チエンマイの原風景

古書を片手に霧の彼方の古都チエンマイを訪ねる旅です・・・

シーウィチャイ伝

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庶民の生活

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クルーバー・シーウィチャイ伝(15)

今を去ること110年ほど前、仏暦2443年(西暦1900年)北部暦7月17日、この世に一つの小さな命が生まれました。
この数日前、タイ全土はお正月で賑わっていたことでしょう。北部暦の7月は、現代陽暦の4月に相当し、タイ族にとってのソンクラーン(SONGKRAANT)と呼ばれる新年は、この月の満月の日に当たります。即ち、上弦の13日がソンクラーンの日(WA SONGKRAANT)、14日がナウの日(WAN NAU)15日がプラヤーワンの日(WAN PHRAYAA WAN)と呼ばれていますが、ラーンナーでは、この正月期間は3日間ではなく、5日間であるとされています。
そして、この新しい命が生まれた17日は、月明けの日(WAN PAAK DUAN)とも呼ばれ、新しい年の最初の月の始まりとされていますが、今では余り人々の口の端に上ることはありません。かすかに残っているのは16日の日明けの日(WAN PAAK WAN)で、これは、新しい年の最初の第一歩を踏み出す日とされていますが、これもなかなか解釈が難しいです。
いずれにしても、まだ新年を祝う心改まるめでたい日であったことに違いはありません。そんなめでたい心ウキウキしたき雰囲気の中で小さな命が誕生しました。
100年余り前のラムプーン県リー郡といえば、ラーンナーの聖者、クルーバー・シーウィチャイの生家があり、師が正式に出家得度して227か条の戒を受け、僧侶として一歩を踏み出したばかりでした。師が最初に建立したバーンパーン寺院はまだこの世に姿を見せていなかったでしょう。
そんなリー郡の町外れにメーターイ村(MUU BAAN MEE THAAY)という小さな村がありました。そこは、当時としても文明の光を受けることのない僻地で、その森の中に佇む人家らしきものはわずかに9軒に過ぎず、村と呼ぶことすら憚られるほどの小さな集落に過ぎませんでした。
夜ともなれば、虎を初め、象の吠える声すらすぐ間近に聞こえ、木々の間を縫ってキョンが走り、鹿が駆け抜けていたと言われています。そんな9軒の中の1軒、この地の先住民族ルアッ族の血を引くといわれるマウ(NAAY MAU)の妻チャンター(NAANG CANTHAA)が可愛い男の子を出産しました。
若い夫婦にとっての初めての子供です。如何に貧しくともめでたい日の天からの授かり者に二人は心から喜びました。
野獣に囲まれた森の中で暮らす彼らは、日々の生活に追われる毎日で、正月を祝うほどの余裕はなかったかもしれませんが、それでも生まれてきた子供に、チャムピー(CAMPII)と名付け、精一杯の愛情を注ぎました。
今では、世界一の米輸出国のタイですが、当時のラーンナーの地にあっては森の中の住人のみならず、街中においても、毎日欠かすことなく白米の食事で三食を摂っていたという人は決して多くはなかったかもしれません。森の中の彼らは、野菜を植え、木を伐りして辛うじて命を繋ぎ、水稲栽培は不向きな森の中では、陸稲を栽培していたようですが、それさえも決して十分な収穫は得られなかったようです。そんな森の住民の命を支えたのは、山芋の類といわれるクローイ(KLOOY)という根菜であったようです。
当時の人たちは、このクローイを掘り出すと、薄切りにして天日乾燥させた後保管し、その後必要な時に取り出して蒸した後、様々に調理して貴重な食料源としてたようです。ただ、これも採集に季節があるようで、8月から翌年の3月までが季節だそうで、季節外れのものをむやみに食すると全身に激しい痺れを引起す毒をもっている、といわれています。
そんな毒にあたると、人々は蜂蜜、サトウキビの絞り汁、砂糖椰子の汁などをたくさん飲んで下痢症状を来させていたようです。又、そのクローイが食べられるか否かは、蒸しあげた後一度先に犬に食べさせて実験台にしろ、と言うのですが、実験台にされた犬がかわいそうですね。
いま少し、このクローイという山芋の類について言うと、ある文章によると、このクローイを食べ始めて数日は体力が落ちますが、やがて元に戻るようです。しかし、面白いというよりは怖いのは、常食にしていると、苛々し易く、怒りっぽくなり、身体的特徴としては、体が肥満しているわけではありませんが、お腹だけが異様に膨らむそうです。
これは、昔のタイ人、一昔前の高齢者の村人の身体的特徴をよく表しているようです。そして、今ももち米・ココナッツ・ミルクなどと共に調理されて人々の口にするもので、地元の人々の食べ物を見ているとこうした食べ物に出会うことがあり、時には食事になれば間食にもなります。
こうしてみると、クローイを食することがそのまま貧者の条件とはならないようですが、クローイは量的にご飯の倍を食しなければ同じ満足感を得られないようです。このマウとチャンター夫婦は、年間を通じてこうした野生のクローイすら満足に食することが出来ず、空腹が常態の貧しさであったようです。
そんな日々の糧にすら事欠く中で育たなければならなかった少年チャムピーは、食料不足によるものでしょうか、お腹が膨らみ、当然のようにひ弱で、病気がちであったといわれます。
少年は、幼少より大人しく、聡明さの片鱗を覗かせていた、と言われていましたが、周りに広がる森の静寂さをも併せ身に付けていました。両親は食をすら欠くほどの貧窮の中でも一人息子の成長に大きな希望を託し、我が子のよりよい将来の為にそれまで以上に懸命に仕事に精出しました。
我が子チャムピーの無邪気な笑顔に出会い、声を聞くだけで、辛い仕事に耐える力を得、この上ない喜びを感じていました。朝から日暮れまで休みもなく働き、全身を汗に塗れさせても、我が子が満面の笑顔で胸に飛び込んで来ると、この上ない幸せを感じ死ぬほどの疲れさえ一瞬の内に消え去ったといいます。
まさに両親の愛情を糧に幼年期を過ごした少年チャムピーでした。
幼子にとって楽しい日々は決して永くは続かなかったようです。父のマウが、切歯扼腕し、困難に耐えて家族を養うために懸命に働いてきた挙句、恐るべきマラリヤに冒されて倒れたのです。
時にチャムピーわずかに4歳に過ぎませんでした。
ラーンナーの地は、地図を見ても解るとおり山間部にあり、森に囲まれたわずかばかりの平地に開けた国です。今もマラリアで苦しむ人たちが少なくありません。この恐ろしい病にはキニーネが良薬とされていますが、ラーンナーにこれが持ち込まれたのは、アメリカ人宣教師によってでした。
アメリカ人宣教師 Daniel McGilvary (冒頭の写真参照)が妻と共に2隻の船に乗って3月の歳月を要して河を遡り、ラーンナーの地にやって来たのは、クルーバー・シーウィチャイが生まれる10年ほど前の仏暦2409年(西暦1866年)のことです。
彼は、キリスト教布教という使命を果たす為に、当時ラーンナーの人々を苦しめていたマラリア治療で人々の心を捉え、その後の布教の足がかりとしました。又種痘摂取を広めたのもこのアメリカ人宣教師といわれています。こうした彼の偉大な業績がタイ初の神学校がこのチエンマイに出来るきっかけとなり、それが今のパーヤップ大学神学部となって根付いています。
彼の話は一編の小説にでもなるかもしれないほどに興味溢れるものですが、ここでは余談が過ぎますので控えます。
しかし、彼の持ち込んだマラリア治療薬もラムプーンの僻地の森の住人には無縁だったようです。勿論花の都チエンマイにはあるとは聞いていたようですが、そこに行き着くまでにどれほどの野宿を重ねなければらないでしょうか。
マウは当時の村人の例に漏れず、民間薬を煎じて飲んでいましたが、症状が改善する兆しはなく、やせ衰えていくばかりでした。妻のチャンターはなす術もなく夫の横に座って終日看病に努め、その側には一人息子のチャムピーが悲しみの眼差しで目を瞬かせているだけでした。
「父ちゃんはどうしたの、どうして今までのように起き上がって抱っこしてくれないの」
無邪気なチャムピーの一声が母チャンターの耐えていた悲しみの感情を吐き出させました。近所の人たちもただ涙を堪えるしかできませんでした。
その日、父のマウはついに帰らぬ人となり、痩せ衰えた躯は骨を浮かび上がらせていました。
母チャンターは息絶えるかと思うほどに泣き悲しみ、わずか4歳にしかならないチャムピーは、未だ死の意味も知らず、ただ繰り返し繰り返し母に尋ねていました。
「母ちゃん、どうして泣いてるの?父ちゃんが母ちゃんを嫌ってるの?どうして父ちゃんは何も喋らないの?」
その場にいた誰一人として声もなく、余りの憐憫に顔を背けるしかありませんでした。

(続)

                         ハリプンチャイの舞い
                    http://www.youtube.com/watch?v=0fD27TznyeU
上のURLは、かつてハリプンチャイと呼ばれた現在のラムプーン県の踊りです。演じているのは、全て地元学校の生徒です。舞も歌も決して上手とはいえませんが、学校の課外授業で懸命に地元の芸能を残そうとしている姿を見て頂ければうれしいです。ただし歌詞は現代風に作られています。

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かつてのタイは米の自給もできなかったのですか。今では東南アジア最大の輸出国となったのも日本の技術支援のおかげなのでしょうか?
傑作

2009/12/8(火) 午前 6:57 [ 彩帆好男 ]

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チェンマイも20世紀初頭には非常に厳しい生活をしていたようですね。マラリアは蚊が原因と言うのは20世紀になってから解ったようで、当時は原因すらわからずに信仰と民間療法で対処していたのですね。今との差を感じます。
傑作

2009/12/8(火) 午前 7:19 千葉日台

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クローイにしても毒があるとわかっていても食さねばならないほど貧しい時代が遠くない昔に確実にあったのでしょうね。日本にも私の田舎などはありました。今は隔世の感がありますがチェンマイでも同じでしょうね。それに反比例して人情味は段々薄れて言ってるのでしょうね。

2009/12/8(火) 午前 10:03 亜鉛右近

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口に出来るモノがあるだけ幸せって時代環境だったのですね。
飽食の人間には理解出来ない生活でしょうね><

2009/12/8(火) 午前 11:06 ジョウジ

サイパンはカナダより魅力的 さん

コメント&傑作ありがとうございます。
日本人はタイを一つの国のように考えていますが、幾つもの国の寄り集まりです。現在行政上上北部タイと呼ばれる、かつてのラーンナー王国は、近年まで基本的にもち米しか栽培しませんでした。現在米輸出国としての地位を築き、又中世の商業国家として日本人町などがあったのは、中部メナム川(チャウプラヤー河)流域氾濫地帯に栄えた水稲(インディカ米)地帯のアユッター王国です。
アユッタヤーは商業都市ですから、チエンマイなど北部地域の豊富な森林資源を欲しがっていました。そして、北部の人たちは城郭都市周辺では水稲栽培もあったでしょうが、離れると水の問題が深刻で陸稲、もしくは根菜類で飢えを凌いでいたようです。
ハリプンチャイ王国を滅ぼしたアーイ・ファーと言う策士は、ハリプンチャイに過酷な灌漑事業を実施させて国民の怨嗟を醸しましたが、その灌漑施設はハリプンチャイとは全く関係のないチエンマイの北の町です。こうした灌漑施設の知識を持っているということはこの地が農業用水不足に悩まされていたことを意味していると思います。

2009/12/8(火) 午後 4:18 [ mana ]

千葉日台 さん

コメント&傑作ありがとうございます。
タイは、今もマラリアの脅威に晒されています。
恐怖のデング熱同様に蚊が媒体しますが、デング熱の病原菌を媒介するのが縞蚊であるのに対し、マラリアの病原菌を媒介するのはハマダラカですね。そのハマダラカが媒介するということは20世紀に発見されましたが、マラリアの治療薬はそれよりはるか以前にキニーネが有効であることが知られており、19世紀初には既に結晶の抽出が行われ、治療薬として一般的だったようですね。ですから、このお噺の頃は蚊を予防するという知識はなくとも、アメリカ人宣教師がもたらした薬剤がマラリアを治療することは出来、薬に耐性がない地元の人々にとって衝撃的な効果を発揮したことは容易に想像が付きますね。
今でも、熱帯地方を旅行する人はマラリア予防注射をするのでしょうか。予防接種をして置くに越したことはないですね。

2009/12/8(火) 午後 4:19 [ mana ]

aen*u*on99 さん

コメントありがとうございます。
いずれの国も同じでしょうが、情報というのは必ずしも全体を正しく伝えていないですね。
世界最大の米輸出国のタイで、どうして米を作っている農家が米を食べることが出来ないのでしょうか。もち米を北部タイの人は好んで食べますが、何故か、勿論嗜好の問題が一番の理由ですが、腹持ちがいいことが一つの理由でしょうね。決してうるち米と同じ量でなくてももち米は十分に空腹感を癒すことが出来ます。そして、そんなもち米を如何に美味しく食べるか、たとえばこれにココナッツ・ミルクをかけ、熟れたマンゴーの実を扇型に切って乗せて食べると十分に美味しく食べられます。その他、このお噺にあるクローイを使ったものもあります。たとえば、日本でおにぎりに味噌をつけて焼いて食べる・・・風流があっていいですね。終戦直後の水団、ご飯を炊く時にサツマイモを入れたりしましたよね。
そして、仰る通り、旧い生活習慣を守っている地方は、昔ながらの共同体意識がありますが、バンコクのようになるともう共同体意識はないですね。

2009/12/8(火) 午後 4:32 [ mana ]

ジョウジ さん

コメントありがとうございます。
わずか100年ほど前、日本では日露戦争の頃でしょうか。日本も決して豊かではなかったですが、その後の百年の間の日本の食生活の変化とコチラの食生活の変化を比べると、バンコクのような都会の真ん中、もしくは富豪といわれる階層の人たちは別にして、田舎の庶民の食生活は今も昔もさして変わらないです。
家族4人の副食が茹で卵1個という家庭もテレビで放映され、それでも毎日食べられる人はまだまし、といえる家庭もあります。誰もが懸命に命を賭けて生活しているのですね。彼らに福祉という言葉はないかもしれませんね。そんな人は往々にして要求しないようです。
飽食の時代、素晴らしい日本だと思いますが、食べ物を大切にする心、食べ物が食卓に上るまでにどれほどの人たちの汗が流されているかを子供たちに知って欲しいですね。そうすれば、一粒のお米、一切れの魚も大切にし、残すことはないと思います。それが生産者、食べ物への礼儀だと思います。

2009/12/8(火) 午後 4:42 [ mana ]

午後 0:04 の内緒さん

コメント&傑作ありがとうございます。
日本は世界のどんな料理も食べられます。数十年前には考えられなかったこと、まして100年ほど前のこのお噺の頃には考えられなかったことです。
飽食で国を忘れる国民と、食べることに汲々としながらも一旦急あるときには国を強く前面に出す国民、どちらがいいのか、考えてみる価値があります。

2009/12/8(火) 午後 4:52 [ mana ]

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悲しいですね。
このようなことはたくさんあったのでしょう。

ココナツはそのようなことで多用してるのですか。
なるほどでした。

傑作

2009/12/8(火) 午後 7:31 保守の会会長 松山昭彦

「飽食で国を忘れる国民」日本人は反省してしかるべきですね。
貧乏なデバイスは知人からいただくお土産は家に持ってかえって分けて食べます。三分の一づつです。
しかしチェンマイの人々ほどではない。
が、・・みなが裕福の中での生活は切ないものもありますよ。
@デバイス

2009/12/8(火) 午後 7:49 [ デバイス ]

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今回は悲しい話でのスタートですね
この後、チャンターとチャムピーはどうなるんでしょう?
続編楽しみにお待ちしております

2009/12/8(火) 午後 11:31 yuzupon

さくらの花びら さん

コメント&傑作ありがとうございます。
こうしたことはどこにでも見られたことだと思います。
日本でも今から見れば明治時代の一般庶民の暮らしは、とても倹しいものだったと思いますが、それでも皆が明日の日本を夢見て生きてきました。同じように、マウとチャンターは、貧しくて食事に欠くことがあっても懸命に子供を育ててきました。自分の命を削って子供を育てる。かつての日本も同じだったと思います。自分たちが豊かな生活をする為に子供を放棄するなど昔の日本では考えられなかったことです。親が自分の食を削って子供に食べさせることもまた日常茶飯のことでした。同じようにチャムピーは両親の愛を受けてきたからこそ、人々に対する慈悲の心を持つことが出来たのだと思います。
父の背中を見て子供は育ち、母の胸の温かさを知って子供は優しさを覚えるのだと思います。日本の人々に子育ての楽しさの面をもう一度知って欲しいですね。果物の中で、草木の中で食べられるものは全て食べなければ果物、草木に失礼だと思います。

2009/12/9(水) 午前 5:47 [ mana ]

デバイス さん

コメントありがとうございます。
かつてとても偉い人(裏世界の)の(面の)仕事の手伝いをしたことがありますが、食事で残ったものは、全てビニール袋に詰めさせていました。そうした食べ残しであっても、貧しい人々にとっては到底手の出せるものではなかったからです。そして、捨てるには余りにももったいない。そんな考えがあってもいいのではないでしょうか。タイではよく、犬に・・・といって残り物を持ち帰る人もいますが、決して犬だけではないと思います。あたしも時々外食で残ったものを袋に入れて持ち帰ることがありますが、けっして恥ずかしいことではないと思います。食べ物を粗末にしない、そんな考えを日本の全ての人々に持ってほしいですね。

2009/12/9(水) 午前 5:55 [ mana ]

柚ぽん瑠璃珊瑚晴パパ さん

コメントありがとうございます。
実際の庶民、ラーンナーの人々の暮らしというものは、地方に行けば今もさして変わるところがありません。日本でも綺麗なタイ料理を取り扱うレストランが各地にありますが、そうしたお店のメニューにある料理を毎日食べているわけではないのですね。それは日本で毎日、てんぷら、刺身、すき焼き、すしを食べているのではないことと同じです。世界一の米輸出国もその裏を見ればこうしたことが起こっていたし、今でも怒っていることを知って欲しいですね。
飽食の日本で、世界中のあらゆる料理が食べられ、美食家たちを楽しませていますが、食事を粗末にしないで欲しいですね。

2009/12/9(水) 午前 6:01 [ mana ]

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おはようございます。
7月が正月というのは、すごくレアな暦ですね、なに暦というのですか??
森の中に住むといっても、虎や象の鳴き声がするというのは、すごく違う世界という印象です。

2009/12/9(水) 午前 9:16 株式会社セロリの管理人

株式会社セロリの管理人 さん

コメントありがとうございます。
北部タイのラーンナー王国においては、陽暦の10月が1月ですが、年が改まるのは、ソンクラーンですから7月(陽暦4月)になります。これは、本来は陽暦10月で暦が改まっていたものが、現在の地に来てバラモン教を受け入れ、ソンクラーンの話を受け入れた後、年が改まるのと、暦の上の1月が一致しなくなったものだと想像しています。ちなみに、ラーンナーは、陽暦10月が1月になりますが、アユッタヤーのタイ族は、陽暦12月を1月としていますので、2ヶ月の開きがあります。これからもラーンナーとアユッタヤーが別の国であったことがわかります。
このお噺の更に100年ほど前、ビルマが撤退した後暫くして後のチエンマイは、木々に覆われ、人一人影もなく、象、虎、犀の住処になっていたといわれます。又戦前この血に写真家としていた日本人は、虎狩りの話を残していますから、虎などの野獣がたくさんいたものだと思います。

2009/12/9(水) 午後 6:15 [ mana ]

アジアも急速に発展を遂げましたが、それでも現在でもまだ大変な地域は存在しますね。世界に目を向ければやはり当時のタイのような国がアフリカやアジアの紛争地域には存在する事実。
実際、あの中国も同じです。やがて・・・こんなこと言えば人は笑うかも知れませんが、もしかすると日本にもこのような時代がやってくるのかも知れません。エネルギー問題の次に来る紛争の種は食糧問題ではないでしょうか?

2009/12/12(土) 午前 8:54 cocoa

cocoa さん

永遠に繁栄を続けることは不可能です。
かつて栄えたローマ、ギリシャ、エジプトの現状がそれを証明しています。大航海時代、大帆船時代に栄華を極めたスペイン、オランダ、英国は既にその姿は歴史の中に埋もれました。しかし、彼らは自らの国を貶めません。
今日本は世界第二位の経済大国の坐を離れますが、それは日本の金によってです。そして、それに代わる中国経済はすべて砂上の楼閣です。他国の金で栄華を極め、他国を侵して行く国が中国です。かつての栄華を極めた国は、それでも国であり続けていますが、日本は日本であり続けているのでしょうか。
貧しさは克服できます、しかしもしも国を失えば生きていけるでしょうか。今日本人に意地というものが失われようとしています。意地と誇りのない人間が立ち上がることが出来るでしょうか。

2009/12/12(土) 午前 10:11 [ mana ]


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