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スアンドーク寺院縁起−3−
パヤー・クーナーの時代は、対外的に脅威となる勢力はなく、政治の関心が国内に向いていたようです。パヤー・クーナー自身も豊かな教養を身につけていた模様で、「王朝年代記」においても、パヤー・クーナーは、王の十正道に基づいて統治し、篤く仏教を振興し、諸学に通じていたといいます。
仏暦1898年(西暦1355年)に王位に就いたパヤー・クーナーは、仏教に篤く帰依する王として、仏教の教義、言語学、特にバーリー語の知識、様々な仏教儀式の儀規に秀でた僧を捜し求めていました。即ち、当時ムアン・チエンマイ建設より既に60年の歳月が流れ去り、従来より受け継いで来た仏教知識、モーン族より受け継いだ仏教教義に対して何らかの不満を持っていたのでしょうか。
パヤー・クーナーが仏教の教義、儀規に通じた学識僧を求めていたその頃、南のスコータイの方からプラ・マハー・スマナ・テーラ(PHRA MAHAA SUMANA THEERA)という名前の一人の僧の名声が流れてきました。
深く仏法を体得し、スコータイにおいて、僧たちに三蔵を教授していた師は、ある日夢枕に出た神のお告げにより、ムアン・パーンチャー(MUANG PAANGCAA)の廃寺に見捨てられている仏舎利がチエンマイに向うことを望んでいる、ということを知りました。
そこで、ムアン・シーサッチャナーライ(MUANG SRII SACHCHANAALAY)のプラヤー・ルータイ(PHRAYAA LUUTHAY)に発掘の許しを求めたところ、王は驚きながらも、歓喜して発掘の許しを与えたといいます。神のお告げの通り仏舎利を掘り起こしたプラ・マハー・スマナ・テーラは、それをプラヤー・ルータイのもとに招来すると、仏舎利は王の目の前で奇跡を現じて見せました。
次いで、その噂を伝え聞いたスコータイのプラヤー・タムマラーチャー(PHRAYAA THARMMA RAACHAA)も仏舎利を迎え入れましたが、不思議にも仏舎利はスコータイの王の目の前では奇跡を現じて見せることがなかったといいます。目の前で奇跡を現じない小さな粒をプラヤー・タムマラーチャーは仏舎利とは認めず、冷たい態度で、その処理をプラ・マハー・スマナ・テーラに任せました。
一方、師の名声を伝え聞いたパヤー・クーナーは、ムーン・ンガーンコーン(MUUN NGAAN KOON)と二人の白衣の修行者をムアン・スコータイのプラヤー・タムマラーチャーのもとに差し遣わして、プラ・マハー・スマナ・テーラを招致したい旨を告げさせると、師の偉大さ、師の保持する仏舎利の尊さを知らない王は、使者の求めを受け入れ、師のチエンマイ行きに何の異議を差し挟むことなく許しを与えました。
北上の旅に出た師が現在のラムプーン(LAMPHUUN)に相当するムアン・ハリプンチャイ(MUANG HARIPHUNCHAY)に到着すると、パヤー・クーナーは、自らセーン・カウホー(SEEN KHAU HOO)にまで迎え、ムアン・ハリプンチャイの東方に位置するプラユーン寺院(WAD PHRA YUUN)に師を招致しました。師は、伝え聞いた名声に違わない素晴らしい知恵を有し、弁舌巧みで説法に優れており、パヤー・クーナーから厚く保護を与えました。
時に仏暦1912年(西暦1369年)のことでした。
プラ・マハー・スマナ・テーラがプラユーン寺院に逗留中のことだといわれていますが、師は、パヤー・クーナーにムアン・パーンチャーの廃墟より掘り起こし、招来した仏舎利の話をして聞かせました。すると、パヤー・クーナーは大いに驚き喜び、黄金の塔の中で香水で仏舎利を清めたといいます。
しかし、想像が許されるならば、仏舎利を清めたのは我々が想像するような塔、即ち卒塔婆の中ではなく、水をはった黄金の盆、もしくは、水椀の上に尖塔を持つ構築物を被せたのかもしれません。ともかく、清められた仏舎利は奇跡を現じたのです。
深い信仰心のもとで芳しい香りのついた水でその仏舎利を清めると、洗い清められた仏舎利は、1片は金色に、そして今1片は銀色をした2片に分かれ、水面を漂いながら、時計回りに回り、その時、天空一面真っ暗になったと伝承は伝えています。そうした不思議な現象を目の当たりにしたパヤー・クーナーを初め、プラ・マハー・スマナ・テーラ、役人たちは誰もが一様にあらためて仏舎利の力に平伏し、益々信仰心を深めたといいます。そして、不思議なことに、その夜季節でもないにもかかわらず、雨が降りました。
話しは変わって、このプラ・マハー・スマナ・テーラが後年チエンマイにやってきてスアンドーク寺院に住するのですが、そのスアンドーク寺院建立の地に選ばれたウィアン・スアンドークとは、そもそもどのような町だったのでしょうか。タイ族ではありませんが、先住民族ルアッ族の伝承を伝える「スワンナカムデーン伝」という伝承本がありますが、この中でウィアン・チェットリン(WIANG CEDLIN)について述べられています。
はるかな昔よりドーイ・ステープの山裾にはルアッ族が集落を作って住んでいました。そんな中に幾つものウィアン(町)が生まれ、歴史に名を残したのがこのウィアン・チェットリンですが、今その姿を求めることは至難の業です。ただ、現在のドーイステープ寺院に向う山道の上り口右手にあっただろうと言われています。
そうした古い町はピン河というよりもカー河(MEE KHAA)に拠っていたのかもしれません。
このカー河は、チエンマイ建都に際して数えられた7つの吉瑞の一つであり、ドーイ・ステープの山にその源を有し、現在のチエンマイの町を囲むように流れて大地を潤しながらピン河に合流しますが、この幅数メートル深さ約1.5メートルいの決して大きくはないカー河がチエンマイの外城壁の濠となっていることを知る人もまた少なくなりました。現在残るチエンマイの旧城壁にある濠は人工ですが、外濠は天然のカー河なのです。
パヤー・クーナーは、そんなカー河の左に位置する農園に寺院を建立したいという意向を持っていたと伝承は伝えていますが、とするとこの園とは、昔のウィアン・チェットリンのことでしょうか。
そんな王の希望は、夢の中に表れた神が好しとせず、パヨームの木が茂る園が寺院建立に相応しいと告げたといいます。これが後のウィアン・スアンドークです。当時、このウィアンの場所には、パヨームの木が茂っていたようで、今もこの近くにある市場の名前はパヨーム市場と呼ばれてその名残を止めています。
予断ながら、このパヨーム市場の出現に関しても悲しい農婦と強欲な商人の実話がありますが、ここでは横に逸れ過ぎますので触れません。
このウィアン・スアンドークの建設年代を伝承の中に探すのですが、無学な管理人にはここでそれを記すことが出来ず赤面の至りです。
しかし、パヤー・クーナーの時代に出来た事は間違いないようで、チエンマイ大学のウィアン・スアンドーク城壁調査会の文章を読むと、これも混乱を呼ぶもので、調査会メンバーに歴史学者、考古学者が一人も入っていません。チエンマイ大学内に微かに残るウィアンの城壁を調べておこうとするだけのようですが、その記述は英語とタイ語で記されてますが、ここでも城壁の長さに違いが出ています。即ち、タイ語では、城壁は正方形で各辺の長さは470メートルであるというのですが、同じページに記されている英語では570メートルとなっており100メートルの差があります。
それは兎も角、昔の人々は、我々現代人が想像する以上に夢を信じること甚だしかったようで、伝承の中でも屡々夢のお告げが出てきます。奇妙な夢を見たパヤー・クーナーは、プラ・マハー・スマナ・テーラを招請して夢の中に出たその園を見に行くと、その地を目にした師もまた大いに宜しいと告げたといいます。
その後、パヤー・クーナーは、夢の中で巨大な歯車程の大きさの蓮の花が一輪その花園の中で美しく花開き、芳しい香りを放ち、多数の蓮の花を引き連れている様をも見ました。そこで、パヤー・クーナーは、かつてインドにあって貧者に食を与えていた給孤独長者(ANAATHABINTHIKASAA MAHAA SEESTHII)が建立した祇園精舎(CHEETAWANA AARAAM)に倣って巨大な僧舎を建立することにしました。
かくしてスアンドーク寺院が建立されることになりますが、では、今残る寺院の大きさはどれほどか、というと、28,488平米の面積を有し、正方形に近い台形で、北辺は183メートル、南辺は193メートル、東辺と西辺は共に176メートルのようです。
そして、今に残るクルーバー・シーウィチャイ監督の御堂は、実に大きく、幅25メートル、奥行き66メートルというもので、特徴としては四方の壁には、窓がなく、模様を施した金網となっています。
こうして建立された寺院が、もともと花園であったからでしょうか、それとも夢の中で診た蓮の花に拠ってでしょうか、「ブッパーラーム・スアンドークマイ寺院(WAD BUPPHAARAAM SUAN DOOK MAI)」と名付けられました。
ここで使われているブッパーラームとは、サンスクリット語もしくはバーリー語でブッパ(BUPPHA=花)+アーラーム(AARAAM=僧舎)で、これだけで花園寺院となります。しかし、現在では単にスアンドーク寺院と呼ばれ、ブッパーラーム寺院という名前の寺院は別途チエンマイの繁華街の中に位置していますので、文章を読む時に注意が必要です。
この建立が一般に仏暦1914年(西暦1371年)といわれています。
次いで、パヤー・クーナーが夢の中で巨大な蓮の花を見た場所の西北にプラ・マハー・スマナ・テーラの為に僧坊を建設し、更に翌年には、その寺院をプラ・マハー・スマナ・テーラに寄進し、夢の中に出てきた蓮の花の東南方向に結界を結ばせました。これが、後年カウトゥー寺院(WAD KAU TUU)とも呼ばれるようになった本堂です。
次いで、夢の中で巨大な蓮の花が立った場所を仏舎利安置を目的とした大仏塔建立の地とし、その仏塔建立が完了すると、自らの宮殿を移築して、一棟の大御堂を建立させ、御堂に安置する仏像を鋳造させたといいます。全てが完了すると、パヤー・クーナーは、盛大に奉祝行事を催し、大いに供養・参拝したそうです。
そして、プラ・マハー・スマナ・テーラを招請して新しく建立なったブッパーラーム・スアンドークマイ寺院の住職としました。
一方、師がもたらした仏舎利は、淡紅色の珊瑚(PRAPHAAL)の壺に納められ、更にそれを黄金の骨壺、そして銀の骨壺、真鍮の骨壺に順次納めると、仏塔の中に安置しました。
(続)
冒頭の画像は、下記URLよりお借りしました。スアンドーク寺院内御堂に安置されている仏像です。仏像の周りにはたくさんの仏像が安置され、後には背中合わせに巨大な立像仏が一体安置されています。
http://www.armno.in.th/20090712/gallery-%E0%B8%A7%E0%B8%B1%E0%B8%94%E0%B8%AA%E0%B8%A7%E0%B8%99%E0%B8%94%E0%B8%AD%E0%B8%81-%E0%B8%88-%E0%B9%80%E0%B8%8A%E0%B8%B5%E0%B8%A2%E0%B8%87%E0%B9%83%E0%B8%AB%E0%B8%A1%E0%B9%88
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サイパンはカナダより魅力的 さん
コメントありがとうございます。
タイ語の特徴のひとつは、純粋タイ語だけではなく、かなりの割合でバーリー語とサンスクリット語が入っています。これは、仏教経典が基本的にバーリー語という釈尊在世中のマガタ国の地方方言で書かれていることに加えて、サンスクリット語という聖なる言語がバラモン教と共に入っているからだと思います。したがって、日常会話、タイ語の中に無数のこうした言語が入っています。これがタイ語の会話は兎も角読み書きを難しくしているようです。
2010/1/17(日) 午後 6:13 [ mana ]
cocoa さん
コメントありがとうございます。
タイの仏教寺院というのは基本的に非常に色彩豊かです。
かつての日本の寺院もかなり極菜色で飾られていたと思います。徳に浄土世界などは色鮮やかに描き表していたのではないでしょうか。又真言宗の曼荼羅世界も鮮やかですが、日本建築の優れているところで比較的長期間崩壊しませんので、色彩が薄れて渋い色になって行ったのではないかと思いますが、如何でしょうか。
2010/1/17(日) 午後 6:16 [ mana ]
千葉日台 さん
コメント&傑作ありがとうございます。
広いだけでなく、中に入るととても清々しい雰囲気で壁が金網ですから開放感があり、全体に大変に明るいです。そして、言われるようにいわゆる廟にような色彩豊かなところがあるかもしれません。そして、こうした寺院は常に全ての人に解放されていますので、誰でも入ることが出来ます。それも廟に似ているかもしれませんね。
2010/1/17(日) 午後 6:20 [ mana ]
デバイス さん
コメントありがとうございます。
大陸国家の常で常に異民族との接触融合離反闘争和解が繰り返されてきました。その分だけ経済小国ではあっても政治的には強かかもしれませんし、戦うことの必要性を身に染みて知っています。かつてプノンペンの大使館が襲われた時、直ちに空軍機が完全武装の兵を乗せてプノンペンに飛び、大使館を警護しました。こうした行動力が経済大国日本にあるでしょうか。今も国境の丘の上の小さな寺院跡を守るために軍を配備してカンボジアと対峙して緩めません。又ビルマとの国境に兵を配置して常に臨戦態勢で望んでいます。
2010/1/17(日) 午後 6:25 [ mana ]
ジョウジ さん
すべてのものには歴史があり、その謂れがあるはずです。家庭にも先祖代々の流れがあり、隣の人とは違うあゆみをして来ています。寺院建立は昔にあっては王の仕事ですから、時々の王の性格、時代背景が寺院に影のようについて回ります。
僧侶が寄進された土地に寺院を建立する場合がありますが、そうするとその僧侶の性格が寺院に強く影響します。勿論中には富豪が建立・寄進、もしくは家の守護寺院として建立して寄進した寺院もあるとは思います。
そうした寺院の昔を遡っていくと案外面白い話にぶつかるもののようです。
2010/1/17(日) 午後 6:30 [ mana ]
ypk**900 さん
コメントありがとうございます。
仰っているのは、マハー・チュラロンコーン・ラーチャウィッタヤーライだろうと思いますが、これはラーマ五世(チュラーロンコーン王)が創設された僧の為の教育機関です。ここを卒業すれば高僧となるかどうかはしりませんが、いわゆる仏教教学には通じるようです。唯これは一つで、別に同じような僧の教育機関として、マハー・ウィッタヤーライ・プッタ・サーサナーがあります。共に在家で言うところの大学に相当し、卒業すれば学士、修士などの学位が出るようです。両者の概要書を手にしていますが、まだ読んでいませんので詳細は勘弁して下さい。両者の違いは、マハーニカーイとタムマユット・二カーイという宗派の違いだと思います。
2010/1/17(日) 午後 6:46 [ mana ]
柚ぽん瑠璃珊瑚晴パパ さん
コメント有難うございます。
寺院は非常に色鮮やかですね。特に壁のある寺院では壁一面の仏生譚ですとか、当時の民話だとかが描かれていて大変楽しめます。こうした仏教・仏説勉強にも寺院探訪はいい勉強になりますね。
昔は、よくこうした仏像の前で数時間じっと座って仏像とお話していたものでしたが・・・
2010/1/17(日) 午後 6:50 [ mana ]
kitaguniharuo さん
コメント&傑作有難うございます。
昔は、ここに花が一杯あったようですが、今はチエンマイ王家の人々の遺骨を集めた墓苑を抱いていて、その前に広く芝が敷き詰められています。その他木はかなりあるほうだと思います。特に菩提樹があったように思います。
伝承に出てくる仏舎利というのはかなり人見知りするのか如何でしょうか、相手を選ぶようですね。
2010/1/17(日) 午後 6:55 [ mana ]
JJ太郎 さん
コメント&傑作ありがとうございます。
仏像は大変美しく、周りに安置されているものの中にはアユタヤー様式のものもあったりします。そして、仰る通り、柱に刻まれている模様が独特ですが、基本的には、蓮の花だと思います。こうした寺院を飾る事は建立者にとっては自らの美意識、仏教感をそのまま形に表すもので、大変貴重な芸術品ですね。
2010/1/17(日) 午後 6:59 [ mana ]
コロン さん
コメントありがとうございます。
仏教の流れで言えば、タイと中国、ベトナムは繋がらないと思います。こうした色彩は、インドの影響だと思います。タイとベトナムはかなり昔、何百年も前に接触していますが、それはベトナム内のタイ族のようですから、今のベトナムの仏教感、色彩がタイに来たとか、その逆は余り考えられないのではないか、と思います。
2010/1/17(日) 午後 7:02 [ mana ]
NONさん
コメントありがとうございます。
日本の仏教寺院にあるしっとりとした落ち着きはありませんが、煌びやかな仏教世界がそこにはあります。これも一つの仏教だと思えば十分に堪能できますね。
2010/1/17(日) 午後 7:04 [ mana ]
さくらの花びら さん
コメント&傑作ありがとうございます。
ブッパーラーム寺院ともスアンドーク寺院とも言いますが、タイ語で言うか、バーリー語で言うかの違いでしょうね。
宜しくお願いします。
2010/1/17(日) 午後 7:05 [ mana ]
OSSAさん
コメントありがとうございます。
屋根は基本的になだらかな曲線を描きますが、これはやはり木を曲線に切るのですが、コンクリートで作る場合も同じように曲線にするようですね。そして、他の寺院も含めて屋根は昔の寺院では今ほど旧ではなかったようにも思いますが、バンコク様式が入ってくると傾斜角が付くのでしょうか。
2010/1/17(日) 午後 7:09 [ mana ]
keiwaxx さん
コメント有難うございます。
こうした芸術を維持するのは大変ですが、昔は、村にそうした市井の芸術家がいたようですね。夫々に専門化した職人たちがいたようです。今チエンラーイという北の町である著名な芸術家が自らの想像する仏教世界を現そうと寺院を建立していますが、彼は自ら様々な職人を育てながら10年近く掛かって未だ建築途中です。
彼の寺院は一見の価値がありますね。
2010/1/17(日) 午後 7:13 [ mana ]
日本は考古学者がたくさんいるって、確か大学時代に先生が言ってたような。逆にアジアではまだまだ少ないって。そんなことないでしょうか。
2010/1/17(日) 午後 9:41
さすが仏教大国ですね
日本のお寺ももっと頑張ってほしいです
2010/1/18(月) 午前 0:03 [ 道後 ]
yam*a*yuic*i さん
コメントありがとうございます。
日本には、関市学者、考古学者がたくさんいてたくさんの研究書が世に出されます。そしていわゆる歴史小説が多数出版されています。それに加えて地方史研究家など専門家顔負けの素人学者までいます。
これに対して、タイにはそうした歴史学者、考古学者というものが非常に少ないですし、歴史小説など言うのは余り見ません。それは一つには歴史学、考古学では生計を立てることが出来ませんから学生の関心を呼びませんし、国家による統一見解を求めますから、新しい研究成果などというものが出てくる余地が少ないのもまた若い人たちを惹き付ける魅力を失わせているのだと思います。
2010/1/18(月) 午前 6:13 [ mana ]
水大使 さん
コメントありがとうございます。
タイのお寺はみんなのものと言う考えがありますから、どのお寺も無料で入ることが出来ます。もしも修理が必要になれば、信者から寄進を集めます。同時に、信者が寺院に求めるのは、正しい僧侶の修行と仏弟子としての行いです。
一方、日本では寺院が個人の所有物と化し、僧侶自体が信者に対する法を説く努力を怠っているのではないかと思います。以前こちらに商用で来ていた事業家が実はある宗派の僧侶でした。これでは国民が仏教を身近に感じることはできないかもしれませんね。
2010/1/18(月) 午前 6:24 [ mana ]
実に綺麗な寺院ですね。
いつも勉強となります。
傑作○です。
2010/1/18(月) 午後 4:10
近野 さん
コメント&傑作有難うございます。
一軒の価値がありますが、日本にも奈良、京都、鎌倉などことには素晴らしい寺院がたくさんありますが、チエンマイにもまた違う美しさの寺院があります。
2010/1/18(月) 午後 6:38 [ mana ]