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スアンドーク寺院縁起−7−
ともかく、マハー・ナーカセーンの死に先立ち、仏歴2030年(西暦1487年)になると周辺諸国にその覇名を響かせ、恐れられた一代の英傑プラチャウ・ティローカラートが亡くなりました。自らの後継者たる王子を自らの手で葬り去った悲しい過去を背負うプラチャウ・ティローカラート亡き後のラーンナー王国の王位は、孫のプラチャウ・ヨートチエンラーイ(PHRACAU YOOD CHIANGRAAY )に受け継がれました。
王は、ムーンサーン寺院のマハー・プカームヤーナサーコーン(MAHAA PHUKAAM YAANA SAAKHOOR)という名前の僧をスアンドーク寺院に招請して守らせましたが、師はわずか10年いただけで亡くなりました。しかもそれより早く、プラチャウ・ヨートチエンラーイは、在位わずか8年にして突然王位を子供に譲ってしまいました。
チエンマイの歴史においてパヤー・サームファンケーンのプラチャウ・テローカラートへの禅譲に続く2度目の禅譲です。実の父の禅譲を受けて後継王となったプラチャウ・ムアンケーウ(PHRACAU MUANG KEEW)は、即位の翌年、即ち、仏歴2039年(西暦1496年)にスアンドーク寺院の修復を手がけ、マハー・プリテープ(MAHAA PURITHEEPH)という名前の僧を招請しています。
師は、27歳の時にムアン・アングヮに行って法を学ぶこと10年、プラ・サンカラーチャー・タムマランシー(PHRA SANGKHA RAACHAA THARMMA RANGSII)にムアン・チエンマイにあるという28か所の仏足石・仏舎利塔の由来について書き記したいと願い出て、チエンマイに帰って来て、スアンドーク寺院に逗留していました。
そうすること3年、プラ・ムアンケーウの耳に入ると、スアンドーク寺院の住職に任じられました。そうして10年、師の御年50歳の時、プラ・ムアンケーウは、ムアン・チエンマイにある全仏足石、仏舎利についての師の話を聞き、師の徳質に大いに傾倒しました。そこでプラ・ムアンケーウは、その全ての場所を復興させることにしました。御年50歳の師は、プラ・ムアンケーウに暇を告げると、ファーランの森(PAA FAA LANG)にいること3年、師は、伝承に従って仏足石・仏舎利を訪ねて旅に出ました。
しかし、その28箇所の仏足跡とは何処にあるものを指すのか、その伝承本なるものを読んでいませんので何ともいえません。
師は、スアンドーク寺院の北側にいた時には、マハー・シーラテーワ(MAHAA SIIL THEEWA)という名前であったそうですが、ムアン・プカームに修学に行って帰って来ると、人々は、マハー・プカーム(MAHAA PHUKAAM)と敬意を込めて 呼んだと言います。
現在、チョームトーン寺院というというのは幾箇所もあるようですが、ここで言われているプラタート・チョームトーン(PHRA THAATU COOM THOONG)とは、チエンマイの南約60キロのところにあるチョームトーン郡のプラタートシーチョームトーン・ウォーラウィハーン寺院のことでしょう。
仏暦19世紀(西暦13世紀)に建立されたと言われる伝説を持つ寺院ですが、歴史に登場するのは、この師がプラ・ムアンケーウに伝承を伝えたからであり、ラーンナーの仏塔伝承を知る上で欠かすことが出来ない僧侶のようです。
その後、仏暦2041年(西暦1498年)、プラ・ムアンケーウは、スアンドーク寺院の御堂の真ん中に1棟の玉座を建設し、拝礼・供養の為にその玉座を仏像を安置する場所としました。又、三蔵を尊崇する場所、バーリー語を修学する場所として玉殿を建立させ、仏教を将来に向かって隆盛するよう務めました。
仏暦2047年(西暦1504年)になると、プラ・ムアンケーウは、更に大仏の鋳造に着手しました。その大仏は、九つの部分に分かれており、8か所の継ぎ手を持つといわれております。仕上げの段階になると、奇麗に削りツルツルに磨きあげましたが、全てが終了するまでには、何と5年の長歳月を要したと言うのですから驚きです。
この仏像が後述するカウトゥー仏(PHRACAU KAUTUU)です。
仏暦2052年(西暦1509年)には、プラ・ムアンケーウは、高級官僚、長者、市民、そして近隣諸国のプラヤーを率いて、人々がカウトゥー堂(WAD KAU TUU=カウトゥー寺院)と呼んでいるスアンドーク寺院の本堂の法座に安置する為に、その仏像を招請しました。その時の招請に応じて集まった僧侶は3つのグループで、総数千を数えたといいます。
そして、仏暦2064年(西暦1521年)になると、プラヤー・パセーンティコーソーン(PHRAYAA PASEENTHIKOOSOL)が建立したと伝えられるケーンチャン仏(PHRA PHUTHTHA RUUP KEEN CANTHN)がムアン・パヤウより招来されました。このケーンチャン仏については既にチェットヨート寺院伝のところで言及していますので、重複を避けます。
このプラ・ケーンチャン仏がチェットヨート寺院に写された仏暦2068年(西暦1525年)、30年に亘ってチエンマイを統治したムアンケーウが亡くなりました。
この王の死後くらいからでしょうか、王位継承に絡んだ役人たちの権力争いが激しくなり、国力は衰え、終に仏暦2101年(西暦1558年)ブレーンノーンのビルマ軍に敗れ去り、不本意な属国の地位に落ちていきました。
そして、チエンマイ王朝の祖であるチャウ・カーウィラ(CAU KAAWILA)によってチエンマイが開放されたのは仏暦2317年(西暦1774年)で、完全な復興にはさらに30年の時間を要しました。
その後のスアンドーク寺院の変遷を見てみますと「王朝物語伝」に次の様な記述が見えます。
仏歴2368年(西暦1825年)の8月満月の日、チエンマイ王朝のチャウ・マハーウパラーチャー(CAU MAHAA UPARAACHAA)を始めとして、王族子弟が揃ってブッパーラーム寺院の仏塔に傘蓋を立てました。そして、西暦2440年(西暦1897年)の8月(現在の陽暦5月)には、チャウ・チーウィット・アーウ(CAU CHIIWIT AAW)と人々から恐れられたチエンマイ王朝第7代目の王プラチャウ・インタウィチャイヤーノン(PHRACAU INTHAWICHAYAANONTH)が、スアンドーク寺院の御堂を建立しました。
そして、その同じ年の2月(現在の陽暦11月)下弦の14日午後2時25分、プラチャウ・インタウィチャイヤーノンが亡くなりました。因みにこの王の名前を取って付けられた山がタイ国最大のドーイ・インタノーン(DOOY INTHANOONTH)です。
「ムアン・チエンマイ備忘録」によれば、このプラチャウ・ウィチャイヤーノンの王女であり、バンコクに下ってラーマ五世の側室となってプラ・ラーチャチャーヤー(PHRA RAACHA CHAAYAA)の位を受けたチャウ・ダーラーラッサミー(CAU DAARAARASAMII)は、ラッタナコーシン暦127年(仏暦2456年=西暦1913年)4月9日にムアン・チエンマイに帰国し、ピン河波止場にあるチャウ・ウパラート(CAU UPARAACH)の館に逗留し、父母のお墓に回向の儀式を行ないました。
そして、祖先のお墓が荒れ果てているのを目にしたチャウ・ダーラーラッサミーは、異母兄弟のチエンマイ王朝第8代王チャウ・インタワローロット・スリヤウォン(CAU INTHAWAROOROS SURIYAWONGS)及び、同じく異母兄弟の長男であるチャウ・ウパラートと相談して、祖先のお墓をスアンドーク寺院の仏塔北に移すことに決しました。こうして、現在スアンドーク寺院の中の白い小さな多数の仏塔、即ちお墓群が出来上がったのです。
その時移転されたお墓は次の通りであります。
1.プラチャウ・カーウィラ(PHRACAU KAAWILA=チエンマイ王朝の祖)
2.プラチャウ・チャーンプアック(PHRACAU CHAANG PHUAK=チエンマイ王朝第2代目王)
3.チャウ・ルアン・スパトー・マハーセーティー(CAU LUANG SUPHATOO MAHAA SEESRSTHII=チエンマイ王朝第3代目王)
4.チャウ・ルアン・ペーンディン・イェン(CAU LUANG PHEEN DIN YEN=チャウ・ルアン・プッタウォン(CAU LUANG PHUTHTHA WONGS)=チエンマイ王朝第4代目王)
5.プラチャウ・チーウィット・マホート・プラテート(PHRACAU CHIIWIT MAHOOTR PRATHEES=チエンマイ王朝第5代目王)
6.プラチャウ・カーウィローロット・スリヤウォン(PHRACAU KAAWILOOROS SURIYA WONGS=チエンマイ王朝第6代目王)
7.プラチャウ・インタウィチャイヤーノン(PHRACAU INTHAWICHAIYAANONTH=チエンマイ王朝第7代目の王でチャウ・ダーラーラッサミーの父)
8.プラメーチャウ・テープ・クライソーン(PHRA MEE CAU THEEPH KRAISOOR=プラチャウ・インタウィチャイヤーノンの妃でチャウ・ダーラーラッサミーの母)
9.プラメーチャウ・ウサー(PHRA MEE CAU USAAH=チエンマイ王朝第6代目王、プラチャウ・カーウィローロット・スリヤウォンの妃)
10.メー・チャウ・リムカム(MEE CAU RIMKHAM=チエンマイ王朝第7代目の王プラチャウ・インタウィチャイヤーノンの側室)
上記の10人のお墓です。
(続)
冒頭の写真は下記URLよりお借りしました。上の写真はチエンマイ王朝第七代目の王、プラチャウ・インタウィチャイヤーノンの荼毘に使用された仮設の火葬場です。何故その地が現在チエンマイ最大の市場となっているのか疑問ですが、言及する資料を持っていないのが悔しいです。
二枚目はスアンドーク寺院にあるチエンマイ王家の墓地です。
http://www.bloggang.com/mainblog.php?id=akkarachai&month=15-12-2009&group=2&gblog=1
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10人ものお墓を移設するのはかなりの労がいったと思います。
先祖のお墓が荒れると悲しいというのは信仰心が強いのだと思います。私も九州に先祖のお墓がありまして年に1,2回しか立ち寄れませんが行きます。
最も最近は誰もメンテをする人が居なくてあれている墓もあるといいますので日本人の考え方に変化が出てきている、それも悪いほうに、と考えます。傑作です。
2010/2/3(水) 午前 7:45
権力争いが起きると、国・組織は衰退していきますね。
先祖そして先人達を思わない考えない事と何処かリンクしている気がします><
2010/2/3(水) 午前 10:37
8年で王位を譲るというのは、つまらない立場ということなのでしょうか??
一度権力の座につくと、しがみついて離れない人が多いなか、これはレアなケースなのでしょう。
わけあり、なのかな〜
2010/2/3(水) 午後 4:51
仮設の火葬場ですか、すごいです。
傑作
2010/2/3(水) 午後 9:37
日本とは形も違うお墓ですね
王位継承にはどこでも争いが・・・・・
2010/2/3(水) 午後 10:57 [ 道後 ]
日本でもそうですが、やっぱり先祖のお墓は大事にしてあげないとね
ご先祖様も一所に集まれて、嬉しいのではないでしょうか
2010/2/3(水) 午後 11:14
立派なお墓ですね
白色は石の色でしょうか?
着色した墓石でしょうかね
2010/2/3(水) 午後 11:24 [ 誇り君 ]
千葉日台 さん
コメント&傑作ありがとうございます。
このダーラーラッサミー王女は、13歳の時にラーマ五世のお召し受け、16歳の時にバンコクに下ります。そして、生涯の大半をバンコクの王宮の中で過ごしますが、最後までチエンマイの習慣、言葉使い、服装を守り続けました。そんな事情があって、家族に対する思いが余計に強いのだと思います。
お墓を守るということは日本人にとって大変重大なことですが、最近では墓を否定する人が出てきますので、先祖の遺骨に対してもさして何の感情も抱かないのかも知れませんが、悲しいですね。
2010/2/4(木) 午前 5:45 [ mana ]
ジョウジ さん
コメントありがとうございます。
官僚の権力争いは、当然国を疲弊させ、国防意識を低下させます。そして、国王に対する忠誠心が薄れると、擁立された国王もまたどこか腰が引ける政策となり、結局永く続かなくなります。
先祖を敬い、家系を尊重する姿勢がかけると、家名を重んじる心も薄くなるのかも知れませんが、思えば、タイ族というのは、余り家名・墓意識を持たない民族かも知れません。
2010/2/4(木) 午前 5:50 [ mana ]
株式会社セロリの管理人 さん
コメントありがとうございます。
仰る通り、権力の座と言うのは不思議な魅力があるようで、一度位に就くとなかなか離れたがらないのが普通のようです。まして昔の絶対王政時代であれば生涯その坐に就こうとするのでしょうが、彼の場合には、父が祖父に殺され、その祖父は曽祖父を追放しという時代ですから、自分がそうした犠牲になることを怖れたのかも知れません。自分の子供に自分以上の才能を認めたとすれば、曽祖父と同じ立場に立つことを怖れたのかもしれません。実際次のプラ・ムアン・ケーウはなかなかの名君だったようです。
2010/2/4(木) 午前 5:56 [ mana ]
さくらの花びら さん
コメント&傑作有難うございます。
王族とか、高僧などの場合には、特別に荼毘の場を建設します。現代でもバンコク王宮前広場では、現国王の母君、姉君の荼毘の為の建物が作られました。荼毘が終わるとそうした建物は全て解体されます。
先月チエンマイの高僧の荼毘がありましたが、その時には、象の頭をした鳥の荼毘の坐を設え、その背に宇宙の中心を表す須弥山を象った建物を載せます。そして、そこに棺を載せて、それに点火します。動画にも一部流されています。それは悲しみよりも華やかさすら感じます。ある意味天国への旅立ちの儀式なのかも知れません。
2010/2/4(木) 午前 6:04 [ mana ]
水大使 さん
コメントありがとうございます。
基本的にタイ族と言うのは、余り遺骨を崇拝することがないのかも知れませんが、王族の話にはこうした儀式が時として出て来ます。そして一般庶民はお墓というものを持たないが普通のようですが、最近では、お寺に遺骨を納めたりもしますが、日本のように家系のお墓という概念はありません。そして、街中に見られる墓石家?に置かれているものを見る限り、宇宙の中心で考えられている須弥山を象っているように思います。又日本のようにタイ族の墓地・霊園などもありませんが、華人の墓地、キリスト教徒の墓地は市内あちこちにあります。
2010/2/4(木) 午前 6:11 [ mana ]
柚ぽん瑠璃珊瑚晴パパ さん
コメントありがとうございます。
先祖の墓を大切にするということは、自分の華族に誇りを持つことであり、そうした気持ちが次の世代に受け継がれて行きます。自分は、ある日どこからともなくこの世に忽然と出現したものではなく、父母の愛を得てこの世に性を受け、その父母もまた祖父母の愛を受けてと、連綿と続く縦の歴史の中に自分が位置することを知るのですね。これはとても大切なことだと思います。そうした縦のつながりの中で親戚という横の繋がりが出来、地域と繋がり、社会を形成して国を形成して来たのだと思います。ですから、家族を破壊することは社会を破壊するかもしれませんね。
2010/2/4(木) 午前 6:17 [ mana ]
誇り君 さん
コメントありがとうございます。
墓が白いのは、本来は、煉瓦を積み上げて作り、その上から漆喰を縫って整形していたのだと思います。ですから当初は色を塗る必要がなかったのでしょうが、時と共に汚れますから、今では修復事業として白く塗っているのですね。
昔の仏塔も煉瓦を積み上げたその上に漆喰を塗ったりしていたようです。。
2010/2/4(木) 午前 6:25 [ mana ]
谷中霊園には徳川慶喜侯とその関係者(奥様や側室)の墓所があります。これは丸いお墓です・・・
その近くに一ツ橋家や讃岐高松藩松平頼聡夫妻の墓所なども・・・
とても立派なのに荒れ果てたお墓も多くあります。
どんな生き方をしてここに眠っているのだろうと、想像はつきません・・・
2010/2/4(木) 午後 10:19
むうま さん
コメントありがとうございます。
立派なお墓を作ってもそれをお守りする人がいないと悲しい結末になります。お墓をお守りするのは子々孫々のお勤めでしょう。それがなされていない、ということは先祖に対する意識がなくなってしまったのでしょう。悲しいことです。縦の関係は大切にしていきたいと思います。
2010/2/5(金) 午前 5:43 [ mana ]
アメリカ大陸の発見が1492年?、その頃の東南アジアにこれだけの文化が栄えていたというのは信じられない話ですね。伝承され無かったのか、マヤ文明みたいに忽然と消えたのか、そういえば、文字を見ませんね。文字があって解読されているんでしょうか。manaさんが
これだけ詳しく記述しているということは、何らかの伝承があるとは思いますが?。
2010/2/6(土) 午前 0:04 [ コロン ]
コロン さん
コメントありがとうございます。
タイ族はタイ文字を早くから持っていました。700年ほど前のタイ文字も残っていますが、チエンマイはそれとは別の文字を持っていました。チエンマイの古いお噺は、そうしたチエンマイの独自文字で椰子の葉に刻まれて伝えられました。ラーンという椰子に鉄筆で刻み、そこに墨の粉を埋めているのですが、当然時間の経過と共に朽ちますから書き継がれなければなりませんが、当時はそうした椰子の葉に「刻む」という言い方ですが、伝わって来ています。これはチエンマイの政治史であったり、寺院の伝承であったり、仏教を元にした物語であったりしますが、かなり旧い物が残されています。
2010/2/6(土) 午前 7:14 [ mana ]