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チェットヨート寺院縁起(8)
因みに、ポーターラーム寺院には「ケーンチャン仏(PHRA PHUTHTHA RUUP KEEN CANTHN)と呼ばれる仏像が安置されています。この仏像は、「ケーンチャン仏伝」によれば、まだ仏陀在生中にインドにおいて作成されたと言います。
勿論、仏像の歴史とは言えない全くのお話しです。
それは、仏陀がまだ祇園精舎にいた頃のある日のことです。
時にプラヤー・パセーンティコーソーン(PHRAYAA PASEENTHIKOOSOL)という名前の王がいて、釈尊礼拝に祇園精舎に向いましたが、偶然にもその時釈尊は他出していました。そこにいた多くの人々も又プラヤー・パセーンティコーソーン同様仏陀に会えない悲しみに浸っていたそうです。
そこでプラヤー・パセーンティコーソーンは、他出して会えないだけでもこれ程までに悲しみを覚えることを思えば、もしも釈尊が入滅した時には、人々の悲しみはいかばかりであろうかと思い、釈尊の許しを得て仏像の制作に取りかかったと言うのです。
時に仏陀の入滅に先立つこと7年であったといいます。
この仏像制作に際して使用されたのが、プラヤー・スワン(PHRAYAA SUWARN)の所にあったケーンチャン・デーン(KEEN CANTHN DEENG)でした。それ故に、この仏像は、ケーンチャン仏と呼ばれています。ケーンチャンとは、何なのでしょうか。単純に訳せば赤いチャンの木、即ち、栴檀の木の芯材となりますが、それでいいのでしょうか。
余談ながら、現在のラオスの首都ウィエンチャン(WIANG CANTHN)は、「白檀城」とも訳されますが、それは、このチャン(CANTHN)と言う言葉が「栴檀」を意味するからです。
そして、仏像の完成を待って仏陀に差し出しますと、仏像は命を持ったかのように地上に降り立とうとしたそうですが、釈尊はそれを制して、座から離れるではないと諭し、間もなく如来は入滅するであろうが、その後5000年に亘って我が教えを守るが良い、と言いました。
やがて、仏陀が入滅し、プラヤー・パセーンティコーソーンも亡くなり、子供のプラヤー・ウィタトゥパ(PHRAYAA WITATUPHA)の御世になると、プラヤー・スワンナプーム(PHRAYAA SUWARNNA PHUUMI)と言う名前の王がケーンチャン仏を求めてやってきました。
ケーンチャン仏の材料を入手したムアン・スワンと言い、仏像を求めてやってきた王の名前がプラヤー・スワンナプームであることといい、その場所はどこなのでしょうか。単純に考えれば、「黄金の大地」とも訳し得るスワンナプームは、現在のタイ国の空の表玄関である新国際空港の名前に冠されていますが、本来はこのインドシナ半島全域を指す呼び名でした。
このことから、この仏像制作は、この地においてなされ、仏像の重要性を知らしめようとして時代を遥かに遡り、仏陀在世中の話を作り出して製作由来に結びつけたのでしょうか。
いずれにしても、かなり後世のものでしょう。
さて、このケーンチャン仏を求めてプラヤー・スワンナプームの使者がやって来ました。プラヤー・ウィタトゥパは、仏陀の魂の籠ったケーンチャン仏を手放すことは出来ず、王は、ケーンチャン仏と全く同じ大きさ、重さ、材質の仏像を別に二体作り、ケーンチャン仏の左右において、プラヤー・スワンナプームの使者に、好きなものを持っていくように告げました。
しかし、使者に真偽が分かる筈もなく、かといって手ぶらで帰ることも出来ず、一計を案じてケーンチャン仏を安置した御堂の守り人を買収して、本物のケーンチャン仏を持ち帰ることに成功しました。
こうして、ケーンチャン仏は、ムアン・スワンナプームに移ることになりました。仏像はその後1000年の永きに亘ってムアン・スワンナプームにありましたが、その後国が乱れ、王が戦いの中で亡くなると、子供のアーティットラート(AATHICC RAACH)とチャンタラーチャ・クマーン(CANTHRAACHA KUMAAR)の二兄弟の手に渡り、兄がケーンチャン仏を、弟が仏舎利と遺髪を守るようにして逃げました。
その後100年が経過して、国内が混乱に陥ると、ある長老が仏像をプラヤー・カムデーン(PHRAYAA KHAMDEENG)の農園に移しましたが、時の王がその仏像の噂を耳にすると、自らのものとしました。
こうして、ケーンチャン仏は、移動を余儀なくされるのですが、伝承の中に表れる地名を見ていきますと、カムデーンと言い、どうやらムアン・スワンとは今のラムプーンではないかとも思います。
余談はさておき、その後、仏像はプカーム(PHUKAAM)、ホンサーワディー(HONGSAAWASII=現在のビルマのペグー)へと流浪の果てに、ムアン・パヤウ(MUANG PHAYAU)に落ち着いたかに見えました。
一方、「スアンドーク寺院伝(TAMNAAN WAD SUAN DOOK)」によれば、仏暦2064年(西暦1521年)の5月にプラ・ムアンケーウ・チャウがナコーン・バンカーティボディー・アーマート(NAKHOOR BANKAATHIBOODII AAMAATY)にムアン・パヤーウ(MUANG PHAYAAW)よりプラヤー・パセーンティコーソーンが建立したケーンチャン仏を招来させ、チャイシープーム寺院(WAD CHAY SRII PHUUMI)に安置した、とされています。
その後、南のムアンからやってきた使者が、そのケーンチャン仏の拝謁を願い出ましたが、時に、チャイシープーム寺院は修復中であった為、ひとまず、ケーンチャン仏をブッパーラーム・スアンドークマイ寺院(WAD BUPPHAARAAM SUAN DOOK MAI)に移し、そこで南からの勅使に拝礼させたというのです。
こうした伝承に現れる南のムアン(MUANG TAI)とは、アユッタヤーに過ぎません。スコータイの場合には、しっかりと名前が出てくるようですが、アユッタヤーの場合には、名前ではなく南のムアンと言う呼び方で表されるのが一般的です。
従って、現在ポーターラーム寺院にあるケーンチャン仏は、その前には暫くスアンドーク寺院にあったことになり、それも臨時の避難措置であったようです。ともかく、ケーンチャン仏はブッパーラーム・スアンドークマイ寺院の御堂に暫時鎮座されることになりました。
同「スアンドーク寺院伝」によれば、プラチャウ・ムアンケーウの時代の仏暦仏暦2068年(西暦1525年)にスアンドーク寺院よりこのマハー・ポーターラム寺院にケーンチャン仏を招来したといいます。
仏暦2068年の5月、ラーンナー王国内の仏教に様々な復旧の足跡を残した信仰心篤い王、プラチャウ・ムアンケーウが亡くなりました。
享年59歳であったといいます。
プラチャウ・ムアンケーウの後をプラチャウ・ムアンケートクラーウ(PHRACAU MUANG KEES KLAAU)が襲い、第12代目の王となりましたが、この頃からチエンマイの町中に崩壊の足音が忍び寄るようになったのです。
プラチャウ・ムアンケーウ亡き後のチエンマイは、まさに坂道を転がり落ちるという比喩が適切な程急速に弱体化していきました。後継王の擁立を自らの栄達の道と考える高級官僚の偏狭な心が王国の統率力を弱め、歴代王は長く続くことなく、君側の奸の操り人形の感を呈し、国内は混乱に陥りました。
そんな彼等は、西の方から響いて来る侵略者の足音にも気付かず権力争いに明け暮れていました。
こうして、一代の英雄パヤー・マンラーイが仏暦1839年(西暦1296年)にピン河の辺に築いた城郭都市ノッパブリー・シーナコーン・ピン・チエンマイ、そして、そこを都として栄えたラーンナー王国が隣国ビルマの英雄ブレーンノーン(BUREENGNOONG)の軍門に降ったのは、建国以来262年が経過した仏暦2101年(西暦1558年)のことでした。
タイの歴史にある意味憎悪を持って描かれるビルマの英雄ブレーンノーンとは、タウングー王朝2代目の王バイン・ナウン(Beyin-naun)王に他なりません。
それは、プラチャウ・ムアンケーウの崩御の後僅か33年に過ぎませんでした。
(了)
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沖縄にて旅行会社関連でタイの方と久しぶりに会いました。完全に沖縄に腰を据えて台湾の方とアジア関連利用者を日本国内へ送客しているようですね。
しかしアジアの方々は挨拶で先ず、手を合わせる。こんな丁寧な民族そしてしきたりは継続させないと沖縄も。
2009/8/18(火) 午後 3:05 [ keiwaxx ]
keiwaxx さん
コメントありがとうございました。
タイのテレビでも日本旅行紹介番組がしばしば映し出され、芸能人の旅行記の形をとります。これまで東京、大阪だけであったのが、広島にも行き、東北にも行くようになリましたが、あたしも知り合いの旅行会社に外国人が知る日本とは一味違う日本がある歴史、風土、食事を守る沖縄を紹介しています。
多くの外国人に日本の様々な姿を見てほしいです。
2009/8/18(火) 午後 3:16 [ mana ]
おごれるものも久しからず、ですか・・・
平氏、豊臣、徳川、終わるときはガラガラとまさに崩壊ですね。
2009/8/18(火) 午後 5:07
国も会社も組織も滅びる過程は似たようなものですね。
ここにも学ぶべきところがあります。
自己主義や利己主義で自分のことばかり考える人間が
増えてくると多くはそちらの方に流れていきます。
考えさせられます。
傑作です。
2009/8/18(火) 午後 6:20
これまでのお話を拝聴しているとビルマとの関係と言うものがタイにとって歴史上大きな存在となっているのですね。日本と朝鮮の関係に似ているのでしょうか。
2009/8/18(火) 午後 6:40 [ 彩帆好男 ]
国が乱れているよな状況でも仏像を取り合う姿は心底の悪人ではないように感じます。それほど仏教の教えが影響力があったのか国民性が凶暴ではなかっただけなのか?この頃の中国の話などではこのような一種ほのぼのとした争いの様子は無いような気がしますが気のせいでしょうか?
2009/8/18(火) 午後 6:43
株式会社セロリの管理人さん
コメントありがとうございます。
国が滅びるときは儚いものですね。
でもそれなりの理由があるようです。
2009/8/18(火) 午後 6:56 [ mana ]
さくらの花びらさん
コメントありがとうございます。
国が栄えると、飽食になれ、平和になれます。飽食、平和が常態となると、非常時のことを忘れます。非常時を忘れると往々にして利己の利益追求に走ることは人の常ですね。そんな時に警鐘を鳴らす人も出るとは思いますが、警鐘を鳴らす人が歴史に残る国は滅びませんが、歴史に残らない国は、そのまま瓦解して行ったのかもしれません。国の崩壊は多くの場合、内部にそれなりの要因があるのかもしれません。
2009/8/18(火) 午後 7:00 [ mana ]
サイパンはカナダより魅力的さん
コメントありがとうございます。
タイ族とビルマ族は犬猿の仲のようですね。
今もビルマ国内の内戦はビルマ族とカレン、タイヤイの戦いですが、タイヤイ族はタイ族の一派であってこれまでタイ族と戦闘はしていますが、大きな戦闘ではなく小競り合い程度で、大体がタイの威に服していました。カレン族もタイに対して正面切って戦いを挑むことはなかったようです。しかし、ビルマ族は違います。ただビルマの目標はアユッタヤーであったようで、チエンマイはアユッタヤー攻撃の足場であり、兵員と食料調達の中継地だったようです。そんなビルマにチエンマイは破壊されますが、アユッタヤーの破壊もそれに劣らないですね。両民族の戦いはタイの歴史映画の格好の材料です。
2009/8/18(火) 午後 9:09 [ mana ]
aen*u*on99 さん
コメントありがとうございます。
中国では非常に物質的現世利益的な要素があり、三国志時代、秦の始皇帝時代など恐ろしいほどですが、宗教が彼らを救ったという話は余り聞きませんね。
タイでは、宗教が非常に人々の心を捉えています。歴史の中に必ずといっていいほど宗教が現れますが、これは一つには、伝承として歴史を残しているのが僧侶であるということも関係しているかもしれません。しかし、何かにつけて王たち、官僚たちが寺院と関係を持つのもまた事実ですね。
そして、今も仏教が人々の生活の中に色濃く残っています。
只だからタイ人が凶暴でないとは言えないかもしれません。何故なら毎日のように平然として殺人事件が起きていますから。宗教心と国民性は必ずしも一致していないかもしれません。
2009/8/18(火) 午後 9:18 [ mana ]
権力がある方が亡くなった後はやはり混乱が起こりますね。
万国共通の事なんでしょうかね???
2009/8/18(火) 午後 9:34
本物も含め3体とも出して、本物を持っていかれようとは・・・
私なら偽物2体だけだして、どちらでもどうぞってやるけどなぁ〜
2009/8/18(火) 午後 10:23
NONさん
コメントありがとうございます。
権力を持つ人物が亡くなった後、その権力者が偉大であればあるほど後事を託された人たちの力量が問われることになります。創業の覇者パヤー・マンラーイは、長男を殺めましたが、次男が非常に武勇に優れ、家庭内騒動をも見事に鎮めることによって王国の基礎を堅固にしました。最盛期のプラチャウ・ティローカラートも長男を殺めましたが、それに変わる人物を持ちませんでした。プラチャウ・ヨートチエンラーイと言う孫に受け継がれるのですが、既にそれまでの指導部内での権力争いで有能な官僚が消えていたこともあり、直後は何とか威光が残っていたものの、官僚たちが政治を投げ出して権力闘争に明け暮れる状況になりました。そこには、国を思う気持ちがなかったようです。頼みのチェーターティラート・チャウと言う王は非常に武略、統治能力に優れ、チエンマイ王家の血を引きますが、やはりラオスの王の長男と言う立場上、最後はチエンマイを見捨て、財宝を持ってラオスに帰って王位に就きました。
要は側近の能力と国を思う心次第、と言うことでしょうか。
2009/8/19(水) 午前 5:04 [ mana ]
柚ぽん瑠璃珊瑚晴パパさん
コメントありがとうございました。
これも伝承でして、別の伝承では、実は3体ではなく、2体で偽者はチエンマイ王朝3代目のセーンプー王が建立してチエンセーンに安置していたようです。そしてその偽者がチエンマイにあるのではないかとも取れる書き方をしています。これも今となってはどれが本物か、どれが偽者か誰にも分らないでしょう。
要は、仏像に釈尊の魂が宿っていると言う信仰心を抱くか否かでしょうね。それを他者に強要しない限り、自分が本物と思うものを信仰するのが一番幸せですね。
2009/8/19(水) 午前 5:09 [ mana ]
後世に作られた話でも 仏陀が生きていたように作るのですね
2009/8/20(木) 午前 0:51 [ 道後 ]
水大師さん
コメントありがとうございます。
釈尊は当時の人々にとっては常に生きている永遠不滅の存在であったのかもしれません。幾つもの伝承で、釈尊は空を飛んで瞬時の内にチエンマイの地にインドから説法にやって来て、説法を終えると瞬時の内に飛翔してインドに帰って行ったことになっており、それを当時の人たちは真剣に信じ、釈尊の髪の毛があるとしてその地を敬い、釈尊の足跡であるとして岩を拝しているのですね。
宗教とは信じることだといわれますが、心底信じると時に怖いほどですね。でも信仰心のない人間よりはマトモだと思います。
2009/8/20(木) 午前 6:46 [ mana ]
仏像って仏陀が存命の時に作られたんですね。
キリスト教の十字架ってえげつないけど、
仏像は穏やかなお顔ですもんね〜と変なところに感じ入りました。
「歴史の目」でみると、どこの国でも栄枯盛衰は避けられないのですね。
今もある意味「滅びの始まり」かも。
地球は困りません。滅んでも、また生まれるから。
次に地球で繁栄するのはどんな生きものなのかな?
2009/8/20(木) 午前 8:42
むうまさん
コメントありがとうございます。
実際の仏像誕生は、かなり後のことで、ギリシャの彫刻の影響を受けてではないかと思います。ですから、苦行中の釈迦像などは、非常にリアルで怖いほどですが、顔はどことなく西洋的なものを感じますね。昔は、釈尊は余りにも偉大でその姿を描くことを恐れて、説法の座なども法輪などの象徴物で代用していましたね。そして、仏像が作られたのはガンダーラ地方ではないかとも言われています。
NHKブックスの『仏教文化の原卿をさぐる』と言う西川幸治氏の著が参考になるかと思います。
全てのものはは生まれて来た時から滅びる運命を持っています。ただ、滅んではいけないものもある筈で、守らなければならないものもある筈ですね。
2009/8/20(木) 午前 9:06 [ mana ]
[左京]
しばらく休ませていただきました。ずいぶんどのお話も進んでしまったのでしょうね。
[右京]
これからもよろしくね。
[左京]
でもmanaさんの頭の中にはどのくらいこんな話が詰まっているんでしょう?
[右京]
全部見てきたでしょう?
o(^-^)o
2009/8/20(木) 午後 7:54
左右君
コメントありがとうございます。
お帰りなさい。PCが直ったようでこれからも宜しくお願いします。
2009/8/20(木) 午後 8:45 [ mana ]