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ナーン・チャーマテーウィー伝−14−
コレラの蔓延が収束し、ムアン・ハリプンチャイに帰ってきた住民は、再び平穏な生活の日々に戻り、稲刈りも終えた現代陽暦の11月の満月の日には河に供養の品々を流す習慣が続いていました。
しかし、この頃の王は誰だったのでしょうか。
「ヨーノック王朝年代記」であろうと、ハンス・ペンスの「ラーンナータイの成り立ち」であろうと、この点について余り述べていませんが、ただ言えることは、正体不明の王たちがどこからか表れてはハリプンチャイを支配し、一代にして消え、次の正体不明の王に変わっていくという現象が起こっていたようです。
ハンス・ペンスの論文では「次に仏暦1630年(西暦1087年=MANA 注)頃ムアン・ラムプーンは二度に渡って占領された。一度目はムアン・タムイ・ナコーン(MUANG THAMUY NAKHOOR)よりのアンクルット・チャッカワット(ANGKUR CAKRWATI)がムアン・ラムプーンを占拠支配すること9年にして崩御した。二度目は、スッパーン・ナコーン(SUPPAAL NAKHOOR)よりの王が占拠支配したが間もなく崩御した。
この二人の王が誰で、二つのムアンがどこに位置しているのか不明である。」と述べています。
これに対し「ヨーノック王朝年代記」では、ハンス・ペンスの論文で言うところのアンクルット・チャッカワットに相当するアントルー・チャッカパット・ラート(ANGTRUU CAKRAPHARTI RAACH)を含めて9人の王の支配を名前を挙げて記しています。
こうした正体不明の王の後に名君というかハリプンチャイ王国最盛期の王プラチャウ・アーティットラ−ト(PHRACAU AATHITY RAACH)の時代を迎えます。
ただ、この王がどこから来たのか、手元にある資料には出ていません。これも「プーンムアン・ラムプーン伝」、仏教の動きを中心に歴史を追った伝承本「チンカーンマーリー・パコーン(CHINKAALMAALII PAKORY)」その他原資料などが手に入れば何とか分るのかも知れませんが、今は未入手ですので、何ともいえません。
このプラチャウ・アーティットラートは、大変に勇敢というか戦闘能力に自信を持っていたようで、遥か南のムアン・ラウォー攻撃の軍を起こしました。
時に仏暦11690年頃のこととされています。
この時の模様を「ヨーノック王朝年代記」は、「ある時、全土に威令を広める為に、王は、戦闘能力を試したく思い、多数の軍勢を調えると、ムアン・ラウォー・マハーナコーン攻撃に軍を挙げました。」と記しています。
しかし、伝承に見るこの時の両軍の戦闘というものは異様なものでした。大軍を繰り出した攻城側に対して、守備側では城を固く閉じて堅守の方針を貫き、戦闘状態に入りませんでした。
プラチャウ・アーティットラートは痺れを切らせ、書状を持って交戦するよう挑発しましたが、これに対するムアン・ロッブリーのソムデット・プラチャウ・ロッパラート(SOMDEC PHRACAU LOPH RAACH)からの返書というものは、戦闘を拒否するものでした。
大王たるものが軍勢を持って矛を交えることは適当ではなく、「・・・思慮分別ある善人が非難するところであり、勝敗いずれにしても、名誉とはならない。・・・正法を持って戦うであろう。・・・」と返事をしました。
そのロッブリー側の正法による戦いというのは、仏塔の建立競争を提案するものでした。即ち、ロッブリー側は城内に高さ15ワーの仏塔を一昼夜のうちに建立し、ハリプンチャイ側は同じ大きさの仏塔を城外に建立してどちらが完成度の高いものとなるかを競おうというものでした。
15ワーの仏塔とは30メートルの仏塔であり、いかにも大き過ぎるように思います。ただ、後の事を考えるとあるいはそう持ちかけたのもあながち嘘ではないかもしれません。
この申し出に対し、プラチャウ・アーティットラートは、自軍の兵力の多いことを恃みに楽勝であると判断して承諾しました。
勿論劣勢のロッブリーは、十分に勝算があるものとの判断での提案でした。
すなわち、土を盛り上げて通常に仏塔建立のやり方をとるハリプンチャイ側に対し、ロッブリー側では、城内の大工を集めて仏塔形の木枠を作らせると白い布で包みました。そして頂上部分に仏塔の尖塔を突き刺すと、夜間にそれを規定の場所に立ち上げたのです。そして、夜が明ける前に仏塔全体に漆喰を塗り、基壇部に赤い石を敷いたといいます。
夜明けを待って鉦太鼓を連打して、仏塔の完成を伝えると、それを目にしたハリプンチャイの兵たちは驚きあわてて逃げたといいます。ロッブリー側は多数の戦利品を獲得して、張りぼての仏塔を壊すと新たに正規の仏塔を建立しました、これが後に伝わるチェディー・プラーン(CEDIIY PHRAANG=偽りの仏塔)でした。一方ハリプンチャイ側が建立を手掛けたままの仏塔も引き続いて完成させるとチェディー・メーン(CEDIIY MEENG=ラーマンの仏塔)と名付けたといいます。
こうした姦計による勝利に味を占めたソムデット・プラチャウ・ロッパラートは、ハリプンチャイ攻略の好機と判断し、息子に全軍を指揮させて北上軍を起こしました
ロッブリー側の戦意高揚を目にした、プラチャウ。アーティットラートは、先の敗戦の雪辱を果たそうと姦計を持って挑戦を受けました。即ち、両軍は先の大戦同様軍を動かすことなく、正法に則って競おうというのです。先には仏塔建立でしたが、今度は互いに同じ大きさ、深さの四角形の池を掘ろうと提案したのです。しかし、単に池を掘るのではなく、使用する道具は、槍の柄だけを用い、所要時間は先と同じく一昼夜としました。
これを了承したロッブリー軍は、全軍の兵士が正直にあるだけの槍の柄をもって来て掘り始めました。これに対して、ハリプンチャイ側では、日中こそ槍の柄を使いましたが、日が暮れるとどこからか掘り棒を持ち出し、スコップを持ち出して来て掘りました。
明け方には勝負はついていました、ロッブリー軍は武器をも捨てて逃げ帰り、ハリプンチャイの人々は、そこをノーン・モー(=鍋沼)と呼び、道具を使って掘った池をノーン・パーン(=悪辣な沼)と呼んだといいますが、とすると自分たちでも卑怯であることを知っていたことになりますね。
自らの息子が敗軍の将として帰って来たことを知ったロッブリーの王は、怒りの余りに戦略優れた側用人の息子を司令官に選ぶと、ハリプンチャイ攻略に差し向けました。しかし、この軍は密林に迷い込んだのか、ハリプンチャイ守護の神々のなせる業なのか、どうしても迷路を抜け出すことが出来ませんでした。
それを知ったプラチャウ・アーティットラートは、直ちに出陣を命じ、ロッブリー郡を包囲しました。時にロッブリー軍は食料に事欠き、戦意はなく、なす術もないままにハリプンチャイに捕らえられました。
敗戦を知るとロッブリーでは、別の側用人の息子を司令官として三度送り出しましたが、この時も同じように道に迷っているところをハリプンチャイ軍に攻撃されています。
こうしてプラチャウ・アーティットラートのロッブリー侵攻に始まる両都の戦いは、共に志を遂げることが出来ませんでした。ロッブリーのハリプンチャイ攻略軍は三度に渡ってハリプンチャイ攻撃に失敗すると、その後二度と北上軍を挙げようとはしませんでした。
この戦いのきっかけとなったプラチャウ・アーティットラートの戦争目的は何なのでしょうか。
思い返せば、ハリプンチャイを建設したチャーマテーウィーたちモーン族の故地ロッブリーは、前述の通り既にクメールのスールヤヴァルマン一世と思われるクメール族に支配され、その後もクメールの支配下にあったことを思えば、プラチャウ・アーティットラートが戦端を切ったのは、あるいはムアン・ラウォー開放を目的としていたのかもしれません。
既に150年近い年月が経過していましたが、ハリプンチャイにとってラウォーを支配し続けるクメールは許せなかったのでしょうか。
ハンス・ペンスの論文では「伝承に従えば、ロッブリー側を呼ぶのに『カムポート(KAMPHOOCH)』といい、ラムプーン側を呼ぶのに『ハリプンチャイ』もしくわ『ラーマン(RAAMAN)』といっている。」と記しています。
ここでいうラーマンとはモーンのことで、カムポートとはカムボジア、即ち、クメールに他なりません。
つまり、ロッブリーとハリプンチャイという二都の間の戦いは、モーンとクメールという二つの民族の戦いであることを伝えています。
(続)
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ジョウジさん
コメントありがとうございます。
戦いが戦いを呼ぶのかもしれません。民族間の戦いは、深い不信と嫌悪、そして、民族意識から来るものでしょうが、それを倍化させか沈静化させるかは指導者の質でしょうね。指導者がそうした意識、権勢欲が強ければ強いほど、国民はその影響を受けます。逆にそうした意識が薄れていけば国際社会で生き抜くことは難しくなります。したがって、指導者は常に極度の緊張感を抱きながらも、冷静に周辺の動きに注意しながら常に備えを怠らないことでしょうね。
2009/8/7(金) 午前 4:49 [ mana ]
NONさん
コメントありがとうございます。
当時の武器というのは、いろいろ面白いお問い合わせですが、正直軍事専門家ではありませんから、どれほどのことが答えられるか分りませんが、一般の兵、即ち歩兵は、日本で言う刀です。これは日本の刀より柄が長く、刀身部分のほぼ半分くらいの長さがあります。そしてこれを片手で持って振り下ろすのですが、刀身の芸術性は日本刀に遥かに及びません。しかし、こちらの刀には柄、鞘に装飾を施し、時に銀細工を用いたりします。その他一般庶民は山刀様の物を持っています。これには刀身の形がいろいろあります。その他象に乗る将になると、象に乗りますから、刀では用を成しません。従って彼等は日本における長刀に似たものをいくつも象の背に乗せています。そして、槍があります、これは将および一部兵に渡っていたと思われます。
その他飛び道具としては弓があります。そして弩弓というものがありますが、これは今も見られますが、ボーガンに似たものです。それ故でしょうか、旧い伝承本では銃という言い方をします。
2009/8/7(金) 午前 5:25 [ mana ]
株式会社セロリの管理人さん
国というには余りにも小さく、部族集落というには余りにも政治的組織を持った集団で、正にある意味日本の藩組織程度だったと思います。いわゆる日本の藩には藩領というのがあり、かなり隣の藩との境という意識を持っていましたが、コチラでは、そうした領土意識よりも、点としての存在のほうが大きかったと思います。そして、日本と異なるのは、様々な民族が斑のようになって各地に点として存在していましたので、弱肉強食の戦いが常に繰り広げられてきました。こうした戦いの延長戦にあるのが昨今のいわゆる領土紛争です。四方を海に囲まれた日本人は領土意識が薄く、そこを隣国に付け込まれているのですが・・・従ってこれは永遠に続くかもしれませんね。
2009/8/7(金) 午前 5:32 [ mana ]
cocoa さん
コメントありがとうございます。
結論から言って、仰る通り世界から戦争のなくなる日はないかもしれませんね。民族間の感情はどうしようもないです。それは遥か昔より植えつけられてきたもので、民族の性質同様拭い去ることは難しいですね。たとえばチベット族は、遥か昔殷の時代から狩猟の対象とされてきましたが、故地を逃れて遥か南に下った今もその対象であり続けているようです。そして、タイ族とクメール族、タイ族とビルマ族、長い戦いの歴史の中で培われた民族意識は、常に彼らの心の奥深い所に刻みつけられているのだと思います。
2009/8/7(金) 午前 5:39 [ mana ]
柚ぽん瑠璃珊瑚晴パパさん
コメントありがとうございます。
戦争というのは様々な形で行われます。後世の人から見れば稚拙な戦い、子供の遊びのような闘いかもしれませんが、当時の人にとっては真剣だったのですね。仏塔を一日で作り上げるには人智の及ばない神的な力が備わっていなければなりませんから、まさかそこに奇計を用いているとは思わなかったのは、彼らの心が信仰心篤かったからでしょう。
人類の暦の中で果たして戦争のなかった時期がどれほどあるでしょうか。世界では今も戦争は日常茶飯事のように繰り返され、それは国家間戦争である場合もあれば、国内での民族闘争という形でもありますが、そうした国内の民族間闘争と昔の国家間戦争とは質的に同じものかもしれませんね。ただ、現在の国内の民族間闘争では、権力側民族が一方的に大量、高性能の武器を使用していますので、国家間戦争より残虐かもしれません。
2009/8/7(金) 午前 5:47 [ mana ]
近野さん
コメント&傑作、ありがとうございます。
日本は、国家間のことに余りにも無関心ですね。国境を越えれば、海の向こうは異民族がいることを知識では知りながら、血が理解することを拒否しているのかもしれません。民族間での真の融和は不可能に近いと思います。白人社会にあっても独仏英は未来永劫融合することはないと思います。しかし、理解することは出来ます。理解とは別の民族であるということ、夫々に領土を異にしていることを認めることで、その存在を否定することではありません。別の民族であることを認めれば互いにその領内にいられるはずです。しかし、民族意識を失うと、民族意識を持つ国に飲み込まれます。それは、タイにあっては先住民ルアッ族です。外国の歴史を追いながら、日本を見ますと、日本は今非常に危険な民族の波を被りそうな状態に見えて仕方ありません。国際政治では一歩の譲歩は、それ以上の対価を求めない限り、次なる譲歩を強いられ続けます。それは独立自尊とは逆方向です。失った民族意識、民族の誇り、アジアで唯一白人に戦いを挑んで勝利した先人の誇りを取り戻して欲しいですね。
2009/8/7(金) 午前 5:58 [ mana ]
奸計での騙しあいですか。確かに勇敢な戦い、技と武術のぶつかり合いなどの方が正当な戦い方のように思えます。それは日本人だからでしょうか。
傑作です。
2009/8/7(金) 午後 0:45
北国春男さん
コメントありがとうございます。
確かに一騎打ち、技を競い、戦術を競い合うことを日本人は正義としています。しかし、当時のこの地の人々は、そうした戦術と同様に、霊力比べとも言うべき、能力比べもしていたようです。それは、こうした仏塔という宗教心を問う競争、池という国民生活、農業に欠かせない慈善施設建設能力などもそうした両軍の運比べと言えるかもしれません。そして、それに奇計を用いて勝利するのもまたある種の能力であると思いたいですね。少なくとも血を流さずに勝敗を決したことに双方共に満足しているわけで、それはそれで一つのやり方かもしれません。しかし、飽く迄もあの時代だから可能だったことを忘れてはいけませんが。
2009/8/7(金) 午後 4:34 [ mana ]
人を殺しあったりする戦いよりも
こういう戦い?というのはスポーツ的でよいですね。
殺しあい恨み合いの繰り返しで泥沼化していく争いより
よほどいいですね。
傑作です。
2009/8/7(金) 午後 5:08
さくらの花びらさん。
コメント&傑作ありがとうございます。
民族間の葛藤とはいえ、こうした争いのほうが未だ救いがありますね。少なくとも昨今のスポーツの中に政治を持ち込むより遥かに素晴らしいと思います。戦いによって人を殺すことは、殺すほうも殺されるほうも決して望んではいないと思います。戦争防止の最大のものは相手に戦意を抱かせないことでしょうか。多くの戦闘は、勝利を確信したところから始まっているように思いますから。
2009/8/7(金) 午後 5:40 [ mana ]
明き盲の日本人・・・
はやく目覚めろ!
傑作○です。
2009/8/7(金) 午後 9:00
大いに同感です。
ご来訪やランキング応援に感謝を申し上げます。
また伺います。
2009/8/8(土) 午前 0:33
愛国さん
コメントありがとうございます。
現代の日本人は国際政治の厳しさ、領土拡張を常に望む禽獣にも似た外国の存在を無視した夢の世界にいるようです。日本人が平和という非現実的な夢の中で惰眠を貪る間、邪悪な征服欲を持つ国は淡々と侵略の時を伺っています。日本が人道的援助を続ける間、邪悪な国は兵器を開発し、戦意高揚を国民に促します。日本が慈悲の心で定住を許す間、嫉妬深い非道の民は只管に日本の富を貪ります。
日本が現実を見つめない限り、日本はいつか破滅の時を迎えるでしょう。
2009/8/8(土) 午前 5:22 [ mana ]
近野さん
ご訪問&応援ありがとうございます。
これからも宜しくお願いします。
2009/8/8(土) 午前 5:23 [ mana ]
こんにちは。
仏塔の建立競争、池掘競争とは驚きです。しんどそうですね。
正体不明の王が続いたようですから、違った空気が時代に漂っていたのでしょうかね。
ポチ
2009/8/8(土) 午前 9:04 [ JJ太郎 ]
JJ太郎さん
コメントありがとうございます。
どうやらこの時代頃から幾つもの民族がこの地に流れ込んでいたようです。多分タイ族系の部族だと思います。例えば現在ビルまで反政府闘争を繰り広げているタイ・ヤイ族などではないかと思います。
そうしたい民族の流入の中でいつの間にかハリプンチャイ王朝の中にタイ族の血が混じっていったものと思います。即ち、部族国家とは名ばかりで実際には幾つもの人種の坩堝になっていたのだと思いますが、これはこの地のどの国にも当てはまることで、大陸国家としては避けられないことかもしれません。
2009/8/8(土) 午前 11:08 [ mana ]
こちらこそ、ご来訪やランキング応援に感謝を申し上げます。
また伺います。
2009/8/9(日) 午前 1:01
近野さん
応援&ご訪問ありがとうございます。
2009/8/9(日) 午前 4:40 [ mana ]
mana 様
お早う御座います
いつもご来訪、ご支援頂き感謝申し上げます。
日本はいつか破滅の時を迎えるでしょう、、、
先人に顔向け出来ませんね、このままじゃ(泣)
2009/8/9(日) 午前 9:35
愛国さん
コメントありがとうございます。
それでもあたしは日本人を信じたいです。
今大きく針が左に触れていますが、必ず教育の腐敗に気付き、日教組を潰し、マスコミを解体し、民族の誇りを取り戻す日が来ると思います。その為には、諦めないことが肝心だと思います。
2009/8/9(日) 午後 0:53 [ mana ]