傑作

2009/5/20(水) 午後 3:45 保守の会会長 松山昭彦

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ランパーンには立ち寄りましたが、ランプーンは通過しただけでした・・・・・・。ランプーンはチェンマイとは地形的に連続した位置にあるため、近代でも例にもれず「タイ化」の波に染まりやすかったのではないかと思います。
また楽しみにさせて頂きます☆

2009/5/20(水) 午後 5:38 [ 獨評立論 ]

さくらの花びらさん

いわゆるシルバーと呼ばれる定年退職者たちが、長期滞在の場としてチエンマイを選んでいますが、どうも彼らは小さな日本人社会を作り、日本語で暮らし、日本のテレビを見、新聞を読みながら、日本とは比べ物にならない低い生活費に満足しているようです。そんな定年退職者のためにヨーロッパの大型スーパーには日本の食材があり、一部アパート・マンションには、NHK国際法送受信可能を売り物にしています。残念ながら、あたしには別世界ですので、彼らの日常までは承知していませんが言葉以外は幸せではないでしょうか。
暑いといっても湿度が極端に低いですから木陰に入れば涼しいですし、彼らは誰もがエア−コンの効いた部屋にいて、あたしたち多くのタイ人とは別の生活ですから心配ないです。
只、先入観を持たず、問題を起こさず暮らして欲しいですね。

2009/5/20(水) 午後 6:30 [ mana ]

獨評立論さん

コメントありがとうございます。
チエンマイとは繋がり、チエンマイの一部のような感がありますが、文化的にはまだかなり昔のままを維持しているようですね。近代化はチエンマイが一手に引き受けているかの感があります。
ですから、町に入るとどこか昔にタイムスリップしたかのような感を抱くことがありますね。
このまま昔の文化を保持していて欲しいものですが・・・

2009/5/20(水) 午後 6:35 [ mana ]

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こんばんわ。

疲れを忘れさせるような景色が広がっているんでしょうね。
疲れた方々にとっては桃源郷かもしれませんね。

2009/5/20(水) 午後 9:12 Non

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しかし、いつの世も自分達だけが不自由無く暮らせたらそれで良いという考え方は変わりませんね
だから昔の国の治め方は滅していったんでしょうね
続き楽しみにしてますね

2009/5/20(水) 午後 10:11 yuzupon

う〜ん、中々ヤヤコシイ話なんですね(´・ω・`)

2009/5/20(水) 午後 11:33 [ ちんけいうん ]

Nonさん

コメントありがとうございます。
どうなんでしょうね。言葉も不自由で大変だとは思いますが、日本人の場合は、特に高齢者の方の多くは現地社会に入りませんから、同じ環境の日本人と小さな社会を作って楽しんでいるのだと思います。病気になっても現在のチエンマイの病院では、先日あたしが入院した病院以外にも日本語の出来るスタッフを用意して日本人を待っているらしいですから、その点でも心強いでしょうね。
事故もなく無事過ごしていることを願うだけです。

2009/5/21(木) 午前 5:58 [ mana ]

柚ぽん瑠璃珊瑚晴パパさん

コメントありがとうございます。
昔の国は、先住民と余所者の構図だったでしょうね。そして、多くの場合後から来た民族が、先住民を駆逐するか同化することによって国を作り上げていったのですが、その時先住民の持つ歴史が塗り替えられた可能性が大きいですね。時には歴史の横取り、民話・説話の借用が起こり得たと思います。
ですから歴史は楽しいし、時に危険ですね。

2009/5/21(木) 午前 6:04 [ mana ]

ちんけいうんさん

コメントありがとうございます。
小さな町にも様々な民族が入り混じって社会を形成しているのですが、そんな社会に入り込めない民族が今の日本人ですね。
なんとなく寂しい気がしますね。

2009/5/21(木) 午前 6:09 [ mana ]

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タイ族は元々中国中原から南に流れ着いたという人も多いという事でしょうね。今でも中国系タイ人と言う方もいらっしゃいますね。

それと日本人で老後をタイで暮らすという人もいるようですが、歴史のある街は包容力を感じるのでそこも魅力なのかも知れませんね。

傑作

2009/5/21(木) 午前 7:31 千葉日台

千葉日台さん

コメントありがとうございます。
私見では、タイ族は中原で漢族と戦ったと思います。同じように戦ったのは、苗族も同じですね。そして、大阪の道修町で薬屋の神様になっている神農もまた漢と戦ったと思います。様々な民族の抗争が中国5千年といわれる歴史の始めにおいて繰り広げられ、領土保全を目的とする民族に対し、領土拡張を目的とする漢が戦いを挑んだのではないかと勝手に想像しています。

また、チエンマイという風土は、奥深いところでは非常に激しいものを持っているのですが、表面的には無風ですから何も知らない日本人の老後には向いているのかもしれませんね。只、出来れば夫婦で来て欲しいですね。男性一人で来るには誘惑が多すぎる町ですね。

2009/5/21(木) 午前 8:29 [ mana ]

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侵略の歴史なのですね・・・
どちらにしても戦いはできれば避けたい

2009/5/21(木) 午前 9:16 [ 道後 ]

水大師さん

コメントありがとうございます。
黄河中原から黄帝族といわれる漢族の祖に弾き出され、四川の蜀の国では諸葛孔明に追い出され、更に南に下ると蒙古に追い出されてきたのが大雑把なタイ族の動きですね。そして、途中苗族を山に追い上げ、メコン川流域に来てはクメールを弾き出し、ピン河に来てはルアッ族とハリプンチャイのモーン族を弾き出すんですね。
国が出来るということはこうした様々な民族との軋轢の末のことなんですね。
戦闘は勇ましい反面、戦いの後には必ず敗者の悲劇が待っていますから・・・残酷ですね。
でも戦いを放棄することは当時も今も破滅への道のような気もしますが・・・

2009/5/21(木) 午後 3:27 [ mana ]

タイ人の民族移動の影にはシナがあったわけですね。
これは私の持論なのですが、大国(領土的意味において)と言う国は概してその歴史上周辺諸国及び民族を圧迫・征服してきたことによってその領土を獲得したきたはずです。

それゆえ国土の大きさを誇るなどと言うのは言語道断・理不尽の極みです。こうした周辺民族史を日本人は良く学びシナにぶつけてゆくべきと思われます。

リタイアした日本人男性が近年多くタイに半移住しているようですが、「かもねぎ騒動」が相次いでいると聞き及んでいます。そのへんの実態はどのようなのでしょう。

2009/5/21(木) 午後 4:24 [ 彩帆好男 ]

サイパンはカナダより魅力的さん

コメントありがとうございます。
何年か前、1年半チエンマイに滞在しているという男性とスーパーで会いました。惣菜コーナーでスパゲッティーを見て辛いですか、と聞いてきたその男性は、1年半の間に2人の女性に騙されて車2台を進呈し、なお諦めずに3人目を探しているようでしたね。これが『かもねぎ』というのでしょうか・・・この類は多いと思いますよ・・・それから私見ですが、日本人だといって信用しないほうがいいとも思いますね。日本人を食い物にする日本人もいるようですから・・・

本題の中国の件ですが、一人が足を踏み入れた場所は、中国のものである、という考えが彼ら自慢の中国五千年の歴史かも知れませんね。中原もかつては苗族のものでありましたが、殷の時代にはチベット族狩りを占うように、他民族を人と見ていない節がありますね。恐ろしいですね。そんな彼らを抑えるのは、洗脳か死しかないと言うことをある人から聞いたことがありますが・・・大阪道修町で祀られている薬の神様、的屋の神さんもまた漢の祖と見られる黄帝族に敗れた民族の代表のようですが・・・

2009/5/21(木) 午後 5:55 [ mana ]

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恐る恐る未知の世界を覗いている思いで拝読しました。
チエンマイは歴史のある都なのですね、バンコクに次ぐ都市だそうですね。蒙古軍は日本にも押し寄せて参りましたが島国であったが為に日本は属国から免れました。地続きのタイでは種族同士の争いが絶えなかったのですね。

2009/6/10(水) 午前 6:51 さんりゅう

さんりゅうさん

コメント有り難うございました。
こうした種族争いが世界の通常なのですね。何千年も昔黄河流域、いわゆる中原にいたと思われる苗族、チベット族が中国人の祖と思われる漢族に追われて南に避難しますが、そんな民族の中にタイ族もいて、四川に逃れると、三国志の諸葛孔明に追われ、雲南に来ると元に追われするんですね。そして、今の地に来ると先住民を追って自らの国を建設して、どうにか安住に地としたのです。日本では考えられない民族闘争の歴史ですね。かなり規模は小さいですが・・・
歴史ですから、戦争は避けられないですね。
馴染みのない世界ですが、お時間があればの覗いて頂ければ嬉しいです。

2009/6/10(水) 午前 8:52 [ mana ]


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mana
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