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スアンドーク寺院縁起−1−
人は、時として今を思うのみで、過ぎ去った過去を振り返ろうとしないばかりか、自らの歩み来た道筋すら切り捨てて顧みようとはしないものなのでしょうか。人は、時の経過の中で古人のなした偉業を忘却のかなたに投げ捨て、古人のなした偉業を何の感傷もなく消し去って恥じないものなのでしょうか。
城郭都市ムアン・チエンマイ(MUANG CHIANGMAI)を守護する城壁(KAMPHEENG)は、建築当時の土壁から煉瓦積みに改修されながらも、如何なる罪があったのでしょうか。四方を取り囲む城壁は、無残にも打ち壊され、今では四隅にある見張り台とも言えるチェーン(CEENG=チエンマイの方言で「隅」を表しているそうです)と五か所の城門(PRATUU MUANG)を残すだけで、それらを繋いでいた城壁は、城門を守る扉共々見事なまでに破壊されています。
そして、城門の外郭だけが見せ物のように破壊から免れているのが、尚更に人為的な城壁破壊を物語っているように思えてなりません。そんな自らの依って来たる根幹破壊の象徴の如く、東門に相当するターペー門(PRATUU THAAPHEE)だけが、観光客用に、しかも建築当時の面影とは異なる姿形で、名前までも別のものを冠せられて再建され、見せ物のように人の目に晒されているのが、私には何故か哀しく思えてなりません。
それでも観光客用とはいえ、城門・見張り台が残る内城壁(KAMPHEENG MUANG CHAN NAI)は、城郭の四方を取り囲む濠と共に何がしかの価値を認められ、かつての姿を過ぎ行く人々に僅かにでも思い出させてくれます。
それに反し、700年の歴史を誇る貴重な歴史遺産である外城壁(KAMPHEENG MUANG CHAN NOOK)には、何の罪があったと言うのでしょうか。路傍に積まれた建築残土にも似て、地元の人々にすらその存在価値が忘れられたかのように、無残にも至る所で切断され、見る影もないまでに打ち崩されてしまいました。
無残にも壊し崩され、断続的にくり貫いて造られた外城壁の穴には、いつの間にか人間が住み付き、住居が出来上がり、観光客相手の様々な店が出現する様になりました。今、地元の人々に外城壁の存在を尋ねたとして、果たしてどれほどの人々がその存在と形態を正確に答え得るでしょうか。
ただ「カムペーン・ディン(KAMPHEENG DIN=土壁)」という言葉だけが何故か別の意味をもって冷ややかに人々の口の端に上っていた日がつい昨日のことのようでもあり、又、哀れでもあります。
チエンマイには、城郭都市ムアン・チエンマイの他にも、城壁に囲まれた町はいくつかありました。「ありました」と過去形で言わなければならないのが、何故か寂しくもあり、町建設に熱い思いを抱いたはるか昔の人々の気持ちを思う時、残念・無念でもあり、哀しくもあります。
国際的観光都市チエンマイの新しい観光名所として売り出そうというウィアン・クムカーム(WIANG KUMKAAM)もまた、かつては稀代の英雄パヤー・マンラーイ(PHAYAA MANGRAAY) が宮殿を造営して住し、一時的とはいえ王国の都として君臨した時には、四方を城壁に囲まれた長方形の町でした。そのウィアン・クムカームも政治に飲み込まれ、予算取得までは史跡発掘と言う美名で様々に宣伝されながら、予算が下りた途端、紙屑のように捨てられ、掘り起こされた寺院の基壇のレンガは風雨に晒され、雑草が生い茂り、以前にも増して破壊を加速させています。
そして、町、ムアン、ウィアンを建設した王たちは、城壁を巡らせて町を取り囲み、自らの権勢を誇示すると同時に外敵から町を守ったものです。ムアン・チエンセーン(MUANG CHIANGSEEN)、ムアン・チエンラーイ(MUANG CHIANGRAAY)のような大きなものでなくても、城壁は必要だったのでしょう。
正しく東西南北に四方を向けた略正方形の城郭都市ムアン・チエンマイの西門は、通常スアンドーク門(PRATUU SUAN DOOK)と呼ばれています。何故に城門の名前が「スアンドーク=花園」なのか、現代の人々の多くは、スアンドーク寺院(WAD SUAN DOOK)があるが為であると答えるかも知れませんし、少し歴史をかじったことがある人は、門外にあったウィアン・スアンドーク(WIANG SUAN DOOK)に因んだものだと答えるかも知れません。
しかし、このウィアンは、後述する通りムアン・チエンマイ建設より75年が経過した後の建設になることを考えると、私にはそのまま素直には頷けません。一方、ムアン・チエンマイの建設よりはるかに古い時代を題材にした伝抄本「スワンナカムデーン伝」では、チエンマイの西方にムアン・チエンマイ建設に先だって既にウィアンがあったと伝えていますが、これも、ルアッ族の国について言及している同伝抄本の中で、未だ見ぬタイ族の言葉を使って町の名前にしていたと考えることはいささか無理があるように思えます。それとも、実際に町があったが、別の名前で今に伝わっていないだけだと言うのでしょうか。
結局、この城門の建設当初の名前は分かりません。
チエンマイを訪れた観光客の誰もが一度は訪れる名刹プラッシン寺院(WAD PHRA SINGH)は、以前もこのブログで紹介しましたが、この城門の内側に背を向ける様にして東に面して佇んでいます。プラッシン寺院を出て左に寺院の壁に沿って歩いて行きますと、寺院の後ろでT字路に出ます。T字路を右に曲がると正面に見えるのがこのスアンドーク門です。
城門の内側から外を見てみますと、真っ直ぐ一本の道が伸び、遥か正面にチエンマイの聖なる山ドーイ・ステープ(DOOY SUTHEEPH)が聳えています。この道が先のドーイ・ステープ寺院の項で述べたステープ通り(THANON SUTHEEPH)です。
中央分離帯を持たないこのステープ通りは、拡張工事がなされたこともあり、フアイケーウ通りに比して、はるかに広々としています。道の右手には、北部タイ最大の国立総合大学チエンマイ大学の広大なキャムパスが城壁を囲む濠から正面の山裾まで伸びております。そして、城門の内側から眺めて右手に大きな建物が見えますが、これはチエンマイ大学医学部付属病院の病棟です。
路上を行き交う夥しい数の大学に勤める教職員、医師、看護婦、学生、患者、そして、見舞いの人……人……人……そうした人々が利用する自家用車、見舞客を運ぶ赤いミニバスの数々は、駐車場に納まり切らないまま、この道の両側に路上駐車されています。
注意して見れば、そんな一分一秒を争う現在人の休むことのない行動様式の影に隠れ、ここにも古いチエンマイがあることに気付くことでしょう。道の左右を注意しながら歩いて行きますと、左手に銀行を見て過ぎた当たりに建築残土の土盛りにも似た草蒸し、朽ち果てた土壁らしいものが目に入るかもしれません。一部は右手のチエンマイ大学の塀に削り取られながらもキャムパスの中に飲み込まれ、左手にあるものは民家に隠れ、道路に突き破られて……もう、地上からその全容を窺い知ることは不可能なのかもしれません。
むしろ心ない人々からは、そうした土盛は居住空間を制限するものと邪魔者扱いされているのかも知れません。この建築残土にも似た見捨てられた土盛こそが、『ウィアン・スアンドーク』の城壁なのです。草に覆われ、人々の目から隠されて少しづつ壊されて行こうとしている歴史の証人。歴史は、こうして気付かないうちに日々少しづつ消され、捨てられ、忘れられて行くのでしょうか。そう思うと居たたまれない気持ちになります。
でも誰が忘れようとも、少し前の古い航空写真を見てみますと、この当たりに四角形の城壁らしい形跡がはっきりと写し取られており、その四角形の町を分断するように東西に一本の道が貫いているのです。その道がステープ通りに他ならないことは言うまでもありません。ウィアン・スアンドークは、心ない人々の仕打ちを恨むかの様に、自らの姿を写真の中に鮮明に残し、自らの存在を声高に訴えています。
その小さな四角形の城壁で囲まれた町が「花園の町」とも訳し得る「ウィアン・スアンドークマイ(WIANG SUAN DOOK MAI)」とかつて呼ばれていたことを知る人は、もう少なくなってしまいました。
名前はおろか、その存在すら忘れ去られたにもかかわらず、チエンマイの今に残る五か所の城門の一つとして「スアンドーク」という名前だけが残っています。そして、この名前は、地元の人々に二つのことを連想させるのではないでしょうか。
即ち、一つは、「スアンドーク病院(ROONG PHAYAABAAL SUAN DOOK)」という名前で親しまれています。ここは「マハーラート・ナコーン・チエンマイ病院(ROONG PHAYAABAAL MAHAA RAACH NAKHOOR CHIANGMAI)」という正式名称のチエンマイ大学医学部付属病院であるにも拘らず、人々はこの場所の名前を取って「スアンドーク病院」と呼び倣わして親しんでいます。また、今一つは、道の左手にある広大な敷地を誇るスアンドーク寺院(WAD SUAN DOOK)です。日本語に訳せば「花園寺」という何とも奥ゆかしく、女性的な名前の寺院ですが、チエンマイ建国の王朝マンラーイ王家、チエンマイをビルマより解放したチエンマイ王家にとって、この寺院は計り知れない程の重要性を持っているのです。
既述のプラッシン寺院(WAD PHRA SINGH)、ドーイ・ステープ寺院、チェディー・ルアン寺院(WAD CEEDIIY LUANG)、チエンマン寺院(WAD CHIANGMAN)、チェットヨート寺院(WAD CED YOOD)に勝るとも劣らない重要寺院であるこのスアンドーク寺院が、何故に外国人観光客はもとより、タイ人観光客、ひいては地元の人々にすら、その重要性を他の名刹と呼ばれる寺院ほどに認められることなく、注目を集めていないのでしょうか、私には、不思議に思えてなりません。
(続)
冒頭の写真は、西暦1886年に西南方向上空より撮影したスアンドーク寺院全景です。左上の森が現在のチエンマイ大学になります。
下記URLは、チエンマイの航空写真です。中央右よりにある大きな四角形が城郭都市としてのチエンマイで、そこから左に行くと小さな四角形がありますが、これがウィアン・スアンドークです。道を挟んで反対側が現在ではチエンマイ大学で、更に西にある山がドーイステープです。東には南北に流れるピン河が見えます。そして、中央下にチエンマイ空港が細長く見え、その東がタイ国空軍第41航空隊基地です。(参照;wikimapia)
http://wikimapia.org/#lat=18.78818&lon=98.967687&z=14&l=0&m=b
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一つの文明の脅威や影響力を葬り去る事と、自分たちの力の誇示、復活の芽をつぶす等、愚かな政治的な判断で文化は失われてきました。世界中から。スアンドーク寺院の重要性はどのようにあるのでしょうか、続きを楽しみにしています。
傑作
2010/1/8(金) 午後 0:01
熊野古道も実は残ってるところは少ないです
切れ切れです・・・
昔からの営みは大事にしたいです
2010/1/8(金) 午後 1:24 [ 道後 ]
どんな陶器の名品でも、壊すことは簡単、子供が石を投げれば粉々です。破壊する体力と、築き上げる体力は、比較になりません。
環境もインフラも、物事を復元する大変なことといったら・・・
涙ぐましい文化遺産に、ポチです。
2010/1/8(金) 午後 5:24
kitaguniharuo さん
コメント&傑作ありがとうございます。
何かを作ろうとする時、すぐに目の前にあるものを壊すことを考える人がいます。物であっても組織であっても同じことです。しかし思えば今ある物・組織はある必要性のもとに作られたのであってそれなりの価値があったはずです。それを破壊する前にそれを生かしながら別のものを作る、破壊することなく別のものを作る、もしくは被害を最小限にして改造していくことを考えていたでしょうか。スアンドーク寺院もまたある必要性から作られ、ある必要性のもとで修復され、維持されてきました。それはドーイステープ寺院にも劣らないものです。そして、あのクルーバー・シーウィチャイが精魂込めて修復した御堂があります。この稿では、そうした寺院の成り立ちについてみてみたいと思います。
どこまで描けるか不明ですが、宜しくお願いします。
2010/1/8(金) 午後 5:54 [ mana ]
歴史、建造物は破壊と創造の繰り返しの面があります。
破壊と言えばチベット遺産は支那に完膚なきまで破壊され、日本は米国に破壊されました。
やはり伝統ある文化遺産はきちんと残すべきですが、
日本の沖縄では普天間隣接する大学に堕ちた米軍ヘリの衝撃をわざとらしく壊れた壁や焼けた木を大切に残しています。こういうのは残しても如何なものかです。
傑作
2010/1/8(金) 午後 5:57
水大使 さん
コメントありがとうございます。
昔から続いてきた何の変哲も無いこと、それこそが文化です。道も変えるのは簡単ですが、昔の姿を変える必要性がそれほどに強いのでしょうか。便利という名の怠惰か、苦難という名の信仰心か、便利であることも必要でしょうが、中には頑固に不便でも不便を受け入れるところがあってもいいのではないでしょうか。熊野古道という世界遺産が途切れ途切れとは始めて聞きましたが、何とも寂しい感じがします。熊野から伊勢はある意味日本人の心の故郷かもしれません。できるだけ昔を残していてほしいですね。
2010/1/8(金) 午後 6:07 [ mana ]
株式会社セロリの管理人 さん
コメントありがとうございます。
あるものを作るためにはたくさんの試行錯誤の末、失敗作の末に一つ完成します。それに要する努力、気力は並大抵ではありません。ある人間国宝の方の焼いたコーヒーカップが釜場から出てくると欠けていました。その欠けた物を所望したのですが、駄目で叩き壊されました。一つの作品に対する思い入れ、それは芸術家にとっての命にも等しいものですね。そうしたものは社会のあらゆるところにあると思います。しかし、破壊は一瞬の内に全てを否定してしまいます。ですから、破壊には十分な検討が必要とされ、安易な破壊は避けなければならないと思います。特に文化の破壊は取り返しの付かない結果をもたらします。
2010/1/8(金) 午後 6:15 [ mana ]
さくらの花びら さん
コメント&傑作ありがとうございます。
建設と変更、破壊の連続、そうした中で破壊を免れ、その社会にとって欠かす事のできないものが残ってきている筈です。即ち、その時々の人たちは何を残すのか、真剣に考えなければなりませんが、その時に判断の基準となるものは、社会、村の共同体としてのアイデンティーかもしれません。それは大きくなれば国のアイデンティティーともなります。ある記念のものを残すとすれば、それを残すことの意味が問題となります。若しもある「事故現場」を残すとすれば何故でしょうか、「記念」であれば、何の記念でしょうか。社会の中に憎悪をかもすことが目的であるとするならば、事故防止について真剣に対策を練ることのほうが有意義ではないでしょうか。
旧いから残すのではなく、古くから伝わってきたことにはそこに先人の汗と血と涙の全てが含まれている筈で、それに手を加える時には、その必要性について十分な検討が求められると思います。
2010/1/8(金) 午後 6:30 [ mana ]
外国人は別にしても、地元の方々にまで重要性が認められていない、理解されていないと言うのは悲しいですね
過去からのスアンドーク寺院の経歴、勉強させて頂きます
2010/1/8(金) 午後 9:58
こんばんは!
どの時代も私欲をもってしまうと自身で囲ってしまい勘違いしてしまう面が多いですね。基本的には良い人格だと思われますが、勘違いはイケマセン!
2010/1/9(土) 午前 0:15 [ keiwaxx ]
柚ぽん瑠璃珊瑚晴パパ さん
チエンマイは盆地ではありますが、面積が狭い町ではありませんが、町の原型ともいえる城壁に穴を開け、一部はその跡形もなく、いつの間にか住居になってしまう姿を見ると悲しいですね。日本でも同じだとは思いますが、大切に残すべきものもあると思います。先人の残してくれたものを簡単に破棄するには忍びないですね。
2010/1/9(土) 午前 7:14 [ mana ]
keiwaxx さん
コメントありがとうございます。
チエンマイは世界にも有名な観光地であり、たくさんの外国人観光客がやってきます。そうしたときもっとも大切な事は、日本でも同じだと思いますが、いわゆる観光資源開発ということが言われます。その時同時に自然保護、保守が言われますが、誰の為の町なのか、誰の為の自然、風景、社会、文化、伝統・行事なのかを十分に考える必要があるのではないでしょうか。かつて観光収入のために、4月13日から始まるタイのお正月を1日から始めた政府がありましたが、これなどは文化破壊といわざるを得ないと思います。夫々の国の伝統・文化,行事,風俗・習慣を守りながら、それを他所の人々が見学、鑑賞に来るのが本来の観光だと思います。古い物を打ち捨てる時には十分に考慮し、短慮は戒めるべきではないでしょうか。
2010/1/9(土) 午前 7:24 [ mana ]
チェンマイの航空写真見ると…
「自然」と「街並み」が凄くバランス取れてるように感じます。
都会過ぎず…田舎過ぎず…
航空写真だから細部はわかりませんが、自然を感じて生活できそうな街ですね。
行ってみたいなぁ〜(^O^)
2010/1/9(土) 午前 10:03 [ ossa ]
OSSA さん
コメントありがとうございます。
チエンマイはタイ第二の都市といわれ、世界的にも知られた観光都市ですが、一面上から見ると森の中に隠れている田舎町です。そして、人の住む場所に残っている歴史遺産を惨めに壊していることに気付いていないのが寂しいですが、これが国民性なら何ともやりきれないですね。中心部も町の裏に回ればまだ緑が豊富です。そんな環境ですからいわゆるシルバーと呼ばれる人たちが3000人余りも住んでいるのかも知れませんね。
住民は基本的に非常に素朴、一方で、観光客慣れしているところに不自然なものを感じる時もあります。
2010/1/9(土) 午前 10:49 [ mana ]
過去があるから未来があるのですが古き良き物は大切にしたいです。
一度はチェンマイに行きたいです。
傑作○です。
2010/1/9(土) 午後 4:57
近野 さん。
コメント&傑作ありがとうございます。
古い物は残すべきところがあるから人々は残してきたのですが、常に時代の流れに打ち勝てるか否かは、時々の人々が残された旧いものにどれほどの価値を見出すかだと思います。
昨日を大切にしてこそ今日が生きるのであり、明日に繋がるのであって、歴史・文化を大切にする心こそが自分の根っこを大事にすることだと思います。
チエンマイは、古い田舎町ですが、バンコクにはないまだ素朴なところがあります。
2010/1/9(土) 午後 7:39 [ mana ]
こうした遺産の修復や保護活動というのは、行われているんですか。
形ある物は、いずれは無となるんでしょうが、可能な手当ては行いたいものですね。
2010/1/9(土) 午後 9:52 [ コロン ]
コロン さん
コメントありがとうございます。
保護活動はあるか?調査活動は歴史学者、考古学者が行っていますが、それが保護という行政側の動きに繋がるかといえば疑問で、既得権的に住民が居住権の売買までしているのが実情で、壊されてしまった所にはいずれ正式に土地台帳が作られて登記されることになるのだと思います。
ですから保護をする為には、住民にそれが貴重な文化遺産であるという意識が必要ですが、基本的にそうした場所に住んでいる人たちがどこまで本来の文化継承者であるか、という疑問点があります。
2010/1/10(日) 午前 5:37 [ mana ]
こんにちは。
パヤー・クーナーだったか、カーウィラだったかの話で出てきましたね。楽しみにしています。
チェンマイは高い建物がなく、文化的な都市の感じですね。京都っぽいでしょうか。
ポチン
2010/1/11(月) 午後 5:22 [ JJ太郎 ]
JJ太郎 さん
コメント&傑作ありがとうございます。
共にラーンナーの英雄ですが、この時代はパヤー・クーナーの時代で、プラチャウ・カーウィラは、ビルマをチエンマイから駆逐した英雄ですね。航空写真で見てお分かりの通り、チエンマイは今も深い森の中に眠っています。
古都と言う点から言えば京都に似ているかもしれませんね。しかし、町そのものが城郭以外はしっかりとした思想に基づいて区画されていませんので、案外雑然としているかもしれませんね。そして、どの開発国の町の開発の例に漏れず、町の真ん中は徐々に旧いものが消されようとしていますので、保存運動の人たちは苦戦しているようですね。
2010/1/11(月) 午後 6:38 [ mana ]