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クルーバー・シーウィチャイ伝(9)
釈尊の歩みの跡を追う目的で人家を離れ、山の上に自ら建立した寺院を負われ、ラムプーンの町からも追われ、都チエンマイでは囚人として幽閉されること三月、ついにクルーバー・シーウィチャイはバンコクの僧団に身柄を送られ、そこで審議されることになりました。
これを伝え聞いた信徒たちの悲しみはどれほどでしょうか。
驚き悲しみに沈みながらも、変わることなく布施の人波は途絶えることなく、これまでに師のなしてきた数え切れない善行、天地の神々の力が師の道中安全を保障しますように、刑罰、危難、この世・あの世の苦しみから逃れますように、そんな人々の願いをこめた寄進の品々が次々と幽閉の地、シードーンチャイ寺院に集められました。
それらの品々はバンコクまでの道中での旅行必需品であったかもしれません。
中には、多額の貨幣もまた含まれていました。
幽閉の場所に山と詰まれたそれらの品々を前に、クルーバー・シーウィチャイの顔に何の変化もありませんでした。
師は、それらの品々に全く関心を払うこともなく、一つとして自分のものとしようとすることなく、夥しい金銭の山に一瞥もくれることなく、平然としてそれらの品々を必要とする人たちに施して惜しみませんでした。
在家信者によって寄進された日常用品、金銭は、悉く同じ身の出家者、貧者、物乞いたちに与えてしまいました。それは、あのインドの長者給孤独長者(ぎっこどくちょうじゃ)にも似ていた、と伝承は述べています。
この給孤独長者は、本名スダッタ(SUTHATTA)といいますが、貧しい者に施しをすることで知られており、ある時釈尊の教えを聞いて帰依し、釈尊に寄進する為にある園を購入しようとしましたが、その園はチェータ(CHEET)王子の所有でした。
王子は園を手放す意思はなく、欲しいならば地上に金貨を並べなさい、それが代金であるというのです。しかし、長者は正直に金貨を敷き詰めました。園に金貨を敷き詰めて代価とし、そこに僧舎を建立して釈尊に寄進しました。これがいわゆる祇園精舎です。
伝承は、クルーバー・シーウィチャイがそうしたスダッタ長者にも似て、惜しみなく持てる全てを貧者に分け与えたというのです。
こうしてクルーバー・シーウィチャイは、無一文の身でチエンマイを離れてバンコクに送られるのですが、当時のチエンマイとバンコク間の交通はどうなっていたでしょうか。勿論飛行機などありません。
バンコクまで走る自動車など未だなく、まして道路網が整備されていません。
従来の交通路であるピン河を『サソリ船(RUA MEENGPOONG)』と呼ばれるラーンナー特有の船(上記写真参照)によったものでしょうか。水路であれば、王族などは勿論写真のようなものではなく、館を付設した立派なものでしたが、やはり基本的には尻尾が跳ね上がった『サソリ船』と呼ばれるものです。
ただ、バンコクとチエンマイを結ぶ鉄道は、仏暦2461年(西暦1918年)に3年の歳月を要してドイツ人技師の指導の下でラムパーンのクンターンのトンネル貫通工事が完成して、チエンマイとバンコクが鉄路で結ばれました。このトンネル工事で流された血と失った人命は夥しいものでしたが、全国統一にこうした交通網整備は欠かせなかったのでしょうか。
この完成なって未だ日の浅い鉄路によるものでしょうか。
ちなみに鉄道は建設当時のままに今も単線のままで、チエンマイがタイ国最北の鉄道駅になり、発着は朝、夕で日中の駅は静まり返って人の影も見えません。鉄道利用は700キロ余の行程を10数時間の時間をかけて走ります。
出発のその日、一台の自動車が迎えに来ました。車はクルーバー・シーウィチャイを乗せると、ルアン・プラサーン・カディーチョン(LUANG PRASAAR KHADIICHON)と共にシードーンチャイ寺院を出発しました。この同行した人は名前からすると判事ででもあったのでしょうか。師を告発する書状を持っていたといいます。
ラムプーンに到着すると、一晩宿泊することになります。そして翌朝、ラムプーンの駅より汽車に乗り、車中に一晩明かしてバンコクの中央駅フアラムポーン駅(HUALAMPHOONG)に到着しました。
そして、その足でベンチャマボピット・ドゥシットワナーラーム寺院(WAD BEECHAMABOPHIT DUSITWANAARAAM)に向いました。この寺院は通常ベンチャマボピット寺院とも呼ばれたりもしますが、左右対称の美しい寺院です。
ところが、その頃、ソムデット・プラマハーサマナチャウ・クロムプラヤーワチラヤーン(SOMDEC PHRA MAHAA SAMANA CAU KROM PHRAYAA WACHIRAYAAN)は、バンコクにではなく、旧都アユッタヤーにいました。外出先でクルーバー・シーウィチャイの上洛を耳にした大僧正は、近習の者に命じて蒸気船を調えて師を迎えに行くよう命じられました。
一方、クルーバー・シーウィチャイは、大僧正に拝するに際しての常識に従って花、線香、蝋燭を取り揃え、決まりに従って拝礼しました。大僧正は、クルーバー・シーウィチャイに親しく接した後、好印象を持った様子ですが、三人の僧を任命して審議に当たらせることとし、クルーバー・シーウィチャイに対しては『焦ることはないよ』とお言葉を賜りました。
この頃のことでしょうか、、大僧正は中部地方僧団長に手紙を書き送っています。
『・・・本日(仏暦2462年7月14日)自分はプラ・シーウィチャイに会って色々話した所、師は物腰柔らかく、強情でもなく狡賢いわけでもなく、戒律を守らないのでもない。規律を守り、社会から離れて暮らしているようである。戒和尚となった件に関しても布令を知らず、スマナ(SUMANA)という名前の戒和尚がなした得度出家に従って行ったものである。スマナ師が亡くなった後には、師に寺院の管理を任せたもので、和尚の教えに従っているといえる。何故なら罪に問われるような決まりについて承知しておらず、何故自分が幽閉されたのか、その理由すら知らないようであった。こうした僧に対しては、罪を問うよりも、事の良し悪しに付いて説明するに如かず・・・』
三人の僧によるクルーバー・シーウィチャイの罪状審査がいよいよ始まりました。大僧正より任命された三人の審議官は、チエンマイより送られてきた訴状に沿って逐次審査を始めました。
その結果、『・・・戒律のいかなる項目にも反するところは見当たらず、身柄引き受けに向った係官のクルーバー・シーウィチャイを告発する報告によっても、逆に、北における戒和尚となった僧がその後に師匠となることは、古の教えに従ったまでであり、戒に沿っていて、いかなる咎も見出せない』として『棄却』しました。
審議官よりの報告を受けた大僧正は、お褒めのお言葉で労われました。
『プラ・シーウィチャイは御仏の御教えを頑ななまでに守る、他に比べようもないほどの僧である』
ところで、当時、バンコクにおいてクルーバー・シーウィチャイは既に時の人になっていたようです。
即ち、バンコク市民の間では、クルーバー・シーウィチャイは超能力を有しているとの噂が広く流れ、一目見ようと押しかけたといいます。仏暦2462年(西暦1919年)6月7日付英語版バンコクタイムズと、同じく10日付タイ語版バンコクタイムズは、その当時のクルーバー・シーウィチャイの審査にまつわるそうした動きを報じていたといいます。
クルーバー・シーウィチャイは、掛けられた嫌疑の全てが晴れ、自らの行いのすべてが法に適っているとの裁定を受け、大僧正にお礼を兼ねて表敬しました。その際、大僧正からクルーバー・シーウィチャイがもしも望むならば、このバンコクの地に修行の場を用意することも吝かではないという有難い申し出がありましたが、師は、帰郷の念を捨てることがありませんでした。
クルーバー・シーウィチャイの帰郷の念の強いことを知った大僧正は、師のために一通の書面を認められました。即ち、クルーバー・シーウィチャイがチエンマイに帰った後、師が西北省内のいずれに地、いずれに寺院に向おうとも、如何なる者もそれに関して阻害することは罷りならない、というもので、完全な師の行動の自由が認められました。
自治区僧団長も、県僧団長も、郡長という権力者にしても、師に手出しすることが出来なくなりました。
バンコクに止まること2ヶ月余、帰郷の旅の出発にフアラムポーン駅に向かう師を見送る僧、出家修行者、在家信者、その他一般市民はその数知れず、という状況だったようです。
こうしてチエンマイに到着すると、ケート寺院(WAD KEET)に逗留しました。このケート寺院というのは、ピン河の東に位置し、小さな橋を渡ると昔からの市場ラムヤイ市場に出ます。
この間、チエンマイ及びラムプーンの各段階の僧団長、副僧団長に様々な布施の品々と共に帰郷の挨拶に伺いました。クルーバー・シーウィチャイは、かつて自分を罪に問い、苦痛を味あわせ、終にはバンコクにまで訴え出た各地の僧たちに対しても一切の恨み言を言うことはなく、無実を自慢することもありませんでした。
逆に『和尚が拙僧をバンコクに送られたのは、拙僧に都を見させ、大僧正に拝謁の機会を与え、エメラルド仏を参拝し各地の聖地を巡礼する機会を与える為でした』と述べています。
そうしたことの一通りの挨拶が終わると、次いで、ラムプーンのハリプンチャイ寺院の一隅にあるチエンヤン寺院(WAD CHIANGYAN)に住しました。
(続)
下のURLは、チエンマイの代表的な舞踊の一つで『サーウマイ=絹紡ぎの舞』といいますが、その所作は、村娘がお蚕さんから絹糸を紡いでいる姿を踊りにしたもので、とても優雅な物越しです。ごゆっくりご鑑賞下さい。
Fon Saomai
http://www.youtube.com/watch?v=fo_NEyf7EUY
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いい結末でほっとしました。
見習いたいと思います。
2009/11/11(水) 午前 10:48
北国春男 さん
コメントありがとうございます。
いわゆる高僧として今に名を残す僧は往々にしてお金に淡白ですね。今も東北部のある僧は、寄進された自動車を惜しげもなく必要とする人に与えたといいます。招請を受けると、そこまでの距離を考えて何時間も歩いて行くそうです。時には野宿をも惜しまず招聘された場所に説法に向ったそうです。今の日本の宗教界には見られないかもしれませんね。
2009/11/11(水) 午前 10:55 [ mana ]
千葉日台 さん
コメント&傑作ありがとうございます。
ある種宗教家による戒律違反審査なのですが、先入観がなければこうした結論になることは当然といえば当然ですが,それ以上に師の潔さが見事ですね。
人は往々にしてもらうことを望んで与えることをしません。
しかし、貰うことばかりを考え、貰えなければ盗んででも、国民のものを売ってでも我が物とするのが政治家のようで、これでは国民が救われませんね。
2009/11/11(水) 午前 10:59 [ mana ]
よかもん人生 さん
コメントありがとうございます。
時代背景としてはちょうど日本の大正時代ですね。日本もタイも大いに揺れていた時代です。タイでは、なお全国を一枚岩にするまでには至っていなかったので、こうした混乱が宗教家を翻弄したのでしょうね。そして、その後間もなくチエンマイは完全にバンコクの支配下に入ります。
2009/11/11(水) 午前 11:03 [ mana ]
ジョウジ さん
コメントありがとうございます。
先入観さえなければ、こうした結論は誰の目にも明らかですね。あたしたち第三者から見てもラムプーンでの扱いは余りにも酷すぎましたから。でも、師の人生における苦難はこれでは終わらなかったようですよ。
2009/11/11(水) 午前 11:05 [ mana ]
NONさん
コメントありがとうございます。
正直者に福来る・・・これでなければ庶民は生きていくに辛いだけですね。
正直に真っ直ぐ生きていたいですね。
2009/11/11(水) 午前 11:06 [ mana ]
最後が悲惨でなくてよかったです。
鉄道建設のおびただしい犠牲者・・・のあたりでは、結末がきっとひどいことになるのか、と思いましたが。
2009/11/11(水) 午後 1:02
良かった良かった。
この何事にも動じない 前に金銭を積まれてもってのがすごいです
わしは無理だ・・・
2009/11/11(水) 午後 1:38 [ 道後 ]
英雄という言葉が的を得ているかどうかは分かりませんが、
『英雄は英雄のみぞ知る』
という言葉がありますね。
この言葉を思い出しました。
『聖者は聖者のみぞ知る』
と言った所でしょうか。
2009/11/11(水) 午後 2:04 [ KEN ]
株式会社セロリの管理人 さん
コメントありがとうございます。
トンネル工事は今は誰も言いませんが、資料で見る限り悲惨ですね。それが開通したすぐ後ですから、このたびも何とか悲惨さを免れましたが、もしも1年前であれば、船に乗って河を下ると約2−3ヶ月を要し、途中には命がけの危険な瀬も行く箇所もあります。それがなかっただけでも良かったですね。
2009/11/11(水) 午後 3:12 [ mana ]
水大使 さん
コメントありがとうございます。
バンコクからの帰途、選別で50バーツ貰っていますが、数十年前の時点で数バーツでラーメン一杯でしたから、その価値がわかりますね。
それでも師はそんな金銭に頓着しなかったのですが、凡人にはなしがたいことですね。ここに師の偉大さがあるのでしょう。
2009/11/11(水) 午後 3:15 [ mana ]
KEN さん
コメントありがとうございます。
人を見るということは、大変難しいということでしょうか。
どうしても、先入観が入ります。それを以下に除去するか、難しいですね。
2009/11/11(水) 午後 3:18 [ mana ]
並の人ではない、という印象を持ちました。
だからこそあれほどの信者が慕うのでしょう。
これほどになれば言葉などはいりません。
国の政治家もこうありたいものです。
立派です。
傑作
2009/11/11(水) 午後 9:29
今回も疑惑がはれて良かったですね
でも、人のために自分の一生をかけるって、一体どんな気持ちなんでしょう?
損得勘定があったら絶対に不可能な行為ですね
本当に立派な方ですね
2009/11/11(水) 午後 11:08
こんばんは!
苦しんだ方にしか、その気持ちは分からないのでしょうが
許せる、その気持ちには感服しますね。
でもストレスはスゴイモンがあると思われますが。
2009/11/11(水) 午後 11:53 [ keiwaxx ]
さくらの花びら さん
コメント&傑作ありがとうございます。
ある意味聖者であり、後光が指しているかもしれません。
底知れないほどに深い度量と絶対的な自信に裏打ちされた動揺しない態度です。それは、戦前までのいわゆる大物政治家といわれた人たちの豪放磊落ながら豊かな教養と深い知恵、信念に支えられ、一歩も引かず動き回る姿に似ているかもしれません。又戦後であれば、郷里の偉人三木武吉のあの日本の保守の為のどろどろした寝技師的動きにもそうしたところが少しあるかもしれませんが、今の政治家は余りにも器が小さすぎます。
政治家に必要は大所高所に立っての見方が出来ていないように思います。
2009/11/12(木) 午前 5:59 [ mana ]
柚ぽん瑠璃珊瑚晴パパ さん
コメントありがとうございます。
他人の為に何かをする。そこに一切の利害を含めずにする。大変に気持ちいいことだと思いますね。ただ凡人は、途中で思い通りにならないことに腹を立て、時に協力しない他者を責めます。その時苦痛を感じるのだと思います。何も求めずにするということは他人の協力さえ『当てにせず』行うことです。ですから苦しみがありますが、それを感じないとき、とてつもない喜びを感じるものです。誰もがそうした瞬間を持っていますが、それを24時間、365日、生涯続けることができるか。そこに凡人と偉人の違うがあるのかもしれません。
2009/11/12(木) 午前 6:16 [ mana ]
keiwaxx さん
コメントありがとうございます。
もしかしたら師は過去のそうした僧たちに何の怒りもはじめから菅J知恵いなかったのかもしれません。ただ、そうして訴えられるのだろうか、という疑念だけだったのですが、そこに他者の悪意を疑う気持ちはなかったかもしれません。とすれば、ある意味底抜けに善人ですね。師にとって大切なことは一つしかなかったと思います。それは釈尊の歩みについていくこと。それ以外にはある意味無頓着ではなかったでしょうか。ですから全ての嫌疑が晴れてどこへでも住む事が出来るとなったとき、かつての僧侶たちに挨拶に行けたのではないでしょうか。それにしても同じ境地に達することは至難の業ですね。聖者に違いないと思います。
2009/11/12(木) 午前 6:22 [ mana ]
いつもご訪問ありがとうございます。
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|_|´・ω・`)粗茶ですがよろしければ・・・・
|茶| o旦o
| ̄|―u'
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2009/11/12(木) 午後 10:49
日帰り温泉とグルメ さん
何もお持て成しで来ませんが、どうぞごゆっくり。
2009/11/13(金) 午前 5:30 [ mana ]