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クルーバー・シーウィチャイ伝(11)
クルーバー・シーウィチャイが招請を受けてチエンマイにやってきた時、街中の寺院は今のように華やかな姿を残していませんでした。一時のビルマ占領時の朽ちた寺院、ビルマを追放直後の森の中に沈んだチエンマイは、この頃より100年ほど前のこととはいえ、全ての寺院を復旧するほどの力は、未だなかったかもしれません。
ブンサーム・サートラーパイの著に「ラーンナーへ御行幸」という二巻本の書物があります。
この書には、100年ほど前の貴重な写真が多数掲載されており、当時の様子を知る貴重な書物のひとつです。
その中にある写真で見ると、クルーバー・シーウィチャイに縁が深いハリプンチャイ寺院の荒れ果てた姿、チエンマイの名刹といわれるスアンドーク寺院の荒涼としてみる影もなく朽ち果てた姿、プラッシン寺院の近くにあるチェディールアン寺院の様子、そしてクルーバー・シーウィチャイの名を高からしめたドーイ・ステープの参道建設前の荒涼とした様子を写しています。
クルーバー・シーウィチャイはそうした荒れ果てる仏教寺院を見るに忍びなかったのでしょう。
チエンマイの中でも、マンラーイ王朝第四代目のパヤー・カムフーが不慮の事故で亡くなると、長男のターウ・パーユーが王位を継ぎ、亡き父王の遺骨を安置する仏塔を建立しました。城内の人々が行き交う市場前に建立された小さな仏塔は、リーチエンプラ寺院と呼ばれましたが、後年プラッシン仏(冒頭の写真)が安置されるに至ってプラッシン寺院と呼ばれるようになったことは、このブログのプラッシン寺院縁起の項で述べた通りです。
チエンマイの国王、チャウ・ケーウナワラットは、クルーバー・シーウィチャイにこのプラッシン寺院の修復を依頼したのです。
今は華やかに彩られ、コンクリート作りの御堂が正門前に位置して訪れる世界各地からの観光客を魅了していますが、旧いラーンナーの寺院の姿を残していると思われる、100年近く前のチェディールアン寺院の御堂の姿から想像すると、プラッシン寺院の御堂は、チーク作りで見た目が今よりも低く幅広いような気がします。
クルーバー・シーウィチャイがプラッシン寺院に逗留した頃、境内には雑草が生い茂り、木々さえ芽吹いていたようです。ですから、寺院修復は、境内の整地から始めなければなりませんでした。
勿論雑草とはいえ、草にも命があります。命あるものを引き抜くことは木の枝を剪定すること同様僧侶のなし得ないことです。従って、こうした作業は在家によらなければなりませんが、これを手伝ったのが、かつてシードーンチャイ寺院に身柄を拘束されていた際に、様々な援助を惜しまなかった富豪、ルアン・サヌサーンでした。
彼は、自らの資財を投じて職人を雇い、境内の雑草を引き抜き、雑木を斬り倒し、根を掘り起こし、綺麗に均しました。
こうして一通り境内の聖地を終わると、次いで寺院修復工事に取り掛かることになりました。時に仏暦2468年(西暦1925年)のことであろうと思われます。
この時、チエンマイの王室が中心となり、ルアン・サヌサーンたち信者が資財を持ち寄せてきてクルーバー・シーウィチャイの為に庫裏を建立していますが、この庫裏は、今から26年前の仏暦2526年(西暦1983年)に消失しました。
かつてクルーバー・シーウィチャイの側近くに使えていた人の言では、ルアン・アヌサーンは、この庫裏はクルーバー・シーウィチャイ師の為に建立し献上したものであると、表札を立てていたそうですが、勿論今その形跡を見出すことはないでしょう。師が亡くなった後、住職がこの庫裏を用いることができましたが、何故か庫裏をより下の僧に与えていたようですが、心のどこかにクルーバー・シーウィチャイに対するわだかまりがあったのかもしれません。
ルアン・アヌサーンと彼の妻子は、その他にも師の為に堂を建立し、布施を受ける堂を建立し、御堂すらをも建立して寄進していますが、これに要した浄財は10,595ルピアに及んだとされています。
そんなクルーバー・シーウィチャイの徳に肖ろうとプラッシン寺院に参詣する善男善女は、連日その数200−300を下ることはなく、500−600を超える日も珍しくなかったといいます。しかも、参詣の信者は手ぶらではありません。彼らの寄進する額は連日200−300ルピアを下ることがありませんでした。
こうして連日集まる多額の寄進は、弟子たちに預けられ、寺院修復の費用に当てられ、その他の寄進の品々は、いつもと同じように出家者、貧者、物乞いたちに惜しみなく分け与えられました。
この時のプラッシン寺院の修復は、ラーンナーの歴史を勉強するに際して大変に重要な意義を持っています。
すなわち、次々と寺院修復に費用がかさんでいくと、さすがに寄進を受けた浄財も残り少なくなっていきます。そんな時クルーバー・シーウィチャイは、信者を前にして言ったそうです。
「拙僧は、皆の衆からの浄財を得てこの御堂の建立を手掛けているが、日々出て行くものも多く、足りなくなるのではないかと危惧しておる。神々のうちの誰かが降りてきて御仏の御教えを支えるべく銀の井戸、金の井戸掘りなどを示してくれないものか」
その言葉が終わらないうちに一人の職人が進み出て行ったそうです。
「御堂の基礎を掘り返していた職人が黄金の壷を発見しております」
こういうと、その場にざわめきが沸き起こりました。そこで、師と共に人々が見に行くと文字が刻まれた金箔が幾枚もあり300バーツ(4.5キロ)余りの重さがあったといいます。
プラッシン寺院はパヤー・カムフーの遺骨を納めた小さな仏塔一基で始まった寺院ですから、後年それを覆い包むように御堂を建立していたことは考えられます。御堂の基礎を掘っていて発見した金箔はそれに違いないでしょう。しかし、壷は真鍮、銀、金の三重になっていた筈です。
そして、この壷発見によって地元に伝わる伝承が事実に基づいたものであることが明らかになったのです。今その仏塔は、寺院に入って右、御堂の横を奥に進むと立て札の後ろにあります。
今手元にある「ラーンナータイ」という三大王の立像建立完成を祝しての奉祝本の中に納められているこの仏塔の写真には、仏塔の上部を取り壊し、レンガの一部を剥がして壷を取り出した姿が写っています。開かれた塔の上には、三つの壷が並んで写されています。
この壷の中には、遺骨の他に、金銀箔が多数あったといわれていますが、大東亜戦争時に紛失したとされており、今ではパーヤップ大学にその写真が残っているだけのようです。ラーンナーの歴史研究にとって第一級の資料ですが、どこに行ったのでしょうか。誰が移したのでしょうか。謎に包まれたままです。
そして、金箔の写真は今もパーヤップ大学に残っていますので、クルーバー・シーウィチャイは、その金を売ってはいないのではないでしょうか。
しかし、手元の伝承には、一緒にあった筈の遺骨については一切触れていません。
話は前後しますが、クルーバー・シーウィチャイはこうしてプラッシン寺院の修復を手掛けるのですが、決してプラッシン寺院一箇所に止まっていたわけではなさそうで、手配を終えるとラムパーン、パヤウという地方に行ってそこの寺院修復を済ませています。長期戦を覚悟のプラッシン寺院修復に関わる間、心許す職人と十分に修復内容について協議していたようです。
師の行動を追っていくとめまぐるしいもので、休息の時間は一日としてなかったでしょう。何しろ市内だけではなく、山を越えたはるかな地へすらも近所に行くように出掛けていることは、師の寺院修復に掛ける並々ならない熱意を感じます。
先ほどの書籍に残る旧い写真に見る荒れ果てた寺院の姿は、当時のラーンナーの様子を正直に伝えています。それから想像するビルマ時代の荒廃した町は恐ろしいものです。
こうした一大修復工事が完成し、奉祝行事を持つようになったのは、仏暦2469年(西暦1926年)のことのようです。折りからこの奉祝行事を祝うかのように、バンコクよりラーマ七世王の西北部タイ御行幸があります。
バンコク王朝の王族の西北部タイ、即ちラーンナーの地御行幸は、これより先ラーマ五世の王子、後のラーマ六世のまだ皇太子時代に、水路ウットラディットに来られ、そこから馬、象等を利用してラムパーン、プレーなどと共にチエンマイに地にも来られています。
ラーマ七世時代には鉄道が開通していましたから、お召し列車を利用してのものだったでしょう。ラーマ七世はプラッシン寺院修復完成の奉祝行事に参加しましたが、この時には、皹が入った経蔵はまだ修理されていないようで、写真に修復前の姿が残っていますが、ラーマ七世王は、その修復費用を下賜されています。
クルーバー・シーウィチャイは、ラーンナー各地を勢力的に歩き回って寺院の修復復旧を図りながら、なおかつプラッシン寺院においては、仏暦2469年より2471年にかけて宝物殿修復とチエンマイの各地の寺院にある経典を集めてバイラーンに刻み付ける作業をこなしています。
この経典編纂は、弟子のプラ・チナーピック(PHRA CHINAA PHIKKHU)に任せられ、必要な費用一切を供出しています。
(続)
フォーン・レップ(爪踊り)
http://www.youtube.com/watch?v=UhAVrkO1wIk
上記の踊りは、「フォーン・レップ(爪踊り)」と呼ばれ、貴賓を迎えた時などに演じられるラーンナーの踊りで、大変に優雅な動きをしています。
両手の指先に長い爪をつけているのが特徴で、この故に「爪踊り」とも訳されます。
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しかし、クルーバー・シーウィチャイは精力的に行動を起こしてますね
この行動力こそが、人をひき付ける魅力(徳)何でしょうか?
2009/11/21(土) 午前 1:03
すごい量の寄進ですね
やはり徳でしょうね
2009/11/21(土) 午前 1:47 [ 道後 ]
ジョウジ さん
コメントありがとうございます。
一言で言って、徳以外の何ものでもないでしょうが、その徳はどこから来たのでしょうか。修行に励み、戒律を厳守し、仏教を正しく伝え、寺院の修復に勢力を費やす。一方で信者からは神の如く、仏の如く敬われながらも、同じ立場の僧たちからは妬まれる。妬まれるクルーバー・シーウィチャイも敬われる師も同じ人物なのですが・・・してみると、いわゆる八方美人と言われる人は、個人的には何の主義主張もない人なのでしょうか。
2009/11/21(土) 午前 5:54 [ mana ]
北国春男 さん
コメントありがとうございます。
踊りにはその地その地の文化が凝集されていると思います。ラーンナーの踊りとバンコクの踊りの根本的に異なるところは、ラーンナーでは、自分たちの生活の中から踊りを編み出し、バンコクではインドの叙事詩を劇化したものを宮廷内で楽しんでいた、この違いがあると思います。ですからバンコクの踊りは華やかさがありますが、庶民の生活に密着した生活臭というものがなく、個人的には派手やかさはあってもどこか借り物の印象が拭えません。一方、ラーンナーの踊りは、同じようであっても、言葉と同じように少しずつ違いがあり、夫々の地で育ったことを忍ばせます。
個人的には、煌びやかな派手やかさがない、素朴な地方の踊りのほうが好きですね。その地方の踊りを優雅なものにするかしないかがその地方の歴史の重みかもしれません。
2009/11/21(土) 午前 6:02 [ mana ]
さくらの花びら さん
コメントありがとうございます。
非常に残念なことです。チエンマイ創業の英雄マンラーイ王の曾孫の遺骨を収めた壷が無くなったのは、歴史的価値だけでなく、そのチエンマイ王の存在を否定するような、死者を冒涜するような思いがしてなりません。この時期がたまたま大東亜戦争中のことで、もしも日本軍がその紛失に関わっているとすれば、必ず伝承に出てくるか、人の口の端に上る筈ですが、そうしたことが一切ありませんから、日本軍は一切関係ないでしょう。してみると、僧侶か?もしくは、今タイ最初のキリスト教神学校を前身とするパーヤップ大学にその写真の原板が納められているといいますから、もしかしたら彼ら宣教師が知っているのか、それとも当時、既に日本人写真家がチエンマイにいて、チエンマイからビルマに向う道を精査していますから、彼が知っているか。いずれにしても、今では全てが闇の中です。
2009/11/21(土) 午前 6:11 [ mana ]
OSSAさん
コメントありがとうございます。
基本的に仏像に性差はないとされています。
しかし、仏像はその制作地、制作年代、制作民族によってかなり異なるようです。たとえばビルマでは睫をつけ、口紅を赤く塗った釈迦像を見ましたし、スコータイでは今にも歩き出しそうな柔和な肢体の釈迦像があり、世界的商業都市として富を誇ったアユタヤー時代の仏像には、冠を被り、厳めしい、力強いところがあります。それに反して、チエンマイの仏像は全体的に大人しく優雅で、お顔はやや丸くふくよかで胸板厚く、どこか笑みを含んだようにすら感じます。
因みにこの仏像は、毎年4月半ばのタイのお正月(日中気温は40度前後にまで上がる猛暑の季節です)に市内に引き出されます。雨乞いの役目をも持っているようです。
2009/11/21(土) 午前 6:20 [ mana ]
柚ぽん瑠璃珊瑚晴パパ さん
コメントありがとうございます。
今のように道路網も整備される前、ラムプーンからチエンマイは、平地を歩きますが、ラムプーンからラムパーンには山を越えます。ラムパーンとパヤウ間も同じように決して近いわけではありません。そして、チエンマイからチエンラーイへも行っていますが、これは今からは想像も出来ない道です。今では真っ直ぐ東北方向に山を越えて行きますが、その当時は、未だこのルートはなく、真っ直ぐ北、ビルマに向って国境の街に出、そこから山を越えて東に向ったと思われます。幾晩もの宿泊を伴う猛獣徘徊する林野を抜けての危険な旅です。それを敢えてなした師の気持ちは、寺院の修復に命懸けだったことを伺わせます。実際、当時、森には虎などの猛獣がいたことが知られています。
2009/11/21(土) 午前 6:29 [ mana ]
水大使 さん
コメントありがとうございます。
人徳というしか他に言葉がないでしょうね。
人徳は意識して作ることは出来ませんから、師の真剣な生きざま、新年、信仰に生きる真摯な姿が周りの人に感銘を与え、人の賞賛を受けても奢ることなく謙虚に愚者のように只管己の道を進んでいく。名声も、富も、一切の世俗の欲望を断ち切り、一沙門として生涯を突き進む恐ろしい孤独な人生だと思いますが、その命がけの懸命さが後光を生み、周囲の人を引き寄せる魅力となり、人に感銘を与え、協力を惜しまない支持者を作り出していたのでしょう。
畢竟、全体の為を思わない人、八方美人的にその場逃れで相手に諂う自己主張のない人物には魅力がない、ということでしょうか。
2009/11/21(土) 午前 6:37 [ mana ]
日本の仏像とは人相が随分違いますね。
ハスの花に座っていないし、後光の形も・・・
こちらのほうが「本場」何だろうなぁ。
日光東照宮も「平成の大修理」をしていますが、費用も随分かかるのだろうな。
新しいお守りを一生懸命に販売していたのを、冷ややかな目で見ていたのを反省しています・・・
2009/11/21(土) 午前 8:19
爪の踊りを拝見いたしました。
何処か日舞にも似てるような感じがしました。
仮に黄金の壷が再発見されたら
歴史的な大発見になるかもしれませんね
2009/11/21(土) 午前 9:21
こんにちは!
最初に舞を眺めてましたが、段々と音楽が気持ち良くなり眠くなりますね。コレは心地良く眠りに入れそうです。
今日は暖かな朝を疲れているのか久しぶりに寝坊が出来ました!
2009/11/21(土) 午前 11:36 [ keiwaxx ]
フォーン・レップ(爪踊り)見たことありますよ、、、
妖艶とも思える踊りで「坊やこっちへおいで」されてる様でした!
傑作☆
2009/11/21(土) 午後 0:44
むうま さん
コメントありがとうございます。
仏像はどちらかというと人間臭いところがあるかもしれませんが、ビルマの仏像のように睫まではありません。台座はやはり蓮ですよ。ただし、信者が金箔を貼り重ねたりしていくと形がなくなりますから、蓮の葉の上に座っていないように見えるかもしれませんね。
寺院修理には、信者からの寄進が頼りで、時には寄進の額に応じて、名前を屋根瓦に刻んだり、寺院を取り巻く塀に刻んだりして残すこともするようですが、このクルーバー・シーウィチャイの時代はそこまではしなかったようですが、寄進は集まったようですね。そして、今もそうですが、王室からの拠出も少なくなく、王室庇護という名目がまた寄進を募るのに役立ちます。そして、寺院によっては写真集とかを販売して浄財に当てる場合もあるようです。
2009/11/21(土) 午後 2:00 [ mana ]
NONさん
コメントありがとうございます。
この優雅さがチエンマイの特徴で、言葉もかなり優雅なところがあり、あたしがバンコクにいって向こうの人と対標準語で話してもすぐに北から来たことがわかるほど特徴です。
こうした優雅さは永い歴史と文化の裏付けがなければ出来ないかもしれませんね。
黄金の壷、出てきて欲しいですね。どこに隠されているのでしょうか。
2009/11/21(土) 午後 2:03 [ mana ]
keiwaxx さん
コメントありがとうございます。
チエンマイの舞踊はどちらかというと優雅さが売り物です。勿論滑稽な踊りもありますが、非常に滑らかで、バンコクの踊りはインドの叙事詩ラーマヤナを踊りにしたもので戦いがあったりしますが、ラーンナーでは、一つ一つの踊りが完結していて、様々な機会にそんなたくさんの中から選ばれて相応しいものが踊られます。
気に入っていただければよかったです。
2009/11/21(土) 午後 2:11 [ mana ]
愛国 さん
コメント&傑作ありがとうございます。
踊りに魅せられてシルバーになってチエンマイに居を構える人が増えているのでしょうか・・・最近では数千人のシルバーの方がチエンマイに住んでいると聞きます。
もし良ければ11日付の踊りも見てください。あたしがとても気に入っている踊りでチエンマイで有名な踊りです。
2009/11/21(土) 午後 2:14 [ mana ]
コンニチわ
manaさんは淡々と書いていらっしゃるけど、奥が深く又 一言の裏付
けの幅が広く、感服いたします。
クルーバーシーヴィチャイは、崇められ慕われるだけでなく、時には
家族のような存在だったのではないでしょうか。
2009/11/21(土) 午後 6:42 [ ピック ]
ter*yas*_* さん
コメントありがとうございます。
お褒めの言葉を戴いて恐縮です。
師にとっては、釈尊の歩みに付いていくことだけが念願で、寺院修復はそうした釈尊の教えを掘り起こすことだったと思います。
したがって、師を意識した釈尊が従者のアーノンに自分には教師の握り拳はない、と言ったことと同じように、誰からを惹き付ける方法とか、引き止めて置く理由、集団を形成して勢力圏を築くなどを考えていなかったでしょう。師にとって在家は、所詮在家であって、仲間意識はなかったはずです。もしも彼の中で集団形成の意識が少しでもあれば、大変な騒動になっていたでしょう。
2009/11/21(土) 午後 8:28 [ mana ]
こんばんは。
今回東京でチベット仏教展に行って来ました。
すごく得るものがありました。
この写真を見て思い出しましたよ。
2009/11/21(土) 午後 9:14
レッド さん
コメントありがとうございます。
バリ島がヒンズー教を世界をこのように現示して見せたとするならば、チベットは、仏教世界をこの世に作り出し、仏と共に生きる人々の世界です。憧れの世界のひとつです。
チベット仏教は遠くモンゴルにまで仏教を広めましたが、西域を通ってでしょうか。かつて四川高原までチベットであったことを考えれば、今彼らの置かれている悲惨な境遇には涙さえ出ます。
2009/11/22(日) 午前 5:30 [ mana ]