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スアンドーク寺院縁起−5−
こうして現在我々が目にするスアンドーク寺院の原形が出来上がりました。そして間もなく、仏暦1928年(西暦1385年)になると、ドーイ・ステープ寺院、スアンドーク寺院という名刹を今に残し、王国を基礎を強固なものとしたパヤー・クーナーがプラ・マハー・スマナ・テーラに先だって他界しました。
諸伝説に伝える通り仏暦1898年(西暦1355年)に40歳で王位に就いたとするならば、王の在位期間は、30年の永きに渡り、王の享年は70歳ということになります。王の死後は、予定通り、パヤー・セーンムアンマー(PHAYAA SEEN MUANG MAA)という名前の王子が王座を襲いました。
パヤー・マンラーイ以来連綿と続いてきたラーンナーの仏教は、モーン族から伝わった仏教は、多分に原始的要素を残した、様々なものの織り交じった仏教であったのではないかと思います。
e-lanna(http://www.sri.cmu.ac.th/elanna/elanna47/public_html/history/mungrai_4.html)にあっては、ロッブリーのモーンよりのテーラワーダ仏教に加えて、ホンサーサディー(HONGSAAWADII)、アングァ(ANGWA)よりの仏教が加味されていたとしていますが、共に現在のビルマ国内のモーン族の国です。30年近く前にNHKで放映したビルマのパガンの寺院群の中でモーン族の仏教として、そこにあるものは大乗的要素を含んでいるという指摘があったように思います。
もしも、大乗的要素を含んでいるとすれば、仏教は、世俗とかなり近くに位置する筈です。国民が仏教を篤く信仰すると、必然的に僧侶の社会的地位、名声、発言力が増して来ます。もしも、こうした国民の僧侶に対する信仰心の高まりに世俗の為政者が脅威を感じるとすればどうなるでしょうか。脅威を感じないまでも、そうしたことに考えが及ぶだけでも大変なことです。
しかし、世俗から離れようとする上座部仏教にあっては、信徒が如何に僧侶に篤い信仰心を捧げても、僧侶が世俗のことに一切発言力を持ちませんから、ある意味為政者にとっては、国民の不満の捌け口として良いかも知れません。
戒律に厳しい、プラ・マハー・スマナ・テーラは、そんな為政者の望みを叶えることができるのではないでしょうか。僧侶は、世俗を離れて227か条もの戒を守り、出家の儀式から一切が決められたものになります。
そして、実際にプラ・マハー・スマナ・テーラのもとで、多くの僧侶が出家の遣り直しをしました。
現代におけるタイ国の出家者には、単に出家希望者の両親の許可のみならず、出家希望者に具足戒を授ける際の首座に位置する戒和尚(UPACHCHAAY)、導師である猲磨師(KARMWAACAACAARY)、そして、作法を教える教授師(ANUSAASANAACAARY)の三師のほかに僧侶7名の証人が必要とされています。
しかし、このプラ・マハー・スマナ・テーラの時代以前には、こうしたことすらある意味では惰性に流れていたのかもしれません。
かくして、ラーンナーの地に厳しい戒律遵守の仏教宗派がもたらされました。
通常、この宗派は、スアンドーク派とも呼ばれます。これは、ラーンナーの仏教界には、大変な衝撃をもたらしたと思いますが、それでも全てが変わったわけではないようです。
ラーンナー王国は、二度に渡って宗教改革を行っていますが、その初めがこのプラ・マハー・スマナ・テーラによってのものでした。そして、今ひとつは、後年のプラチャウ・ティローカラートの時代のことですが、これについては既にチェットヨート寺院の項で述べた通りです。
偉大な庇護者パヤー・クーナー亡き後も、正しい仏教教義普及の使命に燃えるプラ・マハー・スマナ・テーラは、チエンマイのみならず、遠くチエントゥン(CHIANGTUNG)、チエンセーン等々王国内各地からやって来る僧侶たちに精力的に三蔵を教え、ここに後年ラーマン派ともスアンドーク派とも呼ばれる一大宗派を築き上げました。
サグアン・チョーティスックラット編の「ラーンナータイ伝承集」に収められている「ブッパーラーム・スアンドークマーイ伝」によれば、プラ・マハー・スマナ・テーラは、パヤー・クーナーの死後18年にしてスアンドーク寺院において他界しました、とされています。とすると、ラーンナーの地に足を踏み入れた仏暦1912年(西暦1369年)には60歳で、入滅が、仏暦1928年(西暦1385年)のパヤー・クーナーの滅後18年ということは、仏暦1946年(西暦1403年)となり、ラーンナーの地に止まること34年の永きに亘り、享年94歳という長寿を保ったことになります。
師の入滅時には、パヤー・セーンムアンマーがこの世を去って既に2年が経過しており、御世は長男であるラーンナー王国第八代目の王パヤー・サームファンケーン(PHAYAA SAAM FANG KEEN)に移っていました。これも、先のE-LANNA に寄れば、師の入滅は、スアンドーク寺院に住して18年後の仏暦1932年(西暦1389年)のこととしています。実に14年の差があります。
パヤー・クーナーの在世中、スアンドーク寺院は、チエンマイのみならずラーンナー王国の仏教の中心地となりました。王は、域内の僧にスアンドーク寺院に来て仏教を学び、律法を学ぶよう積極的に推薦したといいます。こうした努力の上に、後年ラーンナーの地に仏教文化の花開く素地が作られることになりました。
一方、寺院側では、伝承に従えば仏暦1931年のプラ・マハー・スマナ・テーラの甥であるクマーンカッサパ(KUMAARKASAPA)をスアンドーク寺院の管主としたとなっていますが、この師は、遊行(自然の中を遊行しながら修行に励むこと)を最重要視し、スアンドーク寺院は、人家に近く雑音が入るが故に、プラチャウ・サームファンケーンの許しを得て寒季、夏季の間はドーイ・ステープに上り、雨季になるとスアンドーク寺院に戻って来る生活を繰り返していたといいます。
今に残る航空写真においてさえも、現代人から見れば人里離れた森の中に佇むように見える寺院であるにも拘らず、今より600年余り前の林住派の僧にとっては、これでもまだ人家に近いと感じていたのでしょう。
師は、スアンドーク寺院にいること15年、仏暦1946年(西暦1403年)に亡くなりました。
その後を襲ってスアンドーク寺院の管主となったマハー・ナンタパンヤー(MAHAA NANTHA PANYAA)は、本堂が余りにも小さいと思い、打ち壊してしまいました。そして、新たに結界を設け直し、旧来にも増して大きくしました。仏暦1961年(西暦1418年)になると、スアンドーク寺院にいること15年、マハー・ナンタパンヤーが亡くなりました。
プラチャウ・サームファンケーンは、マハー・ナンタパンヤーに代わってマハー・プッタヤーン(MAHAA PHUTHTHAYAAN)を招聘して管主としました。このマハー・プッタヤーンの時代には、様々な問題が起きたようで、パヤー・サームファンケーンは、マハー・プッタヤーンをラムプーンのマハーワン寺院(WAD MAHAA WAN)に移し、師はその地において生涯を終えました。その移動の理由というのは、スアンドーク寺院が夜盗の巣窟になっていた、というのです。
もともと森の中に作られた寺院で、そこに住むものが必ずしも僧侶だけとは限らず、僧侶の身の回りの世話をする在家の人もいたでしょうし、信者もいたでしょう。もしも為政者がそれらを夜盗といえば、それもいえなくはないかもしれませんが、師の時代に仏教界が二分する論争を起こしたのもまた伝承に残されていますから、為政者としては事態収拾のために、師を移したのかもしれません。
次いでムーンサーイ寺院(WAD MUUN SAAY)のプッタカムピーラ(PHUTHTHA KHAMPHIIRA)が招請されてスアンドーク 寺院を15年に渡って守り、そして、亡くなりました。
パヤー・サームファンケーンは、自らの御世の中でスアンドーク寺院の四人の高僧、即ち、マハー・スマナ、マハー・クマーンカッサパ、マハー・ナンタパンヤー、マハー・プッタカムピーラを庇護し、厚く信仰して戒を守り、法を聞くことを怠りませんでした。
時に仏暦1963年(西暦1420年)になると、スアンドーク寺院のシッタンタ(SITHTHANTA)と言う僧が、3人の弟子を伴ってランカー国に仏舎利参拝に向い、仏暦1966年(西暦1423年)8月にチエンマイに帰ってきました。そして、ウィアン中心部のチェディー・ルアン寺院の本堂で告げて言うには、拙僧たちは、ランカー国に2年いて、マハー・スリンタ・テーラ(MAHA SURINTHA THEERA)に師事した。彼の地では、今我々が用いている戒律語は、間違っていると、非難しています。
連綿として受け継がれて来たものではありますが、もしもこのまま使って行くのならば、何の益にならないであろう、と言うのです。「この点がプラ・マハーヤーナカムピーラ(PHRA MAHAA YAANA KHAMPHIIRA)をしてランカー国に赴いて御仏の御教えをもたらせる原因となったと思われる」と伝承は推測しています。ここにチエンマイにおける次なる宗教改革の兆が仄見えます。次のプラチャウ・ティローカラート(PHRACAU TILOOKA RAACH)時代の宗教改革は、父のプラヤー・サー ムファンケーンのこの時代に既にその萌芽が見受けられるのです。
同時に、この山奥のチエンマイの地から、海を見たこともない僧侶たちが広大な海を渡り、スリランカに渡っていたということは、大変な驚異です。それは、遣唐使船に乗って天台宗を学んだ伝教大使、真言密教を学んだ弘法大使の偉業に似たものかもしれません。
(続)
冒頭の写真は、NOVABIZZ(http://www.novabizz.com/Map/Chiang_Mai/Wat_Suan_Dok.htm)さんよりお借りしました、スアンドーク寺院の御堂と後ろに聳える黄金色の仏塔です。
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1963年!!と見て、びっくり僕の生年です。
よく読めば仏暦、西暦1420年とありました。
小学校のころから、ちゃんと問題を読みなさい!と指導されましたが、この歳でもなおりません。
ヘンなコメントになってしまいました。
2010/1/25(月) 午後 5:54
千葉日台 さん
コメント&傑作ありがとうございます。
釈尊は、複数で地方に普及に出ることを推奨しています。それが当初は異教徒たちの非難の的になりました。何故なら、初期にあっては季節に関わらず布教に出歩いていたのですが、雨季に芽吹く草花を踏む危険、地中から這い出る虫たちを殺す危険を他宗教から指摘・攻撃されるようになると、雨季の期間だけ僧院(当初は洞窟)に篭る様になったもので、本来仏教の僧は遊行が常だったと思います。
従って、僧侶は布教の為であればどこまでも歩いて行ったと思われます。
日本の僧侶は、生活を在家に頼らなくなっているのでは??
2010/1/25(月) 午後 6:54 [ mana ]
ジョウジ さん
コメントありがとうございます。
ビルマなどでは僧侶に対する民衆の信仰心が篤いですから、もしも僧侶が立ち上がれば、国民暴動にまで及びますから為政者の弾圧が強くなります。当然に多数の尊い命が失われます。これは幾度となく世界に流されて来た通りです。同じことは、チベットでも言えます。僧侶は自らの利害関係ではなく、民衆の苦しみを見るに忍びない。つまり彼らの肉親の苦しみを和らげる為に立ち上がるのでしょうね。為政者が宗教を抑圧している典型が中共のチベットとビルマの仏教かもしれません。
2010/1/25(月) 午後 6:59 [ mana ]
kitaguniharuo さん
コメント&傑作ありがとうございます。
当時どのようなルートで海に出たのか今ひとつはっきりとはしていませんが、モーン族のルートを通ったことだけは間違いないでしょうから、真っ直ぐ南に下りて、タークあたりからビルマ領に入り、森をぬけてモタマに出てそこから船に乗ったのかもしれません。
2010/1/25(月) 午後 7:05 [ mana ]
あゆみ さん
コメント&傑作ありがとうございます。
タイの人々も大変に敬虔な仏教徒ですね。そして、仏像は金色でとっても美しいですね。そして、お堂の中は日本のお寺よりも色彩豊かです。日本のお寺とは少し違いますね。
2010/1/25(月) 午後 7:09 [ mana ]
さくらの花びら さん
コメント&傑作ありがとうございます。
ちょうどこの直後にラーンナーの仏教が花開き、とても素晴らしい僧が排出され、今に残る様々な伝承がこの時期に作られます。そして、今は南部の伝統芸能とされている煌びやかな舞踊すらラーンナーの僧が書き表した書物の中に伝わったものです。それは、ある意味南部アユッタヤーの僧達よりも求法の心が篤かったかもしれません。空海が恵果阿闍梨より真言宗の全てを伝授されて、中国に正当真言密教がなくなったことを思い出します。
2010/1/25(月) 午後 7:18 [ mana ]
株式会社セロリの管理人 さん
コメントありがとうございます。
タイでは、今も仏暦で全てが語られます。公文書は全て仏暦表示です。タイの仏暦は、西暦に+543で算出されます。日常生活でも仏暦はまだ主流ですから、暫くは西暦は取って代わることはないかもしれませんね。
2010/1/25(月) 午後 7:21 [ mana ]
チェンマイからスリランカへ
命がけの旅だったでしょうに…昔の人は凄いなと今更ながら思います。ポチ!!
2010/1/25(月) 午後 9:30 [ ossa ]
中国は罪深いです
さらにはチベットまで弾圧しています
ダライラマの存在を非難するあたりは異常です
中国にそのまま仏教が生きていたら、どれだけ人民が豊かな心を持った事か!
2010/1/25(月) 午後 10:03 [ 誇り君 ]
こんばんは!
国境もありますが、どの国も郊外へ行くと道路も整備されていない面が多く、徒歩なのでしょうか、大変な思いだったと思われます。
でも多少の事では怒らないでしょうね!
2010/1/25(月) 午後 10:41 [ keiwaxx ]
昔の人々は本当に信念に沿って行動していた事が良くわかりますね
「自分の決めた道を進む!」今の時代では、なかなか難しい事です(人間が弱くなったのかなぁ〜)
2010/1/25(月) 午後 10:43
日本でも仏教は道徳をも運んできてくれましたね
2010/1/26(火) 午前 0:14 [ 道後 ]
OSSAさん
コメント&傑作ありがとうございます。
当時の人たちは、季節風というものを知っていたと思いますから、それに合わせるのでしょうが、間に合わなければ1年待たなければならなかったのでしょうね。それは、遣唐使船のようなものであったと思います。その港までは、村々を辿りながら、森の中を歩き、河を渡りしていたのでしょうが、マラリアの危険と背中合わせの旅立ったと思います。
2010/1/26(火) 午前 6:08 [ mana ]
誇り君 さん
コメントありがとうございます。
共産主義にとって宗教は敵であると、言う教条的な面以上に、チベットの人々の精神的中心として共産党以外が存在することに我慢ならないのが本音でしょう。そして、ダライ・ラマ鳳凰が、チベットの誇りを持っている限り、中共あっ非難攻撃の手を緩めることはなく、チベットの民衆の洗脳工作と、漢民族移植により血の扶植を行い続け、最終的には、住民投票によって世界にアピールするでしょう。その時,チベットはチベットでなくなり、チベット人はいなくなっているかもしれません。
2010/1/26(火) 午前 6:12 [ mana ]
柚ぽん瑠璃珊瑚晴パパ さん
コメントありがとうございます。
日本でも昔の人は、何日にも掛けて徒歩で伊勢参りだとか、善光寺参り、四国八十八箇所巡りなどをしています。今の人たちから比べれな、世界は狭いかもしれませんが、自分の努め、使命、というものをしっかりと持ち、それに邁進する気力を持っていたと思われます。人生を賭けるに値する何かを持っていた昔の人々は、日々の生活にも生き甲斐を感じていたのではないでしょうか。
2010/1/26(火) 午前 6:18 [ mana ]
おはようございます。
コメントありがとうございます。
日本においては、仏教は、仏の教え以外に様々な文化を持ち込み、仏教を広めるに当たって地獄思想を広めることで、現世の善行を教え、日常生活の中でも嘘をつかず、無闇に生き物を殺めず、他人のものを盗まずという最低限の道徳・倫理を広めながら、日本人の精神世界形成に役立ったと思います。それが上手く日本人の本来持つ、八百万の神々を信仰する心と結びついてきたのでしょうが、そうした健全な宗教心を忘れると、荒れた心、自分本位、保身、偽りの言葉が満ちてきます。一日も早く日本人の心を取り戻して欲しいですね。
2010/1/26(火) 午前 6:28 [ mana ]
世界の宗教は厳しい戒律を持っているのが多いですが日本の仏教はあまりにも自由すぎるきらいはありませんか?そのために冠婚葬祭だけで表面的に取り繕い日常の中では仏教の本質を見極めること無く精神的に漂浪するる日本人が多いのではないでしょうか…?
2010/1/26(火) 午後 6:01
puyuma さん
コメントありがとうございます。
一つは、日本では、僧も人間であるということがいわれるからではないでしょうか。層が通常の人々、世俗の人間と同じように人間であるならば、焦慮とは仏式行事を遂行する専門職に過ぎません。とするならば、僧は僧職と言う言葉が示す通り、正に一つに職業と化し、勤務時間が終われば自由であるとなります。果たしてそれが釈尊の弟子の姿でしょうか。日本に大乗派仏教は、菩薩堂を目指しますが、菩薩は、他者の救済を心がけることに特徴があります。日本の僧侶は広く国民一般の苦の克服の為に何をしているでしょうか。
正しい釈尊の教えを伝える努力をしない限り、世の中にカルトが蔓延り、偽りの宗教に人々の心は歪んで行くのではないかと危惧します。
2010/1/26(火) 午後 6:15 [ mana ]
日本では如何わしい&利益に執着した宗教がたくさんあります。
タイでもそのような事は存在するのですか???
何かこのような野暮な事を質問して申し訳ありません。
2010/1/27(水) 午前 11:04
NONさん
コメントありがとうございます。
タイにおいても偽僧侶の托鉢、偽僧侶の寄進集めのほかに、正規の僧侶が、餓鬼の出現というマヤカシで寄進を集めたり、呪文と称して,いかがわしい行為をしたり、庫裏での飲酒、ポルノ鑑賞などたくさんあります。又、時には僧侶と尼僧の淫らな関係も報じられたことがあります。しかし、何より大きな問題は、寺院に寄進されるお布施が、僧侶のものであるか、寺院のものであるかでしょうね。招請されて受けた布施が僧侶のものであるかもしれませんが、僧侶に蓄財は禁じられていますから難しいですね。
寺院でも住職によっては、村人からの寄進を集めることに熱心な僧もいます。
2010/1/27(水) 午後 1:03 [ mana ]