|
クルーバー・シーウィチャイ伝(7)
クルーバー・シーウィチャイの母ウサーにとって、息子が出家してくれたことは非常に幸せに思っていたでしょう。彼女には5人の子供がいましたが、残っている所では出家したのは次男のクルーバー・シーウィチャイただ一人だったようです。
しかし、こうして次々と官憲によって罪を問われると母として息子をこのまま罪人にすることに耐えられなかったのでしょう。これまでも罪を問われる度にやってきては還俗を薦めてきたといわれます。
そんな母に対し、クルーバー・シーウィチャイは、諄々と法を説き聞かせます。『無常』『皆苦』『無我』『生』『老』『病』『死』は世の常で、これまでの幾度かの過去世でなした業・徳により、父、母、そして拙僧が困窮の中でこの世に生まれ来たものであり、過去に十分な徳を積むこともなく、男の子を仏門に入れるという徳をなさなかったが故のことです。
もしも今、還俗して私が在家の中でご両親に孝行を尽くすということは、これまでなしてきた徳積を無にすることであり、これこそ父母に対する不孝と言わなければなりません。これまで受けてきた苦難というものは、地獄の苦しみに比べれば些細なもので、拙僧はこれを受け止め、御仏の御教えを守り、波羅密の行を積み、止観の業に励み、仏道の中で世を終えます。
三宝を信じ、一切の疑念を捨てて仏道に励むことが父母への孝行であり、これが涅槃への道であり、正に父母への愛である、というのです。悲壮ともいえる覚悟といえるかもしれません。
クルーバー・シーウィチャイの心がここに出ているようです。決して世俗の法を蔑ろにする考えなどはなく、ただ自分の住む世界=仏門=における最善最高の道を只管歩み続けることこそが父母への愛情であり、こうした善行こそが必ずや父母の来世での幸に結びつくと信じているのです。
そこには両親に対する師の深い愛情があります。
母の涙の還俗願いも、クルーバー・シーウィチャイの仏道修行の心を止めることは出来ませんでした。
こうして、呼び出しに指定された日がやってきました。
バーンパーン寺院を出るクルーバー・シーウィチャイに付き従う僧300余、小僧100余、そして、在俗信者1000余名がクルーバー・シーウィチャイを先頭として下山する僧たちの前になり後になって山を下りていきます。
その時の様子を伝承で見ると『・・・在俗信者たちは食事、布施の品、茣蓙に枕、槌、鉈などの生活用品を取り揃え、僧、小僧は、僧衣を体に巻き、数珠を首にかけ、扇と杖を手にしていました。私的修行者のある者は鐘、銅鑼、両面太鼓、法螺貝、鉦、太鼓を賑々しく奏でながら・・・』という様相で、お祭り騒ぎのような賑々しさであったようです。
総数1500余名の大人数が下山するその姿を想像すると見事というほかありません。
クルーバー・シーウィチャイたち400余命の僧他が粛々と無表情に足元に注意しながら山を下る姿とは反対に、僧たちを守る1000余命の在俗信者たちの行列は、正に物見胡散ででもあるかのように賑やかでした。
途中に通る村々では善男善女が更に加わり、ドーイ・プラタートヨートターン(DOOY PHRA THAATU YOOD THAAN)で一泊、次にバーンホーンルアン寺院(WAD BAANHOONGLUANG)で休み、次いでパーターン寺院(WAD PAATAAL)で一泊、次いでサントントン寺院(WAD SANTONTHONG)で一泊しました。
こうしてみますと、バーンパーン寺院が如何にラムプーンの街から離れていたかがわかります。僧侶はどこへ行くにも自らの足と体を支える杖があるだけでした。そして、随行する在家信徒たちはその道中の食事を今のようにコンビニなど便利なものはありませんから、その都度自らのためだけではなく400余命の僧たちの食事共々調理しなければならず、それは小さな引越し風景の様でもありました。
刻々と近づいてくる一団の動きがムアン・ラムーンのハリプンチャイ寺院に届くと、ムアン・ラムプーンの王は、御自ら仏塔を飾り付け仏塔参拝の準備を行いました。
鉦太鼓の音も勇ましくクルーバー・シーウィチャイを奉じる僧俗の行列を官憲ではどのように感じたのでしょうか。食うr−バー・シーウィチャイがハリプンチャイ寺院に到着すると、族、役人たちに命じられた警察は、一行を寺院の門外に足止めし、その周りを取り囲みました。
役人側で端の行動を氾濫と受け止めたようです。一行を包囲した警察官は、僧俗を問わず一行の携行する『武器』を没収しました。
その『武器』とは何でしょうか。一団が反乱を企てていると恐れる役人は、随行の在俗信者たちの持つ調理に使う包丁、木を切る鉈ほか僧侶の持つ爪切りに至るまでの刃のつぃた物全てを没収しました。
こうした官憲の恐怖に基づく異常なまでの緊張した空気の中で、クルーバー・シーウィチャイは泰然自若として慌てることがありませんでした。
とはいえ、信仰心だけで幾晩もの野宿を重ねながら付いて来た信徒たちに、警察官の行為は異常に見えたでしょう。当然のことに、刃物類は一切その種類を問わず没収する警察に一時信徒側は殺気だったことが容易に想像されます。そして、それを鎮めたのは、他ならないクルーバー・シーウィチャイでした。
一時は、険悪な空気が漂ったものの、クルーバー・シーウィチャイとその弟子、僧侶、小僧たちが寺院に入ることを許されました。そのハリプンチャイ寺院を蟻の這い出る隙間もないほどに警察がぎっしりと固め、信者はもとより、寺院に入った僧侶たちすら寺院を出ることを禁じられました。それは軟禁状態にも等しいものでした。
しかし、タイの寺院に炊事施設はありません。僧は朝の托鉢によらなければ食事を得ることが出来ません。翌朝、信者たちは寺院の外で寄進の食事を整えてクルーバー・シーウィチャイの托鉢を待ちました。
しかし、警察官はそれを許しません。食事の寄進に向う信徒たちが寺院に入ることさえ遮られました。信徒と警察の押し問答が続く中で、時計の針は10時を回っていました。クルーバー・シーウィチャイは前日の朝食時間からすると24時間以上にわたって食事を口にしていません。
その時、サーンサー(SAANGSAA)という名前の一人のンギアウ人が警察の制止を振り切って強引に寺院の中に押し入りました。ンギアウ人というのは、タイ・ヤイ族のことで、彼らもまたタイ族の一派です。現在では多くがビルマ北部にいますが、今も北部タイに多数が残っています。
このサーンサーはムアン・ラムプーンで商いをしている商人で、大変に信仰心が篤かったといわれます。師に食事を寄進したい一心で、信仰心の為に死ぬことすら怖れませんでした。
そんな彼の後に続くものも多数出ました。そうなると警察もあえて力で押しとめようとはしませんでした。
しかし、やはりそこは公権力を恐れる庶民の心理状態。警察の制止を振り切った後の後難を恐れてただ只管門外に止まった者もいました。
一方、県僧団長の要望もあり、書面をもってクルーバー・シーウィチャイを呼び出したまではいいのですが、付き従う信徒の数の多さ、信徒のひたむきな信仰心を目にしたムアン・ラムプーンの国王は、改めてクルーバー・シーウィチャイのある意味恐ろしさを知りました。
下手な懐柔・裁定申し渡しは、ムアンを騒乱に巻き込む怖れもあり、かといって僧団内部ではもはや解決できる問題ではありませんでした。
そこで、チャウ・チャッカラカムカチョーンサックは、ムアン・チエンマイの国王、チャウ・ケーウナワラット(CAU KEEWNAWARATH)にクルーバー・シーウィチャイの身柄引き受けを願い出ました。
こうして、クルーバー・シーウィチャイのムアン・ラムプーン逗留はわずか一晩で終わりました。
チャウ・ケーウナワラットの使者がクルーバー・シーウィチャイの身柄を受け取りに来ましたが、どうやら当時珍しかった自動車でやってきたようです。そして、同行を許された僧侶は、わずか4名に過ぎなかったと伝承は伝えています。
ハリプンチャイ寺院からムアン・チエンマイまで30キロに及ぶ距離です。もしもクルーバー・シーウィチャイたちをこれまで同様徒歩にて向わせるとすれば、途中の住民が更に増えることでしょう。そうした状況を想像することは為政者側からすれば恐怖以外の何ものでもなかったと思います。
クルーバー・シーウィチャイたちが落ち着いた先は、県僧団長が住職を勤めるチェータワン寺院(WAD CHEETWAN)でした。この寺院名は強引に日本語に訳すと誰もが知っている祇園精舎となりますが、勿論釈尊が逗留したコーサラ国のそれとは無関係です。竹林精舎をまねたウェールワン寺院(WAD WEELWAN)などと共に釈尊の足跡を真似ての命名寺院でしょう。
このチェータワン寺院は今もチエンマイ市内中心部ターペー通りに位置していますが、記憶では決して大きい寺院ではなかたっと思います。一行が寺院に到着すると、どうしたわけか、クルーバー・シーウィチャイに随行を許された4名の僧侶までが入ることを許されず追い払われました。
クルーバー・シーウィチャイがチエンマイに向った後、ハリプンチャイ寺院に残された僧侶、小僧のその後はどうなったのでしょうか。
県、自治区僧団長初め高僧たちが一同に会し、在家からはラムプーン知事、郡長、役人が居並び、僧、小僧たちをハリプンチャイ寺院に呼び集めると罵声を浴びせ、強圧的態度で苦しました。そして罵るが如く彼らの非を打ち鳴らしました。
『・・・貴僧たちは、シーウィチャイを信じ、県僧団長、自治区僧団長の命に抗し、法の権威を失墜せしめ、決まりに従って命令に沿うことなく、僧界の秩序を乱した。正に許されざるべきことである。時代の流れを無視するシーウィチャイに盲目的に付き従った罪は軽からず、もしも罪の重さに気付くならば、素直に県、自治区僧団長の命に従うがよい。もしも受け入れるならば、みんなの見ている前で署名せよ。もしもなおシーウィチャイの教えに従うならば、還俗の上、バーンパーンにいることを許さず』
こうして強権的圧力を前に多くの僧、小僧は署名していきましたが、それでもクルーバー・シ−ウィチャイの教えを頑強に守る20名は、せめて師の後についてチエンマイに向うことを願い出ましたが、それは厳しく禁止されました。
しかし、彼らの志は固く、夫々に思いを胸にその身を潜めました。それはかつての隠れキリシタンにも似たものでしょうか。
一方、クルーバー・シーウィチャイの身柄を受け取ったムアン・チエンマイの僧団長は、やはり自分の寺院では狭いと判断したのか、パークルアイ寺院(WAD PAAKLUAY)に身柄を送って幽閉しました。
ここにクルーバー・シーウィチャイの苦難の生活が始まったのです。
このパークルアイ寺院とは、観光客がひしめくナイトバザールの南に位置する現在のシードーンチャイ寺院(WAD SRIIDOONCHAY)に他なりません。
(続)
|
cocoa さん
コメントありがとうございます。
この頃の師と権力との軋轢というのは、政治の世界が宗教界に及んだことを表しています。したがって、バンコク王朝のラーンナー王朝併合の一形態と見ることも出来ます。したがって、師に対する迫害は結果的に見れば、ラーンナーの仏教界に対するバンコク仏教界の挑戦とも考えられます。それの道具として知事が役割を与えられ、バンコク王室で作られた世俗の法が用いられ、それに与する保身の僧団長がラーンナーの仏教界を死守するクルーバー・シーウィチャイに屈服を求めたものといえるかもしれません。
歴史の真実は時として思わぬところにでてくるものですね。
2009/11/1(日) 午前 10:42 [ mana ]
信じる力のすごさを感じます。
国王が恐れるのも当然です。
傑作
2009/11/1(日) 午前 11:20
私達でも、何事も(世俗的な事ですが)信念を持って続ければ、結果が出るのですよね〜。
でも、結果が出るまで続ける事の難しさ・・・
何一つ達成したことのない私には、
クルーバー・シーウィチャイの姿こそ、あがめる対象です・・・。
2009/11/1(日) 午前 11:43
世俗に接して交わって生活している僧の厭らしさがハッキリと判りますね。だからこそ、彼らとは一線を引いているクルーバー・シーウィチャイ師に傾倒し崇めていったのでしょうね。
2009/11/1(日) 午後 0:13
こんにちは!
何事もそうですが、シンプルな事を継続して思い続ける事。意外と難しい事でもあり、投げ出したくなりますが継続する事を教えてくれますね!
2009/11/1(日) 午後 0:53 [ keiwaxx ]
これだけ 信念を持つ人を是非 我が国の総理に・・・・・但し愛国者でお願いします。傑作ポチ
2009/11/1(日) 午後 0:55 [ wasyou ]
警察側の恐怖が伝わってきますね。反乱と勘違いして、料理道具まで没収するとは。がんばれクルーバー・シーウィチャイ!
2009/11/1(日) 午後 2:27
直接話せば ここまではいかなかったかもしれませんね・・・
やはりまずは話し合いが大事ですね
それで駄目ならってことにしたいものです
2009/11/1(日) 午後 3:33 [ 道後 ]
さくらの花びら さん
コメント&傑作ありがとうございます。
信仰とは信じることです。信じることとは、迷い、疑いを捨てることです。ですからそれはある意味とても恐ろしいことですね。
宗教を利用して社会を乱す人がでるのは、この点を利用してある種洗脳していくからです。
クルーバー・シーウィチャイが信じた道は人の言葉ではなく、何百年と続いてきた227の戒律を守り、心に釈尊を念じ、精神統一することで、社会からの離脱を求めます。そこが利益団体として宗教と異なるところです。ですから、彼は衆徒を集めず、頼りません。
翻って凡人が何かをなす時は、えてして迷いながら紆余曲折を経て進みますが、なかなか終点にたどり着けません。決断する前の熟考と決断した後の信念にもとずく行動にかけているからだと思います。
ここに凡人と偉人の違いがあるのだと思います。
2009/11/1(日) 午後 3:54 [ mana ]
むうま さん
コメントありがとうございます。
凡人は何かをするとき、結果を待つ前にあれこれ迷い自身をゆるがせます。初めた以上は結果が出るまで真っ直ぐに進んでみることも必要だと思います。果実酒作りに似ているのではないでしょうか。蓋をした後、それまでの糧をあれこれ考えたり、途中で何度も蓋を開けて味見したりするよりもじっと我慢して熟成を待つほうがいいのではないですか?考えるのは仕込みを始めるまでに終わっているべきでしょうね。
目標を立てるとそれに向って突き進む、凡人には言うは易く行うは難しですね。
2009/11/1(日) 午後 3:59 [ mana ]
ジョウジ さん
コメントありがとうございます。
かつてのタイ仏教界は世俗との間ではっきりと区別される存在だったと思います。それ故に旧来よりの作法を守るクルーバー・シーウィチャイは人里を離れて山に寺院を建立したのではないでしょうか。しかし、出家してもなお在家に未練を残した僧は、在家といることの心地よさに我が身を忘れるかもしれませんね。在家と接していれば尊敬と働かずしてたくさんの寄進の品を得られます。原野で日々苦痛を味わいながら暮らすことはありません。そうすると、釈尊時代のように肉体的苦痛を受け入れても精神的満足解脱を求めて修行する仲間の僧に対して激しい嫉妬心を抱くことは容易に想像できます。クルーバー・シーウィチャイの恐ろしさは、そうした敵愾心の中でも心を制御することが出来たことで、死すらをも初めから受け入れていたことです。まるで一切の感情を捨て去ったかのようです。死を目前にした状態においてさえも自分の決めた道を粛々と進むクルーバー・シーウィチャイに民衆は、仰ぎ見るような気持ちになったと思います。
2009/11/1(日) 午後 4:15 [ mana ]
keiwaxx さん
コメントありがとうございます。
継続は力なり、という言葉がありますが、何事もその道を極めるほどに突き進む人にはどこか頭が下がる思いがします。どんな仕事、分野においても今自分のしていることに脇目も振らず渾身の力を注ぐ人間は凄いと思います。
周りと同じことが出来る人は多くいるでしょうが、周りの誰よりも上手く仕事をこなす、誰にも恥じない仕事をする。誰にも教え、しかも何一つ自慢することなく、淡々と自分の務めを完璧にこなしていく人。これを専門家、というのかもしれません。その為には自分のいましていることに誇りを持ち、愚痴を零す前に全力を注ぎ込み続けることでしょうね。
常人には難しいですね。
2009/11/1(日) 午後 4:24 [ mana ]
wasyo さん
コメント&傑作ありがとうございます。
クルーバー・シーウィチャイは死すら怖れませんでした。人生一度は死ぬ。誰も避けられないことですが、師はそれを言葉ではなく身をもって実践していたのですね。死は常に死と共にありました。ですから、師は信じた道を突き進むことを選んだのだと思います。
日本の政治家も文字通り死を賭して日本の国の為に何をするべきかを考えて欲しいですね。現状では、保守であることは危険かもしれませんが、今こそ信念が問われているのかもしれません。クルーバー・シーウィチャイを信じた信徒たち同様どこまでそうした政治家を支えていく民衆がいるか。国の運命とは最後は民衆の意思だと思います。
2009/11/1(日) 午後 4:33 [ mana ]
北国春男 さん
コメントありがとうございます。
コチラでは、どの民家でも様々な鉈をもっています。これは近くの森や林の木を切るためで、勿論人殺しにも使えます。山刀と思えばいいと思います。そうした刃物を持った民衆がクルーバー・シーウィチャイを信じて付いてきた。田舎の人たちです。戦いは怖れません。そうした民衆の性質を知る警察官は、民衆の気持ちが荒れると暴動になることは十分承知していたでしょう。しかも民衆の姿を見る前に反乱という偏見、先入観が警察、役人にはありました。
もしもクルーバー・シーウィチャイがその場にいなければ暴動が発生していたことは疑いないでしょうね。それだからクルーバー・シーウィチャイと信徒、僧侶との離間を図ったのだと思います。
2009/11/1(日) 午後 4:41 [ mana ]
水大師 さん
コメントありがとうございます。
確かに仰る通り両者の間で話し合いが殆どなされていません。
ただ、これも見方を変えれば全く異なる世界、土俵にいることを認めなければなりません。あくまでも何百年も受け継がれてきた仏の道を進むクルーバー・シーウィチャイに対して、在家の法律を盾に吸収を無視して僧侶を取り締まろうとする権力。県、郡がまず、法律について死に説明に向かい、法律の趣旨を理解してもらうよう努めるべきだったですね。それを怠ったことは否めませんね。
さすが水大師さん、痛い所を衝かれました。
2009/11/1(日) 午後 4:46 [ mana ]
世俗を離れた所で、自分の信じる道を迷うことなく突き進んでいるからこそ、尊敬を集めるのですよね。
それに対極的なのが世俗的な人々。
師は望んでいないでしょうが、師を担いで反乱を起こすというのも世俗的な考え方ですよね。
その考え方が世俗的な人々に強迫観念を与えている様な、ある意味、一人相撲をしている様な気がしました。
2009/11/2(月) 午後 8:47 [ KEN ]
タイ北部は、近代国家創設を目指すタイ中央にとって常に頭痛の種であるが故に、政治的・宗教的・民俗的に混乱の中にあったのではないかと思います。ご紹介なされているこの話も、その一つと言えるのではないでしょうか。
勉強になる内容でした、また閲読させて頂きます。
2009/11/2(月) 午後 10:55 [ 獨評立論 ]
KENさん
コメントありがとうございます。
全く仰る通りです。師は一人で信者たちも弟子たちも師には無関係なのですが、世俗の権力は、師を含めた全体を見ますから、その数に恐怖を覚えたのでしょう。しかし、その恐怖心は実態があるものではなく、自らの心の中の鏡に過ぎないのです。僧たちが反乱を企てているという幻想に取り付かれていたのです。
証拠もなく先走ることの恐ろしさがここにありますね。
2009/11/3(火) 午前 5:49 [ mana ]
午後10:33分の内緒さん
コメントありがとうございます。
指導者が正しい道を進もうとすれば迫害を受けるかもしれませんが、宗教を衣に世俗での『力』を求めるならば、迫害を受けない道を選ぶでしょうね。しかし、それは宗教とは異質の動きで、世俗の権力を欲した時点で宗教ではないといえるでしょう。しかし、そうした団体はその意志を貫く為に指導者に神格性を与え、独裁体制にならざるを得ませんから後継者に問題が出ます。そして最終的には北朝鮮の如く血縁者の中から後継者を選ぶ可能性がありますが、問題の解決ではありません。膨大な資産を目の前に置かれた指導層にあっては宗教家集団としてではなく政治家集団と化して激しい権力争いを起こすでしょうね。それは醜い争いだと思います。中共の権力闘争を見れば想像できると思います。
2009/11/3(火) 午前 6:05 [ mana ]
獨評立論 さん
コメントありがとうございます。
お察しの通り、この話は一人の宗教家の迫害の様子を述べることを通じて、バンコク中央政府権力の地方国家併呑過程を描き、一人の僧侶が地方旧勢力の代表者となって空しい抵抗を繰り広げている様子を描いたものです。したがって、クルーバー・シーウィチャイは、くしくも弱小王国の代表者に位置づけられて、滅ぼされようとする自らの国を無抵抗と死を賭した信仰心で抵抗し続けて不服従を貫いたといえます。
そして、旧勢力の代表者たる僧が今も篤い信仰を受けているところにこの国の複雑さがあるのかもしれません。
2009/11/3(火) 午前 6:14 [ mana ]