チエンマイの原風景

古書を片手に霧の彼方の古都チエンマイを訪ねる旅です・・・

チエンマイ古寺巡礼

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スアンドーク寺院縁起−2−

そのスアンドーク寺院は、元々ラーンナー王国(AANAACAKR LAAN NAA=百万の田を有する王国)第6代目の王パヤー・クーナー(PHAYAA KUUNAA)の建設した離宮に建立されたものでした。
その離宮があったウィアンこそが「ウィアン・スアンドークマイ」です。というより、離宮としてウィアン・スアンドークマイを建設した、と言うのが正しいかも知れません。この離宮が如何にして寺院となったのか、その謂れに関しては以下に順次述べるとして、ここでは、その離宮を建設したパヤー・クーナーについてその人となりをチエンマイの歴史の中で見て見ましょう。
ムアン・チエンマイは、今でこそタイ国北部の一地方都市の地位に甘んじ、首都バンコクの近代的発展から見れば一田舎町に過ぎませんが、何となく不思議な魅力を持つ名前のこの町が、遥かな昔、まだノッパブリー(NOPH BURII=新しい町)とも、ナコーン・ピン(NAKHOOR PHINGKH=ピン河の辺の町)とも呼ばれていた頃には、ここは、ラーンナー王国の都でした。
南はスコータイ王国(MUANG SUKHOOTHAY)に接し、東には同じ部族のパヤウ王国(MUANG PHAYAU)が立ちはだかり、西にはタイ・ヤイ族(THAY YAI)が、そしてビルマ族(PHAMAA)が西進の隙を伺い、そして北には、強大な軍事力と旺盛な権勢欲を持つ中国が今にも飲み込まんと覆いかぶさってきていました。
若干21歳と言う若さでンガーンヤーン王国(AANAACAKR NGAAN YAANG)の第25代目の統率者となった若き英雄、王国創業の覇者パヤー・マンラーイは、南のスコータイの王パヤー・ルアン(PHAYAA RUANG=即ち、王国第3代目の国王ラーマカムヘーン王(PHRACAU RAAMKHAMHEENG))、東のパヤウのパヤー・ンガムムアン王(PHAYAA NGAMMUANG)と盟約を結んで安全を確保しました。
一方、各地に散らばる群小タイ諸部族を切り従えて糾合し、又、姻戚関係を結んで安全を図り、勢力を扶植して影響力を強めながらも、北方から覆い被さる中国に対しては涙を呑んで屈従し、朝貢を認めました。そんな北からの圧力を少しでも軽減しようと言う意図があったのでしょうか。パヤー・マンラーイは、故郷を離れてやや南、コック河(MEE NAAM KOK)流域に新都を建設し、自らの名前を取ってムアン・チエンラーイ(MUANG CHIANGRAAY)としました。
次いで、西に迂回して山を越えて南下し、ムアン・ファーン(MUANG FAANG)を建設し、いよいよピン河(MEE NAAM PING)流域平野への進出の足がかりを築きました。そして、モーン(MOON)族の王国ムアン・ハリプンチャイ(MUANG HARIPUNNCHAY)を攻略し、ここにコック河ピン河両河川流域平野を支配する広大な王国の基礎を築いたのです。
時に仏暦1835年(西暦1292年)のことであったと言われております。
その後、ムアン・チエンマイを建設して「ノッパブリー・シー・ナコーン・ピン・チエンマイ(NOPH BURII SRII NAKHOOR PHING CHIANGMAI)」を建設して確固不動の地位を築いたのです。時に、仏暦1839年(西暦1296年)のことでした。
北の脅威に怯えながらの王国統治が続く中で、創業の覇者パヤー・マンラーイ亡き後の歴代王たちは、ムアン・チエンマイの政治的・経済的重要性を認めながらも、誰もが北方から押し寄せる中国の軍事的脅威に怯え、王国防衛の軍事的・政治的必要性からチエンマイを離れて北の町に居を構えて有事に備えていました。一方、ムアン・チエンマイに関しては、後継者を配して副王として統治させていました。即ち、創業当初にあっては、ムアン・チエンマイを統治する者こそが、次代におけるラーンナー王国の王となれたのです。北のコック河流域平野、南のピン河流域平野と言う二大平野を統合した王国の中枢としてのチエンマイの重要性と建国間もない王国の不安定な様子がここに偲ばれます。
そんな中で三代目の王パヤー・セーンプー(PHAYAA SEEN PHUU)は、パヤー・マンラーイが建設した旧都ムアン・チエンラーイの更に北、ンガーンヤーン王国の故地よりも更に北のコーン河(MEE NAAM KHOONG)の南に沿って、かつての町、廃墟の古都跡に北方守護の為に新たにムアンを建設して自らの名前を関してムアン・チエンセーンと名付けたことはよく知られている通りです。
即ち、今に残るコーン河の岸辺の町、チエンセーンの原型です。そしてパヤー・セーンプーはそこで暮らし、四代目の王パヤー・カムフー(PHAYAA KHAMFUU)は、その町で生涯を終えました。
不思議な伝説を持つこのパヤー・カムフー王の遺骨を安置する為に後継王であり、息子のパヤー・パーユー(PHAYAA PHAAYUU)が建立した寺院が、今に至るもチエンマイの旧城壁内中心部に残る名刹プラッシン寺院(WAD PHRA SINGH WOORA MAHAA WIHAAR)であることも又、有名な話です。
しかし、パヤー・パーユーは、歴代王のようにチエンマイを後継者に任せることなく、自ら統治しました。このパヤー・パーユー以来、チエンラーイとチエンマイの立場が逆転し、ラーンナー王国の歴代王はムアン・チエンマイに終生腰を落ちつけ、王国経営の中枢としたのです。
ここに名実共にムアン・チエンマイが俗に言うラーンナー王国57ムアンの中心となったのです。
即ち、この頃になると、北の中国に対してさしたる恐怖を抱かないまでに王国内部はしっかりとしたのでしょう。むしろ、中国国内では、蒙古のような南進策を採らなかったのかも知れません。ともかく、北から押し寄せて来る軍事的圧力が、それまで程に脅威とはならなくなっていたのでしょう。そんな王国の不動の地位は、パヤー・パーユーの子供パヤー・クーナーの時代になると、ますます顕著になりました。そのことは、パヤー・マンラーイ以来連綿と続けられてきた中国に対する朝貢を一方的に中止してしまったことからも察せられます。
チエンマイの歴史について語る際に避けて通ることのできない筈の第6代目国王パヤー・クーナーですが、「チエンマイ伝」「十五代王朝伝」では、彼の偉業は殆ど言及されることがなく、只、40歳にして王位に就き、王位にあること21年、御年61歳にして崩御したと簡単に述べ、なしたことと言えば、ウィアンの北に新しくウィアンを建設したということ位です。
ウィアン・ブア(WIANG BUA)のことでしょうか?
彼の偉業とも言えるドーイ・ステープ寺院建設について言及することも、又、今我々が訪ねようとするこのウィアン・スアンドークマイについて述べる所もなく、単に彼の御世には宗教が栄え、国は繁栄したと簡単に述べられているだけです。むしろ、彼の死後の国内の混乱とその結果のシヒン仏(PHRA PHUTHTHA SIHINGKH)の到来に重きが置かれているかのように思えます。
「王朝物語伝」でも、御年40歳にして仏暦1910年に王位に就いたと述べています。しかし、この年代もチエンマイ大学のスラッサワディー・オンサクン先生は、その著「ラーンナーの歴史」においては、パヤー・クーナーの即位を仏暦1898年と12年も早めております。そして、スラポン・ダムリクンの「ラーンナー」においても同年代であります。この時代の年代はかなり不正確なものがあり、伝抄本そのものが明らかな誤謬に冒されている例も多々あります。
それはともかくとして、パヤー・クーナーは、ラーンナー王国第5代目の国王パヤー・パーユーの長男として生まれ、母は、ムアン・チエンコーン(MUANG CHIANGKHOONG)の城主、チャウ・ングアターン(CAU NGUATHAANG)の娘チットラー・テーウィー(CITRAA THEEWII)です。
パヤー・パーユーの長男である彼には幾つもの名前が付けられてきました。まず始めに、ポー・ターウ・パントゥー(PHOO THAAW PHANTUU=パントゥーとは如何なる意味のでしょうか、辞典で探してもうまい訳が見当たらず、只ジャワ語では「戦う」という意味があるとのことです)と名付けられたそうです。次いでポー・ターウ・ウェーサプー(PHOO THAAW WEESAPHUU=ウェーサプーとは、過去七仏の一つで、日本で言う所のビシャフ仏で、第3番目の仏の名前です)と名前が変わりましたが、「スアンドーク寺院伝」では、更にサヤムプー(SAYAMPHUU=仏陀)という名前すらをも紹介しています。
それから、父王パヤー・パーユーが10億(TUU)の田(NAA)の租税を領させたが故に、ポー・ターウ・トゥーナー(PHOO THAAW TUUNAA=10億の田の領主)と呼ばれましたが、後年いつの頃からか、クーナー(KUUNAA=1億の田)と呼び倣わされて来たもののようです。
王国の名前がラーンナー(百万の田)である時、王子につけられた名前が10億であったり1億であったり、王国の名前以上に広大な名前が付けられていることに、この王子の時代の王国の豊かさ、強大さ、経済的安定を想像することが出来ます。
このパヤー・クーナーは、その御世において仏教を厚く保護し、各種学問を奨励し、自らも様々な学問に秀でていたようです。その当時のムアン・チエンマイは、食物に溢れ、豊富な食糧事情にあったようです。当然なことに、豊かな食糧事情が多数の勇敢な兵を養い、王国内の人々は、誰もが飢餓に苦しむことなく平安の内に暮らしていました。そんなムアン・チエンマイの繁栄に対し、異郷のムアンは、畏敬の念を持って貢ぎ物を差し出すことを欠かさなかったといいます。
そんなチエンマイの豊かさ、強靭さを象徴するかのように、パヤー・クーナーに王子が生まれると、異郷のムアンの王たちは競って祝の品を送ってきました。その奉祝の使者を送って来たムアンの数の多さを示すかのように、王子につけられた名前はチャウ・セーンムアンマー(CAU SEEN MUANG MAA=十万のムアンがやって来た)というものでした。因みに、チャウ・セーンムアンマーの母は、ムアン・チエンコーンの城主ポー・ターウ・ングアターンの孫であるプラナーン・ヤスンタラー・テーウィー(PHRA NAANG YASUNGTHRAA THEEWII)という名前ですから、パヤー・クーナーは、ムアン・チエンコーンの城主ポー・ターウ・ングアターンの娘を母に持ち、彼の孫を妻に持っていたことになります。
余談ながら、当時の中国側資料では、そんな血の結び付き・姻戚関係構築によって王国を維持・拡張しようとするラーンナー王国を「八百媳婦国」と呼んでいます。

(続)
冒頭の写真は、下記URLよりお借りしたスアンドーク寺院の御堂とチエンマイ王家のお墓です。
http://www.oknation.net/blog/key/2009/09/24/entry-2

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綺麗な寺院ですね

しかし子供の名前に、大きさを表す言葉を使うなんて面白いですね
続きは、チャウ・セーンムアンマーの話になるのかな?

2010/1/12(火) 午後 10:13 yuzupon

ジョウジ さん

コメントありがとうございます。
タイ族というのは非常に数多くの部族に別れて広範囲に散らばっています。今の雲南省辺りにはかなりのタイ族がいます。そして、広西チワン族というのもタイ族のはずですし、西双版納にもタイ族がいます。ベトナムにもインドにもいます。勿論ラオスはタイ族の国です。ビルマ東部にも散らばる、そうした群小タイ族のうち、近くにいる雲南省の部族国家を糾合して姻戚関係を結んでいます。これによって中国の南下に備えて協力な連合国家群を作ったようです。彼らにとって最大の敵は、当時にあっては有史以来中国です。数千年に亘って南下してきたのも中国に押されながら、押し潰されないようにより安全で強固な地を求めていたのだと思います。

2010/1/12(火) 午後 10:16 [ mana ]

近野 さん

コメント&傑作ありがとうございます。
タイ族は同じタイ族の各地に散らばる部族国家を婚姻官憲を結ぶことによって結びつけ、中国の圧力に耐えながら、後のモーン族という先住民族を平定しました。メコン河を一つの防御にし、なおかつ更に南のコック河に新しい都を建設して中国に脅威に備え、しかも、更に南下してより広大なピン河流域にチエンマイを建設して中国の脅威を防ぎました。朝貢は生きるために仕方ありませんでしたが、決して中国の支配下に入ることはなく、朝貢を取りやめる事が彼らの目的でした。タイ族は、ビルマに支配されていた200年間の間も非常に数多くの反乱を企て、服従すると見せては裏を掻くことも平気でして来ました。大陸国家で生きていく為には硬軟、策謀を用いざるを得なかったのでしょう。

2010/1/12(火) 午後 10:24 [ mana ]

kitaguniharuo さん

コメント&傑作有難うございます。
栄枯盛衰は世の習いです。タイ族はここ北部タイで1000年近くに渡って様々なことを経験して来ましたが、常にタイ族の誇りを維持していきました。
しかし、余り言いたくはありませんが、現在のタイは、華人のタイ国になっています。タイの背骨といわれる農家は家事人承認に鐘で縛られ、働いても借金が増えるだけです。タイの精米業は100%華人に握られていますから。
役人も幹部は大半が、警察幹部の大半が、辛うじて軍にはまだタイ人がいますが、これも司令官クラスは多く華人です。将来を考えると怖くなります。

2010/1/12(火) 午後 10:30 [ mana ]

さくらの花びら さん

コメント&傑作有難うございます。
生き残る為には朝貢をしますが、決して国防を怠ることなく、常に戦闘準備をしてきました。そして、チエンマイ建国後約50年にして中国への朝貢を取りやめ、中国の脅しも無視しています。つまりこの50年間常に臨戦態勢で国をまとめてきたのです。そのために同盟国として同属タイ族諸部族を糾合して広大な王国にしたのですが、これは国家の集合体で各国はかなりの自由を有し、チエンマイの力が弱まればいつ飛び出すか解りません。ですから、チエンマイは小国を統御しながら、自国経営を確かなものにしなければなりませんでした。

2010/1/12(火) 午後 10:37 [ mana ]

千葉日台 さん

コメント&傑作有難うございます。
クメールが何故巨大な国家になったのか、アユッタヤーが何故に世界的商業国家となったのかを考えると、クメールにはトンレサップという湖があり、その氾濫地ではインディカ米が取れます。又アユッタヤーはメナム川の氾濫流域ですからこれもインディカ米に最適です。タイは昔はもち米栽培で、日本のもち米と同じものです。しかし、それでは水害に耐えられません。ところがインディカ米は耐えられ、特にアユッタヤーでは浮稲という長さ数メートルに及ぶ稲があります。ですから洪水でも水の上に浮かんで稲を実らせます。食糧事情がよくなれば自然と人口が増えます。人口が増えれば国力が増します。そして、人口が増えれば耕作地を更に拡大することが出来ますから、国力が伸びます。
チエンマイでは、インディカ米ではなく今に至るも主力はもち米ですからアユッタヤーほどの国力増強は出来ませんでしたが、しかし彼らは水稲栽培を持ち込みましたから、定着して戦争がなければ田地を開拓して食糧事情をあげることが出来ます。

2010/1/12(火) 午後 10:47 [ mana ]

株式会社セロリの管理人 さん

コメントありがとうございます。
朝貢を取りやめる事は服従しないことですから、戦闘を覚悟しなければなりません。チエンマイ建都から50年、それ以前の年数を入れると、タイ族は中国との戦いの歴史だったのかもしれません。そして、チエンマイの経営を確かなものとし、前線基地のチエンラーイ、チエンセーンという城郭都市を築き、周辺同属国家を糾合して広大な地に影響力を持ったとき、屈辱を雪ぐ決意をしたようです。そして、実際に戦っていますが、勝ちます。彼らのチエンマイ建都後50年は雪辱を雪ぐ為の準備期間にも似ています。まず、国防を力の限り備えて防備を確かなものにしなければなりません。それで押し潰されない状況を早く作ることです。防備に十分な力があれば敢えて戦いを挑む国はありません。

2010/1/12(火) 午後 10:55 [ mana ]

柚ぽん瑠璃珊瑚晴パパ さん

コメントありがとうございます。
チエンマイの王様は案外単純な名前をつけますが、アユッタヤーの王様はバラモン教の影響で大変に大袈裟な名前をつけますね。チエンマイの創設者マンラーイは、父、母、そして母方祖父、この三人の名前から少しずつ取り集めて命名されています。それだけ当時はインドのバラモン教の影響も色濃くはなく、素朴だったということでしょうね。ちなみにセーンムアンマーの子供は生まれた場所を名前にして、サームファンケーンといい、その子供は10人の男の子がいて夫々数字の1から10までを名前にしています。

2010/1/12(火) 午後 11:00 [ mana ]

四方を敵に囲まれ、常に大国の脅威にさらされていたこの地理的条件こそが、現代タイの老獪なまでの外交上手を育てたんでしょうかねぇ。この頃の中国は北方や倭寇などの脅威にさらされ、南下どころじゃなかったんじゃないでしょうか?

2010/1/12(火) 午後 11:06 yam*a*yuic*i

yam*a*yuic*i さん

コメントありがとうございます。
大陸国家は生き残る為にはあらゆる手段を講じ、一時の屈辱をも甘んじますが、必ず跳ね返す時を狙っています。そして、巧みな外交政策を労します。微笑だけではない国ですね。
いわゆる日本に向った元寇の時代は過ぎています。南に降りてきた彼らは、メコン河を越えて現在のタイ領に入ることなく、東西に伸びます。しかし、考えなければならないのは、元軍が膨張すれば中にいる部族が弾かれる事になります。弾かれた部族が生き残りの為に別の部族を叩きます。メコン川北には中国回族が中国軍の代理となってタイ族諸部族を苦しめます。

2010/1/12(火) 午後 11:27 [ mana ]

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支那の脅威が 昔から・・・今もあるのでしょうね・・・
日本も危ない・・

2010/1/13(水) 午前 1:00 [ 道後 ]

水大使 さん

コメントありがとうございます。
中国は膨張主義が彼らの国民性です。板のタイの全ての分野を制しているのは歌人です。歴史学においてすら華人に占められています、中共の膨張で当地華人も自らの出自を誇っていますし、チエンマイも10年ほど前から市内に華人グループが門を立てていますが華字を記し、勝手に市内の市場に中華街を形成してしまいました。

2010/1/13(水) 午前 5:34 [ mana ]

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少し教えて頂きたいのですがなぜ何時頃華人の進入が始まったのでしょうか?

2010/1/13(水) 午後 0:30 madeinpuyuma

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manaさんの博学に感謝です。視野が広がっていく感じですね。
南方は低俗で野蛮みたいな意識が醸成されていたんですが、
スアンド−ク寺院のような素晴らしい建造物を作る技術力、
資金、労働力などが、備わっていった背景があったんですね。

今、東南アジアの国々は、華人、韓人が経済を担っている場合が多く有ります。お金で国を買っているのか?と思えるくらいですね。

2010/1/13(水) 午後 5:51 [ コロン ]

puyuma さん

お問い合わせの件ですが、タイ全国で言えば400年以上前、山田長政の時代にはすでにアユタヤーに入り込んでいます。ジャンク船の商人ですね。彼らは商人ですが、その中からこの地に腰を落ち着けるものが出てきて、租税徴収請負権を取得し、精米所を独占して来ました。
そして、忘れてならないし、最も重要な要素だと思いますが、200数十年前に、現王朝の前のトンブリー王朝を打ち立てたのは潮洲系華人で名前はシンです。彼は役人でしたが、アユッタヤーがビルマに滅ぼされると、バンコク東部の町にいる同じ潮洲系華人の武装組織を使ってビルマを撃退して王朝を打ち立てます。彼がプラチャウ・タークシン(タークシン王)と言われて、バンコクに大きな像があります。
彼の王朝は一台で短いのですが、この時期に華人は括弧とした地位を築き、多数の同郷人を呼び寄せたと思われます。従って、タイの華人は東南アジアでは極めて珍しい潮洲系華人だといえます。そして彼らにはロイヤル・チャイニーズという呼び名が陰であり、自分たちの正当性、この国の所有者的心理を形成しているのです。

漠然とした答えで申し訳ありません。

2010/1/13(水) 午後 8:33 [ mana ]

コロンさん

コメントありがとうございます。
タイでは韓人は無力です。
華人は、既にタイ経済のすべて、官僚、警察、軍を抑えています。
タイの私立銀行上位行は全て華人のファミリー経営です。しかも潮洲人です。
昔の寺院建立は基本的には国王の力ですが、最近の修復はクルーバー・シーウィチャイの時代も含めて民間の寄付で勧められます。従って、寄進者となる華人の力がここでも増してきて、寺院の中に中国仏が安置されたり、チエンマイにはまだ見ませんが、一部地方では観音像が建立されています。

2010/1/13(水) 午後 8:42 [ mana ]

三国志に出てくる孔明の南蛮遠征の”南蛮”は、どのあたりまでのことなんでしょうか?象や”ゲテモノ食い”が出てきたりしますが、ベトナムやタイのような気がします。

2010/1/13(水) 午後 11:48 yam*a*yuic*i

yam*a*yuic*i さん

コメントありがとうございます。
タイのお噺で、民族移動の際に孔明と戦ったというのがあります。その時にでてくるものでは、孔明が銅鼓をつかってタイ族を脅かした、というのですが、その銅鼓は、広い範囲に広がり、ひとつの文化圏ではないかといわれています。即ち、中国雲南省とタイ北部、そしてベトナム北部です。その三点には広くタイ族が広がっています。勿論チエンマイにも銅鼓があります。ですから、お話しの件は中国南部雲南省あたりのタイ族の一部と孔明の遠征軍が接触したのかもしれません。もしも現在のタイ北部まで孔明が来ていたとすれば、今頃は中国の範囲に組み込まれていると思います。

2010/1/14(木) 午前 5:43 [ mana ]

なるほど、そういうことなんですねぇ。雲南省あたりで接触して、その後タイ族自体が移動した。現在のタイ北部まで来てたとしたら、確かに”中国”になってますねぇ。ありがとうございます。

2010/1/14(木) 午前 6:20 yam*a*yuic*i

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この記事がアップされた頃ちょうど私はチェンマイに滞在してたなぁ…
いやぁ懐かしい いいところですねチェンマイ 外人の老人が多いけど まぁそれがいいんですがね そうかぁよく行ってるんだ? ホントはねインドだけを4ヶ月ほど旅をする予定だったんだけれど体調を崩してカルカッタから逃げてきて療養してました 私の住まいは冬がムチャ寒いところなので こんどの冬もまたチェンマイへ行こうか?などと思ってます

2010/7/14(水) 午後 5:56 [ sas*rai*ot*b*bito*yuki ]


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