チエンマイの原風景

古書を片手に霧の彼方の古都チエンマイを訪ねる旅です・・・

チエンマイ古寺巡礼

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スアンドーク寺院縁起−4−

タイの僧侶には、二つの流れがあるようです。一つは、人々の住む街中に住んで修行をする僧たちの流れと、そうした集落を離れ、世俗の汚れを嫌って只管に人郷離れた地で孤独を共に修行に励む流れです。
かつて足跡を辿ったクルーバー・シーウィチャイは、この世俗の汚れを嫌う流れに属していました。そうした人々を一般に林住派と呼んでいます。これは文字通り林野を住居とし、動物の鳴き声、風の音を友として孤独と共に修行に励みます。
ラーンナーの地におけるこうした林住派の流れを遡れば、どこに向うのでしょうか。どうやら、パヤー・クーナー時代のプラ・スマナ・テーラではないでしょうか。
外敵もなく、平安のうちに強大な力を有する王が国内を安定充実させようとする時、宗教を保護育成して、人々に精神的支えを与えることは昔にあってはさほど珍しいことではなかったかもしれません。
当時のチエンマイ初めラーンナー王国内の宗教が如何なるものであるのか、極めて興味ありますが、残念ながら必ずしもはっきりしていないようで、様々な伝説があるもののどれもが後世に出来たもので、どこまで事実を反映しているか疑問です。
タイ族が中国にいた頃より仏教に接し、それを受け入れていたとすれば、それは、日本にも流れていくいわゆる大乗派仏教ではないでしょうか。確かに、パヤー・マンラーイの時代に幾つかの寺院が建立されています。パヤー・マンラーイの王宮がチエンマン寺院になったことは先の同寺院の項で記した通りです。その他にも、パヤー・マンラーイのチエンマイ建都の年ではないかと思いますが、スアンドーク寺院の更に西の林の中にウモーン寺院(WAD UMOONGKH)が建立されています。
確かなことは、この地にはタイ族進出よりはるか昔、ムアン・ハリプンチャイ時代にプラ・ナーンチャーマテーウィーが500名の僧を伴って南のムアン・ロッブリーよりやって来て、この地に仏教を植えつけています。それは深く人々の生活の中に浸透し、ムアン・ハリプンチャイを占領したパヤー・マンラーイが新たにムアン・チエンマイを建設して都を移したのは、その余りにも強い宗教色を嫌ってだとも言われています。ですから、ラーンナーの仏教はモーン族の仏教といえるかもしれません。
とすると、モーン族の仏教とはどんなものでしょうか。どうやらこれはいわゆる上座部とも違い大乗とも異なるもののようです。そうした判然とした区別がついていなかったある意味混沌としたものであったと思います。
そんな状況下で、パヤー・クーナーがラーンナーの仏教強化を考えた時、その必要性を感じたのが規律と正確な教義に基づいた宗教儀式の確立だったようです。このことは王国内で統一的教義が確立していなかったことを表しているのかもしれません。そして、そのことは、はるかな後年、クルーバーシーウィチャイの時代においても、幾つもの流れがあり、夫々が夫々の流儀を固守していたことからも伺えます。
もしくは、王国の始祖パヤー・マンラーイのチエンマイ建都より既に60年が経過していますので、彼らの宗教にも惰性が出てきて新鮮味が感じられなかったのかもしれませんし、又、惰性に流れる仏教界自体に確たる知識者がいなかったのかもしれません。
こうした中で、パヤー・クーナーは、ラーンナー王国に新しい仏教の風を吹き込みました。これは、ある意味では宗教改革かもしれません。
この新風を吹き込む役目を探すのに、北方ではなく、南方に求めたのは、やはり北に対する心理的抵抗感があったのかもしれませんし、単にラーンナー仏教の故地としてロッブリーがあり、その方面を意識したのかもしれません。
そんな時に流れてきたのがプラ・スマナ・テーラの名声でした。それは、ある意味では日本仏教界に新風をもたらした鑑真和尚の役割に似ているのかもしれません。
プラ・スマナ・テーラが何人なのか正直確たる資料が手元にありません。
ドーイステープ寺院の住職プラ・テープウォーラシッターチャーン(PHRA THEEPHWOORASITHTHAACAARY)は、「プラ・スマナ・テーラの夢(PHRA SUMANA THEERA NIMIT FAN=http://old.doisuthep.com/index.php?option=com_content&task=view&id=4&Itemid=41&lang=th_TH)」という一文をネットに掲載していますが、師は、その文の中で、プラ・スマナ・テーラについて、次のように述べています。
「仏暦19世紀(西暦13世紀=mana 注)、ランカーの人である一人の比丘がいて、その名をプラ・スマナ・テーラと言い、律法に精通し、三蔵を熟知した僧侶でした・・・」
これによれば、師はランカー国、即ち、現在のスリランカの人ということになります。そして、人々の信仰を一身に集めていたといいます。そんな師が現在にタイにやってきた理由として次のように述べています。
「・・・テーラワーダ派仏教布教の為に、スコータイ、特に、シーサッチャナーライ(SRIISACHCHANAALAY)とサワンカローク(SWARKHALOOK)にやって来て、その当時のスコータイで短期間の間にテーラワーダ派仏教を栄えさせたといえるでしょう。」
としています。
しかし、一方では、師は現在のミャンマー国南部の町モタマ(MOTAMA=マルタバン)に出向いてウトゥマポーン・マハー・テーラ(UTHUMAPHOR MAHAA THEERA)と言う僧について出家した、という話もあり、そうすると、スリランカから仏教布教に来たという話と異なってきます。
しかし、タイにおいては、仏教はビルマからよりもスリランカから入ってきたと考えるのだと思いますが、現実には、当時は既にインド国内の仏教は衰微し、スリランカにその隆盛を見ていました。そして、タイへは、このランカー国の仏教がモーン族のルートを通じて流れてきますので、スリランカ仏教がモタマに入り、それを修行して帰って来たと考えるのが自然かもしれません。
勿論、師であるウトゥマポーン・マハー・テーラと共にスリランカからモタマにやって来て、そこからスコータイに来たというのかもしれませんが、言い切るにはウトゥマポーン・マハー・テーラについての資料を持っていません。
モタマで仏教教義を習得したプラ・スマナ・テーラがスコータイにやって来て、スコータイ及び、シーサッチャナーライで広く仏教教義を指導していました。では師が指導する仏教とは何なのでしょうか。一般に師は林住派と呼ばれますので、村を離れ、山野に住して法を会得していく派だと思われますが、それで大切なことは、己を厳しく律していくことです。
227か条にも上る戒律を厳格に守り、破ることなく、終日己が心を清めていかなければなりません。同時に、仏教の決まりである出家者の受戒の儀式に通じている師は、出家を志す者たちに正しい受戒の儀式に則って出家させた模様です。こうした厳しい戒律重視故でしょうか、テーラワーダ派仏教は時に戒律仏教とも呼ばれ、ともすれば戒律を守ることに主眼を置き、最終目的である悟りを得るための修行であることを忘れる危険があります。
今、この戒律を厳しく守る派としては、タイ国内にタムマユット派というのがありますが、北部タイのそのタムマユット派最高位の僧侶が1昨年入滅し、去る1月18日に荼毘に付されましたが,かつて師を庫裏に訪問した際に目にした師の寝室は、大変に狭く、たくさんの仏像が安置されている前で、床に薄い煎餅布団よりも尚薄いかと思うような布団を敷いていて、ベッドなるものはなく、寝床は硬く決して寝心地がいいとはいえないと思います。しかし、師はそうした生活を70年余に亘ってしてきました。
プラ・スマナ・テーラは、夢のお告げに従ってムアン・パーンチャー(MUANG PAANGCAA)の壊れかけた仏塔下より掘り出した仏舎利を守護しながら、僧たちに教義を教えていました。その間にも、師の名声は、単にスコータイだけではなく、遠くラーンナーにまで聞こえていました。
時に、ラーンナーにおける仏教の基礎固めを考えていたパヤー・クーナーが師の名声を聞いて、役人と二人の出家修行者を遣わしてラーンナーに招請しました。伝承を見てみますと、この時のラーンナーの使者は、プラ・スマナ・テーラの招請の許可をまず、スコータイの王、プラチャウ・タムマラーチャーに求めました。これは、当時としては、僧侶というものが王国にとっての財産にも等しい重要な地位を占めていたことを示しているのでしょうか。
プラチャウ・タムマラーチャーは、名声高いプラ・スマナ・テーラの出国に対して何の異議も差し挟まなかったということは、師に対してそれほどまでに信仰心を抱いていなかったと言うことでしょうか。
王の許しを得、身の回りの整理を終えたプラ・スマナ・テーラがスコータイを出てラーンナーの地にやってきたのは、仏暦1912年(西暦1369年)のことで、師の60歳の時のことでした。
弟子たちを伴ってやってきた師が廃寺から掘り出した仏舎利を奉じていたことは言うまでもありません。一行は、チエンマイに入る前に、ラムプーン東方のプラユーン寺院(WAD PHRAYUUN)に逗留しました。
プラユーン寺院逗留中のことでしょうが、パヤー・クーナーは師が優れた仏教教学を有し、あらゆる問いかけによどみなく見事な教えを述べることに喜ぶと、わが師となし、プラ・スマナ・ブッパー・ラッタナ・マハー・サワーミー(PHRA SUMANA BUPPHAA RATNA MAHAASAWAAMII)と名付けて敬意を表しました。

(続)
冒頭の写真は、本文中で引用しているドーイステープ寺院の住職プラ・テープウォーラシッターチャーン師の文章に添付されている絵で「夢見るプラ・スマナ・テーラ」です。そして、今一枚は、http://www.oknation.net/blog/key/2009/09/24/entry-2よりお借りした、スアンドーク寺院御堂正面の写真です。

閉じる コメント(28)

サイパンはカナダより魅力的 さん

コメントありがとうございます。
タイ族がどこから来たか、未だに謎です。通常中国南部、という言い方をしますが、陳舜臣の本の中にいわゆる中国五千の歴史という時のかなり古い時代、即ち神話時代の話の中に九黎という民族、部族が出てきて、これが凶として追われますが、個人的にはこの九黎がタイ族ではないかという思いがします。中国の少数民族を調べた日本の人類学者は、山の上の苗族にどうしてこんな山の上にいるのか、という問いかけをすると、タイ族に追われたからだと答えたといいます。即ち、古代のいわゆる中原では様々な民族が共存し、チベットもそこにいたのですが、いわゆる黄帝族の末裔を称する漢族が力を持つとそうした異民族を迫害し、チベットは狩りの対象にされます。こうして、中原の諸部族が地方に散り、それを追う様に漢族の支配地が広がっていったというのが、中国史であると理解しています。従って、今のチワン族と言うのもタイ族の一派ですし、四川では、諸葛孔明と戦ったという話も残っていますから、タイ族の故地は中原、若しくはその周辺だったのではないかと思います。

2010/1/21(木) 午後 3:31 [ mana ]

NON さん

コメントありがとうございます。
戒律を守れば、妻帯も出来ませんし、般若湯も駄目、午後の食事も駄目、托鉢以外の食事は駄目ですね。ふかふかの布団で眠ることも出来ず、カラオケで歌うことも出来ません。庭の苗木の枝を折ることも出来ませんから、剪定は職人に任すのですが、それを命令することは戒律に触れるでしょうね。食事は蓄えることが出来ませんから、食べ残しは捨てなければなりませんね。なかなか窮屈ですね。僧侶は227ですが、尼僧になると348か条にも亘って戒が決められているようです。窮屈この上ないですね。

2010/1/21(木) 午後 3:38 [ mana ]

さくらの花びら さん

コメント&傑作ありがとうございます。
かつて日本でも、弘法大使、伝教大使というのは国の宝にも等しかったと思います。僧侶もまた懸命に国民の平安を願い、帝も民の平安を願いながら、僧侶にもその役目を与えられ、しかも帝は恩自ら全国に布令を出して寺院を建立されました。国の財産である為には、僧侶は修行に励み、国の平安、国民の平安、国民に人の道、罪の意識を教えながら、社会を調和させる一助となったのではないでしょうか。
今仏教戒にその役割を担う意識がないことが寂しいです。

2010/1/21(木) 午後 3:43 [ mana ]

ジョウジ さん

コメントありがとうございます。
かつて命を賭して唐に亘り、仏教を学んで帰って来た僧たちの脳裏にあるのは、仏の教えを実践し、伝えていくことで、それが自分の使命であり、それによって国民の幸せがあると信じていました。
今では、タイにおいても、僧侶であることが一つの職業と化してしまいました。そこには勇名になりたい、富を蓄えたい、という欲望が出てきますが、この時点で破戒ですね。僧侶に真剣に釈尊の教えを守り実践する気持ちがなくなると、仏教は廃れ、形骸化します。しかし、国民の宗教を求める真摯な気持ちはなくなりませんから、頼る宗教を持たない人を狙って新興宗教が勢力を伸ばします。それが危険なカルト集団になる可能性があります。従って、宗教界の堕落が社会の堕落をももたらすかもしれません。

2010/1/21(木) 午後 3:49 [ mana ]

昔、苦労して根付かせた戒律はどうなったのでしょうね。
先人たちの命を懸けた行いは水の泡ななったのでしょうか。
私も自然葬を望みますが、遺言でも書いておきましょうか。

2010/1/21(木) 午後 3:59 若紫

若紫 さん

コメントありがとうございます。
物事は全て無常の掟に縛られるようですね。導入された時は限界に守られ、受け継がれますが、次第に緊張感が解けると惰性に流れ、易きに流されていきます。戒律を守ると、道を歩くことすらその視線の位置まで決められ、地上の蟻一匹踏むことができず、森に入っても木を倒すことも枝を切ることも出来ません。ふかふかの布団に眠ることも出来ず、托鉢で得たもの以外口に出来ません。窮屈この上ないです。ですから、日本的に言えば様々な方便が出てくるのではないでしょうか。しかし、それが堕落の始まりかもしれません。よほどしっかりと自己を律する強い心の持ち主でなければ立派な僧となることは出来ないのでしょうね。
死後のことはどのように計画し、思ってもどうにもなりません。
ただ、今生きているうちに後悔しない生き方が出来ればそれに越したことはないでしょう。それが出来て初めて自分の死の始末を考えても遅くはないように思いますが。

2010/1/21(木) 午後 7:30 [ mana ]

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自分が死んだ後の事まで考える余裕は無いですね
家族が涙の1つでも流してくれたら、それで満足かな

根本の部分は日本も同じでしょうが、日本との差を感じますね

2010/1/21(木) 午後 11:02 yuzupon

【以前寺よ、変われ】という文庫を読んだのですが、日本のお寺は、現代では葬式仏教になってしまっている、地域に根ざす為に変革を起こすことが必要であるという内容でした。なるほどと思いました。最近ではイベント的なコンサートなどを行うお寺もボチボチ出てきました。私はもっと何か・・・それこそ寺子屋的な存在も良いのではないかな・・・などと思っていますが。

2010/1/21(木) 午後 11:34 cocoa

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日本の仏教は葬式宗教になってますが
かの地では 素晴らしいですね
僧侶が国の財産とは!!

2010/1/22(金) 午前 0:08 [ 道後 ]

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良い絵ですね。
下は写真ですか?
傑作

2010/1/22(金) 午前 3:56 coffee

柚ぽん瑠璃珊瑚晴パパ さん

コメントありがとうございます。
死んだ後のことは誰も何とも出来ません。残された人の仕事です。ですから、それまでに自分が悔いない生き方をするか、自分の人生です。自分を歴史に残せるか。自分が生きていることに価値を見出す何かをなしているか。悔いない人生、自分の存在を示すことをなした満足感があれば、最後の瞬間に微笑が浮かぶのではないでしょうか。そこが大切だと思います。
子供のいないあたしは、何とか自分の存在の残したいと思っています。

2010/1/22(金) 午前 7:26 [ mana ]

COCOA さん

コメントありがとうございます。
葬式仏教といわれて久しいです。一つは僧侶が惰性に流れ、檀家制度に安住していないでしょうか。僧侶とは何なのかを考える時、日本仏教は大乗派と言われ、己の悟りにもまして、一切衆生の救済を願う菩薩道を目指している筈です。ならば、寺院を開放し、そこで近所の子供を集めてお釈迦さんのお噺をするとか、経典の中の様々な逸話を判りやすく話して聞かせるとか、お墓の意味について話すとか、仏像の様々な印相について話すとか、出来ることはたくさんあると思います。そうした本来の活動をすれば、いわゆるカルト集団に騙されることもないのではないでしょうか。

2010/1/22(金) 午前 7:32 [ mana ]

水大使 さん

日本仏教が葬式仏教になっているのは、僧侶側が、啓発活動を行わず、僧侶を一つの職業として経済活動の一つと看做しているからではないでしょうか。本来、僧侶は決して豊かではなく、粗衣粗食に甘んじ、懸命に経を読み、信徒に仏の教えを伝えるものである筈ですが、日本の僧侶は、そうした努力を怠ってきたのではないでしょうか。そして、最後に残った葬式という儀式だけを行う専門職となり、お盆、命日などに檀家周りにして収入を得ているように思うと悲しいですね。

2010/1/22(金) 午前 7:38 [ mana ]

COFFEE さん

コメントありがとうございます。
上のものは絵画で、プラ・スマナ・テーラが夢を見ている姿を現し提案す。
下のものは、写真で、スアンドーク寺院の御堂の正面を写しているものです。他の寺院の御堂とはかなり異なります。

2010/1/22(金) 午前 7:40 [ mana ]

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お葬式とか、市民と接するお坊さんは、街に住むわけですよね。
とすると比率としては、街に住むお坊さんの方が多数派なのでしょうか。
僕のイメージとしては、身延山久遠寺とか、比叡山とか、お坊さんたちの組織や教育を司るお坊さんが、タイの林住派のお坊さんに相当するのですが、違いますか??

2010/1/22(金) 午前 7:53 株式会社セロリの管理人

株式会社セロリの管理人 さん

コメントありがとうございます。本来は、釈尊も洞窟に住んでいたり、山の上に住んでいたりで、極力人里離れて住んでいます。朝の托鉢に際して人里に降りてくるのですね。これは当時の修行者全て、仏教以外でも似たり寄ったりではないでしょうか。しかし、人里離れると孤独に絶えられない人が出てきます。そして、世俗と縁を切れない人も出てきます。彼らは様々な方便を使って山を下り、森を出、洞窟を出て人里近くに来ます。同時に、人里も膨張して行ったでしょうね。
(続)

2010/1/22(金) 午前 11:39 [ mana ]

お尋ねの、日本の修行道場としての山の上のお寺が林住派か、どうでしょうか。ちょっと違うように思えます。林住派は、あくまでも山谷を彷徨い、自然の中で悟りを開こうとします。それは釈尊が6年の公卿を森の中で過ごしたのに似ています。そして、その後町に出てくるか?少なくとも、承知している範囲では、森を出ても極力森の近くにいて、極力世俗との接触を避けるようにとんでもない不便な地にいます。
日本の僧は叡山に登ってもそこで生涯を終える僧侶は数少ないと思いますが、そうした僧侶は正に林住派かもしれませんが、タイ仏教にあっては僧侶の調理は戒律違反です。布施によって得た物だけを食し、残った物を蓄えることは戒律違反です。従って、毎日山を下りて托鉢しなければなりません。もしくは、信者が食事を山の上に運ぶしかありませんね。ここに辛さがありますね。

2010/1/22(金) 午前 11:39 [ mana ]

私の親類に坊主がいますが修行どころか副業ばかりです。

傑作○です。

2010/1/22(金) 午後 8:43 近野滋之

近野 さん

コメント&傑作ありがとうございます。
あたしの知り合いも天台宗の僧侶ですが、商売をしていてそちらの方が忙しいようです。これでは似非宗教をのさばらせるだけだと思います。
日本の僧侶がしっかりすれば、カルト集団を抑えることが出来るかもしれません。

2010/1/23(土) 午前 6:32 [ mana ]

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ご回答ありがとうございました。

2010/1/23(土) 午後 1:27 coffee


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