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命の重さ
この世に生を受けた一切の命には等しく死が訪れます。
富も名声も権力も如何なる力といえども死に打ち勝つことは出来ません。死が不可避であるならば、死から逃れようとすることは無意味かもしれません。
であるならば、避けられない死に向かって走る人生を如何に過ごすか、即ち如何に生きるかが大切かもしれません。
如何に生きるか=如何に死ぬか
如何に死ぬか=如何に生きるか
かも知れません。
昭和52年9月28日に発生した日本赤軍による日本航空機ハイジャック事件に際し、時の首相福田赳夫は、次のように言ったとされています。
「人の命は地球よりも重い」
当時の風潮とはいえ、日本人の誰もが彼のこの言葉がいかにも正論のように感じ、「人命尊重」という正面切って反対できない、どこか甘い幻想の世界に飛び込み、超法規的処置の名の下で日本赤軍の要求を受け入れ、服役中の犯罪者釈放、巨額の身代金を人質釈放と引き換えにしました。しかし、その同じ年の10月13日には、同じく共産主義革命思想に染まったドイツ赤軍によるルフトハンザ航空ハイジャック事件が起こりました。しかもその一月前の9月5日には誘拐事件を起こしましたが、西ドイツ政府はその要求を拒否していました。こうした中でのハイジャック事件であれば、明らかに、日本赤軍とそれに対する日本政府の対応が参考になったものだと思いますが、結果は、当時の西ドイツ政府が、かつてのミュンヘンオリムピック時の汚名を晴らそうと新設していた特殊部隊GSG-9によって鎮圧されました。その後先の誘拐犯は、人質を射殺しました。
戦後日本社会に蔓延るこうした「安直な人命尊重」の風潮と対極に位置するのが、あの特攻隊かも知れません。
再び生きて帰る望みを絶ち、死出の旅に出、ひたすら敵艦を求めて大空に、深い海の中に向う兵たちに生きて帰る意思は微塵もありませんでした。20歳前後の将来ある若者、明日の日本を背負う筈であった彼らは、すすんで「死」に向かって走って行ったのです。
将来の日本の格となるべき大学生たちが、未来ある若者たちが、まだ年端も行かない少年とも言える若者たちが、目の前の「死」を自覚しながらなお出撃の寸前まで笑顔でいられたのは、何故でしょうか。「地球よりも重い」筈の命を自ら捨て、生還の望みのない死出の旅の直前まで笑っていられたのは何故でしょうか。これから訪れるであろう楽しい生活、希望溢れる結婚生活、子供を作り、孫に囲まれる楽しい人生。そうした普通の生活の為に「生きる」道を選ぶことがなかったのは、何故でしょうか。
しかし。「生」と「死」を区別して考える事は無意味なのかもしれません。
「如何に生きるか」ということと「如何に死ぬか」ということが同じであるならば、「『生』と『死』は表裏一体」なのかもしれません。
彼らは、自らの命を捨てて敵に体当たりする「必死」の外道の作戦を遂行することにより、民族の「血」の中に「永遠の命」の火を点し、たとえ一度は敗れたとしても、必ず再起する時が来る、そう心から信じていたのではないでしょうか。
「地球よりも重い」一個の命を持って、より多くの「地球よりも重い」命を救うことが出来るとすれば、その時「命」は、真に「永遠の力」を持ち、不滅の価値を見出すのではないでしょうか。
こうした考えから特攻隊兵士の行動を見るならば、その微笑の意味が少しは理解できるかもしれません。生還の望みなき死出の旅を拒み、戦わずして生き延びることが出来るたかもしれません。今我々は開戦当時の軍令部総長永野修身の言葉を思い出しても良いのではないでしょうか。
「・・・戦うもまた亡国につながるやもしれぬ。しかし、戦わずして国亡びた場合は魂まで失った真の亡国である。しかして、最後の一兵まで戦うことによってのみ、死中に活路を見出うるであろう。戦ってよしんば勝たずとも、護国に徹した日本精神さえ残れば、我等の子孫は再三再起するであろう。・・・」(永野修身)
戦う意思をなくし、惰性の中で生きる牙を抜かれた亡国の民が如何なる誇りを持ってその生を全うすることが出来るのでしょうか。
「誇りなど無用。ただ生きることこそ大切」
「人の命は地球よりも重い」ということを建前的に最重要に掲げる人たちは、そう言うかもしれません。
では、誇りを持たない人たちが生きる目的は何なのでしょうか。
誇りとは、犠牲を払ってでも守りたいものではないでしょうか。犠牲を払わなければならないものなら守りたくない、というのであれば、その人には誇りは一切存在しないのでしょうか。その人には守りたい如何なるものも存在しないのでしょうか。罵詈雑言を吐かれようと、誹謗中傷されようと、妻子親族友人知人を殺されようと、父母兄弟を侮辱されようと、恫喝されようと、脅迫されようと、困った人を見ても何の感情も抱くことなく、侮辱されても施しを受け、今日の生を全うする為に如何なる恥辱・汚名をも受け入れ、醜態・媚態を晒して恥じないのでしょうか。ただ生きる為に。生きること以外の何物をも持たないならば、何故に生きる必要があるのでしょうか。畢竟「死にたくない」「死ぬのが怖い」だけなのかもしれません。しかし、どれほど死を恐れ、死から逃れようとしても、生まれ来た以上、死が必ず訪れます。
絶対に譲れない誇り、絶対に譲れない愛しい人、恩ある人、自らが属する集団を守る為に戦うことが誇りある人の道ではないでしょうか。「地球よりも重い」命とは、我が身を絶対安全圏に置き、求められる金品の全てを差し出して守られるものでしょうか。そうではない筈です。「我が命を賭して」でも守ろうとする時にこそ意味ある言葉ではないでしょうか。
その生の終わるその時まで、守り抜こう、戦い抜こうとする決意を持続させる時、「地球よりも重い」命は「永遠の命」となるのかもしれません。「永遠の命」とは、別の人格に受け継がれる「意思」なのかもしれません。
多くの特攻隊員たちが遺書を残しています。父母に、兄弟姉妹に、妻に、まだ見ぬ我が子に。愛しい人たち、愛しい人たちの住む国を守る為、若者は笑顔になれたのではないでしょうか。その瞬間。「地球よりも重い命」は「永遠の命」になったのだと思います。その「永遠の命」は、彼らが守ろうとした人たちの中に生き続けているのです。かくして「永遠の命」は、有史以来連綿と民族の血の中に生き続けてきたのかもしれません。ならば、我々もまたその体に宿る「永遠の命」の火を絶やすことなく、受け継ぎ、次代に受け渡していく義務があるのではないでしょうか。
「永遠の命」を繋ぐものこそ「歴史」であり、「文化」であり、「民族」であり、総体として「国体」であり、目にする具体的な存在としての「皇室」であろうと思います。
ここまで考えた時、顧みて現在の日本の「命の軽さ」を思わずにはいられません。「何の為に」生きるのか、「生きる目的」を失った今、安易に自他の命を奪い、誇りを捨てて恥じず、緊張感のない微温湯の世界に安住し、緊張感の欠如は目的のない日常を生み出し、ただただ感情にのみ押し流されて「生」も「死」も無意味なものにしてしまいました。そこにあるのは、「醜いその場限りの我欲」以外の何者でもないようです。惰眠を貪り、ついには「生きる意識」すら放棄し、目の前の利害に一喜一憂するおぞましき亡者の姿を晒して恥じません。そして、今社会の荒廃が言われ、殺伐とした乾いた空気は親子間の愛情までをも凍らせ、異常なまでの「個」の強調は調和と節度を求める「集団」を破壊しようとする異様な社会を作り出してきました。まさに継続を求める「永遠の命」の危機かもしれません。そして「安直な」人命尊重、民主主義、自由、平等、平和、反戦という甘い言葉こそ「永遠の命」を消し去るものであり、「日本の永遠の命」を恐れ、その消滅を願う人たちの甘い罠なのかもしれません。
「永遠の命」をなくした時、民族はその誇りを失い、生存の意義を失い、存在そのものが許されなくなるのかもしれません。
親が子供に愛情を注ぎ、子供が親に孝心を起こす時、夫婦相和し、兄弟姉妹は助け合い、朋友は相信じ、君に対する忠誠心を目覚めさせ、国に対する誇りを生み、社会は平安になるのではないでしょうか。「永遠の命」を受け継ぎ、受け渡して行く時、社会は民族の歴史を紡ぎ、文化を育て、次代に繋がって行くのではないでしょうか。
省みて、自らの「生きる道」とは、捻じ曲げられた歴史の真実を学び、先人の「永遠の命」に感応し、「永遠の命」を受け継ぎ、伝えていくことかもしれません。捏造の歴史というおぞましき自虐意識に歪められた社会の中で行き場を失い彷徨する「永遠の命」をしっかりと受け止め、自らの中で歪められた歴史を正す時、「生きることだけを目的とする命」が「永遠の歴史」の中に伝わる「永遠の命」の一つに変わるのかもしれません。その時、命は輝き、国民の命が輝く時、国の誇りは燦然と輝き、民族の誇り、日本人としての誇りが蘇り、その時真に「地球よりも重い命」を持つのでしょう。
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特攻隊もそれは決して美化はいけません(そういう極端な事を言う勢力はいて自虐的歴史観と真逆ですが、偏っている面は同一)が、国を護るとはシビアな一面が必要なこともありますね。それから30年、今度は赤軍に対して人命は地球より重い。本当にいつも思いますが、日本人はどうして極端から極端にふれるのでしょうね。傑作
2012/3/26(月) 午前 7:15
千葉日台 さん
コメント&傑作ありがとうございます。
特攻の生みの親とも言われる大西中将も言っている通り、特攻はあくまでも統帥の外道です。外道であるが故にそれが正道になってはいけません。しかし、日本の特攻というのは、日本人が世界に民族の決意を示す残された唯一の手段ではなかったでしょうか。それが犬死ではなかったが故に、今我々は曲がりなりにも微温湯の平和の中にいられるのではないでしょうか。
>日本人はどうして極端から極端にふれるのでしょう
それは日本人が民族として纏まっているからかもしれません。時の指導者の資質がそのまま社会に反映するのでしょうか。それゆえに、何らかの形で社会の自浄作用が働くと、行き過ぎた指導者の誤りを是正することになり、自然と反対方向に走り出すのかもしれません。
今の日本に必要な事は、正しい歴史を取り戻し、民族の誇りを取り戻し、指導者を批判することが出来る社会を創りながら、個と集団が共に発展する体制を作ることでしょうか。
2012/3/26(月) 午前 8:20 [ mana ]
お久しぶりです^^
最近は命の重さも感じない犯罪が多く・・・
出先のPCで変換ができません。また。
どうかご無理されずにマイペースで。
傑作○です。
2012/3/26(月) 午前 11:31
manaさんからの訪問コメントいただき有難うございます。
今の日本は国家観無き政治と戦後の反日自虐史観教育により日本は亡国化している。祖国を守るために尊い命を懸けて戦っていただいた先人に顔向けできない状態です。。
昔は大家族であった日本民族も、義務と責任を忘れ、自己の権利と平等に甘え、今は各家族化して家族間の「絆」も壊れてしまい少子化が進んでいます。
古の日本民族の精神文化を取り戻すことが、真の日本の復興、健全な日本復興になるはずです!
転載させていただきます。
傑作です!
2012/3/26(月) 午後 2:11
manaさん
お久しぶりです、どうなされているかな?と思っておりました
色々と御苦労があったようですね
何はともあれお元気そうで良かったです^^
私の方は記事の更新も最近はマイペースでやってます
manaさんペースで頑張りましょう!
無理が無い事が一番ですね!
☆
2012/3/26(月) 午後 11:55 [ 誇り君 ]
近野 さん
ご心配頂き恐縮です。
ゆっくりと出来る範囲でやっていきたいと思います。
2012/3/27(火) 午前 7:10 [ mana ]
武門会 さん
コメント&傑作ありがとうございます。
戦後の民主主義は、単にそれまでの日本を否定したものに過ぎません。従って、そこに基礎を置いたものは日本社会の崩壊への道かもしれません。日本は日本のあるべき姿を基礎としてその上に時代にあった社会を築いていくべきで、その根底には家族の愛と祖先への敬虔な祈りと誇りがなければならないと思います。それが血の繋がりで、その根本には皇室がいます。皇室を敬い、祖霊を敬い、先人たちに感謝の誠を奉げる日本人の真の姿を取り戻す時、日本は再び大きく成長し輝くでしょう。
2012/3/27(火) 午前 7:17 [ mana ]
誇り君 さん
ご指導ありがとうございます。
無理をせず、出来る範囲でとは思いながら、ついつい急き立てられる様の気持ちになっていました。
これからは極力余裕を持ってブログの世界に入りたいと思います。
これからも宜しくお願いします。
2012/3/27(火) 午前 7:19 [ mana ]
頑張って下さい^^
先日の記事にも書きましたが、日本は国民の命の重さより外人や犯罪者を第一にしています。
2012/3/27(火) 午前 9:37
近野 さん
ご支援ありがとうございます。
日本を愛する政治家が政治を担うまで苦しむのかもしれません。
痛みを伴っても戦後の総決算が不可欠だと思います。
2012/3/27(火) 午後 7:01 [ mana ]
お久しぶりです。
お元気ですか?
命にお金と権力が換われません。
傑作
2012/3/28(水) 午前 1:47
あゆみ さん
お久しぶりです。
傑作ありがとうございます。
命は大切にしたいですね。
2012/3/28(水) 午前 6:17 [ mana ]
久しぶりにmanaさんらしい気持の入った文章に触れ、姿勢がピーンと伸びました。
4月28日まで後一か月、この日はサンフランシスコ講和条約が発効し、A級戦犯も全て無罪になった日です。私はこの日は必ず靖国神社を訪れ、日本のために命を懸けた人々に感謝の言葉を述べてくると決めています。
人間は肉体は滅びても、魂は20万回生まれかわって来る事を信じております。
傑作☆
2012/3/28(水) 午後 4:02 [ 夕日の丘 ]
夕日の丘 さん
コメント&傑作ありがとうございます。
特攻の若者たちが死を賭して勝敗を超えた魂の発露があったが故に世界が日本をまだ恐れているところがあるのではないでしょうか。その恐れが次第に薄れてきているのは、日本人自身がそうした先人の魂を押さえ込もうとしているからに過ぎず、本来の姿に立ち返れば日本人はその持てる能力を発揮し、世界の最先端をすすむことが出来ると思います。同時に誰にも後ろ指指されることなく、自らの国を自らの力で守る意思と能力を持ち、虐げられている人々を救う武士道を自然体で発揮できると思います。
2012/3/29(木) 午前 7:08 [ mana ]
>痛みを伴っても戦後の総決算が不可欠だと思います。
出産と同じで、新しい命(維新)のために痛みはつきものです。
頑張りましょう。
2012/3/29(木) 午後 0:01
近野 さん
ご支援ありがとうございます。
2012/3/29(木) 午後 6:46 [ mana ]
こちらこそ、ご来訪や人気ブログランキングの応援クリックに感謝を申し上げます。
2012/3/30(金) 午前 10:16
manaさんの御訪問とコメント有難う御座います。体の方はもう良くなられたのですか?
ところで『命の重さ』まさに正論です。
日本では今ほど『死』というものを生活の中から排除しその片鱗さえも覆い隠してしまう社会は過去には存在しませんでした。
その反動としてだれでも生きていれさえすればそれで良しという刹那的な社会が生まれ人々は生きる意義なんて考えず生きること自体が目的化していってしまったようです。今の日本には民族的な支柱が何もありません。人々は権利だけを主張し義務も責任も放棄し無縁社会という昔では考えられない状況を抱え込んでしまいました。
今こそ我々日本人が何のために生きているのかを真剣に考え直す時です。僅か67年前に特攻という究極の自己犠牲で国体に殉じた青年の気持をもう一度読み直すべきですね…。
2012/3/31(土) 午後 4:16
近野 さん
ご支援ありがとうございます。
2012/3/31(土) 午後 5:02 [ mana ]
puyuma さん
コメントありがとうございます。
かつて我々の父母の時代、誰もが貧しく、それでも生活保護を貰うことを拒み、子沢山の中で苦しくとも家族みんな助け合い、少ないものを分け合って暮らしてきました。隣近所、子供たちは互いに叱り、励まし、助け合い、村社会を作り、そうして婚姻により入ってきた外来者をも暖かく迎え入れてきました。
彼らは村のために祭りをし、葬儀はみんなで夜を徹して読経を挙げ、長老の話に敬意を払う姿は真の民主主義かもしれません。その上で共同体意識を作り出してきました。そうした共同体意識から郷土愛が生まれ、それはひいては愛国にまで繋がりました。戦後教育で言う愛国の「強制」も「洗脳」も必要なく、自然の中で誰もが国を愛していたのです。戦後、そうした共同体を破壊して「社会の中での義務」を断罪して「社会に対する権利」を賞賛しました。
日本国民一億層乞食社会になりつつかのようです。
権利を求める前に義務を果たす本来の日本人に戻って欲しいものです。
2012/3/31(土) 午後 5:15 [ mana ]