|
思い出の唄―岸壁の母
牡丹江へ進撃するソ連軍
昭和20年8月8日水曜日、日本時間午後11時にソヴィエト連邦共和国モロトフ外相は佐藤駐ソ日本大使に対して対日宣戦の布告を通告してきました。この時、ソ連よりは日本政府への連絡自由との話だったようですが、なぜか大使よりの報告電が届かないまま、翌9日に日付が変わると同時にソ連軍の攻撃が我が国に対してなされました。
圧倒的な兵力差と準備不足の中で戦いは後退を余儀なくされ、15日を迎えました。満州に展開する我が軍は、作戦行動を中止しましたが、ソ連に停戦の意思はありませんでした。
8月17日には、関東軍司令官山田大将がソ連側と停戦交渉に入ろうとしましたが、極東ソ連軍司令官ヴァシレフスキー元帥は、8月20日まで停戦の意志なし、との通告をしてきました。つまり、彼らには目的達成意外如何なることにも耳を貸さなかったのです。やむなく戦闘行動を全面的に停止して停戦交渉に入りましたが、ヴァシレフスキーは、8月18日二個狙撃師団に留萌上陸と北海道進撃を命令しています。幸いにもこれが実行を見ませんでしたが、翌19日武装解除が開始されてもソ連の作戦は継続され、満州、朝鮮半島北部、南樺太、千島全島がソ連に占領されました。
戦い終わり、祖国に帰る夢を追う人がいる反面、まだまだ多数の人々が塗炭の苦しみを味あわなければならなかったのです。国の責任において外地にいる同胞の祖国帰還が実施されている最中、満州に残された同胞についての情報がありませんでした。
時として満州の民間人は関東軍に見捨てられた、関東軍は軍属、家族だけを安全地帯に逃した、そのような話が聞こえますが、果たしてそうでしょうか?あの樺太の状況を見、満州でも民間人引揚の動きを既に8月10日に行っていたことを考えれば必ずしも軍だけを非難することは当たらないかもしれません。
ソ連軍が日本兵をシベリアに連行して強制労働に従事させているらしいという情報得た日本政府は、米国の協力の下で終戦の翌昭和21年5月に『日本人抑留者の帰国に関する米ソ協定』が成立しました。シベリア抑留が明るみに出たのです。これから改めてシベリアの捕虜生活が明るみに出、帰還運動が行われることになりました。
『こんなまずいものを食べているのですか』
ソヴィエト政府の全面協力の下で収容所生活を調査に向かった当時の社会党視察団の一員戸叶里子は、同情しながらも、帰国後の同視察団は抑留者からの手紙を握りつぶし、その上に尚、
『とてもよい環境で労働しており、食料も行き渡っている』
と国会で説明して恥じなかったのです。
祖国を目前に斃れた引揚者の葬儀
ともあれ、終戦の2年後昭和22年から抑留者の帰国事業が始まりました。
海外在住同胞の祖国への旅が始まり、幾多の港は連日復員兵、引揚者で賑わいました。そんな港の一つ、舞鶴港もまた、多数の引揚者が利用した港です。この港への帰還第一号は終戦の年の10月7日到着の『雲仙丸』であったそうです。その後引揚戦が終了する昭和33年9月7日まで延べ426隻、664,531人が祖国の土を踏み、16,269柱を迎え入れました。祖国を目の前に船内で息を引き取った同胞59人、祖国に帰りついた安心からか360人が援護局内で息を引き取り、101人の孤児が帰ってきました。
『もしや、もしやに、ひかされて』
船が入港する都度たくさんの出迎えの人が港に溢れました。
昭和29年の春、NHKのラジオ放送の記者は、出迎えの人の群れの中で泣いている一人の女性を見つけ、インタビューしました。復員船の入港の知らせを受けると、取るものもとりあえず、東京から舞鶴まで来ては、戦地に出た我が子の復員を待つ母の姿が全国に報道されると、テイチクの作詞家の藤田まさとは『岸壁の母』という題ですぐに詩にしました。作曲は平川浪竜、そして歌手は菊池章子と決まりました。
岸壁の母 菊池章子
作詞 藤田まさと 作曲 平川浪竜 台詞 室町京之介 唄 菊池章子
そして、昭和47年には歌手二葉百合子が浪曲調でこの歌を歌い、再び大ヒットとなりました。
二葉百合子 FUTABA YURIKO - 岸壁の母 GANPEKI NO HAHA
『 岸壁の母 」
一 母は来ました 今日も来た
この岸壁に 今日も来た とどかぬ願いと 知りながら もしやもしやに もしやもしやに ひかされて (『また引揚船が帰って来たに、今度もあの子は帰らない……
この岸壁で待っているわしの姿が見えんのか…… 港の名前は舞鶴なのに何故飛んで来てはくれぬのじゃ……。 帰れないなら大きな声で…… お願い……せめて、せめて一言……』) 二、
呼んで下さい おがみます
ああ おっ母さん よく来たと 海山千里と 云うけれど なんで遠かろ なんで遠かろ 母と子に (『あれから十年……あの子はどうしているじゃろう。
雪と風のシベリアは寒いじゃろう…… つらかったじゃろうといのちの限り抱きしめて…… この肌で温めてやりたい……その日の来るまで死にはせん。 いつまでも待っている……』) 三、
悲願十年 この祈り
神様だけが 知っている 流れる雲より 風よりも つらいさだめの つらいさだめの 杖ひとつ (『ああ風よ、心あらば伝えてよ。
愛し子待ちて今日も又 怒涛砕くる岸壁に立つ母の姿を……』 ) この歌の吹き込みに際して、菊池は帰らぬ子供を待ち続ける母の心を思うと涙で歌えなかったといわれます。そして、そんな涙はスタジオ内の伴奏者全員の気持ちだったのです。
しかし、この歌が流れるより早く、巷に今ひとつの歌が流れていました『異国の丘』です。シベリア抑留者の苦しい生活の中でひたすら祖国への帰還を願う同胞の心の叫びが全国に響き渡ると、かつての社会党のシベリア収容所訪問団の虚偽が明るみに出たのです。
そして、舞鶴港でひたすら息子の帰りを待つ母、端野いせもまた『異国の丘』が気に入っていたようです。遅れて流れた『岸壁の母』は、まさに端野いせ彼女を歌っていたのですが、肝心の彼女はその自覚がなかったようです。
『…五年たちましても夢で見る息子の姿は学生です。花咲く春を待つ人もありましょうが、私は引揚船の入港を待ちます。新二が帰るまで花が咲かずともよいのです。このような思いをいつまで続けるのか。ラジオから『異国の丘』の唄が聞こえます。近所の子供の唄声も聞こえます。日本の土をふむまでみな生きて帰ってくれと思いますと涙がでます。…』
そして、聞こえてくる『岸壁の母』を聞いても
『…ときどきラジオから聞こえる『岸壁の母』 −−当時は私自身のことと知りませんでした−− なにも考えずに唄の文句を聞いておりますと、なにかしら私のことのように思えてなりません。哀愁をこめたあの唄声に涙を誘われ、泣いてしまいます。一節聞くごとに、私の心境そのままなので、ビックリしました。一年前、舞鶴の桟橋で涙にくれたあの日の私の姿が思い出され、泣けてなりません。…』(昭和を歩く) 舞鶴引揚記念館
葫芦島から引き揚げる日本人
端野いせさんは、函館で青函連絡船の乗組員を勤める夫、そして一人娘と暮らしていましたが、夫と一人娘を相次いで亡くし、新二少年を養子に貰い受けて東京に出てきました。新二は、昭和19年に軍人を目指して渡満し、石頭予備士官学校に入学、同年のソ連軍の攻撃の中で牡丹江で行方不明となりました。行方不明とはいえ、昭和25年の引揚船入港以来、いせは『もしや』という期待に胸膨らませて舞鶴の港で待ち続け、昭和29年9月には厚生省より死亡理由認定書が発行され、昭和31年には、都知事名にて、昭和20年8月15日牡丹江にて戦死との戦死告知書が発行されました。
しかし、いせは息子新二の生存を信じ、ひたすら帰還の日を待ち続けていました。
『新二が帰ってきたら、私の手作りのものを一番に食べさせてやりたい』
老齢と病で入院中のいせを見舞った歌手二葉百合子にそう言ったそうです。そして、新二の帰国を待ち続け、昭和56年7月1日亡くなりました。享年81歳でした。
ところが、昭和が平成に変わって8年、慰霊墓参団のメンバーが突如として新二が上海でレントゲン技師助手として生きているという話を持ち帰り、平成12年には、中国政府発行の端野新二名義の身分証明書を発見したというのです。しかも、新二と称する人はいせが待ち続けていることを承知で連絡を取らなかったというのです。
ところが、新二が入学した石頭予備士官学校第13期生の間では『あのひどい戦いで生きているはずがない』とし、『新二君は八月十三日、夜陰に乗じて敵戦車を肉薄攻撃、その際玉砕戦死し』たと言う公式見解を取っています。
引き揚げ舞鶴 我々の飽食の影で
英霊は無言で眠っています
見捨てられたように
参照サイト:
|
全体表示
[ リスト ]





社会党使節団が同胞の手紙を握りつぶしたなんて、よくそんなことが出来るものです。同胞の血のにじむような手紙よりも自分たちのイデオロギーを選ぶという、そのイデオロギーとは、いったい何なのでしょう。
その同胞の生命を犠牲にしてつかもうとする革命イデオロギーに何の価値があるのかほんとに問い詰めてみたいですね。腹が立ちます。
中国も偽物の新二さんを出して、日本人を愚弄しようとしたのでしょうか、とにかく共産主義国は、どう仕様も無い非道な国ですね。
傑作
2011/3/11(金) 午前 1:11 [ さざんか ]
keiwaxx さん
コメントありがとうございます。
わずか70年前のことに過ぎません。われわれの両親の時代はそんな雰囲気の中で恋も知らず、人生の楽しみも知らず、ただ国のために祖国を後にしました。送り出す親たちも叫びたい悲しみを胸に堪えて送り出しました。そして、戦争が終わり、陸続として祖国の土を踏む若者たちの中に自分の息子の姿を求め・・・求めても尚出会うことなく10年港に通い立ち続けたのです。
子供の成長を日々見ながら、子供の幸せを思わない親がいないと同じように、老い行く両親を思わない子もいないでしょう。今を生きる私たちは、こうした歌の時代があったことをしっかりと見詰めることが必要だと思います。その時、親と子の関係が理解できるのではないでしょうか。
2011/3/11(金) 午前 5:54 [ mana ]
コロン さん
コメントありがとうございます。
昔の歌というのは、聞く人の心を打ちましたが、それは誰にも分かる、感情が溶け合う歌詞だからではなかったでしょうか。歌われる歌詞の世界、場所は違っても似た経験をしてきた人たちばかり、恋の歌も似たような気持ちを抱いてきた人たちばかり、そうした聞き手の心に響くような歌詞と曲だからこそ長く愛唱されるのではないでしょうか。歌を聞くと、その歌の世界を自分なりに思い描くことが出来る。そこに一緒に暮らすことが出来る、悲しくとも楽しくとも、歌の世界を共有することが出来たのでしょう。
辛いことを口にしたくはないでしょうが、歌を歌うことで互いに理解し合えたのではないでしょうか。
2011/3/11(金) 午前 6:02 [ mana ]
さざんか さん
コメント&傑作ありがとうございます。
少なくともかつての日本社会党は、日本を悪く言うためには何でもして来たのではないでしょうか。南京のあの悪魔の建物は社会党の当時の委員長が建設を提案し、総評が資金を提供したといいます。当時は、社会党は共産党以上に危険だとも言われていました。社会党は終始ソ連・中国共産党と友好関係を結び、コミンテルンの影響を受け続け、中国共産党を支持してきたのではなかったでしょうか。現在の民主党を支える、自治労、日教組などは等しく社会党の強固な支持母体ではなかったのでしょうか。北朝鮮による日本人拉致問題など存在しないという当時の社会党委員長、天安門事件などないという姿勢の日本の報道機関、こうした姿勢と同胞の手紙すら握りつぶして平然としている姿勢は同じものではないでしょうか。社会主義国無謬説でも信じているのでしょうか。それともかつてコミンテルンから資金を得ていたように、今もそうした言動をなす機関、人々は外国からの資金援助を得ているのでしょうか・・・
2011/3/11(金) 午前 6:16 [ mana ]
大いに同感です。
日本には真の保守政権、極右政権が!
2011/3/11(金) 午後 0:56
もう、言葉が出ません><
人の苦しみをあざ笑い、国民の為に成らない事のみ真摯になる国会議員が今も過去も多く存在した事、それこそが多くの不幸の基でもあります。
やはり、国会議員には大きな責任もあるのですがら、それ以上に大きな罰則も必要だと思いますね。
傑作!
2011/3/11(金) 午後 1:43
近野 さん
いつもご支援ありがとうございます。
日の丸、君が代すら辱めて恥じない人が政治家であり、閣僚であり、首相です。こうした状態を許す国が世界のどこにあるでしょうか。右も左も本当は国を愛するはずです。しかし、日本の左翼と称する人は、國を愛する気持ちが微塵もないようです。彼らは、左翼でもなく、単なる吸血虫に過ぎません。安全な所に身を置いてひたすら國を誹謗し、侮蔑する、最も忌むべき人種です。
2011/3/11(金) 午後 9:09 [ mana ]
ジョウジ さん
コメント&傑作ありがとうございます。
今も民主党内には竹島は日本のものとは言えないと発表する人がいます。同胞を拉致した犯人の釈放を求める嘆願書に署名した人物が首相をしています。
自国の国家を歌わない首相が世界のどこにいるでしょうか。
そんな首相、閣僚、政治家を認める国がどこにあるのでしょうか。
外国人から政治資金を得、外国人団体に選挙応援を頭を下げてお願いする政党が世界のどこにあるでしょうか。そんな政党に、先の大戦で國のために命を落とした英霊たちを祭る気持ちがあるのでしょうか。個人的には、彼らには靖国に行って欲しくありませんし、日本にいて欲しくありません。まず、日の丸を掲げ、君が代を歌うようになって靖国に参拝して欲しいですね。
2011/3/11(金) 午後 9:15 [ mana ]
この歌の通り、戦争に行った人、その家族の事を考えると、今でも胸が痛みます
そういう方々のお陰で、今の日本があるわけですよね
私利私欲や、その他自分の保守の為に行う政治家にはウンザリします
2011/3/11(金) 午後 10:36
それにしても社会党の訪問団には はらわたが煮えくり返ります
日本人が日本人を貶めるとは・・・・いや嘘をついたのですね
2011/3/12(土) 午前 0:41 [ 道後 ]
柚ポン瑠璃珊瑚晴パパ さん
コメントありがとうございます。
今日本は、東北地方の大地震で壊滅的打撃を受けています。
この時、国民の力が試されています。
亡くなられた方には心から語冥福をお祈りいたします。
また一日も早い復興を心より祈るばかりです。
戦後の廃墟、神戸沖地震の惨劇をくぐってきた日本は必ず全国民力をあわせて立ち上がることと思います。
為政者は、今こそ日本国民の命を守る政策をして欲しいですね。
2011/3/12(土) 午後 4:02 [ mana ]
道後 さん
コメントありがとうございます。
これが社会党の姿でした。北に拉致された日本人の話もなかったと平然と言える政党でした。そして、拉致犯人の釈放嘆願書に署名して平然としています。その初めが、こうした同胞の死を賭けた訴えを握り潰して平然と嘘を言って尚恥じない、そんな党としての姿勢にあったのです。そんな社会党が南京のあの捏造歴史観建設を提案し、存在しない日本軍の残虐行為を作り上げて世界に宣伝してきたのです。
そして、今、そんな人たちが政府を形成しています。
この時期、日本は未曾有の困難に遭遇しています。
日本国民皆が力を併せて自分で出来ることをして国に尽くすべきではないでしょうか。かつて英霊たち、同胞がしてききたように。
2011/3/12(土) 午後 4:09 [ mana ]
そうですね。
地震ではご心配を頂き感謝を申し上げます。
2011/3/13(日) 午後 0:14
近野 さん
ご無事のようで何よりです。
まだ揺れが完全には収まっていないようですので、十分ご注意下さい。
2011/3/13(日) 午後 2:14 [ mana ]
>我々の飽食の影で
英霊は無言で眠っています
見捨てられたように
今回の震災は、そのばちが当たったと見てもよいかも知れません。
しかし、民主党は
そうした発想が根本的にできない連中のようです。
傑作
2011/3/18(金) 午後 11:56
たつや さん
ご訪問&コメントありがとうございます。
菅政府は完全にパニックに陥っており、全く指揮能力を失っています。只、相変わらずパフォーマンスだけは健在で、レンホウ、辻本などは生き生きとしているように見えます。
菅がパニックに陥っている菅に見捨てられたように避難所の住人は塗炭の苦しみを味わい、最先端レスキューロボットは、現場近くに集合しながら、誰もそれを利用しません。
行政の指示待ちの姿勢を捨て、法律違反、秩序破りを承知で、現場が冷静に判断するべきでしょう。行政は事後承認でいいと思います。
毛管政府を全国民が見捨てて被災者救済、原発の最悪事態を避けるために全力を傾注すべきだと思います。その為には自衛隊を中心とするしかないのではないでしょうか。
2011/3/19(土) 午前 6:14 [ mana ]
戦後日本が世界第二位の経済大国になった理由は、
大東亜戦争の緒戦で日本がアジアの欧米支配体制を崩壊させ、
アジアの植民地に独立の準備機会を与え、
戦後続々と独立国が誕生したことです。
そのおかげで、安い日本製品をアジア各国に輸出することが可能になったのです。それまでの各植民地は、宗主国の対日経済封鎖に従っていました。
大東亜共同宣言の「共存共栄」は、アジアに独立国が誕生したから可能になったのでした。戦後日本の繁栄は、アジア各地で戦った日本兵のおかげなのです。世界経済第二位の生活水準を謳歌しながら、戦後日本の経済発展のいしずえになって死んでいった兵士を祀る靖国に首相が参拝するのを反対するヤカラは「バチアタリ」としか言いようがありません。
先人の苦労と民族の歴史を知らず、敵の振りまいた東京裁判史観にのって「侵略国家」日本と踏みつけにするようでは、
国家観が生まれません。
今回の国難で、露呈したことですね。
2011/3/20(日) 午前 3:38
tatsuya11147 さん
ご訪問&コメントありがとうございます。
今回の災害の状況は、終戦直後の状況以上かもしれません。
政府の基本姿勢は、いいものは政府の業績、悪いことは東電の責任。いわゆる『市民運動家』たちの発想で、問題は、被災地、被災者を忘れているところですが、日本人の国民性として自立に向けて動いています。只、終戦直後に何が起こったのか。もう一度考え、十分な対策が必要でしょう。無関係者が土地を取得したり、戸籍簿原本を失った自治体に実体のなかった人物が戸籍を作ったりしないよう注意しなければなりません。
いわゆる反日国というのは、その成立基盤が非常に弱いので、その政権の正当性を持たせるために日本を敵にしているのですが、これはその民族の国としての自信のなさの表れだと思います。
2011/3/20(日) 午前 6:36 [ mana ]
manaさん、その通りですね。
2011/3/20(日) 午後 4:21
tatsuya11147 さん
ご支援ありがとうございます。
故に、日本は自信を持って堂々と自らの正義を主張すべきだと思います。
2011/3/20(日) 午後 9:17 [ mana ]