チエンマイの原風景

古書を片手に霧の彼方の古都チエンマイを訪ねる旅です・・・

チャーマテーウィー伝

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故地ラウォーとの戦い

ナーン・チャーマテーウィー伝−13−

短命な王が続いたあと、「ヨーノック王朝伝」では、勇名を馳せたプラチャウ・ワッタラーサタカ・ラート(PHRACAU WATRAASATKA RAACH)が王位に就き、その2年数ヵ月後には、彼らハリプンチャイに住むモーン族の故地ムアン・ラウォー攻撃の軍を挙げたというのです。

商圏争いが原因なのでしょうか、それとも既にチャーマテーウィーより後200年余が過ぎて故地とはいえ、ムアン・ラウォーは競争相手に見えていたのでしょうか。伝承は南下の理由を記していません。

一方、ハリプンチャイからの南下軍の報を受けたムアン・ラウォーには、ソムデット・プラチャウ・ウッチッタカ・チャッカワットラート(SOMDEC PHRACAU UCCHITTHAKA CAKRWARTIRAACH)という名前のこれまた勇猛な王がいました。彼は、南下軍の知らせを受けると怒りに燃えて領内に一歩たりとも踏み入れさせるべきではない、と檄を飛ばして都を出て、北に迎撃体制を敷きました。

ラウォーの町の遥か北で衝突した両軍は、互いに力戦及ばず勝敗を決することが出来ませんでした。

しかし、この同じ内容を先のハンス・ペンスの文章では両軍は戦っていません。又両国の王の名前にも齟齬がありますが、名前の齟齬はしばしばあることでさしたる問題ではありませんし、この時両軍が戦ったかどうかはさして大きな問題ではなかったようです。

なぜなら、両軍が戦闘体制に入っている時、その間隙を衝いてでしょうか、ナコーン・シータムマラートの王が大軍を擁して水陸両面よりこの戦場に向っていると言う報が両軍に届きました。

17万という想像を絶する軍勢に恐れをなした両軍は、もう互いに戦いのことなど忘れて、この第三の軍に対する対応に迫られました。それは、奇しくも同じ対応でした。

即ち、第三の軍から一刻も早く逃げることでした。しかも南はナコーン・シータムマラートの王に抑えられていて、ラウォーの軍さえ自らの国に帰る事が出来ませんでした。

この時、ラウォー軍とハリプンチャイ軍は、共に北の方向に望みを託しました。時に水路を下って来たハリプンチャイ軍が水路を遡って帰国の途についたのに反して、ラウォー軍は陸路を急ぐことにしました。
この時、ラウォーの王は次のように兵に告げたと伝承は残しています。

「・・・今、プラチャウ・シータムマ・ナコーン(PHRACAU SRIITHARMA NAKHOOR)が戦陣を敷いて道を塞ぎ、我らは、もう自らのムアンに引き返すことが出来ない。我らは、ムアン・ナコーン・ハリプンチャイを奪うべきであり、きっと容易く手に入るであろう。何故なら、ムアン・ハリプンチャイの者どもが引き返していく道は、水路であり、水は流れが激しく、迂回路であって、遅い。我らが行く陸路は、直線路であり、きっと先に到着するであろう。・・・」というものでした。

そして、その王の判断は正しく、ラウォーの軍は、ハリプンチャイの軍に先立ってムアン・ハリプンチャイに到着しました。王は、軍がムアン・ハリプンチャイに近づくと、人目に付かない場所に軍を潜ませ、夜間になるのを待って行軍を再開しました。そして、朝方城門に辿り着くと、捕虜にしているハリプンチャイの兵に国王のご帰還を告げさせました。
城内から守衛の兵が城門を空けると、雪崩を打ってラウォーの兵が入場し、瞬く間にハリプンチャイを占領しました。

その後間もなくハリプンチャイの軍が帰還しましたが、入城することが出来ず、先に入城していたラウォー軍と戦闘が始まりました。しかし、戦いに利あらずして本来の主であるハリプンチャイの王は、多数の兵を失い、敗残の兵と共に遥か南に逃れえた、と伝承は結んでいます。

こうしてハリプンチャイから仕掛けられた戦いは、ハリプンチャイの町を失い、敵のラウォー軍の手に落ち、しかもラウォーは、第三のクルン・シータムマ・ナコーンの王に奪われるという予想も付かない結果に終わり、しかもハリプンチャイの王自らはその後消息すら聞かれません。

ハリプンチャイを占領したソムデット・ウッチッタカ・チャッカワット・ラートは、旧来のムアン・ハリプンチャイの国王プラチャウ・ワッタラーサタカ・ラートの后と婚姻し、正式にムアン・ハリプンチャイの王となりました。

一方、ムアン・ラウォーを占領したムアン・シータムマラートの王は、クルン・ラォーに入城すると神々を祀り、自らの母の像と共に城内の神像を祀りました。不思議なのは、この時どうして仏教式に仏像を祀ることなく神を祀り、母の像共々神像を祀ったのでしょうか。

かくして3年、ラウォーを占拠したプラチャウ・シータムマラートには、ラムプーン伝でカムポーチャラート(KAMPHOOCHA RAACH)と呼ぶ一人の王子がいました。彼は、自らの有する財だけでは満足できず、ムアン・ハリプンチャイを求めて兵を挙げたといわれています。しかし、ハリプンチャイ側の反撃に遭うと惨敗し、ほうほうの体で自らの国に逃げ帰りました。

一方、ハリプンチャイの側では、敵を撃退すると、国の守護霊を祀り、石版に呪いの言葉を刻んで、ハリプンチャイ占領を意図するいかなる国王といえどもこと成就することなきよう祈願して、町の西方に埋めたといわれます。王は、王位にあること3年の短い期間にして病に倒れたといわれます。

こうしたことは何を意味しているのでしょうか。いきなり理由もなくハリプンチャイがラウォー攻撃に向
かい、場外に出て迎撃するラウォー軍の隙を付いて遥か彼方のムアン・シータムマラートの軍が攻め上ってくる。しかもその後3年にしてカムプーチャラートが北上してハリプンチャイを攻撃する。

この疑問の答えは、ハンス・ペンスの前述の論分の中にあります。
即ち、少なくとも仏暦1565年以降のロッブリーは、クメールの支配下にあり、同じ頃のナコーンシータムマラートもまたクメールの影響下にありました。即ち、こうしたモーン族間での闘いと遥か南部からの軍の移動の鍵はクメールの勢力拡張にあったようです。時のクメールの王は、かの有名なスリヤヴァルマン1世でした。

こうしたことから、ハンス・ペンスは「・・・ムアン・ラムプーン伝における『カムポーチャラート』とは、スリヤヴァルマン本人、もしくは彼の部下の司令官かもしれない・・・」と記しています。

この時期は、クメールの西方への勢力伸張の時期と重なっていたのです。クメールの西方進出に抵抗するモーン族の戦いを援助するべく遥かハリプンチャイから援軍をして出陣したが、遥か南のクメールの影響下にあったナコーン・シータムマラートからの大軍を見て恐怖の余り北に逃げたのが真相かもしれません。

そんな大きな民族の流れ、歴史の流れの中に遥か北の山の中に位置する小さな国が巻き込まれていたのです。

ソムデット・ウッチッタカ・チャッカワット・ラートが病に倒れた後、王位に就いたのが、プラチャウ・カモン・ラート(PHRACAU KMO)RAACH)でした。そして、その次の王、プラヤー・チュレーラ・ラート(PHRAYAA CULEERA RAACH)の時代、ハリプンチャイを恐ろしい疫病、コレラが蔓延し、住民はいることが出来ず揃って現在のビルマ国内にあるムアン・サターム(MUANG SATHAAM)に避難したといいます。

しかし、ムアン・サタームでは同じモーン族ながら住民たちと必ずしも平和裏に共存できなかったようで、人々は誘い合わせて今ひとつの同族の住む町、パコー(PHAKHOO)、即ち、現代のペグーに向いました。ペグーの人々はハリプンチャイよりの避難民を暖かく迎え入れ、融和して親しみ、一つの社会を形成しました。

こうして避難生活6年が経過し、中には地元民と結婚生活を始めるものも出て来ましたが、やはり捨ててきた故国のことが気になりました。既にコレラの恐怖も沈静化し帰国の途に付く人、そのままペグーに残る人様々でしたが、互いに親愛の情は保ち続けたようです。

こうして6年ぶりに故国に帰ってきた人々は、どうしてもペグーに残る親戚知人のことが忘れられず、毎年決まった月になると河に食物を流してペグーの親戚への供養とした、という説があります。

そして、現在、チエンマイ、スコータイで有名なローイ・クラトーンという伝統行事の源も案外このハリプンチャイの人々が避難先に残った親戚への供養に河に食物を流したことに始まるのではないかとも思えます。

(続)

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水大師さん

コメントありがとうございます。
やはり血は水よりも濃いのでしょうか。世界は血の繋がりを大切にし、民族の輪を大切なものとみます。世界は狭くなり、往来が激しくなって民族、国家の独自性を強調するもの、そして、多民族国家においては血に変わるものが国旗であり、国歌です。
日本人が国歌を忘れ、国旗を放棄し、民族の独自性を見失う時、国が滅びます。そして、日本には国旗、国家以上に大切なものとして皇室があります。血の繋がりを守り、民族を守り、大切なものを守ることが国の生存の基本でしょうね。

2009/7/30(木) 午後 7:51 [ mana ]

さくらの花びらさん

コメントありがとうございます。
どの行事にも必ずその起源があります。古い行事の起源は神話・伝説・伝承に中に案外真実があるかもしれません。現代科学でも神話学があり、神話の中から真実を探り出そうとしています。ですから、神話・伝承・伝説というのは案外文化の根であり、その民族の根なのかもしれません。ですから神話を捨て、伝説を蔑視し、伝承を無視するならば自分の過去を見失うことになるかもしれません。
伝承を信じるか信じないかは別にして、それを大切に守り育てていく価値は十分にあると思います。それが日本にあっては各種民話であり、古事記であり日本書紀、風土記ではないでしょうか。

2009/7/30(木) 午後 8:00 [ mana ]

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ここ数回、当該地の暖かさというか、支配者の心を、感じていましたが、今日の展開は、支配欲というか、僕としては、逆に理解の範囲ですね。なんというか、だろうな・・・的な。

2009/7/30(木) 午後 8:35 株式会社セロリの管理人

株式会社セロリの管理人さん

コメントありがとうございます。
やはり国がいくつもあれば支配欲、征服欲が出てくる、これが世のならいでしょうか。国内的には慈愛を持っていたとしても、対外的になれば相手は敵か見方か二つに一つです。常に緊張した関係であったことに変わりはないと思います。そして、こちらにその意思がなくても相手の出方に拠れば戦闘ということもありますから、王たるものは国を守る為に十分な準備を整えて常に備えていなければならなかったのでしょう。変温無事な国の歴史は、相手はある限り保障されないですね。

2009/7/30(木) 午後 8:50 [ mana ]

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こん
∧、∧
| ω・`) のぞきにきました
|⊂ /
|ω__)

2009/7/30(木) 午後 10:14 日帰り温泉とグルメ

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故郷への愛着と、新しい土地への愛着
そして人々への愛があって、「供養」なんて行事が発生したんですね
今でも形を替え、広く伝わる行事として、なるほどなぁと感心しちゃいました

2009/7/30(木) 午後 10:53 yuzupon

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離れ離れになってしまった方々に対し
供養を忘れない精神に感動しました。

傑作。

2009/7/31(金) 午前 0:05 Non

どこの地でもいつの時代でも争いは絶えませんね。

続きに期待しております。

傑作○です。

2009/7/31(金) 午前 0:55 近野滋之

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日帰り温泉とグルメさん

お久しぶりです。
ゆっくり休んで行って下さい。

2009/7/31(金) 午前 4:44 [ mana ]

柚ぽん瑠璃珊瑚晴パパさん

コメントありがとうございます。
温かく迎えてくれた避難先の人々、そこに新しい生活の場を見出した仲間、故郷に帰ってもそうした人たちに対する思いは消えなかったのでしょうね。そうした人々に対する、日本的に言えば『恩』と『感謝』の気持ちが『供養』という行事になって今に続いているとしたら、素晴らしい風習ですね。そして、これはある意味日本の『精霊流し』に似ているのかもしれません。

2009/7/31(金) 午前 4:56 [ mana ]

NONさん

コメントありがとうございます。
やはり人間『恩』という言葉を忘れてはいけませんね。民族は違っても親切にしてくれた人々に対する礼儀、日本で言う『恩返し』の心を持つ民族というのは、どこか温かな感じがします。今に伝わる風習が『精霊流し』『灯篭流し』に似ている点からも、遥かな昔日本人の祖先とどこかで接触していたのかもしれませんね。

2009/7/31(金) 午前 5:01 [ mana ]

近野さん

傑作&コメントありがとうございます。
いずこの国、時代においても戦いは耐えません。強いもの、準備を怠らないものがが最後には勝利するのかもしれませんが、最終的には、誇りを失わない民族の『正が邪を倒す』を信じたいです。

2009/7/31(金) 午前 5:06 [ mana ]

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今、タイは「微笑みの国」と呼ばれ、争いをしない民族というイメージが強いですが、過去にこのような熾烈な戦国時代があったことを考えると「ホントは仮面の微笑なの?」なんていう疑いが・・・

日本人こそ、戦い下手なんじゃないかなぁ。
負けたことがなかったから、1度大敗したせいで、プライドも何もかも失くしてしまって・・・
世界的に軍事がどうの、という時代ではないのだから、
経済、文化でもう一度頑張らねばね!!

2009/7/31(金) 午前 7:48 むうま

むうまさん

コメントありがとうございます。
微笑みの国・・・タイの代名詞ですが、あたしは常々仮面の微笑と言って来ました。微笑が嘘ではなく、微笑みは、生まれたばかりの頃から周りが教え込んでいるのです。この社会では微笑みの裏で、争いを力で決するということがしばしば行われます。これは新聞紙面に殆ど連日報じられる殺人事件でも分りますし、選挙においてはしばしば銃器を持って対立候補支持者の命を奪います。微笑みの優しさの反面、こうした面も持っています。これは微笑みを満面に称えて握手しながら片手に拳銃を握って後に隠しているようなものです。
こうした行動は、彼らのこれまでの過酷な歴史の賜物かもしれません。異民族に囲まれての永い歴史の中で生き延びるには、したたかともいえる図太さと仮面が必要だったのかもしれません。これこそ日本の最も不得手とするものです。

2009/7/31(金) 午後 5:13 [ mana ]

同感です。

民族の誇りこそ第一です。

2009/8/1(土) 午前 0:46 近野滋之

近野さん

これからも宜しくお願いします。

2009/8/1(土) 午前 4:48 [ mana ]

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こんにちは。

これは意外な展開です。ワッタラーサタカ・ラートが消息不明。チャーマテーウィーの流れおしまい?

ポチ

2009/8/1(土) 午前 10:06 [ JJ太郎 ]

JJ太郎さん

コメントありがとうございます。
良くぞ気が付かれました。実は、この時点でどうやら終わっているようです。その後は、モーン族とは言いながらもいろいろな血が混じっているようで、タイ族の血も入ってくると思われます。
ただ不思議なのは、異郷の王が兵を連れて占領しても庶民の抵抗の後が残っていないのです。有力者は王とともに敗残兵となって姿をくらましてしまった為に纏める人もなく、庶民にはそうした雲上世界の動きよりの今日の田畑の出来具合のほうが重要だったのかもしれません。

2009/8/1(土) 午後 3:17 [ mana ]

こちらこそ、ご来訪やランキング応援に感謝を申し上げます。

また伺います。

2009/8/2(日) 午前 1:21 近野滋之

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近野さん

いつも応援ありがとうございます。

2009/8/2(日) 午前 4:30 [ mana ]


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