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チェットヨート寺院縁起(7)
こうした困難で、長期の経典の正誤に関わる議論・討論を要する仏典編纂会議を可能ならしめ、正確な仏典解釈を可能ならしめたのは、中心となった僧侶たちが豊かな仏教知識を有していたのみならず、正確なバーリー語、サンスクリット語の知識をも合わせ持ちあわせていたからでした。
約1年を要して行われたこのポーターラーム寺院における第8回結集により整理された仏教教典は、その後のラーンナー各地での仏教教典理解の基礎となりました。第八回結集が完了すると、プラチャウ・ティローカラートは、三蔵を保管する法蔵を建立し、盛大に奉祝行事を催しました。
しかし、仏暦2030年(西暦1487年)になると、一代の英雄、さしもの大王プラチャウ・ティローカラートも王位にあること45年、御年71歳にして崩御しました。
伝承では死因は老衰であったと言われています。
余談ながら、近隣諸国にその名声を馳せ、ラーンナーの歴史に不滅の足跡を残した一代の英傑プラチャウ・ティローカラートは、一方では家庭内には暗い過去を背負って生きてきたようです。
アユッタヤーとの戦いの最中、宿敵アユッタヤーが密かに送り込んだ怪しいビルマ僧の言に唆されてチエンマイの神木を切り倒して根っこから掘り起こし、濠を埋めて聖なる場所に住居を建設して汚物を流し、側室の讒言を信じ、後継者たる最愛の長男を遠ざけ、終には殺害しました。そして、君臣は讒言をほしいままにし、疑心暗鬼が国中を包む時期がありました。
チエンマイが破滅の淵に沈むかと思われた時、わずかに残った良識ある君臣の努力によりムアン・チエンマイにかけられた呪いが解かれ、町中に埋められた毒が掘り起こされて廃棄処分とされ、ビルマ僧たちアユッタヤーからの使者が一掃されました。
英雄の名をほしいままにし、プラチャウ・ティローカラートの前になす術もなく押さえ込まれた強国アユッタヤーの王は、僧籍に身を置いてまで奪われた領土を僧への寄進という形にして返還を求めて来ました。それほどその武威と権勢を恐れられたプラチャウ・ティローカラートには、そうした悲しい取り返しのつかない旧い傷がありました。
そんな悲しい事情を背景に、一代の英傑プラチャウ・ティローカラート亡き後、広大なラーンナーの王国と文化の花咲くチエンマイは、自らの不明から命を奪った息子の忘れ形見、孫のチャウ・ヨートチエンラーイ(CAU YOOD CHIANGRAAY)に受け継がれました。
「ラーンナータイ伝承集」の中に納められている「チェットヨート寺院伝(TAMNAAN WAD CED YOOD CHIANGMAI)」においては、第10代目の王プラチャウ・ヨートチエンラーイは、亡き祖父の遺体をポーターラーム寺院に運び入れて葬儀を執り行ったとしています。
しかし、タイ国の他の地区とは異なり、寺院内、城壁の内側で遺体を荼毘に付すことを不浄と考え、嫌っているチエンマイにあって、プラチャウ・ティローカラートの遺体を寺院内で荼毘に付したとは考え難いことですが、寺院に遺体を運び入れて葬儀を執り行い、寺院外部の隣接地で遺体を荼毘に付したのではないかと思います。
タイ国東北部地方を旅しますと、煌びやかな寺院境内に火葬場が設置されている光景を目にしますが、チエンマイの寺院ではそうした光景は見られず、城壁内には火葬の場所すら見られません。
「プーンムアン・チエンマイ伝」「王朝物語伝」「十五代王朝伝」など主要な伝承においては、葬儀の場所に一切言及していません。
資料のない憶測はともかくとして、葬儀の全てが終わると、プラチャウ・ヨートチエンラーイは、ポーターラーム寺院の中に一基の仏塔を建立して祖父の遺骨を安置し、その供養を欠かさなかったといわれています。
しかし、このプラチャウ・ヨートチエンラーイの御世は、わずかに8年に過ぎず、息子のチャウ・ラッタナ・ムアンケーウ(CAU RATANA MUANG KEEW)に禅譲されました。
伝承は、何故に禅譲しなければならなかったのか、その理由を伝えておりませんが、新たに王位に就いたチャウ・ラッタナ・ムアンケーウが、第11代王のプラチャウ・ムアンケーウ(PHRACAU MUANG KEEW)に他なりません。
仏暦2052年(西暦1509年)になると、プラチャウ・ムアンケーウは、プラチャウ・ティローカラートを荼毘に付した場所に本堂を建立したいと思い、横幅80メートル縦120メートルの土地を寺領として献上し、代わりに縦60メートル横182メートルのポーターラーム寺院の土地と交換しました。
土地の交換がなると、予定通りに横幅16メートル余、縦38メートル75センチの本堂を建立し、結界を設けるよりも早く、親と共に王の身長大の高さの禅定座の仏像を建立して奉納しました。
仏暦2054年(西暦1511年)になると、プラチャウ・ムアンケーウは、ポーターラーム寺院に建立していた本堂に結界を結ぼうと各地より三蔵に通じた僧をポーターラーム寺院に集めて結界を結びました。
プラチャウ・ムアンケーウは、ポーターラーム寺院のみならず、仏暦2058年(西暦1515年)の戌の年になると、ポーターラーム寺院の住職であるプラ・サンティ・マハーテーラ(PHRA SANTHI MAHAA THEERA)を中心として、三派のチエンマイの僧多数を招請してチエンセーンに向い、仏教の普及に努め、翌年の亥の年になると、王はムアン・チエンセーンの町中に堂と仏塔を建立したといわれていますが、それがどこの寺院のものなのかまでは伝承は伝えておりません。
この仏塔建立中に、王はムアン・チエンセーンの多数の良家の子弟の出家得度の儀式を執り行わせました。この得度は、ランカーウォン派のみならず、旧来の宗派及びラーマン派においても又なされたといいます。こうした三派合わせて合計1011人の出家得度があったと伝承は伝えています。
王と王母は、ムアン・チエンセーンに次いでムアン・チエンラーイにおいても多数の良家の子弟を出家させ、そしてムアン・チエンマイに帰ってきました。
こうして仏教三派は夫々に自らの宗義を捨てることなく、また王もその権力によってどれかひとつに決することのないままに来ていたようです。このプラチャウ・ムアンケーウは、プラチャウ・ティローカラートに劣らないほどに仏教に帰依していましたが、プラチャウ・ティローカラートのようにパーデーン派に偏ってはいなかったようです。
こうしたある日、プラチャウ・ムアンケーウは、プラチャウ・ティローカラートが建立した、あの第八回結集の記念としての法蔵が朽ちているのを目にして、心を痛めました。
わずか数十年の年月に過ぎませんが、当時は建物が全て木造であった為でしょうか、激しいスコールに芯まで濡れた後に灼熱の太陽の光を浴び続ける当時の木造建築物は耐え難く、建物の寿命は今我々が考えるよりも遥かに短かかったようです。
とにかく、法蔵の改修を思い立ったプラチャウ・ムアンケーウは、修復のみならず、プラチャウ・ティローカラートより受け継がれて来た宝冠を金細工師に打たせ金箔として法蔵に貼ったといいます。
プラチャウ・ティローカラート以前には、こうした宝冠もまたこれまでのチエンマイの王室にはなかったもので、プラチャウという名称同様に世界を制するという自らの力に対する自信の表れだったのでしょう。
金箔を貼り終えると、マハー・ポーターラーム寺院の住職であるプラ・サティン・マハー・テーラ(PHRA SATHIL MAHAA THEERA)を中心として三蔵に通じた40人の僧を招請して、説法をさせました。
仏暦2061年(西暦1518年)の3月のことであったといいます。
この同じ年、ポーターラーム寺院の御堂が建立されました。
(続)
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ジョウジさん
コメントありがとうございます。
いつの世にも権力者の周りには様々な人々が砂糖に集る蟻の様に集まり、往々にして善人が押し退けられます。それでも忠誠心ある忠臣を抱えていれば王は危難を逃れるかもしれませんが、それも忠誠心ある忠臣がどこまで耐え得るか、又甘言を弄する輩がどれほど狡猾で権力に近いかによるでしょうね。いずれにしてもTOPに立つ人間は人を判断する能力が求められますね。このプラチャウ・ティローカラートは、その点王位争奪直後から忠臣に恵まれていたことが分ります。
2009/8/9(日) 午後 8:04 [ mana ]
どこでも政権が長くなると 家臣やなんかが
悪さを始めますね
2009/8/10(月) 午前 0:16 [ 道後 ]
どの時代も腐敗は同じですね。
傑作○です。
2009/8/10(月) 午前 0:46
水大師さん
コメントありがとうございます。
いずれ書きたいと思いますが、この時代、世界国家アユッタヤーを震え上がらせたチエンマイの強さは、驚くほどですね。アユッタヤーが送った呪術師にチエンマイの王室は振り回され、聖地を汚し、後継者を殺し、近習が相争います。そして、当然のことのように後宮での女性の妬みが政治を暗くします。それでもこの王には強運がついているのか、忠誠心溢れる忠臣が多数いて、常に正道を正してきたことですね。
2009/8/10(月) 午前 5:04 [ mana ]
近野さん
コメント&傑作ありがとうございます。
権力のあるところ必ず腐敗の種があるということと同時に、王に忠誠を誓い、国を愛し、国の為には命をも投げ出す固い決意の真の忠臣がどれほどいるかが王国の反映が長いか短いかだと思います。
2009/8/10(月) 午前 5:08 [ mana ]
国中が仏教の教えを中心に動いていた歴史があったのかとも思っていると、現在では民衆の生活には古のモノを今の生活の道具にしか使っていないとか?
墓が基本的にないとか、仏教自体が日本に伝わって大いに変化したのかそれとも変わっていないのか。以前も書いたかも知れませんが本来の仏教の教えは激しいものであると聞いた事があります。ですから日本のオーム真理教などはそう違和感なく受け入れられるのかも知れないのかなとも思ってしまいます。まあそれだけ奥が深いのかもしれませんね。
2009/8/10(月) 午前 7:53
aen*u*on99 さん
コメントありがとうございます。
タイ人にとって過去はある意味、意味がないのです。
それは仏教の教えが常に現在を如何に生きるかを説き、過去を思い煩うことを教えていないことと、過ぎたことは取り返しが付かず、今の生活は過去の業の反映である、従って、今よいことをすれば来世がよくなるという考えがあります。
歴史的遺跡などは省みられないまま、今残るチエンマイの最も旧い城壁である土壁は、人々から城壁であることすら忘れられ、今では穴をうがたれ、不法に選挙した人々が権利を主張しています。
仏教はそれほど難しいものでも激しいものでもないのですが、難しくしている人がいるのだと思います。
2009/8/10(月) 午前 11:29 [ mana ]
アユッタヤーが密かに送り込んだ怪しいビルマ僧。
チエンマイが破滅に沈むかと思われた時、
わずかな良識ある君臣の努力により呪いが解かれ、
ビルマ僧たちアユッタヤーからの使者が一掃されました。
ここに部分に今の日本を重ね合わせてしまいました。
傑作です。
2009/8/10(月) 午後 1:59
さくらの花びらさん
コメント&傑作ありがとうございます。
いつの時代、国においても、栄えるとそれに嫉妬する国が出てきます。同時に、爛熟に慣れると国民は惰眠を貪ります。そんな時の政治家というのはいつの時代においても緊張感を欠きますので、敵に隙を見せることになります。そして、平和に少しの疑いも抱かないこともまた敵にとって好都合です。
国には警鐘を鳴らす人が必ず出てきますが、多くは認められません。その時、時の為政者に緊張感が残っていればそうした憂国の士の警鐘に反応することが出来ます。
チエンマイは、この時辛うじて残る憂国の士、愛国の士の助言を聞き入れた王により、独立を維持し、身中の虫を退治することが出来ました。政治家に緊張感がなくなれば国家意識が薄れることは古今東西を問わず言えることだと思います。
2009/8/10(月) 午後 6:36 [ mana ]
今晩は!
いつもご来訪、ご支援頂き感謝申し上げます。
緊張感を抱く政治家は日本にはいませんね。
でも何とか滅びず今の日本があるのは陛下のおかげでしょう!
傑作
2009/8/10(月) 午後 8:28
挿入部で質問です。
インドの思想を、遠く日本にまで広げる過程で、インタプリタはどのように正確にA言語をB言語に翻訳したのですか??
思想というものは、日本人同士でも語り合う難しさがありますよね。
ぜひ考察をお願いします。
2009/8/10(月) 午後 8:30
こんばんわ。
タイの話も日本の話に通じるところがありますね。
いつも読ませていただき感じます。
2009/8/10(月) 午後 9:20
愛国さん
コメントありがとうございます。
徳川時代を通じ、爛熟の文化に熟れた国民も、皇室を決して切り捨てることはありませんでした。皇室は、民族の中心であり、血であるからです。日本民族が日本の国を形成する以前から皇室は常に臣民と一緒でした。そして、国難に際して常に臣民は皇室に求心力を求めてこれまで来ました。そして、明治維新でそれが見事に花開いたと思います。それ故に反日は、皇室を否定するよりも教育によって皇室を無視して、臣民の血=意識から薄めようとしました。それが難しいと判断して最近では移住、帰化、国際結婚によって民族そのものを交替させようとしているのだと思います。安易な移住受け入れは国籍法改悪同様に危険極まりないことだと思います。
2009/8/11(火) 午前 4:45 [ mana ]
株式会社セロリの管理人さん
コメントありがとうございます。
インドから仏教が北上するには、チベット経由、ウイグル地区、いわゆる西域経由があると思いますが、チベット経由はモンゴルに向い、余り中国に影響ないのかもしれません。一方ウイグル経由は、サンスクリット語の原典が中国に流れてきたようです。日本に入ってきた仏教は既に漢訳された経典をもとにしたものでしたが、問題は誰がそれを訳したかだと思います。
一つには、玄奘のようにインドに渡航した中国人僧侶による訳がありますが、それ以上に西域人といわれる倶摩羅什(文字が今ひとつ自信ありませんが=クマラジュウ)は、サンスクリット、中国語に秀で、ほぼ完璧な中国語訳を成したと言われています。ただ、残念ながら中国人の中国語至上主義的な性向によるのでしょうか、翻訳が終わり、中国語経典が完成した時点で原典のサンスクリット語本を省みることがなく、今では中国語訳とその原典とを比較検証する術がありません。
ただ、この西域人の天才翻訳家倶摩羅什がいなければ、これほどまでに完成された中国語訳経典が出来ず、従って日本にもたらされることもなかったでしょう。
2009/8/11(火) 午前 5:17 [ mana ]
NONさん
コメントありがとうございます。
歴史はいずれの民族にもどこか似た所があるようです。まして日本人と同じモンゴル班を持つタイ人の歴史であればより似ているかもしれませんね。
権力あるところに腐敗があり、嫉妬があり、そして、忠臣、逆臣がいます。そして逆臣が忠臣を押し退けた国は間もなくして滅び、中心が逆臣に勝った国は栄えます。それは、時代を超えて言えることだと思います。かつては国=王室でした、そして、臣民が国民と呼ばれるようになった今、国を愛する人と国を貶める人が出てきます。これもまた歴史の教えるとおりです。そして、国民がどちらを支持するか、それによって国の運命が決まり、国民の運命がそこにあります。かつて国民は一方的に受身でしたが、今国民がその決定権を持っています。国を滅ぼすか、生き延びさせるかは、国民次第ということです。それが選挙の意味ですね。ですから政治意識の低い国民が増えて情緒に流されて判断すると、国家百年の計を誤るかもしれません。今の時代、破滅した国家の再建は不可能かもしれない事を思うと選挙の意味は大きく恐ろしいですね。
2009/8/11(火) 午前 5:29 [ mana ]
英雄もその過去には暗いものをひきずり、それがまた原動力になった面はあるのかと思いました。取り返しがつかない心の傷を引きずりながらもそれを立場上表に出せない葛藤の人生だったのでしょうね。
しかし71歳で老衰と言うのは当時の平均寿命がかなり短かったのでしょうね。
傑作
2009/8/11(火) 午前 6:25
大いに同感です。
こちらこそ、ご来訪やランキング応援に感謝を申し上げます。
また伺います。
2009/8/11(火) 午前 7:27
千葉日台さん
チエンマイ創業のマンラーイ王も同じように長男を殺すんですが、どうしても巨大な権力を握ると、それを欲する人物が出てきて、王子たちがその政争の渦に巻き込まれてしまうようですね。
この頃になると、それまでのような長寿の話を余り聞きませんね。食糧事情が悪くなったようでもないようですが、これくらいが本来の寿命なのかもしれませんね。これでも現代タイ人の平均寿命に比べれば決して短いとはいえないと思いますね。
2009/8/11(火) 午後 1:36 [ mana ]
近野さん
ご訪問&応援ありがとうございます。
これからも宜しくお願いします。
2009/8/11(火) 午後 1:37 [ mana ]
株式会社セロリの管理人 さん
先のコメントに対するご返事の中で漢字を失念しておりました、西域出身の天才的仏教経典翻訳者の名前ですが、
倶摩羅什・・・・×
鳩摩羅什・・・・○
で、読みはクマラジュウです。
彼の父はインド人であるといいます。
ご返事の追加訂正とします。
2009/8/11(火) 午後 5:34 [ mana ]