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ナーン・チャーマテーウィー伝−6−
チャーマテーウィーがムアン・ハリプンチャイの領内に入ると、カワヤとスッカタンタ仙は一足先にステーワ仙のもとに駆け戻って到着を知らせました。知らせを受けたステーワ仙は、人々に命じて傘蓋、旗、芳香を放つ花で町を飾らせ、歓迎の準備をしました。
そして、チャーマテーウィーが到着すると、ステーワ仙は、早速彼女の頭に聖水を注いで即位の大典を催し、王宮に案内するとムアン・ハリプンチャイの王とすることを高らかに宣言しました。こうした一連の動きの全てを見届けたスッカタンタ仙は、自らの役目が終了したことを知り、ムアン・ラウォーの山中に帰って行きました。
即位の大典、灌頂の儀式が終わって7日の後、チャーマテーウィーは予想の通り双子の男の子を出産しました。出産を間近に控えての即位の大典であったのです。ですからここでは通常何日にも渡って開かれたであろう盛大な祝宴の模様が出ていません。むしろ急いで即位の式典だけを挙行したのかもしれません。
「ヨーノック王朝年代記」によれば、チャーマテーウィーは、即位すると直ちに寺院建立に取り掛かり、同行の僧侶500人の住む場所とし、衣、食,住、薬の四依を後援して手厚く保護した、といいます。
かくして生まれた双子の長男は、マハンタヨット王子(MAHANTYOS KUMAAR)、下の子はインタウォーラ王子(INTHAWOORA KUMAAR)と名付けられたといいますが、「チャーマテーウィー伝」では、上の子はマハーヨット(MAHAAYOS)、下の子はインタウォーラ・アナンタヨット(INTHAWOORA ANANTAYOS)と名付けられたといいます。
しかし、ここでは通常言われているマハンタヨットとアナンタヨットとして話を進めていきます。
時に小暦元年、即ち仏暦1181年(西暦638年)も末の7月下弦の6日であったといいますが、かなり時間的には遡っていると思います。ラーンナー古代文字の権威ハンス・ペンスがチエンマイ建都に関わる三大王の像建設を記念して出版された「ラーンナータイ」という論文集に次のように寄稿しています。
「・・・ムアン・ラムプーン伝(TAMNAAN MUANG LAMPHHUUN)によれば、仏暦1310年(西暦767年=MANA 注)ワーステープ仙(RUUSII WAASUTHEEPH)とスッカタン仙(RUUSII SUKKATHANT)がムアン・ラムプーン(ハリプンチャイ)を建設し、仏暦1311年(西暦768年=MANA 注)ロッブリーよりプラ・ナーン・チャーマテーウィー(PHRA NAANG CAAMTHEEWII)をラムプーンの王位就任に招請した。プラ・ナーン・チャーマテーウィーは受け入れてムアン・ラムプーンにやってきた。仏暦1311−1312年(西暦768−769年=MANA 注)ロッブリーとラムプーンの間に様々な町を建設した・・・」と記しています。
また、チエンマイ大学のスラッサワディー・オンサクン(SRASAWADII ONGSAKUL)準教授は、その著「ラーンナーの歴史」において、1971年1月発行の「Journal of the Siam Sociaty」の中のA.B.Giswold and Prasert na Nagara の著「An Inscription in Old Mon from Wiang Mano in Chiang Mai Province」を引用して、「・・・ムアン・ラウォーの王女、プラ・ナーン・チャーマテーウィーは、仏暦1310−1311年頃ムアン・ラウォーより出御して、ムアン・ハリプンチャイの王位に就いた・・・」と述べています。
ですから、彼女のハリプンチャイ到着は、仏暦1312年、即ち、西暦769年頃が正確かもしれません。
とすると、二人の王子の生誕も仏暦1312年、即ち西暦769年頃になるのでしょうか。
話が変わりますが、「チャーマテーウィー伝」によれば、双子の王子が生まれて2年、ステーワ仙はハリプンチャイの将来に危険を感じやって来た、といいます。そして神と相談して一つ牙の見事な白象を出現させました。
その場所は、チエンマイの北2日行程にある大山ドーイ・アーンソン(DOOY AANSRONG)で、ドーイ・アーンサルン(DOOY AANSLUNG)とも呼ばれますが、今の人たちにはむしろそこにある著名な洞窟の名前を取ってチエンダーウ(CHIANGDAAW)と言った方が分り易いかもしれません。
遥か北、チエンダーウの街から南に向った白象が、ムアン・ハリプンチャイの東北方に姿を現すと、人々は急いでチャーマテーウィーに白象の出現を知らせたといいます。これは、今も昔も白象は一般庶民の所有するものではなく、王にこそ相応しいという認識があったことを伝えているのでしょうか。
チャーマテーウィーは、供儀の品々を整え、楽隊を率いて象を迎えたといいますが、これは象狩りを意味するのでしょうか。しかし、ムアン・ハリプンチャイの領内にやって来た神の使いとも言える白象を誰も捉えることが出来ませんでした。ところが、幼い双子の王子が近づくと白象はまるで飼われていたかのように大人しくなり、王子を背に乗せるとムアン・ハリプンチャイの北門に向い、城門に身体を擦り付けたといいます。
そうした現象から北門の名前がチャーンシー門(PRATUU CHAANG SII=象が擦った門)と名付けられたといいます。
城内に入った象が、王宮に近づくと不思議なことに大きな叫び声を上げたといいます。そこで、人々はそこに寺院を建立し、チャーンローン寺院(WAD CHAANG ROONG=象が吠えた寺)と名付けました。
チャーマテーウィーは、巨大な雄象が城内に入ると象舎に案内し、象王に相応しい装身具で飾り、盛大な奉祝行事を持ちました。
白象がこの世に現れるという瑞祥は、チャーマテーウィーが王の十正道に基づいて国を治めていることに神が嘉したことを後世に伝えているのでしょうか。
一方、「ヨーノック王朝年代記」によれば、チャーマテーウィーが故郷ムアン・ラウォーより連れてきた人々は、ムアン・ハリプンチャイの場内に入ることなく城外東北方に集落を作って住み着いたようです。これが今に残るウィアン・クムカーム(WIANG KUMKAAM)、ハーンドン(HAANGDONG)その他の古い集落を指すのでしょうか。
城内に住んでいた人々が誰なのかを見ると、あの動物の足跡から生まれ、ステーワ仙が育てたとされる人々の子孫が住んでいました。このことは、ムアン・ハリプンチャイが、既に存在し、そこには多くの人々が住んでいたことを示しているのでしょうか。
その頃、ウッチュバンポット、今のドーイ・ステープの近くにはウィランカ(WILANGKHA)という名前のルアッ族の王がいました。只、このウィランカは、ミランカ(MILAMGKHA)、ミラッカ(MILAKKHA)、ミラッ(MILAKH)とも呼ばれ、「未開」という意味がありますので、このウィランカというのも人名ではなく、野蛮人という蔑称かもしれません。
しかし、野蛮人であろうとも、ルアッ族はこの地の先住民族です。あのチエンマイのチェディールアン寺院に祀る礎石柱とも言うべきチエンマイの神柱インタキーン柱(SAU INTHAKHIIL)は、ルアッ族のものであるという伝説は、既に「スワンナカムデーン伝」で紹介した際に述べた通りです。野蛮人とはいえ、集落を形成して勢力圏を形成し、王としてそれなりの力と影響力を人々に持っていたことは間違いありません。
そのウィランカがあろうことか未亡人のチャーマテーウィーを我が物としようとしたというのです。
ロッブリーの美貌の王女、ハリプンチャイという新興国家の女王を我が物として自らの力を示そうとしたのでしょうか。
慣れない地でチャーマテーウィーは、地元権力者の挑戦を受けてしまったのです。
チャーマテーウィーは、この挑戦にどのように応えたのでしょうか。
(続)
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双子を無事出産した後も、大変な苦難が訪れますね
続編非常に楽しみです
2009/6/17(水) 午後 10:36
こん
∧,,∧
( ´^ω^ )のぞきにきましたよ〜
/.つとl
しー-J
2009/6/17(水) 午後 11:35
続きに期待しております。
傑作○です。
2009/6/18(木) 午前 1:18
よかもん人生さん
歴史とは反面教師でもありますね。
昔の出来事は必ず今にもどこかで参考になる場面があると思います。今の日本の状況もいつか、どこかで似たような場面があった筈です。それを振り返って参考にし、現代日本に合わせて対応策を講じていけば道は開けるものだと思います。
2009/6/18(木) 午前 5:48 [ mana ]
柚ぽん瑠璃珊瑚晴パパさん
コメントありがとうございます。
人生平坦な道ばかりではないようですね。
2009/6/18(木) 午前 5:51 [ mana ]
日帰り温泉とグルメさん
いらっしゃい。
またのお越しをお待ちしています。
2009/6/18(木) 午前 5:52 [ mana ]
近野さん
ご訪問&傑作ポチありがとうございます。
今後とも宜しくお願いします。
2009/6/18(木) 午前 5:53 [ mana ]
神がかり的な所で象が登場するのはタイらしいですね。
日本では馬であったり牛であったりします。
王子が双生児として生まれると争いが起きる心配もありますが、当時は夭逝もあるでしょうから王子は多いほうが安心なのかも知れませんし、めでたいのでしょうか。傑作
2009/6/18(木) 午前 6:39
千葉日台さん
コメントありがとうございます。
コチラではやはり象が聖獣としては一番ですね。
王子が双子ですから、争いを避けるために別に国を作ります。こうして、互いに助け合いながら栄えていくんですね。結果的にはこの二つの国が最後までチエンマイの為に働くことになります。
ですからめでたしめでたし・・・
2009/6/18(木) 午前 9:11 [ mana ]
こちらこそ、ご来訪やランキング応援に感謝を申し上げます。
また伺います。
2009/6/19(金) 午前 2:15
途中から一部拝読しただけですから良く分かりませんが。
この内容はどなたかの小説の翻訳をされているのですか、それともご自身で調査された物語でしようか。
白像は二人の王子に従順であったと言う下りは、宗教めいたお話しの感じがしました。
2009/6/19(金) 午前 6:10
さんりゅうさん
コメントありがとうございます。
正直版権を買い取るほどの資財もなければ、こうした古い時代に興味を持って物語を作る物好きな作家はいないようです。コチラでは、古い時代のお話はテレビでも子供用に放映されたりしますが、それは飽く迄も全くの架空の話です。
ブログに載せているあたしの文章は、全てあたしの言葉です。古代チエンマイ文字で記された「伝承本」と呼ばれる本がいくつか残されており、そのうちの一部が現代タイ文字に「置き換え」られて出版されています。そうした書籍を自分で訳しながら、そのほかのタイ族の説話・民話、寺院の由来本などの現地本の内容を合わせて「自分なり」に一つの話にしようと試みています。
白象は、聖の象徴であると同時に王者の地位の象徴でもあります。ですから、英雄物語には必ずと言っていいほどに白象が登場します。
2009/6/19(金) 午前 8:41 [ mana ]
ご訪問、コメントありがとうございました。
お返事が遅れてすいません。
また覗きに来ます。よろしくお願いします。
2009/6/19(金) 午後 3:55 [ エンジョイジョブ ]
エンジョイジョブさん
ご訪問&コメントありがとうございます。
馴染みのない町のお話ですが、お時間があれば覗きに来て頂けると嬉しいです。
2009/6/19(金) 午後 5:24 [ mana ]
こんにちは。
チャーマテーウィーと二人の王子はピンチですね。
ルアッ族は狩猟民族と記憶していますが、彼等にとっては異民族の侵略に映ったのでしょうか。同じモーン族系でしたか。
ポチ
2009/6/19(金) 午後 6:19 [ JJ太郎 ]
JJ太郎さん
コメントありがとうございます。
ルアッ族はご承知の通り狩猟民族ですね。これに対して、南からやってきたチャーマテーウィーたちはモーン族ですから農耕が主だと思います。全くの別民族ですから、ルアッ族にとっては侵入者であり、狩猟民族にとって森林を切払う農耕民は生活の場を脅かす敵ですね。ですから、かなり離れた位置にある町どうしですが、衝突せざるを得なかったのでしょうね。
そして、現在ピン河の流れは遥かな後年に氾濫を起こして現在の流れに変わったものであり、現在河の東に位置するハリプンチャイは、当時ルアッがいただろうドーイ・ステープと同じピン河の西に位置していましたから、余計に敵愾心が沸いたかもしれませんね。
2009/6/19(金) 午後 8:24 [ mana ]
こんばんは。
王としてそれなりの力と影響力を持ったウィランカからの挑戦…
(^_^;)チャーマテーウィーの心境はどうだったんでしょう?
展開が楽しみです。
2009/6/20(土) 午前 0:16 [ ossa ]
ご来訪やランキング応援に感謝を申し上げます。
また伺います。
2009/6/20(土) 午前 0:55
OSSAさん
コメントありがとうございます。
伝承で見る限りチャーマテーウィーは野蛮人の求婚を歯牙にもかけなかったようですね。モーン族の期待を集めての北上が現地勢力に飲み込まれては本来の目的が達せられないという気持ちがあったかもしれませんし、心のどこかに民族的優位という優越感があったのかもしれません。
2009/6/20(土) 午前 5:26 [ mana ]
近野さん
度々のご訪問&応援ありがとうございます。
2009/6/20(土) 午前 5:27 [ mana ]