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チェットヨート寺院縁起(5)
こうして、ラーンナー王国の中に同じ仏教といいながらも、同時に旧来の宗派、ラーマン派、そして、新宗派の三つの宗派が存在したこととなりました。それらの間に醜い宗派闘争・論争はなかったようで、少なくとも伝承には残されていませんが、それでも、各種伝承は、王国の中での戒律教義の不統一の様子を伝えています。
既述の通り、プラチャウ・ティローカラートは、新宗派に手厚い庇護を与え、自らの館を提供して僧舎となし、帰国留学僧であるプラ・マハーメータンカラを師と仰ぎ、新宗派のもとで出家するまでに至りました。
そんなある日、ランカー国よりやって来た僧の修行道場において菩提樹を植えることの功徳についての説法を耳にすると、何としてでもその菩提樹を植えたいという気持ちが高まり、近臣に植樹の場所探しを命じました。
側用人たちは、植樹場所を種々検討した結果、ムアン・チエンマイの西北に位置するローヒニー河(MEE NAAM ROOHINII NATHII)、即ち、カー河(MEE KHAA)の近くの一点に最適の地を見つけました。その地をプラチャウ・ティローカラートに奏上すると、王は、ランカー国からやって来た僧であるプラ・ウッタマパンヤー大師の修行道場とするべく、その地を均し僧舎建設に相応しい地とするよう命じました。
しかし、何故にこの地が選ばれたのかは、伝承でも伝えておりません。ただ、今では殆ど顧みられないカー河ですが、歴史の中では様々な形で顔を覗かせているのが分かります。
時に、かつてラーンカー国に修行に出ていた僧たちが菩提樹の種を持ち帰り、ドーイ・ステープの裾野のある僧舎にその種を植えていた、と伝承は伝えています。しかし、その菩提樹の種を持ち帰った僧が誰であるのか、そして、菩提樹の種を植えた寺院がどこなのかまでは伝えておりません。当時、多くの帰国留学僧たちがスアンドーク寺院と係っていたようでもあり、同寺院が決してドーイ・ステープから遠くないことを考えると、もしかしたら、そこかもしれません。
しかし、スアンドーク寺院の伝承にも菩提樹の種云々の話しが出てきませんので、これもまた霧の彼方の話しです。
そうした想像はともかく、仏暦1998年(西暦1455年)になると、プラチャウ・ティローカラートは、その寺院より菩提樹の種を持ってきて、先にプラ・ウッタマパンヤー大師の為に建立した寺院に植えたといいます。それ故に、その寺院は「マハー・ポーターラーム寺院(大菩提樹寺院)」と呼ばれているのです。そして、初代の住職として就任したのは、他でもありません、ランカー国よりやって来たプラ・マハー・ウッタマパンヤー師でした。
しかし、その時点では、まだ寺院というよりも僧坊、もしくは修行道場という方が適切であったかもしれません。僧坊が寺院の形に姿を変える為に、次のような話しが伝わっています。かの中国(MACHCHIMAA PRATHEES=世界の中心に位置する国、即ちインドのことです)にあるという、釈尊が魔王(PHRAYAA WASAWATDII MAAR)に打ち勝ち、無上の真理、三藐三菩提の悟りを開いた場所に似せて、七大聖地(?SATTA MAHAA SATHAAN)の全七か所(即ち、釈尊が布教に先立ち解脱の境地を味わった場所)を建設し、その地に似せて菩提樹を配したというのです。
その七大聖地とは、次の通りです。
1.第一、菩提樹座(PHOOTI PALLANGKAM)。菩提樹座には、右手を右足に掛け、左手を膝に置いた、降魔仏(PHRA MAAR WICHAY)と呼ばれる金剛座像(RUUP NANG SAMAATHI PHECHR)の仏像があります。この菩提樹座は、美しい様々な模様に飾られています(この菩提樹座こそがチェットヨート仏塔(PHRA CEEDIIY CED YOOD) に外ならないのです)。
そして、この中央に一段と大きな仏塔を頂いたチェットヨート仏塔は、いずれも四角形をしております。これは、遥かかなたのインドの聖地ブッダガヤ(PHUTHTHAKHAYAA)にある仏塔に因んだといわれています。階段があって仏塔の中に安置されている仏像に拝することが出来ますが、女人禁制は今も生きていますので、女性が上がることはできません。
この仏塔建立に関しては、プラチャウ・ティローカラートは、当時著名な建築家であったムーン・ダームプラーコット(MUUN DAAM PHRAA KHOD)に命じて、ラーンナーの美術家を連れてはるか彼方のブッダガヤにまで実見の為に行かせたといいます。
ラーンナーに置ける仏教は、モーン族、ラーンカー国を通じて移植され、ラーンナーの僧たちもランカー国に教義を学びに行っていたことがはっきりしていますので、もしも、これが本当ならば、ラーンナー王国とインドとの最初の直接的な接触といえる画期的出来事かもしれません。
2.第二、アニミッサカム(ANIMISSAKAM)。アニミッサ仏塔(CEEDIIY ANIMISSA)には、両の手を垂れて下腹で重ねた献眼仏(PHRA THAWAAY NEETR)という名前の両目を開いた立像があります。このアニミッサ仏塔は、菩提樹座から遠からざる東北方に建立されています。この仏像は、悟りを開いた仏陀が、瞑想の場を離れて菩提樹の東北方向に立って菩提樹を見詰めている姿を表しているといいます。
3.第三、チョンクロムセータン(CONGKROM SEETTANG)。右脚を上げ、両足を挟むように両手を体の横に垂れた遊行仏(PHRA DAAN CONGKROM)という名前の仏像があります。この遊行仏は、座っての瞑想に疲れた釈尊が立ち上がって筋肉をほぐす為に、瞑想の場近くをそぞろ歩く姿を表しているといいます。この仏像は、チェットヨート仏塔の北に建立されています。
4.第四、ラッタナカラン(RATANA KHARANG)。宝玉殿(RUAN KEEW)には、肘を曲げ、右手で左手を押えるように胸の所で重ね、 悟った真理の深さについて思いを巡らしている思案仏像(PHRA RAMPHUNG)という名前の立像があります。こうして悟った真理の深さに思いを致し、一般衆生のよく理解するところではないと一人真理の甘美を噛み締めようとする仏陀に、梵天が降臨して布教を進めたと言われております。このラッタナカラン宝玉殿は、チェットヨート仏塔の西北に位置しております。
5.第五、アチャパーンニクロート(ACHAPAAL NIKHROOTH)。アチャパーン榕樹(ACHAPAAL NIKHROOTH)の木の根方には、右手を上げて悪魔を制する仏像があります。チェットヨート仏塔の東にアチャパーン榕樹を作りました(榕樹は、サイヨーク(TON THRAI YOOKH)とも呼ばれ、北タイでは、ルンの木(MAI LUNG)と呼ばれています)。
6.第六、ムッチャリン(MUCCALIN)。パックチックの木(TON MAI PHAKCIK)の根方には、右手を左手に重ね結跏趺坐し、竜が七巻し、袋を開いて頭を保護している、プラ・ナーク・プロック(PHRA NAAKH PROK)という名前の座像仏があります。
伝承の中に見えるムッチャリン(MUCCALIN)とは、それはヒマラヤ山中にあるという伝説の池で、そこには、チック(CIK)という名前のサガリバナ科の木があるといわれていますので、ムッチャリンダ(MUCCALINTH)池の辺にある樹のことしょうか。
仏伝にあっては、悟りを開いた釈尊が、ムッチャリンダ樹の下で瞑想に耽っている時、雨が降ってきました。その時、七つの頭を持つ龍がやって来て、七重にとぐろを巻いて釈尊の席となし、七頭の袋を開いて後ろから釈尊に覆い被さる様にして雨から守ったといわれていますが、そのことを言っているのでしょう。
チェットヨート仏塔の東南、パックチックの木の根方に、ムッチャリンダ池(SRA MUCALINTH)を作りました。
7.第七、ラーチャーヤタナン(RAACHAAYATANANG)。ケートの木(TON KEED)の根方には、右手を差し出し、インドラ神が献上したサモーの実(PHOL SAMOO)を受け取る座像仏があります。ラーチャーヤタナンの木は、チェットヨート仏塔の南に作りました。
この他、御堂、壁、門を作り、完成後には、盛大に慶祝行事を催しました。こうしてマハー・ポーターラーム寺院、即ち、チェットヨート寺院が建立されたのです。
この寺院は、ランカーウォン派の勝利の象徴と言えるかもしれませんし、チエンマイに花開いた仏教文化の集大成といえるかもしれません。
又、ラーンナー王国の隆盛と繁栄の象徴といえるのかも知れません。
そんな仏教の隆盛の一面が仏暦2018年(西暦1475年)のチェディー・ルアン寺院の一大改修工事に繋がったのでしょうか。
(続)
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チェットヨート仏塔が女性禁制というのは女性にとって厳しいですね。そういった文化を静かに受け入れている女性も素晴らしいと思えます。
結跏趺坐かあ。私の時は、足が短いので大変ですので半座で精神集中でしたね。
傑作です。
2009/7/27(月) 午後 7:55
実物の七大聖地を見てみたいですね
でも一度に七箇所で建造を行うあたり、かなり繁栄したんでしょうね
人もお金も凄く費やしたんでしょうね
2009/7/27(月) 午後 9:38
manaさん、今晩は。
タイの仏教と日本の仏教とはずいぶん違いますよね。
タイの仏教には日本のような宗派のようなものはないのでしょうか?
最近、<寺よ、変われ>という本を読んだのですが、
今日本のお寺は葬式宗教になっている現状から、もっと地域に根ざしたお寺の提案をしているのですが、
これを読んで私は使えるな、と思いました。
多分村制度のような中ではお寺は、集会場のようなものであったり、精神修行の説法所であったりしたと思います。
さしずめ現代なら、子どもたちの道徳道場だったりに変革するのも
悪くないかな、などと思いました。
タイのお寺はお坊さんになる為の修行の場なんですよね。
2009/7/27(月) 午後 10:49
今でも夫の田舎の水郷集落では水親や水当番など、昔ながらの地域の繋がりがあります。義父が亡くなった今、それを受け継がねばならない夫は、会社勤めをしているために参加できず、来年から先祖代々の田んぼをどうするか頭を悩ましています。
古い慣習と今の生活。
こうなると古い慣習が恨めしいです。
2009/7/27(月) 午後 11:05
七大聖地ですか。
いつも勉強となります。
傑作○です。
2009/7/28(火) 午前 0:37
北国春男さん
コメントありがとうございます。
コチラではそうした聖域が今も生きています。数年前、ドーイステープ寺院の仏塔の柵の内側に女性が入ることが出来ないのは女性蔑視である、としてチエンマイの風習を非難した女性上院議員に対して囂々たる非難が巻き起こり、この地に足を踏み入れれば命の保障をしない、と言うまでになりました。その時、チエンマイの王家の血を引く最高の地位の女性が、チエンマイの風習についてとやかく言わないで欲しい、と静かに非難して全てが終わりました。
昔からの風習で現代の考えに合致しないとしても残しておいていいのではないでしょうか。こうした風習が残っているとして男女差別とか目くじらを立てることは大人気ないと思いますね。
2009/7/28(火) 午前 4:36 [ mana ]
柚ぽん瑠璃珊瑚晴パパさん
コメントありがとうございます。
膨大な資財を費やしたと思いますね。特にインドのブッダガヤまで人を派遣したとすればその費用は想像を超えます。そうした費用がどこから手に入れたのか、手元に資料はありませんが、一つは豊富な森林資源、そして、ビルマの翡翠なども手に入れていたのかもしれませんし、もしかしたら砂金を採っていたのかもしれませんね。
人では徴用すればいいのですが、この王の時代には、濠の一部を埋め立てて新王宮を建設したり、チェディールアン寺院の大改修工事をも行っていますので、国庫はかなり軽くなっていたかもしれません。
2009/7/28(火) 午前 4:43 [ mana ]
cocoa さん
コメントありがとうございます。
タイと日本のお寺の根本的な違いは、日本人が仏教と接するのはどこか暗いイメージが付いている時ですが、タイでは生活のあらゆるところで関わり、結婚式においても僧侶の祝福の読経が必須ですね。
かつては日本でもお寺で読み書きを覚え、子供たちは境内で遊んでいたのかもしれませんが、日本の場合には、お寺のほかに神社があり、そのお祭りが村人たちの楽しみであったりしました。と同時に、日本の仏教はどうやら死後の世界=浄土を強調しすぎたのかもしれませんね。そしていわゆる檀家制度、たくさんの宗派の存在もまた地域とお寺の関係を変えていったのかもしれませんね。
一方、タイの田舎では今も貧しい家庭では、口減らしのようにお寺に男の子を預けます。お寺で寝泊りしながら学校を出る人もいます。お寺は僧侶のものではなく、信者みんなのものなんですね。ですから入門=入山のお金を取ったりすることはありません。
もしも日本でもお寺が村人、地域の人たちに開放されるならば、新しい地域住民のための為の仏教が出来るかもしれませんが、住職次第でしょうね。
2009/7/28(火) 午前 5:02 [ mana ]
むうまさん
コメントありがとうございます。
古い時代には、社会は非常に狭く、人の移動も結婚によるもの以外あまりありませんでした。そうした時代には、一つの地域の約束事が代々受け継がれて何の不便も感じなかったのは事実ですね。逆にだからこそ、旧い慣習が変わることなく受け継がれてきたのでしょうが、現代にあっては人の移動があり、人と地域の密着度がかつてとは比べ物にならないほど希薄ですね。しかも、生活手段の多様化は、旧来の職業から人手を奪い、後継者難をもたらしました。その善悪はともかく、旧い慣習が危機に晒されているのは事実ですね。これも慣習を中心に考えれば危機なんですが、人を中心に考えれば、むうまさんが仰る通り足枷ですね。
旧い慣習は、地域住民の心のつながりを強めますが、いわゆる都市化された社会にあっては地域と住民の密着度は薄れ、旧来の取り決めがどこまで守れるのか難しいと思います。
むうまさんの苦衷お察しします。
2009/7/28(火) 午前 5:12 [ mana ]
近野さん
コメント有り難うございます。
仏教にはこの外にも七大聖地というのがありまして、むしろここに出ている七大聖地は、こじつけのような気もしますが、これも信心ですから。
2009/7/28(火) 午前 5:15 [ mana ]
菩提と言うのは悟りの境地を開くという意味ですね。
七箇所有るという事は夫々の聖地のようにしたかったのではないかと思います。当時の人たちの信仰心の厚さがあらわれているのでしょうね。傑作
2009/7/28(火) 午前 7:59
千葉日台さん
コメントありがとうございます。
七大聖地というのは別の意味でもありますが、ここでは釈尊が悟く前後から悟りを開いたあと少しの間の釈尊の様々な行動を振り返り、夫々に意味を持たせているのですね。この中でも遊行像はスコータイにあるものが有名ですね。
こうしたことから当時の人たちは比較的仏教を身近に感じ、仏伝をよく承知していたものと思われます。日本の僧侶もこうした些細なことから子供たちに親しみを込めて釈尊の話をしていくと似非宗教団体に惑わされることもないのだと思いますが・・・日本の僧侶は宗義・宗論にはまり込み、釈尊の教えを身近な話として説く努力を怠っているのかもしれません。釈尊の教えはある意味では非常に分り易いものだと思います。
2009/7/28(火) 午後 0:25 [ mana ]
伝承等で7不思議とかありますよね??
7と言う数字は何か意味があるんでしょうかね?
ラッキー7とか言いますが、そちらでは縁起のいい数字なんですか?
2009/7/28(火) 午後 9:22
そうですか、難しいんですね。
ご来訪やランキング応援に感謝を申し上げます。
また伺います。
2009/7/29(水) 午前 0:51
NONさん
コメントありがとうございます。
仏教の経典には、数に因んで様々な教えを説いています。そんな数の中に7という数字もありますが、基本的に釈尊はそうした縁起を認めていないと思います。面白いのは「仏弟子の告白」と題する本は、釈尊の周りに集まった人たちの告白詩句集ですが、全て数毎に纏められています。
こちらでの民間信仰の中で縁起のいい数字というのは語呂合わせから来ているものだと思いますが、9です。これはタイ語ではカーウ(kaaw)と読みますが、別綴りの同じ音でカーウ(kaaw)というのがありまして、これには「進歩」「前進」という意味があります。したがって、何かの行事をなす場合には多くこの9の付いた日、もしくわ、時間に開始されるのが普通です。たとえば、59分、29分・・・などです。
ただ、チエンマイ建都に際しての土地選びにおいても七つの吉祥があるが故に、この地が建都に相応しいとされていますので、7というものそのものに当時の人たちもある意味で特別なものを感じていたのかもしれませんが、残念ながらそれについて述べるだけの資料を持っていません。
2009/7/29(水) 午前 5:17 [ mana ]
近野さん
応援ありがとうございます。
2009/7/29(水) 午前 5:18 [ mana ]
こんにちは。
只今戻りました。
菩提樹を植えることの功徳を聞いてしまうと
確かに植えたくなりますね。
傑作です!
2009/7/29(水) 午後 7:35
こんにちは。
無事出張からのお帰り何よりです。
これからも宜しくお願いします。
2009/7/29(水) 午後 8:24 [ mana ]
こちらこそ、ご来訪やランキング応援に感謝を申し上げます。
また伺います。
2009/7/30(木) 午前 0:39
近野さん
いつも変わらぬ応援ありがとうございます。
2009/7/30(木) 午前 5:47 [ mana ]