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チエンマイに来た誰もが、夕食後の散歩をかねてナイト・バザールに足を運ぶんでしょうね。それとも、ターペー門(PRATUU THAAPHEE)周辺かしら…?
今回は、その『ターペー門』のお話なの。ナイト・バザールの北の端が接する東西に走る道路は、さして広い道でもありませんが、道の両側に駐車していますから終日渋滞しています。その道の名前は、ターペー通りと言いますが、一方通行の道を進むと西の端に門が見えます。
これがターペー門です。
この門に限らず、チエンマイでは城門を閉じてはいけない、不祥の出来事が起こる、といわれているんだけど、城門前にある筈の通路を破壊して作っている広場では出店が出たり、催し物をしたりで門の役目をなしていないの。以前は、この門を道路が貫通し、門の外、ターペー通りから見て門の左側が狭いながらも広場(KHUANG)だったのよ。時計塔もあったんじゃないかしら??
かつて門を通行止めにし、昔からの聖木と言われている古い木を根こそぎ掘り起こした高級官僚が不慮の死を遂げたことを忘れてしまったのでしょうか?もうそんな古い言い伝えを知っている人がいなくなったのかも…寂しい。
そこは城門だから、通行自由でなければならないのに、経済優先の為政者は、そんな僅かな空間をまるで芝居の舞台のようにしてしまったのが悲しいわ。
ところで、通りの名前がターペー通り、城門の名前がターペー門。何の不思議も感じないですよね。でも…
門の名前が違う………
門の形が違う………
って言ったらどうでしょう?
だって本当に違う…ようです…
手元にないのが残念ですが、幾度も古い写真を見たことがあります。その写真にはっきりとチエンマイの門が写されており、城壁は一重ですが、門は二重になっているのです。つまり敵が城門を打ち破って侵入してきても内側の城門は閉じられたままですから、「袋に入った鼠」宜しく上から弓矢で狙い撃ちすることが出来たのでした。
チエンマイの城壁は一つだと誰もが思ってるかも…
でも違う…って言ったらどうしますか?
先ほど古い写真でも城壁は一重だといいましたが、それはあくまでも今残る濠の向こうの城壁のことでして、チエンマイを建設したマンラーイはそれだけで満足したのでしょうか?南の王国ハリプンチャイを知将アーイ・ファーの奇計で攻略したマンラーイは、南のラムパーンを統治する息子のパヤー・バーク(PHAYAA BAAK)を頼って逃げて行ったパヤー・ジーバー(PHAYAA JIIBAA)の逆襲に備えなければならなかったでしょう…ね???ですから、堀の内側の城壁一つでは安心できなかったのじゃないかしら???
チエンマイの城壁はね、町を建設した時に最初に着手したのは東北隅の吉祥地に相当する場所の城壁だったけど、当時ケーラーン・ナコーンと呼ばれた今のラムパーンに逃げたハリプンチャイの王パヤ・バークの報復を警戒して、更に南にもう一つ作られていたのです。それはある意味では盾の感覚でしょうかね。決してチエンマイ全体を大きく包み込む形の城壁ではなかったようです。その一部は今も残っていますが、それすら心無い為政者はショベルカーで削り、分けの分からない公園を作っています。削り取った土の一塊一塊が歴史の生き証人であることを知らないのかもしれませんが、いつの日にか理解されることを願って無言のまま頑固に生き残っています。
その外城壁は、カー河を濠としているのでしょうか、四角い城郭の南西隅より南に伸びた後、東に向かい、そして北に上がっていきます。今もその残滓をところどころに見ることが出来ますが、街中の意外な所にもそれが残っているのです…よ。
ターペー通りを道なりに進むと交差点右手角にセーンファーン寺院がありますが、城壁はそこにまで来ていたのです。そのセーンファーン寺院の交差点を左折しますと、左手に雑草に包まれた土盛のようになった通りがありますが、その土盛に見えるところこそが外城壁の跡なのです。今ではそこに穴を穿ち家屋が建っていますが……何故???
そうです。そのセーンファーン寺院の交差点に昔は城門があったの。その城門の名前こそが『ターペー門』なのだそうです。
では、今のターペー門は?
あれは本来、『ルアック門(PRATUU RUAK)』と呼ばれていました…そうです。
この話は、チエンマイの寺院の中の九ヶ寺は方位学に元づいて建立された、という説に対する徹底的な反論として出版された著名な地元歴史学者たちの論文集『チエンマイに方位学による寺院はなかった』という本の中で、チエンマイを代表する歴史学者であるマニー教授が簡単にその説明文を乗せています。確かに、あたしも何度か『プラトゥー・ルアック(=ルアック門)』という名前を伝承の中で見た記憶があります。
読書は楽しいわね。
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メーカー川に沿う外堀は自転車で辿って言ったことがありますが、四角いお堀の北東角から東と南側を経て南西角に至り、何故北と西側は無いのかと疑問でした。南のラムパーンのモン族の来襲に備えるためだったのですね、それと旧ターペー門とルアック門のこと勉強になりました。
2009/7/9(木) 午後 10:46