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チェットヨート寺院縁起(3)
時に、パヤー・サームファンケーンには、ナーイ・サームデックヨーイ(NAAY SAAM DEK YOOY)と言う名前の心を許した側近がおりました。「王朝物語伝」にあっては、側用人(AMMAATY)であるといい、「チエンマイ伝」「十五代王朝伝」にあっては、将軍(SEENAA)であるといいますが、国王の側近くに仕える高級官僚であったことに間違いないでしょう。
このナーイ・サームデックヨーイは、何を思ったのか、自らの主人でもあるパヤー・サームファンケーンの目を盗んで放逐されているターウ・ロックを流刑の地ムアン・ユアム・タイから連れ出し、ムアン・チエンマイの中に囲まっていました。
その当時、パヤー・サームファンケーンは、チエンマイの西北方、ドーイ・ステープの麓にあるウィアン・チェットリンに出掛け、そこに逗留することが習慣のようになっていたと伝承は伝えています。このウィアンこそ、パヤー・サームファンケーンが後継者としていた長男、ターウ・アーイが館を構えていたところでした。
いつものようにパヤー・サームファンケーンがウィアン・チェットリンに出掛けたある日の真夜中、ナーイ・サームデックヨーイは、あろうことか自らの主人であるチエンマイの城主、ラーンナー王国の王であるパヤー・サームファンケーンの休息しているその館に火を放ったのです。この放火によりウィアンは全焼したといわれています。
燃え盛る火の中を取るものも取り合えず脱出すると、急いで暗闇の中をムアン・チエンマイの自らの王宮に入ったパヤー・サームファンケーンは、不名誉な敗走以上に信じられない、有りうべくもない、夢にも思わない出来事を目にして茫然ととしました。それもその筈、自らが座るべき玉座に、ムアン・ユアム・タイに放逐した筈の不肖の息子ターウ・ロックの姿を見たのです。
一方、「王朝物語伝」では、宮殿に入ったパヤー・サームファンケーンは、ターウ・ロックに捉えられたといいますが、案外これが正解かもしれません。
今風に言うならば、無血クーデターとでも言うのでしょうか。しかし、失敗したとはいえ、国王暗殺を謀ったのが平民官僚であってみれば、それは革命、反乱、反逆と呼ばれて然るべきでしょう。
これも、手元にある各種伝承は、ナーイ・サームデックヨーイの独断行動であるかのように記載しておりますが、これもターウ・ロックが唆し、父王の腹心を取り込んでの王位争奪劇であったのかも知れません。しかし、その後の動きを伝える伝承を信じるならば、ナーイ・サームデックヨーイは、権勢欲に燃えた官僚であり、自らの権勢欲を満たす為に仕組んだクーデター劇であったようです。
それはともかく、パヤー・サームファンケーンは、謀反を犯した不祥の息子と腹心の裏切りを目の前に見てどんな思いだったのでしょうか。只、パヤー・サームファンケーンが謀反の息子を口汚く罵る様子を伝承は伝えておりません。
それは、謀反を起こしたとしてもやはり息子に対する父の愛は残っていたと考えるべきなのでしょうか、それとも、勝者が作った歴史の中で敗者の繰り言は無視されたのでしょうか。
パヤー・サームファンケーンは、どんな気持ちで朝を迎えたのでしょうか。翌朝、パヤー・サームファンケーンは、王宮に重臣と僧侶を集め、六男のターウ・ロックへの禅襄を告げました。
そして、謀反の息子ターウ・ロックに対して「十五代王朝伝」にあっては「・・・サームデックヨーイと言うものは、父があらゆる所の堵場を差配させたと言うのに、奴は、父に忠実ではなく、あまつさえ、邪な心を起こし、お前に忠誠である。お前は、奴を取り立てて公としてはならない。・・・」と忠告し、「王朝物語伝」においては「……このサームデックヨーイという人物は、側近くで一緒に飯を食う程に父が目をかけてやってきたが、それでも父に忠誠ではなかった。ましてお前は父程に奴を目にかけてはいない。確かに奴はお前を立てて王としたに違いはないが、奴の心はいずれお前に背くであろう。お前は、決して奴を重用してはならない。父は、どこに行こうとも異存はない……」と言ったと伝えています。
これは、父の息子への愛の表明のようにも聞こえ、後の歴史を見るならば、功臣の裏切り、そんな予感を読者に持たしめようとした伝承作者の作り話なのかもしれません。こうしてターウ・ロックは、平凡な一小公子で終わる筈の生涯が急旋回してラーンナーの最高権力者、ムアン・チエンマイの城主となりました。
仏暦1985年(西暦1442年)8月満月の日に即位の大典式を受けたと言います。御年わずか34歳の時のことです。「十五代王朝伝」では欠けていますが、「チエンマイ伝」「王朝物語伝」ではこの時、ターウ・ロックは、プラ・マハー・シースタムマ・ティローカラート(PHRA MAHAA SRII SUTHARMMA TILOOK RAACH)と名付けられたと言います。
そして、父パヤー・サームファンケーンの忠告にもかかわらず、サームデックヨーイにパンナー・カーン(PHANNAA KHAAN)を領させ、爵位をも授けてセーン・カーン(SEEN KHAAN)として重用しました。
その後一月余りにして父の予言が的中する事件が発生し、その後のチエンマイの歴史に名を残す人物たちの活躍が始まるのですが、ここでは、余りにも話が長くなりますので、割愛します。
セーン・カーンの謀反、父パヤー・サームファンケーンを押し立てて兄であるプラ・マハー・シースタムマ・ティローカラートの非を打ち鳴らすムアン・ファーンの城主、末弟のターウ・シップとの戦いも重臣たちの功で何の困難もなく鎮めると、かつての擁立されたひ弱い王ではなく、後年英雄の名を欲しいままに遠く南の国にまでその名声を馳せる英傑となるのです。
その後、プラヤー・バロムトライローカナート(PHRAYAA BAROM TRAI LOOKANAATH)率いる南の強国アユッタヤーとの泥沼の戦いでは、ラーンナーに対する底知れない恐怖心を南の強国の大王に植え付けると同時に、ラーンチャーン(LAAN CHAAG)との戦いをも繰り返して脅かし、東のムアン・ナーン(MUANG NAAN)、ムアン・プレー(MUANG PHREE)を力で抑えつけ、しかも南は元々アユッタヤーの支配下にあったムアン・チャリアン(MUANG CHALIANG)を支配下に置く強大な王国を作りあげたのです。
こうして見てきただけであれば、プラチャウ・ティローカラートは、実の父を放逐し、勢力を伸長した権勢欲につかれた力の政治家という印象を受けますが、実際には、必ずしもそうではなかったようです。確かに、ムアン・プレー、ムアン・ナーンを平定し、ムアン・チャリアンを支配下に置き、ムアン・ソーンクェー(MUANG SOONG KHWEE)にまで食指を伸ばし、アユッタヤー王国を脅かしまし たが、歴代チエンマイ城主の例に漏れず、仏教を厚く保護し、幾多の寺院を建立し、寺院の補修、改築、拡張に並々ならない意欲を燃やした様子が、各種伝承本の中に見受けられます。
そんな政治的・軍事的影響力の拡大の一面、仏暦1990年(西暦1447年)には、実父のプラヤー・サームファンケーンを失う不幸に出会いました。
プラチャウ・ティローカラートは、自らが放逐した実父の死をどんな思いで迎えたのでしょうか。パーデーン・ルアン(PAA DEENG LUANG)で父の遺体を荼毘に付すと、父への供養としてそこに縦横26メートル、高さ46メートルの仏塔を建立したと「ヨーノック王朝年代記」は伝えております。
父の死が、プラチャウ・ティローカラートの心に何かを浮かび上がらせたのでしょうか。それとも、今に伝わる肉親の死に対する出家供養の習慣に従って、父への供養と回向の為にでしょうか、一時的出家生活に入ったのです。
父を失い、その葬儀を執り行ったその同じ年、国政を実母に譲り、自らは仏門に入ってしまいました。「ヨーノック王朝年代記」でも還俗の年代は述べておりませんが、出家生活は長期ではなかったようです。やがて還俗すると、再び王位に就いて即位の大典を受けましたが、間もなくして今度は実の母の死に出会います。
それは仏暦1994年(西暦1451年)のことだと「ヨーノック王朝年代記」は伝えております。プラチャウ・ティローカラートは、父の葬儀を執り行ったのと同じ場所で母の遺体を荼毘に付し、その場所に総延長40メートル、鉄柵で周囲を固め、あたかも槍を持った兵士が周りを取り囲んでいるが如き形の広大な敷地を有する大堂を建立しました。
「ヨーノック王朝年代記」は、全てが完成すると、この寺院をアソーカーラーム寺院(WAD ASOOKAARAAM WIHAAR)と命名したと伝えております。即ち、現在のパーデーン・ルアン寺院(WAD PAA DEENG LUANG)ですが、では、父のパヤー・サームファン ケーンの葬儀を執り行った時には、何と呼んでいたのか、それともその当時はまだ寺院となっていなかったのでしょうか、伝承は伝えておりません。
(続)
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水大師さん
コメントありがとうございます。
父なればこそ、ここまで息子のことを心配できるのかもしれません。また、この父の子ゆえに父を決して蔑ろにすることがなかったのかもしれません。こうしてこの時代数代に亘ってチエンマイに偉大な王の治世が続き、チエンマイの最盛期を迎えたのです。
2009/7/15(水) 午後 7:43 [ mana ]
サイパンはカナダより魅力的さん
コメントありがとうございます。
父を放逐したとはいえ、信玄は実は偉大な武田家の相続者で甲斐の名前を全国に響かせました。今一歩で京を支配するまでの力を持っていたのですが、不孝なことに同じように上洛を目指す上杉との戦い、前途を遮る織田の伸張等歴史は英雄を次々と生み出しました。同じように父から地方に放逐されるほどの何らかの悪事をなした六男坊が逆に父の王位を襲いましたが、その後ではチエンマイを史上稀に見るまでに強大な国にしていったことは、どこかで重なりそうですね。
ただ、親子の間で血を見なかったことはせめてもの救いですね。
2009/7/15(水) 午後 7:59 [ mana ]
父親への思いは忘れなかったのですね。
父親は大事にしないといけないと思いました。
2009/7/15(水) 午後 9:54
親は子を、子は親を
最近は失われつつある親子愛ですね
いつの世までも、このような愛情は大切にして欲しいです
2009/7/15(水) 午後 10:42
父親と息子とは良きライバルでもあります。
続きに期待しています。
傑作○です。
2009/7/16(木) 午前 1:00
NONさん
コメントありがとうございます。
父に放逐され、父の王座を奪い、父を放逐しながらも父への思いは捨てなかったようですね。まだ人の心を残していたが故に大事業を成し遂げることが出来たのでしょうね。
2009/7/16(木) 午前 10:16 [ mana ]
柚ぽん瑠璃珊瑚晴パパさん
コメント有り難うございました。
子は父の背中を見て育つと昔から言いました。互いの父であり、子であるという意識を持ち、父母なくして今の自分がない事を常に心に留め置くことが必要でしょうね。父母と子の間の愛情、信頼関係と尊敬の念が社会生活の基礎になりますから。
2009/7/16(木) 午前 10:19 [ mana ]
近野さん
コメント&応援の傑作ポチありがとうございます。
父は常の子供の見本であり、超えなければならない大きな目標でありますが、同時に父もまた子供の見本たるべく大いなる人物であるよう努めるのが常ですね。そんな父と子の競争を母は双方を応援しながら、父を超える息子に喜びを感じるものですね。そして、父はそんな成長した息子と共に酒を飲むことに喜びを感じ、時代交代を感じるのでしょうね。常に父は偉大な存在であってほしいですね。
2009/7/16(木) 午前 10:25 [ mana ]
戦国の世は、親兄弟でも殺し合い裏切りあってやがて終結し、
一見平和な世の中になってはいますね(1段階進歩?)
でも、権力闘争は人の性でしょうか。
血を流す事がなくなった今でも裏切ったり騙したり・・・
今の自民党内を見てみてください。
コップの中の嵐、すごい事になってますよ。
2009/7/16(木) 午後 2:58
むうまさん
コメントありがとうございます。
いつの時代、いずこの民族も権力闘争は絶えません。
只、その権力闘争が国の利益を求めてなのか、自分の利益を求めてなのか、もしくは誰かの代理でなのかでしょうね。
日本でも昔より数え切れないほどの戦い、権力闘争、裏切りがありました。
今の日本の政界の動きというものは、こちらから見ていても非常に小さく見えますし、日本の事を考えず、外国の鼻息ばかり伺っているように思います。コチラでは、タイの国がどうかで、外国の意向などは二の次です。しかし、日本の政治家はともすれば外国がどういう反応をするかばかりに気をとられて外国に気に入られることばかり考えているようですが、どうなのでしょうか。
人が人である限り、権力闘争は続くでしょうから、如何に正しい情報を多く持つかですね。情報が少ないと他の人の情報に振り回されるだけですね。同時に、報道機関からの情報に惑わされることのないように、自分自身のしっかりとした主義主張を確立することが一番大切でしょうね。
むうまさんの仰る自民党内の動きは、主義主張のない付和雷同型の人間の動きが目立っているのではないですか。
2009/7/16(木) 午後 6:07 [ mana ]
父は6男に将来の政敵の姿を見いだし、放逐したのかもしれません。放逐された6男は城で不自由なく暮らす他の子息より、逞しくなったでしょう。展開がよりおもしろくなってきました。
傑作です。
2009/7/16(木) 午後 8:22
こん
∧、∧
| ω・`) のぞきにきました
|⊂ /
|ω__)
2009/7/16(木) 午後 11:04
同感です。
私も父親として愚息に恥じないようにと考える日々です。
こちらこそ、ご来訪やランキング応援に感謝を申し上げます。
また伺います。
2009/7/17(金) 午前 0:36
北国春男さん
コメントありがとうございます。
多分小さい頃より活動的ではあったのでしょうし、父の顰蹙を買うほどに行動的で意思のはっきりした子供だったのだと思います。そして最初にあてがわれた領土プラーウという町は、チエンマイの北にあり、パヤー・マンラーイがハリプンチャイ攻略に攻め上る時の足場ともなった町で、マンラーイの建設といわれる彼らの王朝にとっては縁起のいい町ですね。そして、ターウ・ロックに対抗した末子が配されたファーンがチエンラーイから南下のマンラーイが腰を落ち着けてハリプンチャイ攻略の策を練った町です。こうした町の支配を任された王子はやはりそれなりに光るものを持っていたのかもしれません。
2009/7/17(金) 午前 4:47 [ mana ]
日帰り温泉とグルメさん
ご訪問ありがとうございます。
ゆっくりと休んで行って下さい。
2009/7/17(金) 午前 4:49 [ mana ]
近野さん
ご訪問&応援ありがとうございます。
あたしの父は、今も大切に欽賜のタバコを箪笥の奥に仕舞っていて、あたしにとってこの世で理想的で最も偉大な男性です。
2009/7/17(金) 午前 4:53 [ mana ]
素晴らしいお父上様ですね。
ご来訪やランキング応援に感謝を申し上げます。
また伺います。
2009/7/18(土) 午前 0:57
近野さん
ご訪問&お褒めのお言葉を頂いて恐縮しています。
これからも宜しくお願いします。
2009/7/18(土) 午前 6:20 [ mana ]
おはようございます。
見事な無血クーデターですね。
武田信玄が父を追放して武田家当主になったのと似ています。
ポチ
2009/7/18(土) 午前 7:51 [ JJ太郎 ]
JJ太郎さん
傑作&コメントありがとうございます。
自分は一切動かず、密かに流刑の地より王宮に忍び込んで王座に腰掛けて王を待つ。成功していれば部下の謀反によって王は焼死して自分は無傷のまま王位に就く。しくじっても先に王宮を占拠していますから王を生け捕りにして放逐できる。彼の計画とすれば見事と言う他ないですね。その後の動きを見ると、この部下もさして賢くもなければ武勇の士でもなく、また後年のチエンマイの激動の時代を伝承の中で追っていくと、彼自身部下を上手く配して使い切っている様子が見えますので、案外ターウ・ロックの作戦かもしれません。
いずれにしても、彼がチエンマイを史上最強の国に仕上げていく英雄になるのですが、既にこうした時にその明晰な頭脳の一端が現れているのかもしれません。
2009/7/18(土) 午前 10:56 [ mana ]