チエンマイの原風景

古書を片手に霧の彼方の古都チエンマイを訪ねる旅です・・・

チャーマテーウィー伝

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ナーン・チャーマテーウィー伝−4−

こうして、ステーワ仙は、親友のスッカタンタ仙にチャーマテーウィーの北上依頼の仲介を託しました。一方、スッカタンタ仙とステーワ仙の親書を携えた使者カワヤを迎えたプラヤー・チャッカワットは、どうしたのでしょうか。

チャーマテーウィーが、ステーワ仙に育てられ、河を下って流されてきた孤児であるという神話にも似た伝説を信用するとしても、今では副王妃です。「ヨーノック王朝年代記」においては、この頃チャーマテーウィーの夫カムポーチャ王子はラーマ・ナコーン(RAAM NAKHOOR)を統治していたといいます。

しかし、どの伝承においてもチャーマテーウィーの夫の副王が物語りに付け足しのようにしか出てきません。しかも、ステーワ仙が拾って育てたという伝承を持ち、川を流れ下って来た少女をプラヤー・チャッカワットが拾い上げて育てたという逸話を作り出しても、一方的に副王の妻となっているチャーマテーウィーを横取りしようとすることにロッブリー側では何の抵抗もなかったのでしょうか。

もしもロッブリーのモーン族が、パコーともホンサーワディーとも呼ばれる今のペグーとの中継地としてムアン・ハリプンチャイを建設したとするならば、そこに出向くのは当然副王で、妻が付随する筈だと思いますが如何でしょうか。

それなのに、何故にチャーマテーウィーだけなのでしょうか。

その答えは、この北上の旅に出る時チャーマテーウィーが既に未亡人であった、という説が出て終息しているように見えます。つまり、未亡人となった悲しみを抱いてチャーマテーウィーは傷心の北上の旅に出発したというのです。

しかし、伝承は、それでもなお、チャーマテーウィーの夫を生かしています。

カワヤとスッカタンタ仙から話を聞いたプラヤー・チャッカワットは、チャーマテーウィーを呼ぶと、遥か彼方に出来たムアンの王となって行け、と告げたといいます。

そして伝承は更に「・・・カムポーチャ・ラーチャブットは、父が副王としておいておき、誰か気に入った女性が出来ればその女性を娶わせるであろう・・・」といったといわれています。

そして、副読本においては、この時チャーマテーウィーに「もしも父である王に何かお望みがあれば、子供である私は、王の御意向に沿って如何なることをもなすでありましょう」と答えさせています。

更に、チャーマテーウィーの夫は、お前を求めて遠路はるばるやって来た使者であるからお前が行くが良い、俺はここに残ると言わしめていますが、この時、彼女の身体の中には受胎三月の胎児が宿っていたといわれています。

そして、自分一人を長途の旅に送り出そうとする夫に対してチャーマテーウィーは「妾は、我々二人の間の子供を最大限に大切に守り育てましょう。もしも我が子が男子であるならば、妾の代りにムアン・ハリプンチャイの王位につけましょう。そして、この子こそが、我々が永遠の別れをしなければならなくなった時には、あなたの代りとなって妾の頼る所となりましょう」といって最愛の夫と別れたというのです。

このあたりの事はどう考えればいいのでしょうか。
手元にロッブリー側の資料がなく、当時のロッブリーの様子が全くつかめませんので、想像を頼りに手元の少ない資料で推理していくしかありません。

スッカタンタ仙とカワヤを迎えたプラヤー・チャッカワットは、郊外に使節受け入れの為に建物を建設したといいます。そして、カワヤたちはそこで1年に亘って逗留したというのですが、チャーマテーウィーがムアン・ラウォーを出立した時、彼女は妊娠3ヶ月であったことは、北の伝承の一致するところです。とするならば、少なくともスッカタンタ仙がステーワ仙の使者カワヤを伴ってムアン・ラウォーにやってきた時、カムポーチャ王子はまだ健在であったことになります。

ここで想像の翼を広げて伝説とは別のあたし一人の夢想の世界に飛び立ってみましょう。同族モーン族の町パコーに向かう中継基地的都市としてムアン・ハリプンチャイを建設したモーン族は、ロッブリーの町においてその新しい中継都市の支配者について協議しました。その為に幾つかの町からモーン族の部族長が集まったでしょうから、郊外に臨時の建物も必要であったかもしれません。そうして、協議が続く間にプラヤー・チャッカワットの息子が亡くなった、もしくは、何らかの事情で妊娠3ヶ月のチャーマテーウィーが出なければならなくなった。

こんな妄想もまた楽しいですが、裏付ける資料がないのが寂しいですね。

とにかく、チャーマテーウィーは、遥か彼方のまだ見ぬ国へ赴任するに際し、父のプラヤー・チャッカワットにたくさんのことを求め、その全てを認められました。
即ち、
三蔵に通じた高僧たち500人、五戒、八戒を守る修道者500人、彫刻職人500人、宝石職人・指輪職人500人、銀職人、金職人、鍛治職人、銅職人、その他ありとあらゆる職種の職人各50 0人、占い師、医師、侍従、技師、行政官各500人を求めました。その中には500人の富豪も含まれていたと言いますから、それは正に一国を率いての旅だったようです。

一方、「ヨーノック王朝年代記」に引用されているラムプーン伝では、チャーマテーウィーの夫は、業務を捨てることは出来ず、一人行くように見送りましたが、妻の旅立ちに際し、8月満月の日より七昼夜に亘って盛大な送別の儀式を持ち、王の神具、財宝、侍女、兵士、乗り物、行列の諸具の残らず全てを下賜した、といいます。

この時チャーマテーウィーは何歳だったのでしょうか?
「ナーン・チャーマテーウィー伝」においては、彼女は92歳の時に病に侵されて崩御した、とされています。正に神話と呼ぶに相応しいほどに長寿だったことが分ります。
そして、「ヨーノック王朝年代記」の「ナコーン・ケーラーン(NAKHOOR KHEELAANGKH)建設」の章において、チャーマテーウィーが在位53年、御年92歳で崩御したと述べていますから、逆算すると、ムアン・ラウォーを出立した時、彼女は39歳だったのでしょうか。実際は崩御に先立って何年か前に退位している筈ですから、ハリプンチャイに来た頃はこれほどの高齢ではなかったと思われます。
また、ここで言うところのナコーン・ケーラーンとは、時にケーラーン・ナコーン(KHEELAANGKH NAKHOOR)とも呼ばれますが、現在のラムパーン(LAMPAAANG)に他なりません。

また、このチャーマテーウィーのムアン・ラウォー出御はいつの時代の出来事なのでしょうか?
「チャーマテーウィー伝」においては、この年、プカーム(ビルマ)のアヌルット王がこれまでの紀元を切り捨て亥の年の7月上弦の12日に新たな紀元を打ち立てたといいます。即ち、小暦と呼ばれるもので、これに1181を加えると仏暦になり、仏暦から543を引くと西暦になります。ですから、これをそのまま信用すると、チャーマテーウィーのムアン・ラウォー出御は西暦638年になりますが、どうなのでしょうか。

そして、新たに打ち立てられた小暦元年の12月(陽暦9月)下弦の8日にムアン・ラウォーを出立し、同年6月(陽暦3月)の満月の日にムアン・ハリプンチャイに到着しています。

そして、翌7月下弦の6日、チャーマテーウィーは二人の男の子を出産しました。
こうしてムアン・ハリプンチャイでの母子三人の新生活が始まったのです。

(続)

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サイパンはカナダより魅力的さん

古代チエンマイ語といっても文字の一つ一つは現代タイ語文字に置き換えられていますから、単語は今の人も使わない古語ですが、毎日そんな本ばかり相手にして慣れればそれほどではないですよ。昔の伝承の表れる言葉専用の辞書もありますから。むしろ、「俺」「お前」的な言葉を昔の王たちは平気で使いあっているのを知ると昔の人の言葉使いは案外素朴で、今のようにバーリー語だとかサンスクリット語に汚されている割合が少ないのかもしれないと思いますね。
それでも、占星術に関わる文章が出てくると現時点ではお手上げですが、いろいろな本を読んでいるうちに分る部分もあったりしますから、少しずつ前進ですね。かつてタイ語の先生に聞いたこともありますが、彼女もちんぷんかんぷんでしたね。やはり、出家経験のある古老が一番いいようですね。まあ、素人ですから楽しみながらです・・・

2009/6/5(金) 午後 6:53 [ mana ]

さくらの花びらさん

仰る通り、92歳は今から1000年以上も昔のこの地の人の人生としては長いですね。でも伝承ですから。伝承の中では、100歳を超える英雄もいますから。
チエンマイを建設したパヤー・マンラーイはいつか話が出ると思いますが、80歳で亡くなりましたが、これは落雷という不慮の事故ですね。当時としてはかなり長寿だと思いますが、やはりこうした英雄は身体頑強がその条件なんでしょうか。それともそれほど健康に留意していたのでしょうか。
只、あたしもこうした伝承を読む場合、古い話はその年代とか年齢などは余り信用はしてはいませんが、信用すると楽しいですね。

2009/6/5(金) 午後 7:01 [ mana ]

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なんか、どこかの国の昼間のドラマのような感じが・・・
見ようによっては、身篭った夫人を追い出したように見えますね
考えすぎか?

2009/6/5(金) 午後 10:30 yuzupon

柚ぽん瑠璃珊瑚晴パパさん

コメントありがとうございます。
チャーマテーウィー彼女自身が、実際には誰の子供なのか、という点から始まって謎だらけの人物なんですね。これもロッブリー側の古い資料が手に入れば幾分かははっきりするのかもしれませんね。只、妊娠三月の身重の身体で半年に亘る河の旅は想像を絶すると思います。多数の従者を伴っているとはいえ放逐といえないこともないかもしれませんが、やはり新しく建設した町への派遣と見たほうが楽しいかもしれませんね。
只、彼女とは別のですが、古い物語の中には後宮での勢力争いを思わせる話も少し残っていますね。想像だけが許される時代の話ではありますが。

2009/6/6(土) 午前 5:46 [ mana ]

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歴史の重さを感じます。

2009/6/6(土) 午前 7:09 [ taka ]

tak*1*37* さん

コメントありがとうございます。
歴史は楽しいですね。

2009/6/6(土) 午後 3:58 [ mana ]

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こん
∧、∧
| ω・`) のぞきにきました
|⊂ /
|ω__)

2009/6/6(土) 午後 7:12 日帰り温泉とグルメ

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双子だったのですね!!
傑作

2009/6/6(土) 午後 7:25 [ 道後 ]

日帰り温泉とグルメさん

お久しぶりです。
葛餅の写真見せて頂きましたよ。

2009/6/6(土) 午後 7:27 [ mana ]

水大師さん

コメントありがとうございます。
結果を言えば、チャーマテーウィーは双子の男の子を出産します。そして双子に夫々国を治めさせるために、今ひとつの町を作ります。その町がラムプーンの東に位置するラムパーンです。そして、この町が南北往来の中継地という重要な地位を占めます。

2009/6/6(土) 午後 7:34 [ mana ]

いつの時代も、男と女、家族、政治…
人生を捧げた人、犠牲になった人、喜んだ人、悲しんだ人…それぞれの人生があったんですね。
manaさんの「夢想の世界」も裏付ける資料がないからこそ、想像することが楽しいです。

2009/6/7(日) 午前 9:29 [ ossa ]

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こんにちは。
このあたりの時代の歴史は謎が多く、おもしろいですね。
638年というと日本では聖徳太子死去から大化の改新の頃ですね。

ポチ

2009/6/7(日) 午前 10:22 [ JJ太郎 ]

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現在ほど医療が発達していない時代に92歳まで生きられるとは
すごいの一言です。

伝承に残るだけの事はあります。

2009/6/7(日) 午後 0:44 Non

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3人の男児を出産し国事に奔走する。素晴らしい女性です。
日本にもいたらいいのですが。
傑作

2009/6/7(日) 午後 0:50 kitaguniharuo

OSSAさん

コメントありがとうございます。
古代の話を資料で見ている時、専門学者ではないですから、どうしても欠けている所が出てきます。しかし、逆に素人ですから欠けている所を自由に想像する楽しみがありますね。いつの日にかどこかで欠けている部分を埋める話に出会うかもしれませんし、その時に訂正したとしても別にそれで被害を受ける人はいないでしょうから楽しいですね。

2009/6/7(日) 午後 4:52 [ mana ]

JJ太郎さん

コメントありがとうございます。
このあたりの年代は全く当てになりません。一つには彼ら自身が文字に残していないですから。多くは、遥か後世の人−ハリプンチャイが滅び、チエンマイに町が出来て後、多くは僧侶ですが−が伝承を文字にしましたので、年代はいたっていい加減です。実際には、ここに記しているよりも数百年後かもしれません。只、年代よりも話の流れの方がこの時代は大切だと思います。

2009/6/7(日) 午後 4:57 [ mana ]

NONさん

コメントありがとうございます。
92歳、現代のタイにあっても恐ろしいほどの長寿ですね。ですが、チエンマイ建設の王パヤー・マンラーイは、80歳で亡くなりましたが、落雷に当たるという不慮の事故死ですから、当時の支配者というのは身体頑強で、かなり健康に注意していたのかもしれませんね。神話の世界では100歳を超える王もいますけど・・・

2009/6/7(日) 午後 5:00 [ mana ]

北国春男さん

ご訪問&コメントありがとうございます。
日本の風土とは合わないかもしれませんが、いたら面白いかもしれませんね。日本には山内一豊の妻型が似合うのでしょうか。只見知らぬ地で双子の乳飲み子を抱えての国の政治を見ることは困難を極めたと思います。
今の日本には多くの子供を生み育てる女性が欲しいですね。

2009/6/7(日) 午後 5:08 [ mana ]

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日本でも初代から仁徳天皇の頃までは崩御年が100歳を越える天皇が多く、神話の世界ならではなのかも知れません。それは国が違っても同じだなあと思いました。
所で、釈尊の生没年は諸説あるようですが、4月8日生まれで享年81歳(満80歳)と言うのは一致していますね。
傑作

2009/6/8(月) 午前 3:14 千葉日台

千葉日台さん

コメントありがとうございます。
神話の世界ですから、出生年もかなりあやふやですし、年齢もそのまま史実として信じるよりもお話としてみているほうが良いかもしれませんね。
釈尊の生没年は、学問的に見ればまだはっきりとしていませんね。只、釈尊が実在の人物であることだけは証明されているようです。
ところで、コチラでは、宗教学者も経典にこう書いてあるから・・・という学者らしくないことで西暦紀元前622年陰暦6月の満月の日に生まれ、紀元前587年の陰暦6月満月の日に菩提樹の下で悟りを開き、紀元前542年陰暦6月の満月の日に入滅したと主張します。ですから、誰もがそう信じてしまっているところに問題がありますね。

2009/6/8(月) 午前 5:30 [ mana ]


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