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クルーバー・シーウィチャイ伝(16)
父親マウがマラリアの病魔に冒され、痩せ衰えて永の眠りに付くと、残されたチャンターとチャムピーの母と息子は大黒柱を喪い、心の支えを失いました。夜の闇が森の中の小さな掘っ立て小屋を包み、遠くに聞こえる物音は魔物の叫びにも似ていたかもしれません。これまで恐怖に襲われる都度、しっかりと抱きしめて勇気と安心を与えてくれた父はいません。ただか弱い母と二人して身体を震わせ、泣いて恐怖に耐える日々でした。
父のいない寂しさの中でも、母子二人はこれまで以上に貧しさに耐えながら生きるために懸命に耐え忍び、働かねばなりませんでした。年端の行かないか弱い少年ながら、チャムピーは、生活苦の中でもがく様にして日々命永らえる苦難を強いられたでしょう。
チャムピーは、自らの意思ではなく、自らの置かれた環境によって刻苦を強いられ、勤勉を強いられ、いつの間にか同年代の少年のようにはしゃぐこともなくなり、笑顔を見せるよりも一人物思いに耽るようになり、それは年齢不相応に人生のことを深く考えるようになっていました。
時にチャムピー16歳になっていました。
その頃、バーンパーン寺院の住職、シリウィチャヨー師は、クルーバーと尊称されて周辺住民の尊敬と信仰を一身に集めていました。そんな師の評判を耳にしたのでしょうか。母のチャンターは、ある日仕事を終えて疲れた一人息子の身体を労わりながらも、尋ねました。
「チャムピーよ。お前は出家してお坊さんになりたいかい」
「うん、お坊さんになりたい。でもお坊さんになったら母ちゃんが一人になって、誰も母ちゃんの手伝いをする人がいなくなっちゃうじゃないか」
「そんなことは心配しなくてもいいんだよ。お前が黄衣をまとうことが一番の親孝行なんだよ。母ちゃんはお前がお坊さんになった姿を見ること以上の望みはないんだから」
こんな会話が二人の間に交わされたらしい、ということが残されています。
こうして、母に連れられてチャンピーは、山の上にあるバーンパーン寺院に向かい、クルーバー・シーウィチャイにその身を預けられました。
日本では、貧しくても食べ物を削って子供に食べさせることが親の勤めでした。決して、仏門に入れようとはしなかったかもしれません。しかし、前世の徳が因となって現世の生活という果になったと考えるタイ族の人々にとっては、現世での徳積が因となって来世のよりよい生活を果としてもたらすと考えます。
男子であれば、最大の徳積は出家であり、出家が認められない女子にとっての最大の徳積は、息子を出家させることとされています。従って、息子が出家して黄衣を身にまとうことは自ら徳を積むと同時に、その徳を母に廻すことが出来ると言う考えに至り、今に至るも多くの家庭で男子を出家させます。
特に貧しい家庭にあってはそうした考えが特に強いようです。そこには、口減らしという考えがあったのかも知れませんし、貧しい家庭では読み書きなど勉学の機会は無であった時代、寺院での生活は経典を読む必要性から、読み書きその他の様々な技芸を習得する貴重な機会でありました。
貧しい身なりの母親に連れられて目の前に現れた小さな体の弱弱しい少年を見たクルーバー・シーウィチャイは、少年の全身から発する異様なものを感じたのでしょうか、その場で少年の世話を引き受けます。
伝承は、その時、クルーバー・シーウィチャイは、チャムピーの身体に将来の大器を読み取り、聖者の相を感じたと言います。
とはいえ、森の住人です。チャムピーはその場で出家することは出来ません。
まず、師について、読み書きと読経を習います。その読み書きとは、バンコクで用いるタイ語のみか、先祖より代々伝わるラーンナー文字の習熟も求められます。何故なら、噺の多く、伝承の多く、読経すらタムラーンナー文字(AKSOOR THARM LAANNAA)と呼ばれる地元文字で書かれていたからです。
無学文盲とも言える森育ちのひ弱な少年チャムピーが一通りの読み書きを覚え、読経の基本を覚えると、師のクルーバー・シーウィチャイは、チャムピーを小僧として出家させました。
通常僧侶は、小僧と正式得度出家僧の二つの種類があり、得度出家して正規の僧となると227か条の戒律を授けられ、その遵守が厳しく求められます。しかし、まだ年端も行かない子供に227カ条もの戒律遵守を求めることは実質的に不可能で、小僧に対しては10か条の戒律が授けられます。その十戒とは、
1.不殺生、2.不偸盗、3.不邪淫、4.不妄語、5.不飲酒、6.装身具及び香を身に帯びない、7.歌舞音曲に馴染まない、8.広く高い寝台を用いない、9.正午から翌朝までの食事をしない、10.金銀財宝を蓄えない、です。
こうしてチャムピーは仏門に入りましたが、師のクルーバー・シーウィチャイの教えを忠実に守り一つとして違えることなく、懸命に修行に励んだ結果、師の寵愛を一身に受けることになりました。こうして師より、師と同名のシーウィチャイを名乗ることを許されるまでになりました。小僧シーウィチャイは、瞑想を学び、現代文字を完全に習得し、実践を通じて精神統一及び、建築術を学びました。
既にクルーバー・シーウィチャイは各地の寺院修復を手がけるようになっており、その修復の場に小僧シーウィチャイの姿を見かけない日はありませんでした。
そうした努力の賜物でしょうか。シーウィチャイ小僧は、土木建築に秀でた能力を示し、目に見えない木の傷までも見極めることが出来るまでになった、といわれています。こうして、小僧として学習に勤める傍ら、各地の寺院修復に奔走する師の助手として現場を学ぶ日々が6年続いた22歳の時、シーウィチャイ小僧は、正式に227か条の戒律を受けて得度出家しました。
この時師のクルーバー・シーウィチャイは、自らが出家した時の名前アピチャイを愛弟子に与えて、アピチャイカーウピー(APHICHAY KHAAW PII)と名付けました。そして、ここでもこの後師をカーウピー、もしくはクルーバー・カーウピーと呼ぶことにします。
ただ、ここで師のクルーバー・シーウィチャイの話を思い出すと、カーウピーが得度出家した年は、仏暦2465年に相当し、それは、正に師のクルーバー・シーウィチャイが無実の罪を着せられてバンコクに送られ、大理石寺院に逗留しながら大僧正の賞賛の言葉と共に無実が証明され、チエンマイに帰って来た年に相当します。
そして、地元ラムプーンの僧団、郡長たちが師のクルーバー・シーウィチャイを罪に陥れようとして果たせないまま悔しい思いをしていた最中でした。そんな嫉妬に狂った人たちの格好の餌食が目の前に現れました。
この時の様子を、サンキート氏は「黒犬に対する怒りを赤犬で晴らす」という表現で表しています。即ち、「八つ当たり」でしょうか「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」でしょうか。師匠のクルーバー・シーウィチャイを陥れることが出来ない腹癒せに、師の愛弟子であるカーウピーを苦しめようというのでした。
そして、それは見事に成功します。
クルーバー・カーウピーが黄衣を纏う時、そこに不祥なことが起こる、という不思議が始まるのです。当時のリー郡長は、クルーバー・シーウィチャイに対する怒り、嫉妬を愛弟子のクルーバー・カーウピーに向けました。
即ち、クルーバー・カーウピーにバイ・コーンカーン(BAI KOONG KAAN)という兵役予備登録証とでも言うべきものの提出を求めました。当時も今もタイは徴兵の制度があり、男子には兵役の義務があり、学生では軍事教練が課せられます。そして、この兵役予備登録証とでも呼べる書類は、徴兵検査に合格しながら十分な兵力があるが故に兵役を猶予されている人に発行されるものです。副郡長は、師にその書の提出を求めましたが、クルーバー・カーピーにはそれがありませんでした。
これは大変な罪です。
これは兵役忌避、徴兵逃れと看做され、重罪です。郡長は直ちに警察官を伴ってクルーバー・カーウピーの身柄を拘束し、裁判所に訴えました。
裁判所におけるクルーバー・カーウピーの陳述は、次のようでした。
「徴兵が始まった当時の布告によれば、登録義務は満18歳以上のもので、当時拙僧は25歳でした。そして、今拙僧は35歳になっており、徴兵は免除されたものと判断します」
というものでした。そこで、裁判所は一時的に審議を中断しました。そして、その後、同証書の受領を命じましたが、師は受領することもなく、免除要請その他を公式に申請しませんでした。
かくして再度の裁判において懲役6ヶ月の判決を受けました。
しかし、黄衣をまとう僧を獄に繋ぐことは出来ませんので黄衣を脱がねばなりません。身も心も仏の道に捧げた師にとっては、黄衣は自己存在の証でもあり、一刻として我が身から剥がすことなど認められず、しっかりと手で握り締めて脱ぐことを認めようとはしませんでした。
仕方なく裁判所は、僧団長と協議の上で還俗させることにしましたが、師はどうしても黄衣を脱ぐことを拒んだといわれます。そして、僧団長がその権限によって還俗を命じ、警察官に黄衣を剥ぎ取るよう命じた、とされていますが、多分この時のことだと思いますが、師は黄衣に代わって白衣を纏うことを僧団長に願い出て許されたのだと思います。
多数の信者の見守る中、クルーバー・カーウピーは、白衣を身に纏って牢に繋がれることになりました。
(続)
下記URLは、ラーンナーの古式武術の内の剣術に相当するもので、それを一つの舞=剣の舞としているものです。色々な人の舞がありますが、ここではサームおじさんの舞です。
ラーンナーの古式武術
http://www.youtube.com/watch?v=ZL6uwchbQUI
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いつも思うのですが、タイ語の習得であの複雑怪奇な文字を習得は日本の文字と比べてはるかに難解と思えてしまうのです。よくこちらの子供たちは簡単に覚えてしまうんですね。
2009/12/13(日) 午後 2:50 [ 彩帆好男 ]
千葉日台 さん
コメント&傑作ありがとうございます。
本来出家というのは、両親が了解し、受け入れ寺院が了解し、住職に認められればよかったのでしょうが、それでは当時としては貴重な労働力を喪いますね。労働力としてみるか、家族の負担と見るかでしょうが、日本人の性格からして仏教本来の戒律も日本的に変更して、あまり厳格に守らなかったかもしれませんね。
鑑真和尚のもたらした功績は大きいのでしょうね。
2009/12/13(日) 午後 4:16 [ mana ]
NONさん
コメントありがとうございます。
戒というのは、出家者の日常生活の全てを精神的、倫理的に縛りますね。ですから、かなり窮屈なものになります。この全てを守りきるためには、24時間緊張の連続でなければなりません。庭木の剪定は出来ず、掃き掃除は出来ますが、蟻を殺さないようにしなければなりません。昼太陽が頭上に来ると、それ以降は飲み物はともかく咀嚼するような物は一切駄目です。例外として生姜は薬と見做されて薬として食することは出来るようです。そして、托鉢で得た食物は一切蓄えることが出来ませんので、基本的には缶詰、お菓子なども不適切なものですが、現実にはかなり行渡っていますね。
そして、小僧の10戒にしても、これを厳格に守ると、テレビ・ラジオはもとより芸能雑誌も読めません。こうした戒の他に許されている私有物はわずか八種類であり、コムピューターも携帯電話もありません。しかし、現在ではコムピューターも携帯も持っているようですが・・・
2009/12/13(日) 午後 4:36 [ mana ]
株式会社セロリの管理人 さん
コメントありがとうございます。
ラーンナーには独自の文字があり、言語も現代バンコクの人たちの用いる言語とは異なります。数十年前、バンコク生まれのある人の話として、チエンマイに行って地元市場に行くと何を話しているのか全く理解できない、と言っていました。文字だけではなく、こうした言語の相違があり、そのまま文化の違いとなります。それはバンコクがわずか200年の歴史しかないのに比べてチエンマイは王国の都として700年の歴史の深さの違いから来るのでしょうか。バンコクは今では大都市ですが、200年余り前は小さな川沿いの漁村に過ぎませんでした。当時に都は川を遡ったアユッタヤーでしたから。ですからチエンマイは、文化的にもバンコクに決して劣るものではありませんね。
2009/12/13(日) 午後 4:47 [ mana ]
柚ぽん瑠璃珊瑚晴パパ さん
コメントありがとうございます。
カーウピーは、クルーバー・シーウィチャイ晩年の愛弟子であり、既に師に課せられた幾多の試練を知っていたでしょうが、まさか自分に降りかかってくるとは思わなかったでしょうね。10年前の話を蒸し返して愛弟子を労に繋ぐ郡長も執念深いといわざるを得ませんね。
2009/12/13(日) 午後 4:48 [ mana ]
ジョウジ さん
コメントありがとうございます。
嫉妬というのは人の心を曇らせて先入観を植え付け、他人の不幸を待ち焦がれ、他人の不幸に拍手し、他人を不幸にして喜ぶ醜い心ですね。しかし、人間世界にはこうした人が多かれ少なかれいるもので、誰の心の中にも住み着いている悪魔でしょう。しかし、通常、人々はそれを抑えることが出来て始めて健全な社会生活を営みます。しかし、中にはそれを抑えることが出来ない人がいて、誹謗・中傷・讒言が蔓延ります。現在の自分の満足せず、現在の自分を自力で改善、向上させようとしない人ほど、他人を落とそうと嫉妬の炎を燃やすのではないでしょうか。それは様々な顔=口実=理由付けをもって人々の心を汚す毒ですね。嫉妬の炎を燃やす人も不幸ですが、その対称になった人は更に不幸ですね。
2009/12/13(日) 午後 4:55 [ mana ]
若紫 さん
コメントありがとうございます。
この10戒どころか、仏教徒たる者が必ず守らなければならないのがはじめの5戒ですが、さて我々はこの全ての戒を毎日守っているでしょうか。歩いては蟻を殺し、虫を殺し、庭の木々の枝を伐っては木を傷付けています。方便という名の嘘を付き、一瞬とはいえ、美女、美男に心を動かします。お祭りだと言い、祝日だといってお酒を飲みます。何と破戒の凄いことでしょうか。日本の般若湯は破戒にならないのでしょうか。お酒を飲んで知恵が湧くのでしょうか。不思議なお湯ですね。
ですから、戒を守るということは朝起きて寝るまで緊張の連続ですね。しかも、成長すると寝ていても油断なりませんね。かなり窮屈なものです。それは永平寺の修行僧の生活にも似ているでしょうか。その永平寺もインターネットでウェブサイトを持っているようですが、道元禅師が見れば何と言うでしょうかね。
2009/12/13(日) 午後 5:07 [ mana ]
サイパンはカナダより魅力的 さん
コメントありがとうございます。
タイ語の文字は慣れないと難しい、もしくは文字に見えないかもしれませんね。外国人にとってタイ語が苦手なのは文字以上に抑揚でしょうか。英語で重要なアクセントなく、声調は五段階あり、夫々に記号が付きますから、タイ語は必要性がなければ習得できないかもしれませんね。その他、日本人には苦手な無気音、無声音がありなお混乱をきたすようです。しかも、本来のタイ語の他にサンスクリット語、バーリー語が入りますから、読まない文字が入り、その記号も付きます。そして、子音・母音が別で、母音は上に付いたり、下に付いたり、右、左と夫々に位置が異なりますから、大変といえば大変です。
ただ、これも慣れれば何の違和感もなくなるのですが・・・。
尚、ラーンナーの文字は一説によればバンコクの文字とはその発生経路が異なっているようで、発音もバンコクの5声調に対して6声調あります。
2009/12/13(日) 午後 5:25 [ mana ]
黄衣に対し白衣というのは屈辱なのでしょうか。
白衣というのは苦肉の策なのですか。
傑作
2009/12/13(日) 午後 7:08
さくらの花びら さん
コメント&傑作ありがとうございます。
本来黄衣というのも、通常人の身に纏わない色、濁った黄土色に近いものだったようですが、タイでは多くの僧が鮮やかな黄色の衣を纏っています。又、一部派では黄土色の衣を着ますが、やはり黄衣と呼んでいます。還俗した人はこの黄衣を着ると罰せられます。そこで師は白を着用したのですが、これでは僧を詐称したとはされませんので咎めを受けることがありません。そして、白を選んだのは「無垢」を意味してだと思います。今も出家の前の儀式においては白衣に身を包みます。又正式に尼僧が認められないタイでは、女性は頭を丸めますが黄衣を着れませんので白衣を着ます。
こうしたことから白衣は僧団に対する抗議、黄衣を着れない屈辱という意味に加えて、自らの心を出家仏門の人として規定しているのだと思います。確かに苦肉の策ではありますが、師にとって衣の色よりも僧であるという意識が大切だったのではないでしょうか。強権を持って黄衣を剥ぎ取っても心の黄衣は剥がれない、という強い意思だと思います。
2009/12/13(日) 午後 7:33 [ mana ]
出家と言う意味もタイと日本では微妙に違いますね。
また白衣と黄衣の意味もこんなにも違うんですね。
2009/12/13(日) 午後 8:37 [ ossa ]
manaさんは、こうした基ネタをどんな引き出しから
引っ張り出してきているのか、大変、興味があります。
(その為に勉強してるんじゃ・・・。)
それはわかっていますが、古書とか、語り部とか、
民話とか、原点は、色々あると思います。
それにしても凄いな〜、どんな頭をしているのかな〜
と何時もながら感心して読ませて頂いています。
2009/12/13(日) 午後 10:42 [ コロン ]
OSSAさん
コメントありがとうございます。
タイにおいては、黄衣を身に纏う、ただこれだけのことで世間の人々の尊敬の眼差しを浴び、手を併せて拝まれ、特別扱いされます。
出家とは出世間ですから、世俗の法律に縛られませんが、反した場合には、還俗の上での罰則となり、還俗した瞬間黄衣を身に纏う資格を失います。基本的には、還俗にも儀式がありますが、師の場合には意識の上で還俗していませんから儀式をしなかったものを思います。
2009/12/14(月) 午前 5:34 [ mana ]
コロン さん
コメントありがとうございます。
お褒めの言葉を戴いて恐縮です。
こうした話はそう難しいことではなく、書物を紐解けば出て来ますが、興味を持つかどうかでしょうか。こうした話の基本はまず好きになることだと思います。好きになって、知りたくなって、疑問がでて、その繰り返しです。
ただ言える事は、地元の多くの人が知らない偉人の話、歴史の話を知ることは楽しいです。
2009/12/14(月) 午前 5:42 [ mana ]
午前 0:11 の内緒さん
コメントありがとうございます。
こうした僧侶の話を紐解くとき、いつも思い出すのは、釈尊の話です。
バラモンはその出自によってバラモンではなく、行為によってバラモンになるのであり、自分は既に清浄な行いを実践し、心身ともに清浄であるが故に真のバラモンである、と言って儀式で利益を求めるバラモンを諌めています。
同じ事で僧侶は、その衣の色によって僧侶になるのではなく、行いによって僧となります。故郷にいた不自由な体の真言宗のお坊さんは、いつもニコニコしながらビッコの身体で村をヒョコヒョコ歩く乞食僧のようでしたが、ひとたび高野山に上ればとても偉かったそうです。見せ掛けの衣の色、いわゆる学歴、階層、資格は、僧としての実体とは別のもので、釈尊の教えをどこまで実践していくか、そこに僧としての価値があるものと思います。名もない偉大な僧は、地方史を掘り返せば見つかる宝玉だと思います。何故なら名僧は黙して語らず、宣伝下手ですから。
きっとお父様は僧侶として生き続けて往生されたものと思います。
ご冥福をお祈りしています。
2009/12/14(月) 午前 6:05 [ mana ]
十戒ですか、親類の馬鹿な坊主に教えたいです。
続きに期待しております。
傑作○です。
2009/12/14(月) 午後 1:04
近野 さん
コメント&傑作ありがとうございます。
日本では時として夕方になると私服に着替えて夜の町に出かける僧侶がいると聞きますが、最低限の五戒の不飲酒に違反します。そして、カラオケに行けばこれまた破戒、テレビの娯楽番組も、新聞の芸能記事も全て破戒ですから、僧侶というのは窮屈です。しかも、僧侶は金銭に触れると破戒ですから、日本の僧侶は気を付けないと大変ですね。
2009/12/14(月) 午後 3:21 [ mana ]
お母さんの息子の黄衣をまとうのが一番の親孝行という言葉を守れないのはつらい事です。
10戒は私は守れそうにありません。特にお酒は。
2009/12/14(月) 午後 5:46
北国春男 さん
コメントありがとうございます。
そうですね。黄衣を脱がなければならないことを母としてどう受け止めたのでしょうか。かなしかたっと思います。
しかし、クルーバー・カーウピーは、その身に黄衣を纏わなくても、心には常に黄衣を纏っていたのではないでしょうか。
通常の人間で10戒どころか、5戒すら守ることは至難の業ではないですね。蟻を殺すことも出来ず、枝の剪定をすることも出来ず、活け作りを注文することは不殺生戒に触れます。
とかくこの世は住みにくい・・・これが本当でしょうか。
2009/12/14(月) 午後 7:28 [ mana ]
午前 0:30 の内緒さん
最コメントありがとうございます。
僧侶は実践する人であって、名声、富、大伽藍は所詮は仮初のものだ、というのが釈尊の教えだと思っています。
釈尊と共に生きる。最高に幸せな人生であったと思います。
合掌
2009/12/15(火) 午前 6:01 [ mana ]