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チェットヨート寺院縁起(2)
ドーイ・ステープ寺院を建立したマンラーイ王朝(RAACHA WONGS MANRAAY)第6代目の大王パヤー・クーナー(PHAYAA KUUNAA)には、ムアン・チエンコーン(MUANG CHIANGKHOONG))の城主ポー・ターウ・ングアターン(PHOO THAAW NGUATHAANG)の孫娘であるナーン・ヤスンタラー・テーウィー(NAANG YASUNTHRAA THEEWII)との間に一人の王子がいました。この王子が生まれた時、余りにも多くの国から祝いの使節がやって来ましたので、パヤー・クーナーは、我が子の名前を「チャウ・セーンムアンマー(CAU SEEN MUANG MAA=十万の国からやって来た)」と名付けました。
そして、仏暦1928年(西暦1385年)にパヤー・クーナーが自らが建設したウィアンで崩御すると、ムアン・チエンラーイ(MUANG CHINAGRAAY)を統治していた亡きパヤー・クーナーの弟、ポー・ターウ・マハープロム(PHOO THAAW MAHAA PHROHM)がチエンマイの統治権を狙ってやってきて、甥の御年わずか14歳のチャウ・セーンムアンマーと争って敗れ、その結果プラッシン仏(PHRA PHUTHTHA SIHINGH)がチエンマイにもたらされたことは、既に「プラッシン寺院(WAD PHRASINGH)」の項で述べた通りです。
このチャウ・セーンムアンマーの時代、ラーンナー(LAANNAA)は、恐れを知らぬ強大国として近隣諸国に名を響かせていたようです。
時にムアン・スコータイの城主(CAU MUANG SUKHOOTHAY)がアユッタヤー(AYUTHTHIYAA)のプラ・バロムトライチャック(PHRA BAROM TRAI CAKR)との間に齟齬を来し、チエンマイのパヤー・セーンムアンマーに救援を求めてきました。
パヤー・セーンムアンマーは、濡れ手で粟を夢見たのでしょうか、スコータイの救援要請を受け入れて軍を南に向け、スコータイの郊外で陣を構えました。しかし、一向に戦闘態勢を取ろうとはしなかったばかりか、スコータイの城主が陣営に訪ねて来ても、まともに相手にせず、適当にあしらうだけでした。
そんなパヤー・セーンムアンマーの態度に怒りを覚えたのでしょうか、スコータイの城主は、アユッタヤー軍に勝利を収めることが出来ないと見て、逆にチエンマイ軍に襲いかかってきました。不意を突かれたチエンマイ軍は散を乱して命からがらに逃げ散り、パヤー・セーンムアンマーは、わずか二人の従者に担がれて這々の体でチエンマイにまで逃げ帰って来る惨めな状況に陥りました。これについては、いつか別の機会に項を改めて述べて見るつもりです。
こうして、外交で手痛い打撃を受けたパヤー・セーンムアンマーは、思い出したように内政に関心を向け、仏教に心を寄せ、チェディールアン寺院(WAD CEDIIY LUANG)の建立を手がけました。このことも、チェディールアン寺院の項で既に述べた通りです。
一方、このパヤー・セーンムアンマーには、腹違いの二人の王子がいたと伝承は伝えています。長男は、ウィアン・クムカーム(WIANG KUMKAAM)で生まれたので、その出生地に因んでターウ・ジークムカーム(THAAW YII KUMKAAM)と名付けられたと伝承では伝えています。しかしながら、何故に長男でありながらも名前に「2」を表す「ジー(YII)」がついているのか、その理由を述べていません。
そして、次男もまた生まれた土地の名前に因んでターウ・サームファンケーン(THAAW SAAM FANG KEEN)と名付けられました。この次男は、仏暦1944年(西暦1401年)に父王のパヤー・セーンムアンマーが崩御すると、御年わずか13歳にしてラーンナーの第8代目の王となりました。
今に残る伝承は、その王位継承に関して兄弟の争いを伝えておりません。ポー・ターウ・マハープロムとパヤー・セーンムアンマーとの叔父・甥の王位継承争いを教訓としたのでしょうか、パヤー・セーンムアンマーは、ターウ・ジークムカームをムアン・チエンラーイの統治に赴かせると同時に、後継者をターウ・サームファンケーンに指定していました。
このターウ・サームファンケーンの母について、伝承は面白い話を伝えていますが、余りにも余談となりますのでここでは省略します。只、彼女がパヤー・セーンムアンマー亡き後、彼の遺志を継いで、チェディールアン寺院の建立を完成させたことだけを記しておきます。
後年、ムアン・チエンラーイを統治する兄のターウ・ジークムカームがポー・ターウ・マハープロム同様、チエンマイの統治権を狙って襲ってきましたが、ことならず、南のスコータイに逃げて行きました。
スコータイのプラヤー・サイルータイ(PHRAYAA SAYLUUTHAY)は、逃亡してきたターウ・ジークムカームを迎え入れ、彼にチエンマイを統治させることで自らの支配権を伸ばそうと軍を貸与しましたが、結局、強力なラーンナー軍の前に志を遂げることなく、敢え無く夢去りました。
この間にも面白い話が伝承に残っていますが、ここでは述べません。こうしてみてきますと分かると思いますが、チエンマイと南のタイ族の王国、スコータイ、アユッタヤーは複雑な利害関係が重なっているようです。
互いに自らの影響力を相手側王国に伸長しようとしますが、それをなし得るだけの力をまだ互いに備えていないようです。そして、スコータイは、既にあのパヤー・ルアン(PHAYAA RUANG)と呼ばれ、パヤー・マンラーイ(PHAYAA MANGRAAY)と結盟を結んだ一大英雄王、「・・・水中には魚あり、田には稲がある・・・」とその豊穣さを古代タイ文字で石碑に残したラームカムヘーン王(PHRACAU RAAMKAMHEENG)の時代の圧倒的な力は、もう遥か過去のもので、この頃には、アユッタヤーの影響下の一地方ムアンになっていたことが分かります。
このパヤー・サームファンケーンには、10人の腹違いの男の子供がいたといわれています。少なくとも10人の妻妾がこのパヤー・サームファンケーンにはいたことになりますが、さしたる逸話も残さなかったのでしょうか、伝承は、彼女たちについて何も伝えていません。ですが、この子供達の名前を見ると、面白いことに夫々番号を名前としているのです。それは、かつて日本においても「太郎」「二郎」「三郎」「四郎」……としたようなものです。
即ち、長男からターウ・アーイ(THAAW AAY=1)、ターウ・ジー(THAAW YII=2)、ターウ・サーム(THAAW SAAM=3)、ターウ・サイ(THAAW SAI=4)、ターウ・ングア(THAAW NGUA=5)、ター ウ・ロック(THAAW LOK=6)、ターウ・チェット(THAAW CED=7)、ターウ・ペート(THAAW PEED=8)、ターウ・カウ(THAAW KAU=9)、ターウ・シップ(THAAW SIB=10)です。
そして、長男ターウ・アーイを後継者として選び、西方にあるウィアン・チェットリン(WIANG CED LIN)の側に館を構えさせましたが、残念ながら御年9歳の幼さにして他界してしまいました。その他、次男、三男、四男、八男、九男の五人も又、幼逝し、パヤー・サームファンケーンは、残る4人の王子夫々に一つづつムアンを与えて統治させました。
ここでは、残った4人の王子の内、六男のターウ・ロックについてみてみます。ロック(LOK)が日本語の「ロク(LOKU)」に音が似ていることはこの際別にして、彼の人となりを見てみましょう。
伝承では、ターウ・ロックは仏暦1952年(西暦1409年)に生まれたことになっています。パヤー・サームファンケーンは、ターウ・ロックには、北方にあるムアン・プラーウ(MUANG PHRAAW)を統治させましたが、各種伝承は、何か命に背く罪を犯したようで、パヤー・サームファンケーンは、ターウ・ロックを国外追放して、現在のメーサリアン(MEE SAARIANG )に相当する遥か南のムアン・ユアム・タイ(MUANG YUAM TAI)に放逐したことを伝えております。
しかし、それが如何なる罪によるものなのか、何年の出来事なのかについての詳細は残しておりません。これは、パヤー・サームファンケーンの後を継いで王位に就いたのが、他の誰でもなくこのターウ・ロックであるが故に、余り人の口の端にも上らず、伝承記載者も敢えて記録に残さなかったのかもしれません。
こうして、本来ならばターウ・ロックの人生は、方田舎の平凡な城主として歴史に名を残すこともなく、人知れず小公子としてその生涯を終え、日の目を見ることもなかったでしょう。
しかし、歴史は時として狂ったように誰もが夢にも見ない想像も出来ない思わぬ事態を引き起こすもののようです。
(続)
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>逆にチエンマイ軍に襲いかかってきました。
これ!!すごいですね
2009/7/10(金) 午前 1:02 [ 道後 ]
柚ぽん瑠璃珊瑚晴パパさん
コメントありがとうございます。
非人という意識も余りなかったと思われますので、子供は多買ったのかもしれませんね。
乳幼児死亡率も高かったでしょうから、後継者作りという面から見ても必要だったとおもいます。
2009/7/10(金) 午前 5:42 [ mana ]
クワトロ=バジーナさん
コメントありがとうございます。
仰る通りですね。社会は人が作り、時間の経過が歴史となりますから、歴史はその民族の文化をよく表しますね。ですから、歴史を理解することはその民族を理解することだと思います。国が出来、権力が生まれ、上下関係が出来ると、必ずそれを壊そうとする力が働きます。その繰り返しで社会が動いていきますが、その変化をどのように吸収しながら社会を発展させるのかがその民族の英知でしょうね。その時、民族の独自性が現れるのかもしれません。文化とは民族の根っこですから、どこかに現れる筈ですね。
2009/7/10(金) 午前 5:51 [ mana ]
近野さん
コメントありがとうございます。
昔のチエンマイでは、こうした即物的な名前の付け方があってアユッタヤーのように大袈裟な神の化身のような言い方はしませんね。それがこの地の人間の性質なのかもしれません。
2009/7/10(金) 午前 5:53 [ mana ]
水大師さん
コメント有り難うございました。
敵か見方か本当のところは分らないのが戦国の世なのかもしれません。この騒動の実体は、話の発端となったチエンマイに助けを求めてきたスコータイの王がアユッタヤーの王と幼馴染で、小さい頃にどちらかが王をなった暁には領土を折半しようという子供の口約束をしていたのですが、大きくなってその実行を迫って叶わなかったのが実情であると伝承は伝えていますから、子供の喧嘩なんですね。只振り上げた拳の下ろす場所を元の鞘に収めることなく、チエンマイに向けたのは、ある意味当然かもしれません。チエンマイがアユッタヤーを攻撃しないならば、誘った自分がアユッタヤーから攻められます、アユッタヤーに対抗できないからチエンマイに応援を頼んだのですから、アユッタヤーの怒りを鎮める為にはチエンマイを襲うしかなかったのでしょうね。
2009/7/10(金) 午前 5:59 [ mana ]
この数字の読み方はタイ語なのでしょうか?と、言うのも広東語での数字の読み方にそっくりなので大変気に掛かってしまいました。もしかしたら、タイ辺りの言葉が、中国南部辺りの言葉の元に影響を及ぼしたのかもしれませんね。文化・歴史の観点から考えるとそんな気がします。
しかし、多くが幼逝していますね。様々な争いが起きていたのでしょうか・・・?
2009/7/10(金) 午前 6:05
ジョウジさん
コメントありがとうございます。
この数字の読み方は昔のチエンマイのタイ族の詠み方で、かなり古いものです。タイ族は多分数千年に亘って中国国内で漢族と交流していると思いますからいくつもの中国語を取り込んでいるようです。そして、中国南部、昔の語・越の地域は漢族ではなかったとい話があり、広西辺りは壮族自治区とされていますが、この壮族というのはタイ族の一派であるとされていますので、仰るとおりかもしれませんね。
多くは夭逝していますが、衛生状態が悪かったとはいえどこか異様なものを感じますね。パヤー・マンラーイには3人の王子が板とされて夫々の生年も明らかで、揃って成長(一人は途中父に殺されますが)していますから・・・
2009/7/10(金) 午前 6:23 [ mana ]
権力とか富は、それに手が届きそうな人にはとても魅力的で、どうしても手に入れたいものなのかもしれませんが、
どうしたって手が届かない一般庶民には想像すら出来ません。
どんな事をしても手に入れたくなる権力って、どんなものなんだろう。
日本でも流石に殺し合いはしないけど、
今、政治家たちがまさにそのありさまで、傍から見ると浅ましいものです。
まぁ、それに勝った者が日本の富を独り占めすることになるんですが・・・そして闘う術を持たない庶民は搾取されるのみ。
どの時代もどの国も変わらないんじゃないかな、ずっと。
2009/7/10(金) 午後 4:36
むうまさん。
コメントありがとうございます。
権力というものは魔物ですね。権力者は、殺生与奪の権限を合法的に持ちます。国民の幸不幸、国の浮沈は指導者の政治能力次第ということですね。権力の座に就くと思いのままに国を動かしますから、野心に燃えた人は欲しがります。しかし、権力の座は同時に指導者の命すらをも奪うものです。何故なら彼の言動一つで国民の生命財産が左右され、国が滅びるかもしれないからです。それほどまでに過酷な心労を与えるものです。
かつてはどこの国においても武力による権力争奪がありました。今も世界の独裁国においては国民の意思とは別の一部権力者集団内での権力争いの末に指導者が決められています。
一方民主主義と言われる選挙で指導者を選ぶ国では、政権奪取を狙う政党、政治家は、如何にして国民のご機嫌をとるか、如何にして政敵の悪評を意図的に創作してまで多く流すかに腐心します。そして、政権奪取を狙う側では、得てして実行不能な国民の歓心を呼ぶ為だけの見せ掛けの政策すら票の為には平然と口にします。それは時に非常に甘い誘惑にも聞こえます。同時に、彼らの真意・実像を隠そうとします。(続)
2009/7/10(金) 午後 5:30 [ mana ]
むうまさんへ(続)
その為に彼等は、如何に報道機関を利用するかに腐心し、時にはそうした報道機関の支配をすら目論見ます。
一方、防戦する側では既に政策が実行されており、国民の前に国政運営能力が晒され批判される材料が既に公表されている不利があります。報道機関がどれほど公正な報道をするかいずれの国においてもかなり否定的ですね。夫々の立場で批評しますから。その時国民がマスコミ報道をどこまで信用するか。
いずれにしても、国の命運を賭ける戦いの最後は国民が責任を取ります。子供たちの将来、国の将来に対する責任は政府ではなく国民が負わなければなりません。
かつて一人の野望に燃えた経済人の甘い言葉に賭けたタイは、今癒しきれない傷を負いながら、国家政体をすら転覆させかねないほどの緊張の中に投げ込まれました。歴史上かつて味わったことのない危険な淵に立たされているのですね。それでもまだ一部国民は甘い言葉に酔ったまま目覚めていません。大切な農地すらアラブの人々のものになろうとしている現状をすら認めようとしないまでに酔い痴れています。野心家の仕掛けた甘い言葉の媚薬に酔っているのでしょうね。
2009/7/10(金) 午後 5:40 [ mana ]
まったくおっしゃるとおりですね。
manaさんは、私が頭の中で漠然と考えはしてるけど難しくて上手く文章にできない事を、いともたやすく整然とした文章にかきあげなさる・・・うらやましい能力です。
毎回感嘆して読ませていただいています。
ところで「一人の野望に燃えた経済人」ってどなたなのですか?
2009/7/10(金) 午後 6:09
むうまさん
ご理解頂いて嬉しいです。
その人は首相という地位を利用して妻にバンコク市内の広大な敷地を法外な価格で落札させ、今、裁判所で懲役刑が確定し、海外外逃亡中です。既に母国の旅券もなく、名もない小国の旅券を取得して放浪していますが、膨大な財産がありますので、噂では現在フィジーにいるそうですが、いつまでいられるやら。
部下の赤シャツに命じて国王恩赦嘆願運動を扇動していますが、国外逃亡中の犯罪者が、他人を使って恩赦運動を起こし、国王に圧力をかけることはタイの歴史上ありません。
ここに彼の切羽詰った様子が見えます。首相の座まで上り詰め、帰国すら出来ない富豪は哀れな道化師で、仲間と信じている赤シャツ指導者に金を貢いでいるだけですね。
2009/7/10(金) 午後 8:36 [ mana ]
そうですか。
お国柄って感じなんでしょう。
2009/7/11(土) 午前 1:01
近野さん
ご訪問有り難うございます。
夫々の国により夫々に趣を変えるようです。
2009/7/11(土) 午前 6:54 [ mana ]
こんにちは。
ここから面白そうですね。追放されたターウ・ロックがティローカラート?
ポチ
2009/7/11(土) 午前 10:57 [ JJ太郎 ]
JJ太郎さん
コメントありがとうございます。
ご推察の通りです。
初めはどこか頼りない印象を持つんですが、一大王に成長しますね。その成果がこの寺院になるのですね。世に名を残す人はどこか常人とは違う要素を持って生まれ来たのかもしれませんね。
2009/7/11(土) 午前 10:59 [ mana ]
チェンマイ・チェンラーイ・パヤーメングラーイ・チエンコーン・ランプーン・ランパーン、、、、、、今タイの北部丘陵地帯を走っていると、山一つ隔てただけの点在する町が一つ一つ都市国家的なものであったと想うたびに、なんだか不思議な感覚に襲われます。すべて言語も似かより、しかし差異があり、攻防を繰り返したことに。
2009/7/11(土) 午後 11:09 [ odo_t ]
なるほどです。
こちらこそ、ご来訪やランキング応援に感謝を申し上げます。
また伺います。
2009/7/12(日) 午前 0:53
獨評立論さん
お久しぶりです。コメントありがとうございます。
仰る通り、山の向こうは別の国、そこには独自の歴史と文化を持つ王国があり、同じ言語とはいいながらも若干の相違を夫々に見せて独自性を持っています。そうした近隣国、時には近親国間での攻防がこの地の歴史です。そして他から認められた指導者がチエンマイの指導者となったようですね。ですから、ラーンナー王国とは言いながらも決して強固な一枚岩ではなかったのだと思います。
2009/7/12(日) 午前 6:42 [ mana ]
近野さん
屡のご訪問ありがとうございます。
これからも宜しくお願いします。
2009/7/12(日) 午前 6:43 [ mana ]