クルーバー・シーウィチャイ伝(17)
服役期間の半年を終え、出獄する師を出迎える多数の信者たちからの寄進を服役者たちに行き渡らせるよう手配し、相変わらず手ぶらで白衣に身を包んだクルーバー・カーウピーは、140メートル離れたハリプンチャイ寺院に逗留しました。途中で受けた寄進の品々もまた獄内の服役者に廻されたことは言うまでもありません。
一方、建設途中のラムプーン病院建設は出獄後も休まず続けられ、完成を見届け、奉祝行事に参加した師は、師匠のクルーバー・シーウィチャイを求めてチエンマイに向いました。それはどのような旅であったのでしょうか。ハリプンチャイ寺院よりチエンマイに向う道は、今もその当時も何ら変わってはいません。
正門を出るとそこはムアン・ラムプーンのお濠です。お堀に沿って左に回って行きます。丁度それは寺院の西出口の前に南北に伸びる幹線道に出ます。その右手に城門が見えますからそこから外に出ます。
外に出て左には警察署がありますが、クルーバーたちを苦しめた警察官たちもそこに駐在していたのでしょうか。その道を真っ直ぐ北に進みます。今では左右大変広い道に見えますが、路傍には当時から植樹されていたなかったのでしょうか。今では一本の木も見えません。
一本道を進むと途中から鬱蒼とした森に入って行きますが、その瞬間、師はチエンマイ県に入ったのです。そこはチエンマイ県サーラピー郡です。この郡名は、仏暦2470年(西暦1927年)に変えられたもので、それまではヤーンナーン郡(AMPHAA YAANGNAANG)であったことが、タネート・チャラーンムアン(THANEESWR CRAANMUANG)の著「ラーンナーより(MAA CAAK LAANNAA)」に記されています。
その変更理由はバンコクから来た役人にとって地元の言葉は耳障りがよくない、たったそれだけのことで全く関係のない郡名に変えられてしまいました。そこまでラーンナーの独自文化が嫌いなのか、と疑いたくなりますが、やはりバンコクからの役人は、ラーンナーを併合したという支配者意識があったのでしょう。
そうした支配者意識がクルーバー・シーウィチャイのみならずクルーバー・カーウピーが地元に伝わる旧習を頑ななまでに守り、しかも地元住人の強い信仰心を集め,役人以上に強い影響力を持っていることに激しい嫉妬心・競争心・敵愾心を抱かせたのかも知れません。
余談はさて置き、こうして双葉柿科の高木ヤーン樹の並木をひたすら北に向って歩いて行きます。といっても真っ直ぐな道ではありません。蛇のように曲がりくねっていますが、自動車が物珍しかった時代、途中にあるいくつもの寺院で時には休息し、時には一夜の宿を借りながらの旅であったと思います。そして、生活の糧などない師ですから、多数の信者がその後ろに続き、食事を寄進していたものと思いますが、途中の村々では師の北上を噂に聞いて、朝には布施の準備をして待っていたかもしれません。
何しろ、一本道ですから、村人は朝路上に出ていれば師に寄進することはできたでしょう。こうして30キロ余りの道を歩いていきます。チエンマイに入ると、途中でサーラピー郡の市場があり、次いでの市場はムアン・チエンマイに入った所のノーンホーイの市場でしょうか。
目指すプラッシン寺院へ行くには、ピン河を渡らなければなりません。
渡る場所は三箇所です。
ノーンホーイの市場の手前を左に折れて現在のチエンマイ空港に向って川を渡る橋がありますが、当時既にあったでしょうか。それともノーンホーイの市場の前にあるメンラーイ橋を渡るでしょうか。いや、多分、真っ直ぐヤーン樹の並木を過ぎてナワラット橋にまで行ったのではないでしょうか。
この時、ピン河を渡ってムアン・チエンマイに向う橋としては最初に架設されたといわれるナワラット橋は冒頭の写真に見る通り、鉄骨製の橋に建て替えられたばかりでした。年代的にはっきりとはしませんが、それまでにチークで作ったピン河を渡る橋(冒頭写真)がありましたが、この頃には朽ち果てて立て替えられたとも崩壊して立て替えられたとも言いますが、はっきりとした資料を持ち合わせていません。
この新設なった鉄骨製アーチ型の橋を通ってピン河を渡り、現在のターペー通りに入ると真っ直ぐ西に向かいます。そのまま城門から城内を進んでいくと正面に目指すプラッシン寺院があります。
当時、クルーバー・シーウィチャイは、プラッシン寺院に逗留して寺院の修復をしていた事は既に述べた通りです。
徴兵忌避の罪で服役し、半年の月日が過ぎて戻ってきた愛弟子をクルーバー・シーウィチャイは、静かに、慈悲深い視線を持って迎えたと言います。
この時、クルーバー・カーウピーは二度目の出家を願い出ますが、戒律師としてクルーバー・シーウィチャイは自分が勤める事はありませんでした。haripoonchai.com に記されているところによれば、この時の戒律氏は、クルーバー・シーウィチャイが逗留している寺院の住職であるというのですが、ならばプラッシン寺院の住職ということになります。しかし、サンキート氏の書に寄れば、この時の戒律師は市内ナンターラーム寺院(WAD NANTHAARAAM)の住職であるというのです。プラッシン寺院は今も昔もチエンマイを代表する名刹に違いありませんが、ナンターラーム寺院もまた決して無名の寺院ではありません。
かつてラーンナーの第9代目の王プラチャウ・ティローカラートの全盛期、ラーンナーに恐れ戦くアユッタヤー王国は、ビルマ人僧を雇い入れて呪術を持ってチエンマイの威力を殺ごうとしました。この時のビルマ層が逗留していたのがこのナンターラーム寺院で、プラッシン寺院を出てチエンマイ門を抜けて城外に出、現在私立の病院がある場所の前の三叉路を右折して進んでいくと寺院に出ます。
かくして二度目の出家をしたクルーバー・シーウィチャイは半年余に亘って身に纏った白衣を脱ぎ捨て、改めて黄衣を身に纏いました。そして、クルーバー・シーウィチャイの元で1年に亘って過ごし、師の手伝いをしました。
安吾を終えると、師は一度ラムプーンに帰って行ったようですが、長居することなくムアン・ターク(MUANG TAAK)に向いました。
このタークという町は、南のアユッタヤー、バンコク、スコータイから北上してくる昔の水路にとって避けて通れなかった重要な町のようで、この時よりも1000年以上も昔のチャーマテーウィーもラムプーンに向う途中この町を通っています。そして、この川岸で濡れた衣類を乾かしたのでこの名前(TAAK=干す)が付いたとされています。
また寄り道ついでに言えば、昔、今より200年まり前、アユッタヤーはビルマに襲われて敗れ、廃墟になって今に至っていますが、この時のビルマ軍を襲撃して追い払ったのが、プラチャウ・タークシン(PHRACAU TAAKSIN)といわれ、今もバンコクには彼の像があります。
このタークシンは、プラヤーという地位にあり、その任地が今ここに言うタークでした。従って、当時はプラヤー・ターク(PHRAYAA TAAK)と呼ばれていました。そして、潮州系華人である彼の名がシン(SIN)である為にタークシンと通称され、彼がトンブリー王朝を開いた為にプラヤーという一官僚の地位からプラチャウと王位を名乗ったのでしょう。
こうしてクルーバー・カーウピーはタークに向いましたが、これは当然タークより招請があったのでしょうが、具体的にどこからの招請であったのか残ながら手元の資料には見当たりません。
生まれ故郷のラムプーンを離れてのタークへの旅は二つの方法が考えられます。チエンマイからタークへの川下りは、幾つもの瀬があり、命がけの危険な旅であったでしょうが、この少し前まで盛んに旅人を襲っていた山賊は既に退治されていたのでしょうか。それとも既に開通していた鉄路で下ったのでしょうか。ならばタークより迎えに来る人はそれなりの地位の人であったのでしょう。
タークに向かったクルーバー・カーウピーは、その後42歳までの6年間をターク県内で過ごすことになりますが、この間師の身体は黄衣に包まれていました。
ターク県において様々な施設を修復復旧させたようです。その中には、寺院もあれば、学校もありました。本来こうした施設の中でも学校、病院などは公的機関の業務である筈ですが、どうしたわけか、今に至るも常に「予算不足」という言葉だけが虚しく聞こえてくるようです。
クルーバー・カーウピーは、ターク郡のナールアン村での仏塔建立を終えると、同じくターク県内のメーソート(MEE SOOD)という町に向いました。この町は、ビルマとの国境の町で、両国を遮る川幅は狭く、小さな船で簡単に行き来でき、今も両国の住人が盛んに行き来しています。ビルマ国内での内戦の影響をいち早く受ける町でもあります。
タークの町より山を越え、谷を渡り森を突抜けての正に命がけの冒険と呼ぶに相応しいものであったと思います。マラリア蚊の繁殖している森を抜けての旅です。インパール作戦でビルマに向った兵が終戦後タイ領内に引き上げてくる時襲いかかってきたのも敵の銃弾ではなく蚊の群れでした。
森を抜け、山を下ってビルマとの国境の町メーソート郡に到着した師ですが、ここから更に北上してメーラマート郡(MEE RAMAAD)に向っていきました。その間、4日4晩を費やしたといいます。
何の利益もないそんな危険な旅に耐えられたのは、その先にしっかりとした目的があったからではなかったでしょうか。
そして、そのメーラマートにおいて、師は再び黄衣を剥ぎ取られることになったのです。
(続)
冒頭の端の写真は、ThaiEntrepreniur 氏の下記URLよりお借りしています。
http://www.bloggang.com/mainblog.php?id=entrepreneur&month=19-12-2009&group=14&gblog=1
冒頭写真の二枚目の写真に写っている古ぼけた木造家屋は、当時の県知事の宿舎であると思われます。左端に見える白いものが橋の場所を示しています。この県知事宿舎は、後年日本軍指令官の宿舎になったものと思われます。
「陣太鼓」
http://www.youtube.com/watch?v=KHS2iGDBaNA
ラーンナーに伝わる「陣太鼓」の演舞です。これは演者によって様々なスタイルがありますが、ここではマーノップ・ヤーラナ師のものをお伝えします。ここでの演技は仏典の84,000偈を表しているようです。
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人生そのものが修行のような僧侶ですね。
これだけの苦難の中、めげない原動力は何だったのでしょうか。
やはり使命感ではないかと・・・。本物の僧侶ですね。
傑作
2009/12/21(月) 午前 7:42
貴重で教訓になったお話でした。
人生って何か??って感じました。
2009/12/21(月) 午前 9:36
徳に因る影響力と役人達の影響力では、本質が違うと言う事が解らないのでしょうね。だからこそ、恐れ排除しようとするのでしょうね。
またしても黄衣を脱がされる事に?
2009/12/21(月) 午後 0:27
蚊のパワーはずいぶんすごいらしいですね。
日本では想像できないほどの脅威と聞いたことがあります。
病原菌も持っているでしょうし・・・
揺るがない心があっても、これにはお困りになったのでしょう。
2009/12/21(月) 午後 1:04
千葉日台 さん
コメント&傑作ありがとうございます。
師にとって人生は即苦なのかもしれません。生まれてきた時から赤貧で病弱、4歳にして父をマラリアで失い。長じて仏門に入ると牢に繋がれる。それでも心は真っ直ぐで誰をも恨むことなく、慈悲の心を維持し続け、死を賭しての長旅すらをもあえて拒みません。
僧侶として生きるよう運命付けられていたのでしょうか。不思議な人物です。
2009/12/21(月) 午後 6:18 [ mana ]
NONさん
コメントありがとうございます。
人は何の為に生まれてきたのでしょうか。何かをなすべく運命付けられているとすれば、師にとっての運命は慈善事業を死ぬまで推し進めることでしょうか。それは、クルーバー・シーウィチャイがどちらかといえば仏教寺院に力を注いだのに対して、社会一般の慈善事業に精を出したといえるかもしれませんね。
こうした人生を見るとき、平安の世に生まれてきた我々は社会に何かをなしているでしょうか。自責の念を禁じえませんね。
2009/12/21(月) 午後 6:22 [ mana ]
ジョウジさん
コメントありがとうございます。
世俗の権力者というか自らの能力がないにも拘らず権力・権威だけを欲する人は、こうした無心の人徳者が最も憎いのかもしれません。自分が如何になそうとしても出来ない、もしくは全く気付かないことを何の苦もなく成し遂げ、しかもそれを宣伝することもなくして多くの人々の賞賛を得る。力、存在感を誇示しようという虚栄心だけが旺盛で努力を惜しむ人からすれば、全く何もしていないように見えるクルーバーたちが偉大な事業をいとも簡単にやり遂げてしまうことが不思議でもあり、悔しいのでしょうね。
どの社会でも、何かを成し遂げる人は人一倍努力をしているのですが、それを吹聴しているうちは本物ではないのでしょうね。無言で努力を重ねる人の上に本物の人々の賞賛が寄せられるのでしょう。賞賛を求める人の上には誰も声を掛けませんから悔しく、そして嫉妬するのでしょう。
2009/12/21(月) 午後 6:29 [ mana ]
株式会社セロリの管理人 さん
コメントありがとうございます。
日本では、蚊に刺されて死ぬ人はいないかもしれませんが、コチラの国では毎年何十人、時には何百人もの人が蚊に刺されて死にます。多くはデング熱ですが、単に熱があるからとアスピリン系の解熱剤を飲むと死に至ります。マラリアも恐ろしい病気であることに変わりがありません。熱帯地方を旅行される方は十分な準備が必要ですね。当時はマラリアで命を落とす痴呆の人々は多かったですね。師の父親もマラリアで亡くなっています。
そんなマラリアかが生息する山の中を分け入ったのですから、決死の覚悟だたっと思います。
2009/12/21(月) 午後 6:35 [ mana ]
自身の使命というものは、どういう風にお告げがあるんでしょうか?
それにしても、こんな困難な道に屈する事無く、前のみ見て立ち向かう精神力が凄いですね
2009/12/21(月) 午後 10:32
柚ぽん瑠璃珊瑚晴パパ さん
コメントありがとうございます。
ある意味、思惟ということを排斥し、自然の流れの中を淡々と歩いているのかもしれません。全てのものは因があって果があるとすれば、目の前に現れた現象は全て過去において自分が因となる何かをなしていた、と考えられます。とすれば、果として目の前に現れた現象をどうすることもできないですね。ならば、それを受け入れて前に進むことしかないのではないでしょうか。それが因となって後日、または後世に果となって返って来る、そんな考えかもしれません。そして、そうした行いの基礎に慈悲と仏に対する揺ぎ無い信仰心を抱き続ける。全てをあるがままに受け入れ、釈尊が歩んだ道を追いながら慈悲の心で人々に接していたのではないでしょうか。
常人にはない強靭な心がなければならないと思います。
2009/12/22(火) 午前 5:18 [ mana ]
師への試練が次々とあるのですね。
師を鍛え試すかのようです。
しかしきっと乗り越えられる強さを持っているようです。
傑作
2009/12/22(火) 午後 5:48
さくらの花びら さん
コメント&傑作ありがとうございます。
試練に押し潰される人もいれば、試練で更に逞しくなる人もいます。
クルーバー・カーウピーは試練を試練と思わず平然としているところがすごいです。それは、アヒルの水面下の足かきにも似ています。常に緊張の連続で、どこにも油断がないのではないでしょうか。それは、あの勝海舟が県の達人坂本竜馬に素手で対したときの心構えにも、江戸城無血開城の西郷と勝の会談にも似て、真の勇者とはいかなる困難にも動じることなく、しかも決して用心を怠ることなく、常に最善の策を講じた上で飄々と歩いていくのでしょうね。
人生の達人かもしれません。
2009/12/22(火) 午後 6:11 [ mana ]