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チェットヨート寺院縁起(6)
新鮮な宗教教学の嵐が吹き、ラーンナーの地に正確な教典解釈に不可欠の言語学上の知識が増し、仏典についての理解が増して来る一方、三つの宗派が入り乱れながらも、醜い争いを起こさずに、夫々が活動を続けていました。
仏暦2020年(西暦1477年)になると、僧団の指導的存在であるターンワナーラーム(TAAL WANAARAAM)、即ち、パーターン寺院(WAD PAA TAAL)の僧たちの戒和尚であるプラ・タムマティナ・マハーテーラ(PHRA THARMMATHINA MAHAA THEERA)は、現在使用している三蔵の中にたくさんの誤謬、誤解が目立っていることを嘆くようになりました。そこで三蔵に通じた有識の僧100名余をこのポーターラーム寺院に集め、仏教教典の編纂校訂会議、即ち、決集(SANGKHAAYANAA)を持つことに決しました。
この編纂会議を後援したのがプラチャウ・ティローカラートに他なりません。
プラチャウ・ティローカラートは、会議場としてのポーターラーム寺院を使用することを許すと同時に、殿堂(MONDOP)を建設して提供し、そして、参加した僧たちに衣食住薬の四依を提供して庇護しました。
即ち、これが後年第八回結集と呼ばれるものです。この第八回結集は、1年の歳月を要して完了しました。
この結集とは「けつじゅう」と読み、仏教徒にとって最も大切な教典の内容を釈尊の教えに添った正しいものとする為に、経・律・論の三蔵に通じた有識僧たちが集まって字句を正し、教典の中の誤謬を排して、常に正確な釈尊の教えを遵法しようとして、実施される会議です。いうなれば宗義の根本の見直しといえるでしょうか。こうした経典の編纂会議はこれまで七回実施されたとされています。
第1回決集は、釈尊の入滅後8カ月にして、王舎城外でアジャンタサットルー王(PHRACAU ACHAATA SATRUU)の庇護の下で摩訶迦葉尊者(PHRA MAHAA KSASSAPA THEERA CAU)が議長となり、500人の阿羅漢が集まって開催されました。
その時、釈尊の最も近くに仕え、最後まで忠実な従者であり、最も身近で釈尊の肉声を聞き続けた阿難陀尊者(PHRA MAHAA AANONTH)が議事進行を務めました。議事進行に際して阿難陀尊者は「自分は、このように聞いた」という言葉に続いてこれまで耳にして来た釈尊の教えを告げ、それを出席した阿羅漢たちがその通りであると同意して始めて仏典の一説となったといいます。こうしたことから考えると、初期仏典は短い文章の羅列、覚え易いような詩の形であったのかもしれません。
この当時、45年に亘る釈尊の布教の中で吐かれた膨大な言葉は、まだ教典として文字に残されてはいませんでした。驚異的な記憶力に頼って僧たちは、釈尊の言葉の一つ一つを覚えていたのです。そんな状況でしたから薄れ行く記憶を確かなものとし、教えから離れて行く仲間を引き止める必要があったのでしょう。
この阿難陀尊者の言葉が我が国仏教界で広く用いられている漢訳仏典の冒頭に必ず出る「如是我聞」に当たります。
この第1回結集は7カ月を要して完成したといわれております。
余談ながら、阿難陀尊者はただ一人自分だけが出席者の中で阿羅漢果に到達していないことを嘆いていたといいますが、不思議にも決集の始まる日の朝、彼は悟りを開いて阿羅漢果に到達したといわれています。
次に、仏陀がクシナーラ(MUANG KUSINAARAA)の沙羅双樹のもとで涅槃に入って100年(仏暦100年、即ち上座部仏教界で言う所の西暦前443年)が経過した時、ムアン・ウェーサーリー(MUANG WEESAALII)のワールカーラーム(WAALUKAARAAM)において開催されました。アラッチートゥシン(ALACHCHIITHUSIL)という名前の僧が戒律を犯したことが開催の引き金になったといいます。
プラ・サッパカーミー(PHRA SAPHPHAKAAMII)が議長となり、三蔵に通じた700人を集めて開催したといわれています。この決集に際しては、プラヤー・カーラーソーク(PHRAYAA KAALAASOOK)が後援者となって丸8カ月を費やしたといわれています。
仏陀の入滅後218年の後に開催された第3回決集は、世界の覇王である、日本では阿育王と呼び倣わされている、かの有名なプラヤー・タムマーソーカラート(PHRAYAA THARMMAASOOKA RAACH)の時代に王の庇護を受けて、ムアン・パータリーブット(MUANG PAATALIIBUTR=現在のインドのパトナ)のアソーカーラーム(ASOOKARAAM)において9カ月に亘って開催したといわれています。
その当時、巨大化した教団には、様々な考えが入り乱れていたのでしょうか、プラ・モーカンリーブット・ティッサ・テーラ(PHRA MOOKHKHALLII BUTR TISA THEERA)は、異教の徒が紛れ込んでいるとして、6万人もの僧を還俗させたといいます。それのみならず、阿羅漢の位に達した僧千人を選んで、決集を呼び掛けたといいます。
参加した僧の数の多さ、還俗させた僧の多さにもまして、この決集において特筆するべきことは、仏教の海外布教を決めたことです。この海外布教の一環としてプラ・マハー・ラキット・テーラ(PHRA MAHAA RAKKHIT THEER)がこのムアン・タイヨーノック(MUANG THAY YOONOK)に来たと言うのです。
このムアン・タイヨーノックが、伝説の王国、白い鰻に呪われて水没したといわれるムアン・ヨーノック・ナコーン(MUANG YOONOK NAKHOOR)であることは言うまでもありません。
第4回決集は、第3回決集の後僅か20年にしてランカー国のムアン・アヌラータブリー(MUANG ANURAATHA BURII)にあるマンタパンラトゥパーラーム堂(MANTHAPALLATHUPAARAM WIHAAR)おいてプラ・マンピヤティット(PHRA MANPIYATIS)の庇護の下にプラ・ マヒンタ(PHRA MAHINTHA)が118名の僧と共に10カ月の期間を要して開催したと言うのですが、何故に開催しなければならなかったのか、集まった118人の僧は阿羅漢果に達していたのかどうか、誰が後援したのかまでは寡聞にして知りません。
第5回決集は、前回より僅か6年の後のことだと言います。場所も同じくランカー国のムアン・アヌラータブリーです。阿羅漢の全てと有識僧千人余がアパイキーリー堂(APHAY KHIIRII WIHAAR)に集まってプラチャウ・ワッタカーミニーアパイ(PHRACAU WATTAKHAAMINIIAPHAY)の庇護の下に開催されました。この第5回決集においては、84,000の偈がバーリー語(PHAASAA BAALII)と地元言語であるシンハリー語によってバイラーン(BAI LAAN)に刻まれました。少なくとも、この時には教典が出来、文字に刻んで残していたことが伺われます。
このバイラーンとは、タラバヤシの葉のことで、火に炙った後に切り揃えて鉄筆等で刻みつけ、そこに墨を埋めたもので、古代の記録手段でした。ラーンナーの歴史探索に欠かせない各種伝承もこうしたバイラーンに記されたバイーン本と呼ばれるものが殆どです。
この時に初めて記録されたのでしょうか。それはともかく、釈尊の尊い教えは、長い年月の間にも敬虔な僧侶、信者たちの驚くべき記憶力によって支えられ伝えられて来たのです。それは、膨大なヴェーダの教典を一字一句間違うことなく記憶して伝え続けるヒンズー世界そのままです。
1年を要して第5回決集が終了しました。
第6回は、はるかな後世、仏陀入滅後956年が経過した時、プラ・プッタコーサーチャーン(PHRA PHUTHTHA KHOOSAACAARY)がランカーの地元言語での教典を破棄し、マガタ語(PHAASAA MAKHATHA)に変えたと言うのです。マガタ語とは、釈尊在生中のインドの強国の一つで、仏教が栄えたマガタ国で使用していた言語で、仏教に縁ある王舎城は、この国の都でした。そして、マガタ語とはタイにおいても聖語のように見られているバーリー語に他なりません。
ムアン・アヌラート(MUANG ANURAACH)で開催された第6回決集は、1年の期間を費やして完了しました。
更に600年余が経過した仏暦1587年、カッサバ阿羅漢(PHRA ARAHANT KASAPA)が千余の僧と共に、シンハリー語で混乱した三蔵を清算し、全てをバーリー語に改めました。先の結集の後600年余が経過してもなお廃棄した筈の地元言語シンハリー語での経典が存在していたことを示していたのでしょうか。それを後援したのは、プラチャウ・プロムパーフノーム(PHRA CAU PROM PHAAHU NOOM)でした。
ムアン・プカーム(MUANG PHUKAAM)のプラチャウ・アヌルッタ・チャウ(PHRACAU ANURUTHTHA CAU)は、ランカーよりそれを書き写してきました。八正道の一つである、正しい見解を意味する正見を有するターウ・プラヤーたちが更にそれらを書き写したと言うのです。
ムアン・ピン・ナコーン・チエンマイ(MUANG PING NAKHOOR CHIANGMAI)でも競って自らの言葉で書き写したと言うのですが、この当時にはまだチエンマイは出来ていないはずで、これを信じるならば、チエンマイ以前のンガーンヤーン王朝時代のことでしょうか。
この点に関しては、それを証明する資料を持っておりません。
しかし、これをも決集と数えて第7回決集としています。
(続)
訂正:
内緒さんより御指摘を頂き、あたしの単純な文字変換未確認が判明しました。
次の通り訂正してお詫び申し上げます。
誤・・・決集
正・・・結集
(02/Aug.)
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mana様
いつもご来訪、ご支援頂き感謝申し上げます。
古書を片手に霧の彼方の古都チエンマイを訪ねる旅、とありますが実際に旅をされていたのでしょうか!凄いです
僧達も!
傑作○です。
2009/8/2(日) 午前 11:45
内緒さん。
ご指摘有り難うございました。
訂正を出しましたので、ご確認下さい。
これからもご指摘を頂ければ嬉しいです。
2009/8/2(日) 午後 2:59 [ mana ]
よかもん人生さん
コメントありがとうございます。
釈尊の教えは当然何百年も文字に書かれていませんので、いい間違い、聞き間違い、忘失、誤解その他があると思います。インドではバラモンたちは、ヴェーダという経典を師について何にも亘って師事しながら口移して一字一句覚えていきますが、その時には詩を詠むように節をつけながら唱え、繰り返して唱えながら覚えていったようです。同じように仏教の経典も初期にはこうして僧の個人的記憶に頼っていたようで、初期の経典は短い詩の形をとっています。
こうしたことは旧いこちらの伝承本の中により詳しく綴られていますので・・・
2009/8/2(日) 午後 3:06 [ mana ]
ジョウジさん
コメントありがとうございます。
釈尊は文字を残していないため、釈尊の言葉を思い起こしながら綴っていったとされているのが東南アジアに広がる上座部仏教の経典ですね。それに対し、経典の形式をとりながらも釈尊の謂わんとした事、真意を測って作り上げたのがいわゆる大乗系の経典ですね。
したがって、経典は膨大な量に上り、どこまでが釈尊の真の言葉に近いのかという議論がかつてありましたが、今はどうなのでしょうか。釈尊はそうした議論を避けますので、そうした本家比べ本物比べよりも釈尊の求めたものはどの系統の宗派でも一緒(「解脱」)ですから、それに向けての実践こそが大切でしょうね。
南北に仏教の宗派が分かれ、ある意味根本的なところにくい違いが出ていますので、「結集」は不可能だと思います。しかし、タイ仏教会は実行したい希望のようです。同時に結集を行い「正しい」経典を作るとそれ以外の経典による活動は仏教とは看做されず、外道となります。すると、日本の各宗派は納得できるでしょうか。
そして「結集」のご指摘ありがとうございます。訂正記事を載せました。これからもご指摘頂ければ嬉しいです。
2009/8/2(日) 午後 3:23 [ mana ]
千葉日台さん
コメントありがとうございます。
本来の教育とはそういうものですね。バラモンは、膨大なヴェーダの経典を数千年にも亘った口伝で伝えて来ています。少年が師につき、教学を終えると成年にまで達しています。
又日本でも史書・五経、論語その他を武士たちは暗記していたと思います。したがって暗記こそは勉強の初めなのかもしれません。平家物語を語り継いだ法師たちもそうした記憶を生活の糧にしていたのかもしれませんね。辛い繰り返しですが、そうした苦労によって身に付いた知識は生涯消えません。戦前に教育を受けた人たちは日本人に住む人であろうと、台湾に住む人であろうと等しく日本の教育を受けた人たちは今も教育勅語を暗誦していると思います。それこそ素晴らしい教育の賜物ではないでしょうか。
信仰心が篤い人たちは一字一句残さず覚えこんだでしょうね。阿難陀尊者は釈尊に近侍していましたので、十大弟子の中でも多門第一と呼ばれ、釈尊の言葉を残らず記憶していました。彼なくして結集はありえなかったでしょうね。
2009/8/2(日) 午後 3:34 [ mana ]
NONさん
コメントありがとうございます。
こうした絶え間ない努力を払って釈尊の教えを守り続けた人たちがいたおかげで、仏教が世界三大宗教の一つとして今に残っているのでしょうね。それには計り知れない集中力と心の中での反復、今の僧たちのうちどれほどの僧が自らの信ずる中心経典を暗記しているでしょうか。
2009/8/2(日) 午後 3:40 [ mana ]
柚ぽん瑠璃珊瑚晴パパさん
コメントありがとうございます。
結集の期間と言うのは、僧たち全員が揃って経典の一字一句の是非の議論が始まってより計算します。従って僧たちはそれよりも早くに集まっているはずです。しかも,結集は、一字一句確かめるのが原則ですから、とても長期間を要します。その間出席僧たちを世話することが後援者に求められます。そうした何百人千人にも上る僧たちは、生活の糧を持たず、自炊することが許されない時代のことですから、後援者が必要になります。釈尊は一日一食だったと思われますので、少なくとも毎日千人の僧たちの食事を一日に一度用意し、寝所を用意し、雨露を凌ぐ施設を整え、僧衣を献上して着替えを用意し、そして病への対応を用意していた筈です。期間もさることながらその経済的負担も計り知れないですから、後援者を持たない結集は不可能でしょうね。
2009/8/2(日) 午後 3:48 [ mana ]
愛国さん
コメントありがとうございます。
古書を片手に霧の彼方の古都を訪ねる旅は、日々机の前に座り、埃に塗れた古い伝承本を紐解きながらの歴史散策の日々をさします。そして、今あたしはその古都チエンマイに腰を下ろして早20余年が過ぎました。その初期において、一人チエンマイからここに出ている北の果ての町まで一人埃塗れのバスに揺られて時には命の保障すら出来ないと地元の人に脅されながらも楽しい旅をしていましたが、今はその力もなく部屋に篭っての読書三昧の日々です。
2009/8/2(日) 午後 3:55 [ mana ]
記憶して伝える、まさに伝承です。
このような偉大な方々の努力のお陰で今があるのですね。
このような会議で正しいかの見直していくというのは
現在にもつながる素晴らしい仕組みです。
傑作です。
2009/8/2(日) 午後 6:22
入滅後8か月に第一回の結集があったとの事に少し驚きました。という事は存命の時から大きな影響力を持っていたという事ですよね。
2009/8/2(日) 午後 7:27
さくらの花びらさん
コメントありがとうございます。
自らの記憶を確かめながらより正しいものとしていく、その為には指導者に従う規律と、指導者の偽りのない真摯な態度、そして何より釈尊に対する敬虔な信仰心がなければなりません。そこには利害関係もなく、純粋な正しい釈尊の教えを確かめ、確認しながら過ちを改めたいという信仰心しかなかったと思います。
そして、篤い信仰心が常人ではなしえないような記憶力をもたらしていたのかもしれません。そんな記憶を保つため、彼らは日々繰り返し繰り返し何度も釈尊の言葉を繰り返して口にしていたものと思います。
翻って現代の宗教界は彼ら先人に対して胸晴れるでしょうか。
2009/8/2(日) 午後 8:43 [ mana ]
aen*u*on99 さん
コメントありがとうございます。
釈尊存命中から教団の中に異端の徒が出て来ていたようです。そして、中には釈尊に取って代わって教団を統率しようとするものまで現れるほどでした。組織が大きくなればなるほど様々な考えのものが出てくるのはいずこも同じようです。
そして、釈尊の入滅後、僧たちは寄る辺を失い、釈尊の代わりに釈尊の言葉を拠り所にしようと考えたのかもしれません。
2009/8/2(日) 午後 8:47 [ mana ]
こん
∧ ∧ !
(´‘ω‘ `) ≡≡≡のぞきにきましたよー
☆ O┬Oc ) ≡≡≡ キッ
\(*)ι_/(*) =3
2009/8/2(日) 午後 9:31
宗教でも何でもそうですが時がたつと最初の思いは変わっていくのですね 伝言ゲームと同じですね
明治の志士たちの思いも 次の世代で変わっていったように・・・
今からは良い方向で変わらねば日本は・・・・
2009/8/3(月) 午前 0:47 [ 道後 ]
いつも勉強となります。
傑作○です。
2009/8/3(月) 午前 0:50
日帰り温泉とグルメさん
いらっしゃいませ。
ゆっくりとしていって下さい。
2009/8/3(月) 午前 4:38 [ mana ]
水大師さん
コメントありがとうございます。
正しく伝えているつもりでも、どこかで自分の気持ち、意思というものが知らず知らずのうちに入り込んでいるのだと思います。入り込んでいく内に時には他の場所と矛盾していたり、意味に繋がりがなくなって更に自己解釈を加えたりであったのだと思います。従って、こうした編纂の見直しを受け入れた昔の人たちは大変に素晴らしいと思います。自分の過ちを素直に認めることはなかなか難しいものです。
ですから常に初心に帰る、ということが大変に重要になってくるのだと思います。遠い先のことを見ることも必要ですが、自らの拠って立つ足元を見つめなおす勇気も必要だと思います。
2009/8/3(月) 午前 4:45 [ mana ]
近野さん
いつもご訪問&傑作ポチ頂き、ありがとうございます。
これからも宜しく応援頂ければ嬉しいです。
2009/8/3(月) 午前 4:47 [ mana ]
日本の仏教各派は釈尊に戻れ!
各宗派の開祖が釈尊より大きく見えるのは・・・オレだけか!
2009/8/3(月) 午後 11:27
tsuchip さん
ご訪問&コメントありがとうございます。
日本の仏教は、宗派に分かれてしまいました。しかも宗派もまた小さな派に分かれているのが現状です。そもそも仏教教団が今のように上座部と大乗派に分かれたのは、教団内における、教論が余りにも高度に観念論的に理論の為の理論に陥り、そこに釈尊の目指した衆生救済の姿勢が見えないという不満を抱いた一部の人たちが、そうした高度な論を解さない衆生もまた仏になる素養を有し、そうした衆生をこそ僧は救済するべきである、と考えた末に出てきたのが大乗派仏教だと思います。釈尊の教えは高度な仏教学を修めた一部指導的立場の僧、阿羅漢のものではなく、一般衆生のものである考えていたと思います。ですから大乗派は、菩薩道を目指したのですが、そうすると夫々に目指す最終目的に向う道に相違が出てきました。そして、終には、宗祖が教祖釈尊のように絶対的な立場になってしまいました。それは二千年近く前に彼らが批判した上座部の姿勢そのものですね。
御仏の教えに立ち返ることは常に必要なことだと思います。
2009/8/4(火) 午前 5:06 [ mana ]